LISA SOMEDA

潜像

 

新型コロナウイルスによる外出自粛期間中、部屋の壁に射す光をインターバルで撮っていた。

青の時間と呼ばれる薄明の光がどんなふうに変化するのか。
どんなふうにわたしたちのところに夜は訪れるのか。

そんな素朴な疑問から撮りはじめたものの、ただうっすら明暗差があるだけの壁にレンズを向け「なんも撮れへんやろうな」と思いながらインターバル撮影をセットする日もあった。その写真を「手応え薄そう…」と思いながらタイムラプスにしあげてみたら、通常速度ではまったく気づかない微かな光の変化が、外の雲のゆるやかな流れを反映していることに気がついた。なんだか潜像みたいだなと、そのとき思った。

目の前にあるのに、そのままでは認識できないもの。

もうひとつは、ぼやけていた影の輪郭が光の調子の変化によって引き締まっていくさま。それが現像液にひたした印画紙に像がふわっと現れる瞬間にとてもよく似ていて、心揺さぶられるものがあった。

輪郭がゆるすぎてぼんやりとしか認識できない身のまわりの明度差が実は何かの像だとすれば、世界は潜像で満ちているのではないか、と。

この文章を読んで、そんなことを思い出した。

さて、ここで少し遡って考えてみたいのは、現像によって「像」が現れる前に、その真っ白な感光紙の上には何があったのか、ということだ。そこには確かに「像」が準備されていただろう。だが、それは見えない。トルボットは、その不可視の像に「潜像(latent image) 」という名前を与えた。「latent」はラテン語の起源を持つ単語で「隠れて見えない」という意味を持つ。しかし「見えない像」とは、いったいなんのことか?もし不可視な像があるとしたら、それは純粋に観念的なものであり、僕らの頭の中にしか存在しなかったもののはずだ。それが、喩えでもなんでもなく、そこに、その白い紙の上に、実際にあるという。

 観念がそのまま日常世界に、呆気にとられるほどの即物性を備えて舞い降りてきてしまったかのような、魔法を見ることにも似た衝撃がここにはないだろうか。「潜像」は、「像」とは未だ呼べない、表象不可能な「像への可能態」だ。こんな「像」のありようは、確かに写真術誕生以前には、決して存在しなかった。

(『自然の鉛筆 The Pencil of Nature』ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット著 青山勝編・訳 赤々舎 2016 / 団栗と写真 ゲルハルト・リヒターおよび「像」についてのメモランダム 畠山直哉 p.89より)

像の現れに驚くこと。それが、写真術の始まりだった。現れる以前の「見えない像」に胸をはずませること。それが写真行為の原点だった。写真とは、「見えない像」というパラドックスが現実に成立してしまった時代、つまり僕らの暮らす現代を、驚きの目で眺めることだった。写真はそうして、写真家に限らず、すべての人間の視覚的認識を根底から変質させたはずだ。(同書 p.90より)

おいしさの8割は

 

リビングに戻ると、ふわっと甘い香りが鼻を掠める。
おぉ…匂いだけで美味しい。朝食に焼いたホットケーキの残り香だ。

胸いっぱいに息を吸い込んで、ホットケーキのおいしさの8割は匂いなのかもしれないな、などと考える。

最近それと似たことをずっと考えている。その話はいずれまた。

いつもベストタイミングだった

 

風が心地よく感じられるようになり、窓を開けて過ごすことが多くなった。向かいの中学から歌声が聴こえてくる。合唱の季節。

ふと目を落とすと、校門そばの桜が盛大に葉を散らしている。
あっ…。そうか、桜の木は夏の終わりから葉を散らしはじめるんだ。

2019年から毎年、木々の葉が色づく頃に鴨川/賀茂川を撮っているが、慎重にタイミングを見計らっても桜の木はいつも葉がスカスカ。毎回「ベストタイミングを逃した」と思っていた。

ちがう。桜は紅葉してから散るのではなく、散りゆくなかで紅葉する。
秋が一段深まる時期にまだ枝に残っている葉が紅葉するのだ。

葉がすべて残った状態で紅葉している桜などまったくの幻で、そうとは知らずに完璧な姿の桜を求め、まだ撮れないまだ撮れないと、ずっと幻を追っていた。

いつもベストタイミングだったし、すでにベストショットを撮っていたのだ。

1:25 a.m.

 

寝る前に小腹が空いてうっかりナッツを頬張ったせいで、案の定、深夜の逆流性食道炎。

こういうときはたいてい、不安や恐れ、悲しみといったものがアマルガムのようになった忌々しい夢を見て、ぎゅっと鳩尾を締めつけられるような痛みとともに目覚めるものだが、今夜の夢は祖母のものらしきワンピースと白いサンダルを手に彼女が行きたかったであろう場所を訪れ撮影するという夢だった。

見覚えのないワンピースだったが、縫い代にマジックでフルネームが記されているから施設に入った後のものだろう。断片的に、水面のきらめき、まだ浅い緑、初夏の風景だ。そして、その旅を通じて祖母のさびしさに触れた気がした。

鳩尾の痛みはいつもとさほど変わらないのに、なぜか今夜は、私の身体にはまださびしさが残っていたのかと、かつて置き去りにした感情をやさしく迎えにゆく心もちになっていた。

これまでずっと頑なに遠ざけたり固く閉ざされた箱に押し込むようにしてきた感情を、それもまたわたしの一部とやわらかく受け止められたのは、これがはじめてかもしれない。

1:25 a.m. まだ鳩尾は鈍く痛む

空気の湿り気、木々の緑の微かな違いを

 

RIVERSIDEプロジェクトの最初の作品を撮ったのは2004年の夏至。
20年ぶりに撮ってみようと思ってロケハンに出かける(正確にはここ数年ロケハンを続けている)。

梅雨の入りばな、うすぐもり。
出町柳から川下のほうへ歩きながら思ったのは、空気の湿り気、木々の緑の微かな違いを写したい。

20年前とは視点が変わったことについてすこし整理したので、メモしておこう。

1.
20年前はドイツ写真の影響が強く、学生たちの間にベッヒャーの方法論を無批判に受け入れる雰囲気があり、わたしもまたその影響下にあった。当時は対岸を「モノ」として正確に写すための条件を選んでいたが、今は梅雨の湿気を含んだ空気によって霞んだり青みがかることも含め「状況」を写したいと思うようになった。(関心の変容)

雪景の撮影を経て、以前は悪条件として排除していた霞・降雨・雪などといった対岸の被写体を「見えにくくするもの」への寛容度が上がったように思う。見えにくいのであれば、その見えにくい状況を精密にとらえたいと思うようになった。

2.
20年前は木々の緑の微かな違いに気づく余裕がなかった。

これは個人の成長・変容というより道具が変わったことが大きいように思う。
カメラが小さく軽く扱いやすくなり、時間的・体力的余裕が生まれたこと、フィルム撮影に比べデジタル撮影は失敗のリスクを取りやすくなったこと(撮り直しになってもフィルム代・現像代のロスがない)。そういったことで余裕が生まれ、被写体に向けるまなざしが変わったように思う。

また、20年前は色の感じ方そのものが「フィルムの色」の影響を受けていた可能性が考えられる。フィルム特有の色の偏りを適正範囲のカラーバランスに補正するファーストステップに大きな労力をとられ、細かく色をコントロールをする余力が残されていなかった。その点、デジタルのほうが色の偏りが抑えられているので微細な色のコントロールに注力しやすい。

道具が感覚に与える影響は大きいように思う。

横滑り

 

桃山商事のポッドキャストで、横滑りしながらどんどん展開していく女性同士の会話のあり方(カシミア話法?カシミア論法?)が取り上げられていて、ジェンダーによって会話のスタイルに違いがあるの?という驚きが「横滑り」を意識するきっかけだったと思う。

たしかに、さいしょに何を話していたのか忘れるくらい会話が展開する(「で、何の話をしてたんだっけ?」と急に立ち止まる)という状況にはよく遭遇する。でもそれは前の話とのつながりを切断してまったく新しい話がはじめられるのではなく、前の話のどこかしらにフックしながら、しかも「思いがけないところ」にフックして次の話がはじめられるという形で展開する。わたしはそのライブ感こそが会話(雑談)の醍醐味じゃないかとすら思うが、話のなかの「思いがけないところ」というのは会話におけるある種のプンクトゥムなんじゃないか?と思ったのだ。つまり横滑りして展開するとりとめのない会話というのは、プンクトゥムの連鎖ではなかろうか?と。

ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

(『明るい部屋 写真についての覚書』 ロラン・バルト著 花輪光訳 みすず書房 1985 p.37より抜粋)

仮にその発散的なスタイルの会話を女性的だというのであれば、いっそそれを徹底的にやってみようじゃないか、イメージで!という考えがよぎったのだ。あらかじめテーマや形式を決めてイメージを集め編む収束的な方法ではなく、横滑りするのを楽しみながら前のイメージのどこかしらにフックして次のイメージをつなげる発散的な方法を試してみようじゃないか、と。

おもしろければプロジェクト化すればいいし、数名でやってみるのも良いかもしれない。まずはsmall startで。

ことの発端はこのフライヤーだったのではないかと思う(事後的に)。
土器のマットな質感の黒がずっと頭にあったのだろう。おもむろにブラックデニムがほしい気もちになり、街でたまたま出会ったのが3本のデニムを1本に統合した再構築デニム。

つながっているようなつながっていないようなデニムの継ぎ方から連想されるイメージを手元の写真から選んでみる。ここからスタートだ。

ヴンダーカンマー

 

8年前の2016年、ロシア滞在も終わりに近づいた頃、予定していた撮影をなんとか終えたわたしは、ほかの撮影候補地を探しつつサンクトペテルブルクにある美術館、博物館に足を運んでいた。はじめ、博物館リストにあるクンストカメラをカメラに関連する施設と勘違いしていたが、調べてみると小さな博物館らしいことがわかった。そしてわたしはそこに「何が展示されているか」わかったうえで、クンストカメラを訪れた。クンストカメラが博物館の前身となるヴンダーカンマー(驚異の部屋)の別称だと知るのはその数年後のことになる。

歴代の皇帝の個人的なコレクションの集積場と言われるクンストカメラには、いつの時代の日本人だろう?と訝しく思うような人類学、民族学的な展示から、地球儀など科学に関連する展示まで、幅広く集められた収蔵品が魔術的な雰囲気を纏って陳列されていた。そしてほとんどの訪問者がいちばん衝撃を受けるのが、奇形の胎児(人間)のホルマリン漬けがずらっと並んだ展示室だ。

わたしも例外ではなく、そのときはただただショックを受けて帰途に着いたが、数年後に国立民族学博物館で開催された『驚異と怪異』という展示で驚異の部屋(ヴンダーカンマー)を知ったとき、人間の珍しいものを見たいという欲望の行き着く先をわたしはすでに見てしまったのだと悟った。個人のもっともプライベートな領域の深い悲しみを伴った存在を、その場から切り離し「珍しいもの」として蒐集し展示することのおぞましさ。museumの原点にはそういうおぞましさが潜んでいるのだと思った。わたしはそんな土台のうえに自分の作品を積みあげるのか?という戸惑い。そして、ほかでもないわたし自身が「何が展示されているか」わかったうえで観に行ったのだ。おぞましさはわたしの中にもある。

そんな経緯でmuseumというシステムに関心を持つようになったが、過去を掘り下げ起源に遡る方へと向かうと、どうしてもネガティブなことばかりが目についてしまう。それがだんだんしんどくなっていったというのもあるのかもしれない。今回、豊田市美術館の「未完のはじまり 未来のヴンダーカンマー」展を訪れたのは、なにか新しい視点が得られないだろうかという期待があった。

神話と現代的なメディウムを融合させた作品や、科学と錬金術的・魔術的な世界観とが渾然とした作品など、まざる(混ざる・交ざる)ことの豊かさを感じる作品群。国民的詩人の孫であるTaus Makhachevaの、祖父のパブリックイメージとプライベートな記憶を辿る作品。さまざまな切り口で、museumの機能———もとの環境や文脈からの切断、移動、分類———が揺さぶられ問われているが、強く印象に残ったのがフィクションとして構成された映像作品3点。

Taus Mackhachevaの《セレンディピティの採掘》は「半世紀前の未来科学者たちが提案したアイデア」という架空の設定に基づき、そのアイデアをもとにつくられたアクセサリーの形をしたガジェットが展示され、実際に身につけることもできる。最新ガジェットのはずなのにどこか魔術的・錬金術的な雰囲気が漂い、科学と錬金術の境目はどこにあるのだろうと考えた。

Yuichiro Tamuraの《TiOS》では生体との結合性が強いチタン(Titan)を軸にくすっと笑いを誘う未来像が提示され、産業技術と身体(生体)の関係性が浮かび上がる。カセットテープ、フロッピーディスク、HDD…記憶はいつも回転体が担っていたという指摘がふかく印象に残っている。

Liu Chuangの《リチウムの湖とポリフォニーの島Ⅱ》のリチウムの湖では、ウユニ塩湖でのリチウム採掘、歴史を遡ってポトシ銀山にも触れ、(鉱山をはじめとする)開発、輸送、それに伴う産業といったものの構造が、一方的に「新世界」と呼ぶ地域から略奪・蒐集を繰り返してきたmuseumの構造と不可分であることを考えさせられる。富の移動。いっぽうポリフォニーの島では、人間だけが地面のうえで歌を歌うという動物学的な説明にくわえ、ポリフォニーの祖と呼ばれるバッハ以前から少数民族の歌にポリフォニーが存在していることが指摘される。うつくしい映像のところどころに西洋中心主義批判がそっと織り込まれている。

企画自体が未来志向だということもあるけれど、ほとんどの作品が批判よりも可能性に開かれていて風通しの良さを感じた。そもそもが豊田市博物館の開館に向けてmuseumの起源に遡りつつ未来を考えるという企画だったので、展覧会を観たその足で開館したての豊田市博物館にも足を運んだ。

いわゆる未完でのオープン、と理解。未完は決して悪い意味ではなく、市民がグループをつくってその土地土地の石を集める取り組みが紹介されていたり、持ち寄られた「豊田での生活史を象徴するもの」が展示されていたり、ここで暮らすひとが自分たちで自分たちの歴史や環境を調べ考え続ける場として機能する博物館像が示されていた。それは「美と知の殿堂」といった啓蒙主義的な存在としてのmuseumから脱却する試みとしてもとらえられ、その意味で、あたらしいmuseum像を見ることができたと思う。3年後、5年後、10年後に今の未完がどんな未完に変わっていくのか楽しみである。

museumの起源には血生臭い簒奪の歴史が、そして未だに蒐集する/される非対称な構造が横たわってはいるが、それを乗り越え新しいmuseumをつくっていくことができると示されたように感じ、明るい気もちで博物館を後にした。

参考
未完の始まり:未来のヴンダーカンマー(豊田市美術館)
豊田市博物館(公式)
驚異と怪異(国立民族学博物館)
クンストカメラ(wiki)
クンストカメラ(公式)
ロシア最古の博物館にして、ロシアの科学のゆりかご。ピョートルのクンストカメラ誕生物語(ロシアビヨンド)
奇形児などが展示されているピョートル大帝のクンストカメラ(ロシアビヨンド)

松宮秀治さんの「ミュージアム思想」はmuseumを考えるうえでとてもよい書籍ですが、高額で入手しづらくなっています。近くの図書館に蔵書がないなど事情がある方はご一報ください。お貸しします。

三日目の月

 

昨夕、三日目の月を見上げながら、もし仮にここを去ることがあるなら、
遺したいのはこの地を愛したということなんだろうな、ということを考えていた。

人生の残り時間を考えたとき、
遺したいのはきっと、この世界を愛したということなんだと思う。

人生の折り返し地点にさしかかって、
去りゆく者として自分を想定するようになった。

再読

 

20年前に買いそびれたHysteric Sixを入手したのをきっかけに『なぜ、植物図鑑か』を再読。いま手元にあるのは2012年第3刷の文庫本だから、2000年代初頭の学生時代にコピーか何かで読み、2013年ころ文庫で再読。なので正確には再再読だろうと思う。

その直後、撮影中にふっと考えたことをX(旧twitter)に投稿したので、こちらにも移して(写して)おこうと思う。

季節によっては夜明け前に目が覚めてしまうようになり、ならばと早朝に散歩や読書、ブレストをするようになった。朝のブレストで頭に浮かんだことをメモするかのようにXに書き留めている。もしかしたら今後、Xをメモとして使い、その中から残したいものや話題を広げられるものをこちらに移すというスタイルになっていくかもしれない。

冬至だからなのか薄明から三脚立ててスタンバイしている人を多く見かけ、中平さんのテキストに自身が薄明や夜を撮ることを挙げてその情緒性を批判する記述があったのを思い出していた。学生の頃はそんなものなのかと教科書的に受け止めていたが、だんだんその叙情を排除する姿勢に違和が芽生えたのよね。けっこうそれって極端だよね…と。

そして、そのテキストが書かれた半世紀前よりカメラの性能が格段に上がり、薄明でも夜間でも高感度、拡大表示で対象を視認・凝視することが可能になって、いまや叙情性や情緒性と具体性・客観性・凝視的ふるまいは「どちらか」ではなく両立する可能性があるのではないかと。

これまで叙情的ととらえられてきた光景(ものがはっきり見えにくい状況)をバチッと隅々まで解像して捉えることが可能になったので、写真を巨視的にみて叙情的ととらえるか、微視的、具体的にみて客観的ととらえるかは作家が決めるのではなく、観者に委ねることもできるのではないかと思うようになった。

札幌での撮影以降、見えにくい状況で対象を精密にとらえることにこだわるようになったのは、道具が変わったことが大きいが、何かしら自分が感じた違和に応答するという側面もあったんだと気がついた。

中平さんのテキストをずっと覚えていたわけではない。むしろすっかり忘れていたというのが正しい。それでも、最初にテキストに触れた時点ですでにもう対話に巻き込まれていたんだと思う。

再読、してみるもんだね。

(2023-12-23 Xの投稿より

ここまでたどり着いたあなたは相当ニッチな関心領域をシェアしているとお見受けするので、もしよろしければXアカウントのフォローもどうぞ😊

https://twitter.com/somedalisa

実在の後ろ支えのない言葉

 

質感って英語ではtextureなんだよなぁ。textureは織物という実在によって後ろ支えされた言葉だけれど、質感という言葉にはそういった実在による後ろ支えを欠いたふわっとした感じがする…ということを考えていた。(「質感」という言葉には実在による後ろ支えはないが「肌理」にはある)

photographも photo-光 graph 書かれたもの(刻まれたもの)という構造で実在に後ろ支えされているが、写真という言葉にはそれがない。

この実在の後ろ支えがないふわっとした言葉を用いて思考し語ることと実在の後ろ支えのある言葉で思考し語ることとは、相当異なる経験ではないのだろうか?と。

というのも、抽象度が高くなった途端話が通じにくくなるということがここ何度か続き、はじめは自分の理解力や相手の言語運用能力を疑ったが、使う言葉に因る部分もあるのではないか?と考えるようになったのだ。

エティモンライン – 英語語源辞典
https://www.etymonline.com/jp/word/photograph

息のあわないダンス

 

なにか考えや問いをもって撮影に向かうたび、おもしろいくらい裏切られたここ数日。写真は常に現実とのせめぎ合いだということを忘れないために、X(旧twitter)の投稿に少し手を加えてこちらに移しておこうと思う。写真はできるだけ同じ画角になるようトリミングしたうえ、後から加えた。

まるで息のあわないダンスのようだ。

2023-12-03

きょうは愛宕山に登るつもりが、電車の遅延と不安定な天候によりショートカット。体力と気もちを持て余し、保津峡駅のプラットフォームで撮り鉄の皆さんの横に並んでみた。ほかの方は保津峡を走り抜けるトロッコ列車を撮っている様子だったが、わたしはそばの枯れ木に覆われた山が目当て。晩秋の山は枯れ木も含め個体によって色がバラつくので、それぞれの木が個として見えてくることがある。

2023-12-02

以前、川で撮影をしていたときに、あまりに人出が多く、個として見えていたのが群に見えた途端におもしろみを失うということに気がついた。それからは人出が多すぎるタイミングを外して撮るよう気をつけている。

個と群で関心のありようが変わるのはなぜか? 個として見えていたものが群にしか見えなくなるその臨界点はどこにあるのか?「個と群」にまつわるそれらの問いはずっと意識の底に横たわっていたが、ここ数日の撮影であらためて意識化されてきた感触がある。

「個と群」

2023-12-05

「個と群」について考えてみたいと思って撮影に出かけ、戻って写真を確認したら、高解像度ならではの質感が立ち上がっていて、そちらの方がおもしろい。

2023-12-04

意図をもって撮影に臨んでも写真がその意図を裏切る。撮った写真によって意図がどんどん横滑りする。意図したとおりに撮れるより俄然楽しい。ワクワクする。

意図に写真を従わせようとするより、撮れてしまった写真と対話するような感じで進めるほうが自分にはあっている気がする。写真が教えてくれることがあるから、ぜんぶ自力でなんとかしようと思わなくてもいい。

2023-12-05

実体験を通じ、山上付近で巻かれるガスこそが雲とわかっていながら、空を見上げたときに雲になんらかの質感を見出すのはなぜだろうということを考えている。

経験が伴わないのに、鱗雲にはモロモロとした感触を、入道雲にはある種の張りを感じるのはなぜなのか。

2023-12-06

いま見ようとしているものはもしかしたら直射の順光ではないほうが良いかも…と思ったときに、ベッヒャーのような曇天がいいだとか、晴天の順光がいいだとか、他人がもっともらしく言う「いい」を真に受けていたなと気づく。晴天の順光、陰、霞、曇天、雨上がり、湿度の高い低い…どういった環境のどういう光がフィットするか?

マウスひとつでいかようにも色を調整できてしまう時代だからこそなおさら、現場に立って現物を見て、自分の感覚を総動員して確かめたいと思う。

さあ実験だ😊

2023-12-06

枯れ木を遠くから高解像度で撮ると、ふわふわっとした質感が立ち上がる。正確には知覚のバグだと思うのだけれど、被写体が本来備えているものとは違う質感を画像に見てしまう。以前にも似たような経験をしていて、降雪を撮ったらまるでその雪が写真の表面についた霜のように見えたことがある。これも知覚のバグだと思う。そのあたりを少し深堀りしたくなって、きょうも嵐山に向かった。

雨上がり。空気にふくまれる水蒸気が逆光を拡散し、視界が霞む。いつもより目を凝らしてピントを合わせる。質感というよりむしろ不可視性を考える機会となった。過剰な光もまた可視性を損なう。
2023-12-06

原初の動機

 

なぜ写真なのか?という問いはずっとわたしの中に留まり続けていて、問答のあとで思い至ったことを記しておこうと思う。

かつて同じ問いを恩師に差し向けたことがあって、そのとき返ってきたのが「写真術に恋をしている」ということばだった。な、なんと素敵な…。それを聞いて、この人に学ぶことができて良かったと心底思ったのを覚えている。そう。気がつくと母娘で韓流アイドルの推し活をしているように、好きは感染る。つまり…感染ってしまったのだ。写真への想いが。

カメラを手にとったころはそんな感じだったと思う。それから20年あまり。写真が好きという初々しい気もちは感謝へと変わっていった。前の記事(今でもわたしは)でも触れたが、わたしにとって暗室はアジールのような場所だった。明るい太陽のもとカメラを携え世界の素晴らしさを探し歩く行為は、つらい現実から距離を置くという効果をもたらした。ある時期のわたしは、撮影や現像といった写真にまつわる行為そのものによって支えられていたと言っても過言ではない。そのことへの深い感謝がある。

それともうひとつ。

いつもお世話になっている美容師さんはわたしよりすこし年上の女性で、髪を切ってもらうあいだに交わす会話から学ぶところが多い。先日「70歳になったときにどういう働き方をしているか?」という話になり、彼女が「お客さんは年配の方も多く、これからは訪問でカットするようなことをふやしていこうと思う。髪を整えることで華やいだり、シャンと背筋が伸びるような気もちになるから」と言ったとき、ことばが自分の中の熱いものに触れるような感覚があった。

わたしが忘れかけていたもの、イメージの力だ。

イメージには力があって、間違った方向に使われることもあるけれど、ひとを喜ばせたり力づけたりすることもできる。まだ気づかれていない良さを引き出したり、これまでとは違う側面から光を当てることもできる。見落とされがちなものに価値を見出したり、既存の価値を問うこともできる。イメージの持つそういう力を信じ、誰かのため社会のためにその力を使おうと思って、わたしは視覚表現の領域に進んだ。

なぜ写真なのか?を問ううちに、写真以前、原初の動機に辿りついた。

祭りの夜に

 

先の八瀬の赦免地踊りに続き、この週末は鞍馬の火祭りを訪れた。
この祭りも最後に訪れたのは2019年で、2度目の来訪となる。

はじめて訪れたときは、祭りの熱気と燃え盛る炎に煽られ、執拗にシャッターを切っていたように思う。

今回は、写真を撮るというより祭りそのものを楽しもうと思って訪れたこともあり、鞍馬街道のほぼ最奥で軒を借りて松明が通るのを待っていた。

鞍馬の火祭りは鞍馬寺ではなく由岐神社の神事で、氏子それぞれの軒先で篝(エジ)が焚かれている。両親と同年代と思しきご夫婦が互いに相手の薪のくべ方に注文をつけあっているのを聞くとはなしに聞いていたら、なんとなく氏子同士の立ち話に加わることになっていた。

氏子のひとりが「松の枝を市原に取りに行ったんやけれど、(時節柄、マツタケ)泥棒と疑われんかと思ってな」と話しているのを聞いてあらためて各戸の篝を見てみたら、薪を山のように積んでいるもの、一定量を保ってこまめに薪を足していっているもの、それぞれの個性が滲みでているようすが見えてきた。

篝が焚かれた街道の光景を、できるだけうつくしい画に仕上げようとシャッターを切るのと、それぞれの篝にその火の守りをする人の個性を見出しながらシャッターを切るのとでは、まなざしのあり方はまったくちがう。

先の赦免地踊でも、はじめて訪れたときは切り子燈籠のうつくしさや女性に扮した少年たちの妖しさに魅了されたが、ことしは隣席の方から「今回は息子が燈籠着(燈籠をかぶって歩く役)を、夫が警固(燈籠着のそばについて燈籠を支える役)をしている」と聞いたことで、息子の頭に載せられた5kgもの燈籠を力強く支える父親の手が見えてきた。

それまで見ていなかったもの、見えていなかったものが見えるようになった、という気がしたのだ。

日頃から「見栄えのいい写真を撮ってやろうという欲は時として足枷になる」と自分を戒めてきたが、その欲はよく見ることの妨げにすらなりうると思った。

外から来訪し、フォトジェニックな被写体を追って見栄えのする光景を切り取って帰るより、その場その場で居合わせた人と関わることによって、まなざしがそれまでよりずっと丁寧に細やかになった。個別具体的なひとの営みが、以前よりよく見えるようになった。

翻ると、それまでわたしは、ひとを記号のようにとらえていたのだと思う。

わたしだけではない。その夜、祭りの場でシャッターを切っていたほとんどの来訪者が祭りの担い手を、それぞれの画面を構成する要素/匿名の存在/記号のように扱っていたのではないだろうか?さらに言えば、見知らぬ他者を画面に取り込む写真実践のすべてに同様の問いは潜んでおり、それを不問に付したまま写真は消費されてきたのではないだろうか?

個別具体的な生をもつ他者を、画面を構成するものとしてとらえること、あるいは記号のようにとらえることへの違和。近年芽生えたその違和を、なかったことにせず考え続けたいと思う。

今でもわたしは

 

今年はあいにく体育館での開催となったのだけれど、赦免地踊を観に行った。

はじめて訪れたのは4年前。
市街地から北に向かうにつれ、少しずつ空気がひんやりと、夜がその存在感をましていくように感じられた。そして、山あいの夜の暗さと静けさに圧倒され、蝋燭の灯に揺らぐ切り子燈籠のうつくしさ、女性に扮する少年たちの妖しさに魅了された。

それこそ京都は祭りの宝庫で、雅なものから勇壮なものまで多種多様な祭りがあるのに、なぜこの小さな集落の祭りにひときわ心魅かれるのだろう?と、帰宅後もしばらく考え続けていた。


この数年、訪れた土地の夜の暗さにほっとすることがある。
ここは夜が夜らしい暗さだ、と。


半月ほど前、ある人から「なぜ写真なのですか?」と尋ねられた。

わたし絵が描けないんです/学生時代、自分で問いを立てることが求められたのは写真の課題だけだった。もしその課題が写真ではなく彫刻だったら、わたしは彫刻をしていたかもしれない/暗室だけが安心して泣ける場所だった/なにか素敵なもの、それまで見たことのないようなあたらしいものの見えかた、そういったものに意識を向けながら世界をまなざすこと、太陽の下を歩くという路上スナップの行為そのものが、当時の自分のこころを支えていたように思う

そんなふうに答えたと記憶している。

「もしかして暗室は…」
言いかけた相手のことばを引き取るように、わたしは答えた。
「子宮なのかもしれません。唯一、安心できる場所でした」


山あいの夜の圧倒的な暗さと静けさ。それに抗うのではなく、折り合いをつけるかのようにひっそり執り行われる集落の祭り。自分の輪郭がほどけるような暗さと静けさのなか、揺らめく灯に誘われ、ふだんは届くことのないこころの深い場所に触れられる気がした。

ああそうか。
今でもわたしは暗く静かな場所を求めているのかもしれない。

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