LISA SOMEDA

RIVERSIDEプロジェクト (48)

無時間性

 

いつだったか、WEBでRIVERSIDEの作品を観てくださった方に「写真なんですか?絵だと思っていました。」と言われたことがあって、そのときは「写真です。」と答えたものの、編集していると絵のように見えることがある。その事象についてはなんとなくやりすごしてきたが、もしかしたら考える糸口になるかもしれないということばに出会った。

無時間性

そのことばがひっかかったのは、RIVERSIDEの編集中、信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間や時計といった、時間を意識させるものを画面の中に見つけたときに、ハッとすることがあったから。そういうものに反応するということは、わたしは自分が撮った写真を無時間的なものと見なしているのではないか?と。

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Spring has come!
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Spring has come!
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また、はじめて展覧会を開いたときに、会場を提供してくださった企業の方から「三条大橋とか、場所の名前入れたほうが良かったんじゃないですか?」と言われたことがあり、写真が地図のように見えたんだと思ったが、地図ととらえるなら、まさに無時間的だ。

ソフトフォーカスは、写真という媒体が得意とするはずの細部描写を敢えて放棄することで、白黒写真を木炭デッサンと見紛うものに変えることもできる。だが、福原の作品の場合、ソフトフォーカスは写真を絵のように見せるためというよりは、無時間性の印象を補強するために用いられている。第一に、ソフトフォーカスの写真は、写真画像と、我々が肉眼で見ている世界の光景のあいだの差異を拡大することで、前者がまるで別世界の出来事であるかのように見せる。この別世界において、我々が暮らす世界と同じようなペースで時間が流れているのかどうか、我々には知る由もない。第二に、ソフトフォーカスの写真では多くの場合、それがごく短い時間で撮影されたことを示す証拠が画面から取り去られている。マーティンの《海老の籠を運ぶポーター》を例に見たように、人物の表情、洋服の裾といった要素は、ある写真が瞬間的に—おそらく数分の一秒以下の短い時間で—撮影されたことを示唆する。そういった要素はしばしば微細なものであり、ソフトフォーカスによって細部が抑圧されると同時に、写真から消え落ちてしまう。

(『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』 甲斐義明著 東京大学出版会 2021 pp.27-28より抜粋)

無時間性ということばは、ソフトフォーカスの技法についての説明とあわせて出てくるが、ここで注目したいのは、瞬間的に捉えたことを示唆する微細な要素が抜け落ちると無時間性の印象が補強されるということ。

わたしは細部をとらえることにこだわりがあるからソフトフォーカスは用いないが、40mほど離れた被写体を撮るので、必然的に人物の表情や洋服の裾といった微細な情報は脱落する。(その意味では、近距離より遠距離の被写体のほうが無時間性を帯びやすいと言える)

さらに、自転車のような動く被写体は、なるべく像が流れないよう速めのシャッタースピードで撮る。すると「動き」を感じさせる要素も抜け落ちる。上述のソフトフォーカスの話とは逆に、細部をとらえようとすることが、無時間性の印象を補強することにつながっている。

いっぽう、隣接する写真が異なる瞬間に撮られたものであること(時間性)をはっきりさせておきたいという気もちもある。

プリントの工房で「雪は難しいでしょう。つなげるときに濃度が揃わないから。」と言われ、いやむしろ吹雪に緩急があって写真の濃度が揃わないほうがおもしろいと思ったときに、自分が求めているのが滑らかにつながるひとまとまり(全体)ではなく、ひとつひとつの写真が独立しつつゆるくまとまりを仮構する構造であると自覚した。そして、それぞれの写真の独立性は時間性に拠っている。

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無時間性を帯びやすい方法で撮りながら、写真どうしの関係においては時間性を拠りどころとしている。そのことが明らかになったのは前進だと思う。絵のように見えることと無時間性のつながりについては、またあらためて。

They looked, but did not see it.

 

タイトルのセンテンスは、昨年末に読んでいた今井むつみさんの『英語独習法』で見つけたもの。思いがけないところで、思いがけないことばに出会うのね。

人は外界にあるモノや出来事を全部(seeの意味で)「見ている」わけではない。無意識に情報を選んで、選んだ情報だけを見るのが普通である。注意を向けて、見るべきもの、次に起こるであろうことを予期しながら外界を(lookの意味で)「見ている」。当たり前のことが起こると、その情報は受け流してしまい、見たことを忘れる。予期しないことが起こり、それに気づけばびっくりする。そのときは記憶に残りやすい。しかし、注意を向けているつもりでも、予期しないものは気づかずに見逃しまうことも多い。

(『英語独習法』今井むつみ著 岩波新書 2020 p7より抜粋)

RIVERSIDEプロジェクトの根幹は、まさにこれだと思って。ふだん何気なく(lookの意味で)見ているものを写真に置き換えることで、seeの意味での見るに変換すること。

いつも見ていたはずだけれど、そうは見ていなかったんじゃない?と。

そして、日本語を使って考えているうちはなかなか言語化しにくかったのが、英語を借用することでこうもあっさり表現できるんだなぁ、と。

ここからはまったくの余談…
ちょうどこの本を読んでいたのと同時期に放映されていた恋愛ドラマに「好きです。likeではなくて、loveです!」という台詞があって、わざわざ英語を借用しないと自分の気もちすら伝えられないって日本語ってちょっと不便じゃない?と。自分の生活でも、漢方医の問診で「喉がかわきますか?」と訊かれたときに、乾く(dry)?渇く(thirsty)?どちらだろう?といつも戸惑う。局所的に喉を湿らせたいのか、身体が水分を欲しているのかは違うニーズだと思うので…。

何かを厳密に定義したり伝達するには、日本語は曖昧ですこし不便な道具なのかもしれない。

画像スクロール用サンプルパッケージ

 

おかげさまで、オンライン展覧会 “On Your Side”は、多くの方のご訪問をいただき、感謝しております。
会期も残りわずかとなりましたので、まだの方は、下記URLにてご覧いただけると、たいへんうれしく思います。(終了しました)

https://somedalisa.net/exh2020/

さて、本展の作品表示のためにつくった画像スクロールプログラムのサンプルパッケージを用意しました。ダウンロードが可能です。

きわめてニッチな用途とは思いますが、必要な方はご利用ください。
MITライセンスにて配布しております。

sample.zip

音楽的に

 

先日訪れた展覧会で、展示構成がプログラミングのように構築されている印象を受けたのをきっかけに、ひとはどんなモデルで展示構成を考えるのだろうということに興味を持つようになった。

わたしの場合は、音楽的にとらえる傾向があるように思う。

2015年に札幌でペア作品を展示した際、それを表現するのに「主題と変奏」というフレーズが頭に浮かんだ。A/Bのような比較としてとらえられるペア作品ではあったが、2点を同時に視野に入れることはできないので、時間の流れを含んだ「主題と変奏」という表現はしっくりきた。同時に、そういう音楽的な表現がふと思い浮かんだことに、自分でも驚いた。

そう考えると、写真が横に並んでいく作品の構造はそのまま、矩形のユニットが横に並ぶ楽譜をなぞらえているようにも思え、幼少からのピアノレッスンをはじめとする20年余の音楽の経験は、意外なかたちで自分の中に深く根を下ろしているのかもしれないと思うようになった。

展示に限らず、何か構成を考える際に、主旋律、副旋律、転調、インヴェンションの1声、2声、3声の複雑な交錯といった音楽的な構造を、むしろ意図的に援用するのは面白いかもしれない、と思う。

視線、羞恥、欲望

 

松本卓也さんの『享楽社会論: 現代ラカン派の展開』(人文書院 2018)の第6章2節 視線と羞恥の構造に、とてもおもしろい記述を見つけた。

“視線が恥(羞恥)を生み出すメカニズムは、一体どのようなものだろうか。視線は、どのように恥ずかしさを生み出すのだろうか。”という書き出しではじまるこの節は、まなざしについての示唆に富んでいる。

なかでも、水着の女性のグラビアを見るときに感じない恥ずかしさを、実際に水着の女性が目の前にいると「目のやり場に困る」と恥ずかしさを感じるのはなぜかという問いから導かれる以下の論考がおもしろい。

水着の女性を「見る」ことそれ自体が恥ずかしいのではない。また、見ることによってその女性を「知る」ことが恥ずかしいのでもない。むしろ、その女性を見る際に、自分のことが知られてしまうのが恥ずかしいのである。女性の身体のどこを見るかによって私たちの欲望が知られてしまうこと。つまり、自分の視線が水着の女性を見ることによって、自分の欲望を知られてしまうことが恥ずかしいのである。それゆえ、「見ること=知ること」という等式を恥ずかしさのメカニズムとして考えるならば、その場合「知る」という行為の目的語は相手ではなくて私たち自身である。(「私が他者を知る」のではなく、「私が他者によって知られる」)という主客の逆転があることによく注意しておかなければならない。

(同書 pp.182-183から抜粋 *太字は本文の傍点箇所です)

その先には、カメラマンについての言及も続く。

(前略)さきに、水着の女性のグラビアを見ることは、見ている側に恥ずかしさを生じさせない、と述べた。窃視症は、これとよく似ている。というのは、窃視症者自身は壁を一枚隔てたところに隠れており、自分のことが相手に知られることがないからである。これは、写真の基本的な構造ともよく似ている。カメラマンは、カメラを用いて「壁」をつくり、被写体を含む外界から隔離されることができるからである。それゆえ、窃視症者やカメラマンには恥ずかしさは生じないのである。

(同書 pp.188から抜粋)

さらに、もう少しだけ抜きだすと、

(前略)カメラマンは、自分と被写体とのあいだにカメラという「壁」を挟むことによって、安全な位置を確保している。グラビアの水着女性が私たちを非難してこないのと同じように、カメラマンも、カメラという「壁」の向こうから攻撃されることはない。覗き魔が隠れる「壁」と同じように、カメラがきわめて安全な位置を提供してくれるのである。(後略)

(同書 pp.188から抜粋)

窃視症との関連でカメラが引き合いに出されたことに少し戸惑いを覚えたが、よくよく考えてみると、撮影対象の中にひとが入っている場面では、たしかに「覗いている」ような気もちになることがある。作品制作においては、あいだに川を挟んでいることもあって、被写体(に含まれている人物)からコミュニケーションをとられる可能性はないし、そもそも被写体に撮られていると悟られることも少ないが、それでも一方的にカメラを向けていることに対する疚しさはぬぐえない。とりわけ、二作目からはひとの営みが画面に写り込むことを意識しているので、なおのこと、疚しくないとは言い難い。

もう少し、写真に引き寄せて考えると、カメラという「壁」によって被写体に対しては隠される撮影者の欲望(見たい、見せたい)は、撮られた写真によって(どういう構図でどこにピントをあわせているかで)事後的に露呈する。しかし、中心的な対象をもたないフラットな画面構成であれば、撮影者の欲望はどこまでも隠し続けられる。

ここでわたしに突きつけられたのは、そういうフラットな画面構成を採用するその背景に、自分の欲望を知られたくないという強い恥の意識、あるいは自分の欲望を知られることに対する強い恐れがあるのではないか?という問いである。

運動する都市のイメージ

 

 第二に、泥絵が人事・風俗のモティーフを排除するのに対して、浮世絵は人々の営みを前景化する。それは、絵師の関心の中心が、街を背景として繰り広げられる人間の〈出来事〉にあることを意味する。それに対して、人事・風俗モティーフがほとんど見られない泥絵の場合に際立つのは、都市空間そのものの〈フィジカル〉な存在である。つまり泥絵が描くのは、都市のハード面を形成する坂や道、建築物など不動のものである。主役は街そのものであって、街に生きる人間ではない。それに対し、浮世絵は都市のソフト面を描く。人事・風俗などはまさに運動する都市のイメージである。

 第三に、浮世絵が表象しようとしているものとは、移ろいゆく時間的モティーフであるといえるだろう。花鳥風月などをはじめとする循環する時間を指示する季節の景物は、広重の浮世絵にとって非常に重要な構成要素である。気がつけば過ぎ去るが、また返ってくるという循環する時間。そこに浮世絵の受容者は〈情趣〉を感じるにちがいない。また広重は、夕暮れや夜景、雨や雪など、一日の特定の時刻や気象を指示するモティーフも執拗に描いた。一瞬のうちに過ぎ去っていってしまう時間のはかなさもまた広重が好んで描くところであり、受容者はその〈情趣〉に感情移入しやすかったにちがいない。それとは反対に、泥絵の場合、花見や雪などきわめて稀な例を除いて、季節を判別することはほとんど不可能に近い。季節を表示する自然物がほとんど表象されることがないのと同様に、時刻を表示するモティーフもほとんど描かれない。泥絵には、朝焼けも夕暮れも夜景も存在しないのである。存在するのは、昼日中の抜けるような青い空の真下に静かにたたずむ江戸の街なのである。広重が時間的なものを〈情緒的〉に描くとすれば、泥絵はむしろ空間的なものを〈理性的〉に描いているといえるだろう。

トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』 佐藤守弘著 青弓社 2011 pp.41-42より抜粋

これは、泥絵と浮世絵を比較した記述だけれど、自分の関心が浮世絵師のそれとほぼ重なることにどきっとした。むろん、そのままなぞるつもりなどさらさらなく、むしろ〈情緒的〉にしか表現されなかった題材を〈理性的〉に扱おうと思っているのだが。

遠近法と視線

 

昔の投稿を繰っていて「移動焦点の原理」を見つけた。
ちょうど、少し前に遠近法と視線について書かれたものを中心に読んでいたので、あわせて書き留めておこう。

まずは猪子さんの基調講演についての記事

[CEDEC 2011]日本人は,遠近法で風景を見ていなかった。9月8日の基調講演「情報化社会,インターネット,デジタルアート,日本文化」をレポート
http://www.4gamer.net/games/131/G013104/20110910008/

以前、英語のステイトメントに「絵巻やスーパーマリオブラザーズのようなスクロールゲームに影響を受けている」と書いたとき、わたしの中でその2つは別々のものだったけれど、上の記事にその2つが同根だと分析している話があって、とても興味をそそられた。

それから、高階秀爾さんの『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)

 〈洛中洛外図屏風〉のように、画家の視点が自由に移動して、それぞれの視点から眺められた細部を並列的に画面に並べていくという画面構図法では、画面は、統一的な空間構成をもたず、平面的に左右にいくらでも拡がっていく傾向を持つ。西欧の遠近法的表現においては、アルベルティの『絵画論』のなかにはっきりと述べられているように、画家はある一定の視点に位置して眼の前の世界を眺め、その世界を、あたかもひとつの窓を通して見たかのような一定の枠のなかに秩序づけて表わす。その窓枠にあたるものが、すなわち画面そのものにほかならない。したがって、西欧の絵画においては、画面の枠というものは、統一的な空間構成を成り立たせるために、画家の視点と同じようにやはり不可欠の前提である。ところが、画家の視点が自由に移動する日本の画面構成においては、原理的には、画面は、視点の移動にともなっていくらでも拡大することができる。むろん実際には、屏風なり襖なりの現実の画面によって作品の枠は決定されているのだが、そのなかに表現された世界は、枠のなかだけで完結するのではなく、その枠を越えてさらに外に拡がっていく傾向をもつ。

(『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009 pp.20-21から抜粋)

「画家の視点が自由に移動する日本の画面構成においては、原理的には、画面は、視点の移動にともなっていくらでも拡大することができる」つまり、画面構成そのものが、フレームの強度に影響を与えるということか。

平行移動

 

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』からの流れで読み始めた本の中に、興味深いフレーズを見つけた。

以下、『謎床: 思考が発酵する編集術』(松岡正剛、ドミニク・チェン著 晶文社 2017)より抜粋

ドミニク

「うつる」がおもしろいのは、写真の「写」だし、映像の「映」だし、しかも移動の「移」ですね。

(p125より抜粋)

松岡

平行移動に近い。バーチャルもリアルも混在して平行移動していくんですね。日本はスーパーフラット状態なんですね。ですから、浮世絵のようなああいうスーパーフラットな絵が描ける。そこに村上隆も関心をもったのだと思いますが、こちら側と向こう側が同じ大きさで描いてある。奥村政信や広重や華山ぐらいから少し遠近法が入りますが、それまでは全部同じ大きさですね。

 もともと、「源氏物語絵巻」などの吹抜屋台画法で描かれる王朝の絵巻のパースペクティブがフラットにできているんです。それとも関係があるし、鈴木清順が自作の映画の中で解明していましたが、日本の空間は視線が水平移動するんです。バニシング・ポイントがないんですよ。

ドミニク

ああ、絵巻とかは本当にそうですよね。

松岡

一点透視にならない。だから「モナ・リザ」のようなああいう絵は生まれない。バニシング・ポイントをもたず、フラットに平行移動しながらすべてを解釈していく。絵巻は右から左へ見ていきますが、そうしたあり方が日本の物語、ナラティヴィティを成立させているとも言えるわけです。どこもかもがフラットなので始まりと終わりも曖昧で、どこからでも話を始められる。その代表的なものが『伊勢物語』で、そこには伊勢が出てこない。在原業平が東下りしているだけ、平行移動しているだけの話です。

(p127より抜粋)

ちょうどスクロール用のスクリプトを調整しているさなかに、このくだりに出くわした。

バニシング・ポイントをもたず、フラットに平行移動しながらすべてを解釈していく
バニシング・ポイントがあると、どうしてもそこに視線がひっぱられる。フラットな画面だと構成要素の吸引力が等しくなり、視線が自由になる。画面の構成要素の力関係。

どこもかもがフラットなので始まりと終わりも曖昧で、どこからでも話を始められる

ディスプレイがもっと高解像度になれば、プリントにこだわらなくてもいいかもしれない。ブラウザベースであれば、映像と違い縦横比は自由自在。ループ再生で好きなところから見て、好きなところで見終えるのもよし。そんなことを考えていたところだった。

作品が長いので、展示では空間にあわせて作品を端折ることがある。ふつう、空間にあわせて作品の一部を切ったりはしない。それこそ、展示空間の都合でモナ・リザの右端を切り落としたりはしないだろう。なのに、端折ることにまったく躊躇を感じなかった。「必ずしも全部を見せなくてもいい、と思うのはどうしてだろう?」とずっと不思議に思っていた。はじめに選んだ形式(フラットであること)によって、すでに、さまざまなこと(自分の態度まで!)が決まっていたのかもしれない。

日本の物語の構造までは考えたことはなかったけれど、媒体(絵巻)の形状が、物語のあり方を規定するということは、大いにありうることだろう。まずは『伊勢物語』を読むところから。

第3形態

 
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たまに見かけるマトリョーシュカスタイルのミキサー車

作品のポータブルな形態として、最初は冊子、それから折本にしてみたけれど、
ロシアで撮影した作品はあまりに長く、折本に仕立てるのすら難しいと判断。で、第3形態、巻子。

わたしは、日本美術の影響を多分に受けている、という自覚がある。先行する写真作品群よりずっと深いレベルで、日本美術の影響を受けている、と思っている。

でも、それは画面の構造的な問題であって、テイストとして和を取り入れることや、安易なエキゾチシズムに回収されるような表現は、絶対に避けたいと思っている。そういうこともあって、巻子の形態を採用するのに過剰なほど警戒心を持っていたのだけれど、巻子は固定されたフレームを持たないという点で、作品にもっとも適した形態である、と、ある日ふっと腹に落ちた。

実際作ってみると、巻子は、シンプルな構造でありながら大量の情報を輸送することができる、非常に優秀なアナログツールだと思う。一方、リニア編集とか、シーケンシャルアクセス、ということばを久しぶりに思い出すくらい、「前から順に」しか目標にたどり着けない、まどろっこしさもある。(カセットテープを思い出した)

そして、手で繰ってみた実感として、わたしの作品には巻子の形態がいちばんしっくりきている。
写真集を…と長らく思っていたけれど、作品の性質として、そもそも冊子には向いていないのかもしれない。

ベース

 

小学生の頃、わたしは家から少し離れたスイミングスクールに通っていた。
帰りのスクールバスは、夕暮れどきの千里ニュータウンをぬって走る。

ぽつぽつとあかりが灯りはじめる高層住宅をバスの窓から見上げながら、ひとつひとつの部屋に、それぞれを中心とした別々の世界が同時に存在する、ということを、ぼんやりと考えていた。そこはかとなく寂しい気もちで。

それからずっと後、哲学の講義で「それまでは自分と世界をひとつのものだと思っていたのが、自分とは関係なく世界が存在していることに気づいたときの幼児の痛み」という話を聞いたとき、「自分とは関係なく」のワンフレーズに、寂しさの出どころを言いあてられた気がした。

「自分とは関係なく、それぞれを中心とした別々の世界や物語が、同時に、そして無数に存在する」

幼い頃、ヒリヒリするような寂寥感とともに身につけた世界観が、自分の作品のベースにはある、と思う。

先に選択や判断がある

 

自分のなかですでに「ゆるぎなく決まっていること(選択や判断)」があって、その理由を何年もかけて探しながら作業をしているようなところがある、と気づいたのは最近のこと。

昨年サンクトペテルブルクで撮った写真は300カットを超え、地道に編集作業を続けていると、正直「長すぎる…」と心が折れそうになることもある。その一方で、冗長であることに確信を抱いてもいる。手を動かしながら、「なぜそんなに冗長性にこだわるの?」と、問い続ける。思い返せば、ずっとそんなふうにして作品を作ってきたのかもしれない。

というのは、「コンセプトがあって、それに向けてつくる」という枠組みで作品の説明を書くたびに、落ち着きの悪さや、嘘がある感じ、を抱いていたから。

作っている自分も、はじめから全部わかっているわけではないし、見通せているわけでもない。手を動かしながら、徐々に明らかになっていくことがある。
もしかしたら、それがおもしろくて作り続けているのかもしれない、とすら思う。

具体的なものは必ず部分的である

 

一望できない形態の作品をつくっていながら、編集や記録の段階で、全体を把握したいと思うことがある。そこに端を発し、ことあるごとに、全体を把握したい(一望したい、俯瞰したい)という人間の欲望の深さを感じるようになった。

身近なところでは、「結論から言うと」という物言いに集約される結論から先に述べる習慣が挙げられる。できるだけ早く、できれば一瞬で全体を把握したい欲望は、当然のものとして社会全体を覆っている。
そして、写真はその欲望を叶えるのに最適なメディアである、とも思う。

一方、小説や物語、音楽、映画のように時間経過のなかで展開することにこそ意味のある表現もある。

最近でこそ、そういった時間性に関心を持つようになったけれど、最初から時間性を意識していたわけではない。そもそもは写真の具体性をどう担保するかというところに関心があった。それがどうして時間性に結びついたのか、自分の中で整理できていなかったのかもしれない。あまりに端的に示している文章に出会って驚いた。

宇宙を研究するために可視光線で撮影している場合もあり、X線で撮影している場合もあり、電波望遠鏡の場合もある。それぞれ別の像が得られますが、宇宙はそういう個々の見え方を超えて一つであるものでしょう。私たちは、何かの手段を選んで、それぞれ限界のある図を得ることしかできません。なるほど人間は、さまざまな手段を使うことによって個々の宇宙像を少しずつ超えることができます。しかし、「具体的にして全体的なもの」をついに人間が一望に収めることはできないと思います。全体的であろうとすれば抽象的たらざるをえず、具体的なものは必ず部分的であるというのが、私たち人間の世界認識の限界です。

(『徴候・記憶・外傷』中井久夫著 みすず書房 2004)

2005年のインスタレーションを組み立てるにあたり「写真の内容を具体的に見てもらうためには、自分が今見ているものは部分でしかないという認識を持ってもらうことが必要だ」ということを直感的に考えていた。そして、作品を一望できない展示形態を採用した。一望できないということは、全体を把握するためには時間の幅が必要になる。

ようやく合点がいった。

第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」

 

おかげさまで無事、
第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」オープンしました!

2015年4月24日までの開催となります。
お近くにお越しの方は是非ご高覧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

同時開催されている田村陽子さんの「記憶する足形」も素敵な展示なので、ぜひ!

場所:札幌大通地下ギャラリー500m美術館
会期:1月31日(土) 〜 4月24日(金) 無休
時間:7:30~22:00 ※最終日は17:00まで
料金:無料

札幌大通地下ギャラリー500m美術館
http://500m.jp/exhibition/3263.html

展示風景 撮影 松村康平
撮影 松村康平

小さな劇場

 

見てすぐにパシャっと撮るのではなく、
三脚を立ててピントをあわせるのにじっとファインダーをのぞいていると、
ファインダーの中に、人やものがこまごまと動く小さな劇場みたいなのが出現する。
(たぶん、あまり遠近法的な構図ではない場合によく出現すると思う)

デジタルのファインダーだと、それが映像のようにも見えるのだけれど、
中判を使っていた頃から、なんかこの暗いハコの中に小さな劇場があるな、とうすうす気づいていた。

そして、その小さな劇場の中で人が動いたり、ものが動いたりしている様が、なんとも愛おしいのだ。
もう、実に実に愛おしい。

雪の中、対岸の建物のタイルの目地を目安にピントをあわせながら、
ピントをあわせるために凝視する、その所作にともなう時間に「幅」があるからこそ、その小さな劇場の存在に気づけるのかもしれないな、と、あらためて思った。

フレーミング

 

フレーミングについて前から考えていたこと。

画面の中の何らかを際立たせるために、撮影者は画面からさまざまなものを排除する。
物理的なフレーミングと抽象的なフレーミングで。

なるべくフレームを意識させないような体裁を採用し、
できるだけ排除しない、という見せかけをしているにもかかわらず、
そこにフレーミングは存在している。

自分は何を排除しているのか。

物理的な矩形によるフレーミング
徹底的に排除するのは、此岸の情報。
対岸にフォーカスするためには、撮影者の置かれている状況を示すものは排除
撮影者と被写体との関係性を見えなくすることで、撮影者の存在をできるかぎり見えなくする。

ピント位置による奥行きの中でのフレーミング
ある奥行きにピントをあわせ、その奥行きにあるもの以外をぼかすことで、
ある奥行きにピークをつくる。わたしはこの方法はとってはいない。

撮影条件の選択による抽象的なフレーミング
くっきりとした画を得るために、悪天候は忌避。
逆光や、順光でも影が濃すぎる状況は忌避。
長時間露光による被写体のブレも極力避けている。

何が周到に排除されているのか、完成物を見せられた者が想像するのはほんとうに難しい。
おそろしいほど無防備に、画面の中の世界をありのままに信じてしまうきわどさ。
この夏、経験したばかりではないか。

写真のドキュメント性を手放さないのであれば、
自分が何をフレームアウトしているかを自覚しなければ。

今まであたりまえに選択してきたフレームをゆさぶることはできないだろうか。
それが今、興味を持っていること。

大川沿いを歩く

 

ずっと前に、どこか良い川ないかなぁ…と友人に尋ねたときに、大川が良いよ!とおすすめされていたのを思い出す。桜の季節の前に確認しておこうと思って大川沿い(東岸)を歩く。

いくつか気になったことを書き留めておく。

  • 中之島あたりから南側のビルを見るのはおもしろい。が、常に日陰。
  • 桜ノ宮あたりは、両岸に桜が植わっている
  • 桜の時分は人が多そう(特に造幣局のあたり)
  • 両岸に遊歩道あり
  • 川幅は広い
  • かなり蛇行している

次は西岸を歩いてみよう。

3年分のサンプル

 

2010年の撮影分は明らかに使えないのではずして、2008-2009-2011の3年分のサンプルを作成。

2008年は17時スタート。2009年と2011年は18時スタート。当初は、もっとなだらかなグラデーションを描いて暗くなっていくものと思っていたら、ほんの数コマを撮っているうちにガクンと暗くなるということがわかった。

同じ風景でもつなぎ方でずいぶん違いが出てくることもわかった。

撮影するごとに気になることが出てきて、そのたびに改善はしているけれど、2008年から計4回撮っているので、もう仕上げの作業に入ろうと思う。スタートを少し早めにして、撮影のピッチを細かくする。

映画的なるもの

 

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
(『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。

移動焦点の原理

 

先日読んだ、ホックニーの『秘密の知識』に、絵巻に関する記述があったので、メモしておく。

 

ここに1347年に中国で描かれた風景画の絵巻がある。本ではページを捲ることになり、巻物のように少しずつ繙くことはできないので、部分ごとに分けてお見せするしかない。これはアルベルティの窓とはちがう。これを見る者は情景の外側にいるのではなく、身近な風景の中をそぞろ歩くのである。視点は(ただひとつでなく)多数ある。これはわたしたちが歩き回るときの視点のあり方と変わらない。

 わたしの手許にある絵巻は、湖の辺の小さな村を見下ろす景色から始まる。そこから水辺へと降りると、湖面越しに彼方の山並みも望める。つづいて湖畔沿いに蛇行する道を行くと、頭上には山が聳え、小さな渓谷も目に入る。丘を昇り、湖を見下ろし、再び平野に下り、再度山に登る。ただひとりのひとがゆっくり巻物をひもといて初めて、このように目で見、感じることができる。巻物をすっかり拡げてしまえば、また美術館の催す展覧会ではそうならざるを得ないが、こうした効果は期待できず、風景はどことなくぎこちなく見えてしまう。図版をよりよく見るには虫眼鏡を使うことをお薦めする。わたしはこの絵巻からじつに多くを学んだ。この手法は[移動焦点の原理]と呼ばれる。この絵巻を原始的と呼ぶのは、どう考えてもふさわしくない。これは洗練を極めたもので、もしどこかに消失点があれば、それは動きを止めたこと、つまり見る者がもうそこにはいないことを意味すると気づかされる。
(『秘密の知識』 ディッド・ホックニー 青幻舎 2006 p230から抜粋 太字はわたしが勝手に)

要点をまとめる
・鑑賞者は画面の外側にいるのではない。身近な風景の中をそぞろ歩く
・視点は多数ある
・図版をよく見るには虫眼鏡を使うこと
・消失点があれば、それは動きをとめたことになる

《RIVERSIDE》のことを「大きな絵巻なんだね」と表現されたことがあって、それから絵巻の特徴や構造について、少し考えるようになった。

実は、作品化されずにお蔵入りのフィルムがいくつかあって、視界を遮るものがなく遠景まですぅっと抜けて見えてしまう風景の場合、絵としてあまりおもしろくない、というのがボツにした理由だけれど、この文章でひとつヒントを得た気がする。「消失点があれば、それは動きをとめたことになる」。消失点への求心力が、視線の水平方向の運動を妨げるということは大いに考えうる。ボツフィルムをもう一度見直して、考えてみようと思う。

「移動焦点の原理」というタームでgoogle先生に尋ねてみたけれど、芳しい回答が得られない。「移動焦点の原理」は、原文ではどうなっているんだろう。掘り下げて調べたいところ。

ひとつ言えるのは、カメラ(単眼)を使って絵巻構造の作品をつくるというのは、本質的な矛盾をはらんでいるということ。

備忘録

 

思っていたより晴れていたので、一部夕陽が逆光になる場面あり。少し撮影ポジションをズラして対応。建物の窓に反射する夕陽に対応するのが難しかった。歩行者、自転車の往来が例年より多かった。

2011年7月23日(土)
17:50〜21:30
絞り8.0
シャッタースピード 1/60〜2min
79コマ(有効数70くらい)

そしてやっと70コマ

 

数点ずつ毎日スキャン、というコツコツ作戦で、08年春の撮影分、113点中、70点スキャン終了。残り1/3ほど。

スキャンに40分、そのあとの保存にいやに時間がかかる。HDDの残量が少ないからだろうか…。

暑い夏にスキャニング三昧。
せめてもうちょっと涼しくなってくれないかなぁ…

少し遅めスタート

 

19時に撮影をスタートする。少し遅れたかなぁ…とか。

長時間露光の途中にひとや自転車が横切ることが多かったので、遮光板を持ち込んだのは大正解だったと思う。昨年は、その度に、撮り直しをしていたから、その分、撮影も早く進められる。

今年は、最後のコマの位置でカップルが花火をしていたのが、良かったなぁ。

2008年から3年、17時スタート、18時スタート、19時スタートで撮ったから、並べて見比べてみようと思う。

川がずいぶん増水していたけれど、とにもかくにも、雨が降らないで良かった。

◆備忘録
撮影 7/18 19:00〜22:30
60コマ前後(220のフィルム 3本以内で納まる)
F8.0 1/4〜2min

撮影の準備

 

しばらくぶりの中判での撮影。
準備をしていて、フィルムの種類が減っていることに気づく。
NS160は、5本セットでしか売ってないし…

うまいこと梅雨が明けてくれたので、この週末のうちに撮りたい。
ずいぶん体力が落ちてるやろなぁ…

いろいろ問題含みの現状。
なんとか整理して、早くもとのペースに戻したいものです。

レンズフードが届く

 

例年よりひと月ほど遅いのだけれど、日没の時刻は3分しか変わらないということがわかり、今年も”夏の夜”の撮影をする。

少なくとも、去年の反省を活かしたいので、今年はレンズフードを調達。昨年のネガには、相当変な方向からの光が入っていた、と思われる。

あとは、ストップウォッチと、遮光板の用意。今週末にはテスト撮影をし、来週本番。
久しぶりにブローニーのフィルムも買わなければならない。撮影までにもう少し体力をつけておかないと。
スケジュールが具体的になると、俄然やる気になる。

運動方向

 

2008年春のフィルムを再スキャンするところからはじめようと思う。

計113コマ。

ディテール、時間性という要素で認識していたけれど、ここで、被写体の運動方向という要素が浮上する。

よし、買い出しから戻ったら作業をはじめよう。

数ヶ月のロス

 

2010年の上半期も終わりに近づいている。
今年は数ヶ月単位でロスが発生している。

今年の夏は撮影できるだろうか。

それより前に、考えなければならないことがある。
まったく同じような手法で撮っていても、2008年に撮った春の作品と、
2008年、2009年の夏の夕刻に撮った作品の本質は違う。

それぞれ、どういう大きさでどういう見せ方をするのがいいのか、とかいうことを、もう一度考え直している。考えても答えが出なければ手を動かしてみよう。

カップルは等間隔か? その2

 

58カット。歌舞練場前。(の切り抜き)

カップルは等間隔か?

1ケ所広く間が空いてるのは、きっと1組立ち去ったに違いない。

カップルを狙って撮っているわけではないんだけど、映っていると気になるなぁ…。夏の風物詩、現代版の風俗絵巻みたいなところやよね。

カップルは等間隔か?

 

3コマ並べて、前後のコマと比べながら色の補正を進めている。こう横に並べると、ひとつ気になることがある。

鴨川のカップルは等間隔に並ぶ、というのは、本当だろうか?

カップルは等間隔か?

狭めだけどきっちり等間隔の場所と、ちょっと広めで等間隔を保っている場所とがある。全体的に等間隔なんじゃなくて、局所的に等間隔が保たれている様子。妙に律儀な感じがなんだか可笑しい。

長時間露光なので、動く被写体は輪郭がはっきり映っていないけれど、いろんなこと(顔だとか、何をしているのだとか)が判定できないくらいほうが、かえってありがたいのかもしれない。

暗い時間のコマは色補正が難しくて、なかなか作業がはかどりません。つい脱線してしまう。

不審な青い光が横に5つ

 

50コマ目。
唐突に不審な青い光が横に5つ等間隔にならんでいるのを見つける。

まさか…

昔、五条のカフェでマユミちゃんとお茶をしていたとき、わざわざ奥の席から、窓辺に席を移してもらったのに、マユミちゃん、コーヒーカップを持ちながら、悠然と、「川、死体がようさん見えるわ」と言うてたことを思い出す。(わたしには何も見えませんでした。)

夏に鴨川で写真撮って何も写り込まへんわけがないわな…
とは思っていたけれど、ついに来たか。

露光中にライトをつけた自転車が前を通ったり、なかなか撮影条件が悪かったので、そういうのが原因かな、とも思ったけれど、それだと規則的に5つ等間隔に並んだりはしない。

まずは、ネガのチェック。現像ムラではない。

ライトボックスでじぃっと見る。
スキャンしたデータも見る。

ん?

正面の建物の照明が5つ等間隔で並んどる。
不審な5つの点と、中心に対して対角くらいの位置にあるし、なんだゴーストか。

良かった。
いや、良くはないけれど、原因がわかって良かった。

それでも、相手は夏の鴨川。
一旦、気持ちがオカルトモードに入ると、編集するのが少し怖い。

魚拓

 

新年は二日からこもって作業。

1点1点、水平垂直を調整してると、被写体に対して正面からきっちり撮れているか否かということが重要になるので、魚拓のようなものを扱っている印象を受ける。

shootしたもの、というよりstampしたもの、という感じ。

夜景はやっぱり難しくて、昼間撮ったものより、よっぽどフレている。撮影時は、どんどん露出がかわるし、夜で露光時間が長い分、撮影時間も長くなるから、焦りもあるんだろうけれど、思っていたより精度が悪い。春までに、改善案を考えよう。

地獄草子絵巻

 

2009年初夏撮影のフィルムをスキャニング中。

高解像度のスキャニングでは、ずいぶん待ち時間があるのだけれど、あまりPCに負担をかける作業はできないので、しぜん、ネットで調べものをしたり、読書をしたり、ということになる。

画面がスクロールするという点で、絵巻物の表現がとても気になっていて、ネットで「絵巻物」で検索をかけると、こんなページが見つかった。

絵巻物データベース

早速、地獄草子絵巻をクリックする。

なんとまぁ…

春画と見まごうような赤裸々な性表現。
たまに性的な表現が出てくる、とかではなくて、全体的にそういうことになっとる…。

こういった美術作品をwebで詳細に閲覧できるというのも贅沢なことやと思うし、この横スクロールで表示のできるシステムが、良いなぁ。

昔、作品を見せるためにFLASHで横スクロールさせようと試みたけれど、読み込む画像の幅に制約があって、全体をスクロールさせることができなかった。

RIVERSIDEについては、はじめからつなげようと思って撮ったのではなくて、川向こうの光景をぽつりぽつり撮っているうちに、この被写体群を前にフレーミングする意味を見いだせなかったから、つなげることにした、といういきさつで、はじまったものだから、四角い枠で区切ってフレーミングした状態で作品を見せることに戸惑いがある。

お、やっとスキャニングが終った。

スキャンした画像を拡大して、現場で肉眼では確認できなかったディテールや、予期せぬものが写っているのを見るのが楽しい。顕微鏡で風景を見るような感じです。

夜景やから、ひとが動いたところとかは、ふわっと光の帯みたいになっているけれど、動かないものは、やっぱりくっきり輪郭が写っている。中判の解像力ってすごいなぁ。

夜景は難しいわ。

 

昨年撮ったのをいったん編集して、まわりの人に見せたら、「もっと夜景を見たい」と言われ、夏至のころ、再撮影。

撮影開始時間を1時間ほど遅らせる。

暗くなると露光時間が長くなるから、いろいろ問題が出てくる。
ライトをつけて容赦なくカメラの前を通り過ぎる自転車、とか。
いちゃつくカップルが増える、とか。

ほぼ50m間隔で三脚を立てて撮っているのだけれど、いいポジションには必ずはげしくいちゃつくカップルが居座っている。

一度撮ったものの仕上がりを見ながら、いろいろ検討中。
夜景は難しいわ。

工作中

 

ずいぶん長い間、書きそびれているな、と思っていたら、2ヶ月もあいてたのか…。

作業内容をノートにメモするようにしたら、それでことたりてしまっていた。

つないだ写真のラフを出力して、何の気なしに、蛇腹折りにして、手のひらサイズにしてみたら、これが意外とよい感じだったので、工作にのめりこむ。

PCで作業するより、実際モノを触っているほうが楽しいな。

晴れの日は撮影に出るほうが気分いいし、PCでの作業は、実際のところ、工程のなかでいちばんストレスフルなのだろう(いちばん重要だけど)。

そうはいっても、製本の目処がたったら、PC作業に戻らないといけない。

明日は、友人と一緒に杉本博司の展覧会を見て、場所を四ツ橋に移して、別の友人の展示を見て、東急ハンズに製本の道具を探しに行って、帰りに紙も選んでくる。

あと、できれば道頓堀の《とんぼりリバーウォーク》も見てみる。

土、日、と雨が続いたら、月曜の朝の光は綺麗だろうな。あまり欲張らずに早めに帰宅しよう。

G8

 

週末に撮影を予定していたものの、雨マーク。

ちょうど昼過ぎくらいからうす曇りで、今日なら逆光を気にせず撮影できるな、と思って、5時すぎスタートで撮影をはじめる。

想像よりも時間がかかるな、と思いながら撮り進めると、四条のあたりから、赤いコーンで通行規制がされており、?と思いながら、撮り進める。

結局、御池→二条間が完全に侵入禁止にされていて、二条まで行くつもりが御池までしか撮れないことに。

そのうえラストのカットには、赤いランプのついた、警察車両がバッチリ。

警備にあたっている警察官に、
「ごめんなさい、せっかくの景色がだいなしですよね。明日までですから。」と言われたけれど…

まぁ、うつくしい絵が欲しいわけじゃないし、それはそれで今日この日のドキュメントとしてはけっこうなことなんだけれど、最後のカットの警察車両が意味ありげに見えてしまうかもしれない。

自宅に帰ってから調べてわかったのだけれど、京都でG8が開催されていたのね。

ラフ

 

デジカメで露出をかえずに撮ったのものでラフをつくってみる。

ラフ

途中で電池切れになったので40カット分のみだけれど、思ったより急激に暗くなる。

これでも、最後のほうのコマが暗すぎるので、トーンを上げているくらい。

逆光だし、実際の撮影では、これよりずっと遅いペースでしか撮れないから、かなり難しい。

ついつい、スクロールバーを右へ左へと動かしてしまって思ったのは、水平方向の移動で時間軸が展開するものの原体験って、小学校の頃に夢中で遊んだ、スーパーマリオブラザーズやん。

おっちゃんに惚れるなよ

 

しかし、よくひとに声をかけられる。それも撮影中に。

今日もデータをとるために、川を南下していたら、橋の下のホームレスのおっちゃんに声をかけられた。

「自分、写真とってるんか?」
「はい」
「ほんじゃ、おっちゃんを撮らしたるわ。ホームレスやで。」
「え…」
「ほら、こんなポーズどうや?」

路上でひとは撮らないんだけど、わざわざ申し出ていただいたのを断る理由もなく、かんたんに二枚撮らせてもらった。

礼を言ったら。「おっちゃんに惚れるなよ」と返される。
うーん、それはたぶん大丈夫。

さて、データをとってみると、30秒、1分で時々刻々露出が変わる。
速いときは1分で1段くらい下がる。
撮影は思っているよりもずっと難しいかもしれない。

最近、この近辺にはえらくたくさん警官が出ていて、露出計とデジカメを持ってメモをとりながら歩いていたし、多少不審に思われたかも。

ラフ

 

丸3日かけてラフをつくる。

建物が写っていないと、水平垂直の基準がとりにくくて、作業に時間がかかるということがわかる。

ラフでは、標高差があったり、被写体との距離にゆらぎがあって、トリミングが難しいことがわかる。

何かを選ぶと、ほかの何かを犠牲にしないといけない。

トリミングと大きさ

 

トリミングの幅と、大きさを検討していた。

冊子を手に持ったときの距離で、細部がどう見えてくるか、ということと、画面の大きさによる距離感。
見る人がぐっと画面に近づいて見たくなる、塩梅、というのは、とても難しい。
今のところ、インクジェットプリントで、ツインループ製本のラフな仕上げで十分。

パラパラっと気楽に見られるほうが良いやん。
ラフな感じ、がいい。

ああでもない、こうでもない、

 

3mmや5mmの差でずいぶん印象がかわる。

それは、距離感にも関係するから、何度も試作をつくっては、ああでもない、こうでもない、をする。

白フチがないほうが、近しい感じがして好ましいことが分かる。距離感と、あと、親近感の問題もあると思った。

寄って見たくなるかどうかは、写真の内容とか精度だけではなくて、心理的なものも絡んでいる、と思う。手に持ったときの重さ、とかも含めて。

自分が手に持ってどう感じるかを、何度も確認。
フォーマットはほぼ決定。
けっこうコンパクトな大きさ。

光沢があるよりマットなほうが色の落ち着きが良い。
あと、マットなほうが、めくるときに、手で画面を触ってしまうことに対する心理的な抵抗が、少なくて済む、気がした。

発色の良い紙に出会えるかな。

スキャン終了

 

およそ二日と半日。130コマ弱のスキャニングを終える。

端を切り落とすのがもったいないくらい、たくさん「ひと」が写っている。

画面に写るひとびとが、それぞれがそれぞれに、それぞれの時間を生きていて、それらが「ひとつ」に集約されずに、まんまばらばらな感じ、が好きなん。

現場では時間との勝負だから、ミスのないようにと淡々と撮影を進めているのだけれど、たまに‘瞬間’を感じさせるコマに出会うのが面白い。

たぶん、これから後の手を動かす作業のなかで写真と向き合いながら、自分自身がいちばん多くを学ぶのだと思う。

stillとmovie

 

2週間強の期限をきった作業に入る。scaningはルーティンワークだから、意識が手先と別のところを彷徨う。

先日、液晶絵画という展覧会を見たことも手伝って、《時間軸》ということをぼんやり考えていた。stillとmovieの境界線上にあって、その両者の差異を意識させる作品がおもしろかった。

scan

 

scanの作業をしていて、走査、ということを考える。カメラを水平方向にスライドさせるRIVERSIDEの撮影は、走査なんだと思う。

なんとなく、まとまったひとつの大きなものを構成するというスタンスではない、というところが、立ち止まっているところでもあって、あぁ、わたしは風景をscanしているんだな、と思った。

結局そういうこと。

 

パノラマ写真、を辞書で調べた。
「広大な光景を一目で見られるようにした写真。」とあった。

わたしの作品は、パノラマ、ではない。
一目で見られるなんてこととは正反対だから。

それぞれがそれぞれ、それぞれの時間のなかに在って、無関係で、それらを撮影者を中心に据えて簡単に組織化なんてできないこと、とか、都合良くひとつにまとめあげたりなんかできないこと、とか、否定形でしか書くことのできない、そういうことをたいせつに思っている。

できること、よりも、できないこと、不可能性のほうに、ずっときもちが引きずられている。

題材が何であっても、撮り方がどうであっても、根本的にひっかかっているのは、そういうことなんだと思う。

ここのところ、いやというほど撮り歩いて、歩いて、歩きながら考えたのは結局そういうこと。

08S

 

昨日、RIVERSIDEの続編を撮る。

ちょうど、まえに撮った川の上流に川幅が一定で撮れそうな範囲があったのだけれど、景観自体の印象が薄く、保留にしてありました。桜がうわっているようだということはわかっていたので、ロケハンをし、けっこう長いスパンにわたって桜が植わっていることがわかったので、撮影候補に上がってきました。

4月に入ってから、桜の開花とともにテスト撮影をしてみると、点景として写るひとの往来がおもしろく、今回は景観よりもひとやひとの営みを中心に構成しようと考えています。

前作を顧みて、つなぐことによって生まれる時間的な要素と、景観的特徴と、ひとの営みという風俗的要素が、作品を支える柱になっているんじゃないかな、と思っています。今作からは、それぞれの要素を意識的にとらえていこうと思っていて、今回は、風俗的要素に重心を置いて撮ってみました。

もう少し日が長くなると、日が暮れて、街をくるむ色がどんどんかわっていく様子を撮ってみたいな、と思っています。

体力に少し不安があったので、4年ぶりの本番撮影を終えて少しほっとしている、というのが本音。

芸術展示の現象学

 

つい先日、手もとに届きました。初版発行が12月20日になっているので、もうすぐ店頭に並ぶのでしょうか。

恩師のお声かけで、ほんの少し執筆しています。どこかで見かけたら、チラとのぞいてみてくださいな。表紙は松村康平さんのデザインです。『芸術展示の現象学』(太田喬夫・三木順子編 晃洋書房)

備忘録

 

きちんと暗くなった時点で、ISO800 / 絞り22 / 1/2s〜(場所によっては8s)

絞り、どこまで譲れるか、段階的に絞りをかえてテスト。できれば、明朝。スケジュールがきつい。

気持ちは太陽によりそう。

 

テスト撮影をはじめる。

夕暮れどき、どのくらいのペースで露出がかわるのか、
17時前からスタンバイ。定点観測をはじめる。

いわゆる夕暮れの印象を受け始めるのは17時40分ころ。
18時45分から加速度的に光量が減る。
19時40分でもまだ日没方向の空は明るい。

今日の京都の日の入り時刻が19:02だから、日の入り時刻がイコール空が完全に暗くなる時刻じゃないんだ…ということに気づく。

空の明るさが劇的にうつりかわるのは、17時すぎから20時前の3時間弱くらい。で、思ったよりも長いというのが今日の収穫。

やってみないとわからないことが多い。

5分間隔、時計を気にしながらも太陽が水平線に対して没する侵入角度が浅いほうが、同じ時間間隔で撮影してもこまかく光の変化を追えるのかな…などと想像する。目の前の光景を撮りながらも、気持ちは太陽によりそう。

晴天の逆光で撮るのは無理があるので、薄曇りの日にもテストしてみよう。
逆光であることが気にならないくらい光が拡散されるといいのだけれど。

18時40分ころ、南東から東の空が見せる少し濃いめのグラデーションが好い。

hugin

 

hugin

Mac OSXでもLinuxでもWinでも動くhuginというパノラマ作成ソフト、どのくらいの精度で「つなぐ」のか気になって試しはじめた頃に、原稿と高熱にまみれてしまった。

無事脱稿したし、今日はゆっくり取り組もう。最初は作業中に何度もおちてやる気も失せていたけれど、少しずつあんばいがわかってきた。

書き出し方は、心射方位/心射円筒/正距円筒と選べる。
心射方位で書き出すと、ひどく歪む。
下の図は、5枚の写真の合成で心射円筒法で書き出し。
(クリックすると大きい画像が表示されます。)

まだ設定方法がわかっていないけれど、露出補正までしてくれるみたい。
賢い。。。