最近読んだ2冊の本に、立て続けに家族についての記載を見つけたので、少し気になった。とりあえず、抜き書きをしておこう。考えるのはあとにして。
たとえば核家族が住まうための家を建てることに、二〇世紀の人々は懸命になった。二〇世紀の経済を下支えしたのは、「持ち家」への願望である。従来の地縁、血縁が崩壊し、近代家族という孤立した単位が、大きな海を漂流しはじめたのが二〇世紀であった。近代家族という不確かで不安定な存在に対して、何らかの確固たる形を与えるために、彼らは住宅ローンで多額の借り入れをしてまで、家を建て、家族を「固定」しようとした。あるいはコンクリート製のマンションというかたい器のなかに収容することによって、存在の不安定を「固定」しようとした。地縁、血縁が崩壊したことで不安定になってしまった自分を、コンクリートというがちがちのもので再びかためたいと願ったのである。
(『自然な建築』 隈研吾 岩波新書 2008 p9より抜粋)
このことを建築家の山本理顕さんは、もう少し厳しい口調で次のように書いている。「〈家族という—引用者注〉この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり、社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできている」、と。
その最小単位じたいが、いま密度を下げている。独特の密度を可能にする閉じた関係を内蔵しにくくなっている。塗り固められた燕の巣のように、内部を密閉する鉄の扉によって、かろうじてイメージとして維持されているだけの内部を外部からがちっと遮断しているだけだとしか言いえないような家族も増えている。この防波堤が外されれば、イメージとしてかろうじて維持されている家族の形態もすぐにでもばらけてしまいそうだ。
(『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』 鷲田清一 筑摩新書 2010 p148より抜粋)
ちょうど、児童虐待のニュースが取りざたされていたから、余計に気になったのかもしれない。
子育て中の友人を訪ねて行ったとき、「わたしなんて、まだ仕事をしているから良いけれど、そうでなかったら24時間ずっと赤ちゃんと二人っきりなんだよ。大変なんだよ。会いに来てくれて嬉しかった。」としみじみと言われたことを思い出す。
そのとき、子育て中のお母さんは、想像以上に孤独なのだと思った。
そして、ひとつの命の責任を24時間引き受けることの重圧。
自分の親も決して100点満点の親ではなかったけれど、その親を相対化できる程度には、さまざまな大人に『からまれていた』と思う。
ズケズケ物を言う友だちのおかん、親よりも厳しいピアノの先生、いつも美味しい料理で迎えてくれる祖母、周囲の大人との関係が、案外、親子関係の弾力となっていたのかもしれない。家族関係を小さく小さく密閉することで、そういう弾力性が削がれていっているのかもしれない、という気がした。