LISA SOMEDA

植物 (11)

いつもベストタイミングだった

 

風が心地よく感じられるようになり、窓を開けて過ごすことが多くなった。向かいの中学から歌声が聴こえてくる。合唱の季節。

ふと目を落とすと、校門そばの桜が盛大に葉を散らしている。
あっ…。そうか、桜の木は夏の終わりから葉を散らしはじめるんだ。

2019年から毎年、木々の葉が色づく頃に鴨川/賀茂川を撮っているが、慎重にタイミングを見計らっても桜の木はいつも葉がスカスカ。毎回「ベストタイミングを逃した」と思っていた。

ちがう。桜は紅葉してから散るのではなく、散りゆくなかで紅葉する。
秋が一段深まる時期にまだ枝に残っている葉が紅葉するのだ。

葉がすべて残った状態で紅葉している桜などまったくの幻で、そうとは知らずに完璧な姿の桜を求め、まだ撮れないまだ撮れないと、ずっと幻を追っていた。

いつもベストタイミングだったし、すでにベストショットを撮っていたのだ。

息のあわないダンス

 

なにか考えや問いをもって撮影に向かうたび、おもしろいくらい裏切られたここ数日。写真は常に現実とのせめぎ合いだということを忘れないために、X(旧twitter)の投稿に少し手を加えてこちらに移しておこうと思う。写真はできるだけ同じ画角になるようトリミングしたうえ、後から加えた。

まるで息のあわないダンスのようだ。

2023-12-03

きょうは愛宕山に登るつもりが、電車の遅延と不安定な天候によりショートカット。体力と気もちを持て余し、保津峡駅のプラットフォームで撮り鉄の皆さんの横に並んでみた。ほかの方は保津峡を走り抜けるトロッコ列車を撮っている様子だったが、わたしはそばの枯れ木に覆われた山が目当て。晩秋の山は枯れ木も含め個体によって色がバラつくので、それぞれの木が個として見えてくることがある。

2023-12-02

以前、川で撮影をしていたときに、あまりに人出が多く、個として見えていたのが群に見えた途端におもしろみを失うということに気がついた。それからは人出が多すぎるタイミングを外して撮るよう気をつけている。

個と群で関心のありようが変わるのはなぜか? 個として見えていたものが群にしか見えなくなるその臨界点はどこにあるのか?「個と群」にまつわるそれらの問いはずっと意識の底に横たわっていたが、ここ数日の撮影であらためて意識化されてきた感触がある。

「個と群」

2023-12-05

「個と群」について考えてみたいと思って撮影に出かけ、戻って写真を確認したら、高解像度ならではの質感が立ち上がっていて、そちらの方がおもしろい。

2023-12-04

意図をもって撮影に臨んでも写真がその意図を裏切る。撮った写真によって意図がどんどん横滑りする。意図したとおりに撮れるより俄然楽しい。ワクワクする。

意図に写真を従わせようとするより、撮れてしまった写真と対話するような感じで進めるほうが自分にはあっている気がする。写真が教えてくれることがあるから、ぜんぶ自力でなんとかしようと思わなくてもいい。

2023-12-05

実体験を通じ、山上付近で巻かれるガスこそが雲とわかっていながら、空を見上げたときに雲になんらかの質感を見出すのはなぜだろうということを考えている。

経験が伴わないのに、鱗雲にはモロモロとした感触を、入道雲にはある種の張りを感じるのはなぜなのか。

2023-12-06

いま見ようとしているものはもしかしたら直射の順光ではないほうが良いかも…と思ったときに、ベッヒャーのような曇天がいいだとか、晴天の順光がいいだとか、他人がもっともらしく言う「いい」を真に受けていたなと気づく。晴天の順光、陰、霞、曇天、雨上がり、湿度の高い低い…どういった環境のどういう光がフィットするか?

マウスひとつでいかようにも色を調整できてしまう時代だからこそなおさら、現場に立って現物を見て、自分の感覚を総動員して確かめたいと思う。

さあ実験だ😊

2023-12-06

枯れ木を遠くから高解像度で撮ると、ふわふわっとした質感が立ち上がる。正確には知覚のバグだと思うのだけれど、被写体が本来備えているものとは違う質感を画像に見てしまう。以前にも似たような経験をしていて、降雪を撮ったらまるでその雪が写真の表面についた霜のように見えたことがある。これも知覚のバグだと思う。そのあたりを少し深堀りしたくなって、きょうも嵐山に向かった。

雨上がり。空気にふくまれる水蒸気が逆光を拡散し、視界が霞む。いつもより目を凝らしてピントを合わせる。質感というよりむしろ不可視性を考える機会となった。過剰な光もまた可視性を損なう。
2023-12-06

土に還る

 

昨年の秋の終わりに、念願だった森田真生さん(独立研究者)の講演を聞く機会を得た。てっきり数学をベースにした話になるとばかり思っていたら、PlayとGameの対比を軸に人類の起源から気候変動に絡む地政学まで、時代と分野を縦横無尽に行き交うとても刺激的な90分だった(頭をぐわんぐわん掻き回されたというのが正しい)。

その講演のあともずっと響いているのが、
「僕には庭師の友人がいて、彼はものを選ぶときにそのものが土に還るかどうかで、いいか悪いかを判断する。」という語りで始まり、
「その視点から見ると、遺跡は土に還らなかったものとも言える。土に還ることを善きこととし土に還った多数の人々ではなく、土に還らないものを残してしまったごく一部の特殊な人々のことばだけを紡いで歴史を記述するのはどうなのだろう?」という問いだった。

この問いはふたつの意味で心に残っている。
わたしは長く歴史に興味が持てずにいたが、網野善彦さんの著書に触れてはじめて、自分は支配者を軸とする歴史に興味が持てないだけで、民衆がどう生きたかという視点で描かれる歴史には強い関心があるとことに気がついた。その経験に通じるものを感じたというのがひとつ。

もうひとつは、作り手として自分の姿勢も問われているように感じたこと。〝土に還る〟というものさしと、どう向き合っていくか。

冬に向けて整理した朝顔の蔓、ユーカリ、南天の小枝などを使って手遊びのリースを仕立てながら、ベランダの植物だけでつくるリースはこの場所でともに過ごした時間の蓄積、ごくごくプライベートな歴史であり、そして気が済んだら土に還すこともできる。土に還るってなんだか安心感があるの、ふしぎだなぁ。ちょうどそんなことを考えていたところだった。

写真に携わっていると当然、劣化させずにどれだけ長期保存できるか?を考えてしまうし、作家としてはついどうやって後世に残すか?を考えてしまう。でも、経時変化を受け入れ、さいごは跡形なく土に還るという作品のあり方を選んでもいいはずなんだよなぁ…

朝顔考

 

祖父が遺した朝顔の種を播いたのは一昨年のこと。
その花が種を落としていたのか、今年は播いたつもりのない鉢から二株の朝顔が芽を出した。

せっかくだからと鉢をわけて育ててみたら、片方は葉っぱも花も強く縮れた畸形だった。
しばらくのあいだ、畸形の株をかばうような心もちで水をやっていたのだけれど、ある朝、堂々と花を咲かせているのを見て、これがこの花の個性なんだと気がついた。

その発見はなんとも嬉しく、清々しさと開放感に溢れていた。ほんの少し自分の心がふくよかになった気もした。

つまりは、息苦しかったのだ。
正常や標準といった狭い範囲をくくり、そこから外れたものを排除したり、標準に近づけようとする社会の圧は日増しに強くなっている。その圧が恒常的であるがゆえに、気づきづらく、さらには、知らずしらず内面化してしまっていたのだろう。ずいぶん、無頓着になっていたものだ。

朝顔の花から学んだものは、大きい。


一昨年は、朝顔のつるを巻いて他者に寄りかかるありさまに、嫌悪感を隠せなかった。
できることなら、向日葵のように己の力ですっくと立っていたい、と思ったものだ。

でも今夏の台風で、強い風にあおられるなか、朝顔だけがまったく動じない様を見て、
他者の支えを前提として生きるしなやかな強さを朝顔に見出した。

平時だけを考えれば、向日葵の生き方でもいいのかもしれない。
けれど、有事を想定すれば、朝顔の生き方にも一理ある。

朝顔ひとつとっても、見える景色が変わることもあるのだと知った。

祖父の朝顔

 

20年近く前に亡くした祖父の朝顔の種。
なんとなく持ち続けていたのを、今年は、なぜかふと植えてみる気になった。

植物の種とはすごいもので、そんな昔のもの(採取されたのはもっと前かもしれない)でもしっかり蔓を伸ばし、青々と葉を茂らせている。

みるみるうちに蔓を伸ばす朝顔を朝に夕に眺めながら、紫陽花には紫陽花の、向日葵には向日葵の、朝顔には朝顔の生存戦略がある、ということを考える。

あまりに殺風景なので

 

観葉植物

あまりに殺風景なので、観葉植物を導入してみた。
ちょっとグリーンがあるだけで和むわね。
調子にのってふやしすぎないようにしないと、
引越しのたびに鉢を引き取ってもらってるおかんから苦情が来そう…

(本当はうっそうと緑が生い茂るジャングルみたいな部屋にしたいけど…)

ゼラニウムの苗をもらった。

 

尾の長い流星を見た。
ゼラニウムの苗をもらった。

のに、

うつりかわる季節に、かんたんに気分を弄ばれて、
ほんの少し、弱っているのかもしれない。

あるいは、ひとあたり、したのか。

じいちゃん、おかえりなさい。

 

今朝起きると、朝顔の花が開いていた。

15年前に亡くなった祖父がおとりおきしていた朝顔の種を、
咲くかどうかもわからず蒔いたもの。

芽が出たあとも、
陽当たりの悪いこのベランダではまさか咲くまいと思いながら育てていたから、
感慨もひとしお。

淡い藤色の花は、祖父らしい上品な色あい。
お盆だし、じいちゃん、帰ってきたんだね。

開くところを見たいから、明日はもう少しはやく起きよう。

いのちがくるくるめぐる。

 

おじいちゃんのおとりおきしていたアサガオの種を植えてみた。

陽当たりの悪いベランダだし、期待はしていなかったけれど、
今朝見ると、心配になるくらい色白の芽が出ていた。

半年ほどのあいだ、こぶりなクローバーが一輪、葉を広げていた。
ふゆの寒さも陽当たりの悪さも乗りこえて、たった一輪、生き続けるその頑な姿に、
ほんとうは、毎朝、励まされていた。

さすがに、葉に穴があいてきて、もうそろそろ引退かな、と思った矢先、
バトンタッチ、新しいクローバーが芽を出した。

小さい鉢のなか、いのちがくるくるめぐる。

とびきりのひとり相撲。

 

なんでもなかったはずのことが、ある瞬間に突然、質量を持つ。

肩に感じるカメラの重み。月に寄り添う赤い星。
でも、決定的だったのは、突然の雨。

ささやかなことがたくさん、ふわりふわりかさなったら、
思いのほか、だった。

とびきりのひとり相撲。

グリーンアイスが、ひとつ、つぼみをほろこばせた。

子だくさん。

 

帰宅すると、はなれの玄関先にちょこんと鉢が置かれている。
棕櫚竹だったり、サボテンだったり。

いちど鉢植えの話でもりあがって以来、
母屋の奥さんが、いろいろ鉢を分けてくださるようになった。
「置いてある」というのが、なかなか好い。

こっそり家の前まで来て誕生日のプレゼントを置いて帰るともだちがいたけれど、
それに近い。

いただいた鉢のおかげで、ベランダがずいぶんにぎやかに。
花のおかあさんは最近、子だくさん。

お返しというほどでもないけれど、
小鉢で咲いた白いミニ薔薇を一輪、母屋から見えるところに飾っておく。

鷲田清一さんの「他人の視線をデコレートする」ということばを思い出した。