LISA SOMEDA

(30)

息のあわないダンス

 

なにか考えや問いをもって撮影に向かうたび、おもしろいくらい裏切られたここ数日。写真は常に現実とのせめぎ合いだということを忘れないために、X(旧twitter)の投稿に少し手を加えてこちらに移しておこうと思う。写真はできるだけ同じ画角になるようトリミングしたうえ、後から加えた。

まるで息のあわないダンスのようだ。

2023-12-03

きょうは愛宕山に登るつもりが、電車の遅延と不安定な天候によりショートカット。体力と気もちを持て余し、保津峡駅のプラットフォームで撮り鉄の皆さんの横に並んでみた。ほかの方は保津峡を走り抜けるトロッコ列車を撮っている様子だったが、わたしはそばの枯れ木に覆われた山が目当て。晩秋の山は枯れ木も含め個体によって色がバラつくので、それぞれの木が個として見えてくることがある。

2023-12-02

以前、川で撮影をしていたときに、あまりに人出が多く、個として見えていたのが群に見えた途端におもしろみを失うということに気がついた。それからは人出が多すぎるタイミングを外して撮るよう気をつけている。

個と群で関心のありようが変わるのはなぜか? 個として見えていたものが群にしか見えなくなるその臨界点はどこにあるのか?「個と群」にまつわるそれらの問いはずっと意識の底に横たわっていたが、ここ数日の撮影であらためて意識化されてきた感触がある。

「個と群」

2023-12-05

「個と群」について考えてみたいと思って撮影に出かけ、戻って写真を確認したら、高解像度ならではの質感が立ち上がっていて、そちらの方がおもしろい。

2023-12-04

意図をもって撮影に臨んでも写真がその意図を裏切る。撮った写真によって意図がどんどん横滑りする。意図したとおりに撮れるより俄然楽しい。ワクワクする。

意図に写真を従わせようとするより、撮れてしまった写真と対話するような感じで進めるほうが自分にはあっている気がする。写真が教えてくれることがあるから、ぜんぶ自力でなんとかしようと思わなくてもいい。

2023-12-05

実体験を通じ、山上付近で巻かれるガスこそが雲とわかっていながら、空を見上げたときに雲になんらかの質感を見出すのはなぜだろうということを考えている。

経験が伴わないのに、鱗雲にはモロモロとした感触を、入道雲にはある種の張りを感じるのはなぜなのか。

2023-12-06

いま見ようとしているものはもしかしたら直射の順光ではないほうが良いかも…と思ったときに、ベッヒャーのような曇天がいいだとか、晴天の順光がいいだとか、他人がもっともらしく言う「いい」を真に受けていたなと気づく。晴天の順光、陰、霞、曇天、雨上がり、湿度の高い低い…どういった環境のどういう光がフィットするか?

マウスひとつでいかようにも色を調整できてしまう時代だからこそなおさら、現場に立って現物を見て、自分の感覚を総動員して確かめたいと思う。

さあ実験だ😊

2023-12-06

枯れ木を遠くから高解像度で撮ると、ふわふわっとした質感が立ち上がる。正確には知覚のバグだと思うのだけれど、被写体が本来備えているものとは違う質感を画像に見てしまう。以前にも似たような経験をしていて、降雪を撮ったらまるでその雪が写真の表面についた霜のように見えたことがある。これも知覚のバグだと思う。そのあたりを少し深堀りしたくなって、きょうも嵐山に向かった。

雨上がり。空気にふくまれる水蒸気が逆光を拡散し、視界が霞む。いつもより目を凝らしてピントを合わせる。質感というよりむしろ不可視性を考える機会となった。過剰な光もまた可視性を損なう。
2023-12-06

今でもわたしは

 

今年はあいにく体育館での開催となったのだけれど、赦免地踊を観に行った。

はじめて訪れたのは4年前。
市街地から北に向かうにつれ、少しずつ空気がひんやりと、夜がその存在感をましていくように感じられた。そして、山あいの夜の暗さと静けさに圧倒され、蝋燭の灯に揺らぐ切り子燈籠のうつくしさ、女性に扮する少年たちの妖しさに魅了された。

それこそ京都は祭りの宝庫で、雅なものから勇壮なものまで多種多様な祭りがあるのに、なぜこの小さな集落の祭りにひときわ心魅かれるのだろう?と、帰宅後もしばらく考え続けていた。


この数年、訪れた土地の夜の暗さにほっとすることがある。
ここは夜が夜らしい暗さだ、と。


半月ほど前、ある人から「なぜ写真なのですか?」と尋ねられた。

わたし絵が描けないんです/学生時代、自分で問いを立てることが求められたのは写真の課題だけだった。もしその課題が写真ではなく彫刻だったら、わたしは彫刻をしていたかもしれない/暗室だけが安心して泣ける場所だった/なにか素敵なもの、それまで見たことのないようなあたらしいものの見えかた、そういったものに意識を向けながら世界をまなざすこと、太陽の下を歩くという路上スナップの行為そのものが、当時の自分のこころを支えていたように思う

そんなふうに答えたと記憶している。

「もしかして暗室は…」
言いかけた相手のことばを引き取るように、わたしは答えた。
「子宮なのかもしれません。唯一、安心できる場所でした」


山あいの夜の圧倒的な暗さと静けさ。それに抗うのではなく、折り合いをつけるかのようにひっそり執り行われる集落の祭り。自分の輪郭がほどけるような暗さと静けさのなか、揺らめく灯に誘われ、ふだんは届くことのないこころの深い場所に触れられる気がした。

ああそうか。
今でもわたしは暗く静かな場所を求めているのかもしれない。

アルベルティのヴェール

 

アルベルティのヴェールについて、先日読み終えた『フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』に、さらに詳しい記述があったので抜粋しておく。

 遠近法の法則を体系化したアルベルティは、三次元の題材をカンヴァスといった二次元の平面上に描く際に役に立つ、単純な器具を考案した。〈アルベルティの薄布(ヴェール)〉とも呼ばれるその器具は、細番手の糸を荒く織った、透けて見えるほど薄い布地を太番手の糸で縫い目をつくって正方格子状に区切り、それを木枠に張ったものだ。画家はこの格子模様のきわめて薄い生地越し題材を見て、その生地と同じように格子状に区切った紙やカンヴァスにそのまま写し取っていく。遠近法を論じた『絵画論』のなかで、アルベルティはこう述べている。「われわれの仲間の間で、〈截断面〉とよび習わしているあのヴェール以上に有用なものは見出し得ないと私は考えている……このヴェールを眼と対象物の間におくと、視的(視覚の)ピラミッドが薄いヴェールを透っていく」(三輪福松訳、一九七一年、中央公論美術出版)

 アルブレヒト・デューラーは一五二五年に著した『測定法教則』で〈アルベルティのヴェール〉の別バージョンについて述べている。デューラーが記しているのは薄い布ではなくガラスに正方格子の罫線を入れたもので、それをテーブル上に垂直に立て、画家はガラス越しに題材を見て写し取っていくというものだ。(後略)

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 pp.122-123より抜粋)

薄い布地だったというのは興味深い。まさしくスクリーンそのもの。ガラスのように透明なものではなく、半透明の布地を透過する像を写していた。ガラスより薄布のほうが、空間を「平面の像に変換」してから描くというニュアンスは、いっそう強くなる。

 

部屋の少しふかいところに陽が射し込むと、
わたしの肩でチリチリと、ジャカランダの影が踊る。

そう。踊るの。
揺れるのでもなく、揺らぐのでもなく。

コピーのコピーのそのまたコピー

 

透けて見える、あるいは何かを通してものを見ることに関心があり、岡田温司さんの『半透明の美学』(岩波書店 2010)を繙いた。

まず、自分がスナップでよく撮る、窓、影、覆い(ヴェール)といったものが、実に古典的なモチーフであることをあらためて認識し、さらにいくつかの興味深い記述にも巡りあう。そのひとつが、絵画の起源について。

戦地に赴く恋人の影をなぞったのが絵画の起源(プリニウス)
痕跡
生前イエスがハンカチに顔を当てると、そこに染みのような痕跡として残ったとされ、それがイコンの起源として語り継がれてきた(キリスト教)
鏡像
水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話の美少年ナルキッソスが絵画の発明者とみなされる(アルベルティ)

これら三つの神話が紹介されたあと、以下のように続く。

 影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省ー反射(リフレクション)ということになるだろう。

 さて、これらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、対象を直に模写したり模倣したりした結果によるものではなくて、媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。投影にせよ接触にせよ反省ー反射にせよ、それらの作用によってあらかじめ二重化されたものが、対象と絵のあいだの媒介項として想定されているのである。パースの記号論を援用するなら、絵画はもともと、類似にもとづくイコン記号としてでも、約束にもとづくシンボル記号としてでもなく、因果関係にもとづくインデックス記号として誕生した、ということになるだろう。周知のように、プラトンは、この世の事物をイデア界のコピーにすぎないととらえ、そのまたコピーが絵画にほかならない、したがって絵画はイデアからかけ離れることはなはだしいと難じていたのだが、それどころか、これらの神話をプラトン流に読み替えると、コピーのコピーのそのまたコピーということになるだろう。

(『半透明の美学』岩波書店 岡田温司著 2010 p18より抜粋)

今さらながら、対象を直接描いたんじゃなかったんだ!ということに驚く。
とりわけ、ひとつめの影については、なんでわざわざ影?直接描いたものではだめなの?と思ったけれど、よくよく考えてみると、戦地に赴く恋人を見送る立場であれば、「恋人由来の何か」「より直接的に恋人の存在を感じられるもの」を所有することが重要なのだろう。絵画は恋人がその場にいなくても想像で描くことができるが、影は恋人がその場にいなければなぞることができない。存在から得られるもの(存在がなければ得られないもの)。だから影でなければならなかったのだ。

写真の文脈で何度も出てくる、インデックスという言葉。その意味をわかったつもりでいたけれど、ここにきてようやく腑に落ちた。

ちょうど今の時期、太陽が低く影が長く伸びる季節は、ときに一瞥しただけでは何の影かがわからなかったり、ものより影のほうが存在感を示すことがある。そういったものと影の乖離や反転、両者が識別不能なまでに混じりあう様にわたしはどうしようもなく惹かれているが、イメージの起源にまで遡れば、大切な存在をより直接的に感じるための影うつしであった、と。

魔術のような世界だった

 

部屋の整理をしていると、古い印画紙の箱と一緒に、大学時代、暗室で焼いたモノクロの写真が出てきた。

いま見ると拙いものばかりだけれど、せっかくなので何枚か残そうと選びながら、印画紙の質感っていいなぁ、と感じ入る。たぶん、当時のわたしはそんなふうには思っていなかった。

グラフィックデザインを志して進学したにもかかわらず、ずぶずぶと写真にはまり込んでしまった理由のひとつは、暗室作業が好きだったから。

暗室での作業が、ただただ楽しかった。
赤いランプの下、現像液のゆらめきの中で像が浮かび上がる瞬間がものすごく好きだった。もしかしたら、しあがった写真より、像の生まれる魔術的な瞬間を愛していたのかもしれない。

暗室の隣には立派なスタジオもあって、あるとき恩師がその重厚な扉に穴を穿ち、スタジオをまるっとカメラ・オブスキュラに仕立ててしまった。その小さい穴から射し込む光が結ぶ、さかさまの像は、それこそ魔術的だった。

すっかり忘れていたけれど、写真をはじめた頃、わたしにとって写真は、魔術のような世界だった。
作品云々よりずっと手前のところで、その魔術性に魅了されてしまったのだと思う。

フルデジタル化して、ずいぶん遠のいてしまったな。
もう一度、暗室作業、やってみようかな。

ふんわり漂うのは沈丁花の香り

 

ふんわり漂うのは沈丁花の香り。
ついつい惹き寄せられる。

いいにおい。

春のあたたかい陽射しにくるまれるのも心地がいい。

あるときはストライプに、あるときはまだらに落ちる光と影。
くぐるようにそこを通り抜けるのもまた、楽しい。

ふと思う。
シャッターを切るときのトリガーは、必ずしも視覚によるものではない、と。

いま、ここ、にわたしの感覚を総動員しているのに、
写真におさめて「視覚に縮約する」とはどういうことだろうか。

2011.2.28

 

カメラのチェックしてたら、半年前の写真が出てきた。薄明かな。

薄明

色のこと、みっつ、忘れないうちに

 

一、
静岡のあたりを通り過ぎるのが、ちょうど陽の沈むころ。
夏の空にしては、意外なほど優しく淡い色が、徐々に明度を失っていくのが、
はかなく、そしてうつくしかった。

一日を見送ることができて、嬉しい。

夏の海は好い。
それも暑さの勢いがそがれる頃の日暮れが好い。

二、
薄曇りの夕刻、あわてて出かけた道すがら、
名前を知らぬ花の紫の花弁が、アスファルトに散らばっているのを見かける。
咲いている花よりも、むしろアスファルトを背にグレイバックで見るほうが、
その紫は鮮やかで、艶かしく。

三、
電車の窓から見る彩度の低い空に、これまたさらに彩度を失った木々の緑。
その組み合わせに、なぜか、そこはかとなくありがたみを感じた。

暑さを理由に

 

タイトルすら確かめず、ゴロゴロしながら、観るつもりもなく観ていたイタリア映画が、存外良かったのだ。

後で確認したら、ジュゼッペ・トルナトーレの作品だった。
そういうことか。

神戸から瀬戸内にかけての夏の光、そしてあの地域独特のヌケの良さ、開放感を、心底愛しているけれど、でもやっぱりおそろしく暑い。

結局、夏は、本を読むか、映画を観るか…なのね。
久しぶりにロマン座で、マカロニウエスタン観たいなぁ…。

エグルストン日和

 

原美術館のウィリアム・エグルストン展

ほどよい日よりだったので、少し遠出。
原美術館のウィリアム・エグルストン展を見に行く。

まさにエグルストン日和。

展示している作品を見るのは初めて。
思っていた以上に、色の組み合わせが綺麗。

こんなに世の中は色に溢れていて、なのに、見落としている色、見過ごしている色がなんと多いことか。
被写体の捉え方に、ティルマンスを想起する。
わたしたちの世代は、エグルストンよりも先にティルマンスに出会っているのだ。

帰り道は、いつもよりほんの少し、色が、多く見えた。

色のこと

 

少しまえの夕方、ふらりと御所に出かけたら、夕暮れの光の中で、銀杏の木がことさら明るく輝いて見えていた。不思議な光景だったので、もう一度見たいと思って昼間にでかけたら、あの日の夕暮れほどパッとしなくてがっかりする。

あ、そうか…。
黄色いものは、もともと黄色に対応する波長だけを反射し、それ以外の波長を吸収する。緑色のものも同様に、緑の波長に対応する波長だけを反射し、それ以外の波長を吸収する。

夕暮れの光には、赤〜黄色に対応する波長がたっぷり含まれていて、それ以外の波長が少なかったんだ。だから、緑や青いものにとっては、もともと射してくる光に、反射すべき波長がないから、射してくる光のほとんどを吸収して、暗く沈んで見えていたのね。

そういうことを考えながら、しばらく散策。

どうして、わたしたちは、紅葉という現象を美しいと感じるのだろうか。どうして、葉は、散り際にわざわざこんな鮮やかに発色するのだろうか。(生物の生存戦略としてどういう合理的理由があるのだろうか…)とか、そんなことを考える。

ものをつくる立場としては、なにか「いい」と感じるとき、その対象のどういう要素に対して「いい」と感じるのかを考えざるを得ない。

そうして、一枚、落ち葉を持ち帰る。

紅葉

先月末、

 

大切なひとを亡くし、しばらくぼんやりしとったん。

熱いものを触ってギャーっと叫ぶような、そういう生理的な反応が続いていたんだと思う。

そういうこころのありようで過ごしていたから、ましてや、ことばを綴るような状態、ではなく。

ただ、わたしがのんきに彼岸なんてタイトルで文章を書いているときに、そのひとは病と闘い、そして、まさしく彼岸に行ってしまった。

葬儀に向かう夜行バスで、不意に目が覚めたのが朝の5時。
オレンジがかった朝の光で満たされた世界。
空に向かってぬくっと存在を示しているのは、富士やったんやろうか。
見たことのない美しい時間やった。

狂おしいほど、の光に、

 

静かな、それでいて、ある強度をたずさえた光。

狂おしいほど、の光に、
ひきずられるようにして、家を出る。

気が強い

 

いま時分の光を、なんとなくそう感じる。

それでも、午後をすぎてしばらくすると、
驚くほどはやく、その勢いが削がれているのに、
秋の到来を見たり。

ベストシーズンの到来。

極上のやさしさ

 

夕刻の空のいろは、極上のやさしさ。

一日の終わり、
とにかく感謝をしたい気持ちになったのは、
ずいぶん久しぶりかもしれない。

最近夜空を見上げていない。

朝のおくゆかしい光のなか

 

ゆっくりと漕ぎ出すように、
朝のおくゆかしい光のなか、撮影に出かける。

ある頃から、錆びたトタンに無数の色を見るようになった。

それからは、
世界のいろいろなものがすべて、いちいち、具体的。
軽い目眩に陥っているような状態が続く。

スナップをあまり長時間続けられなくなっているのは、
集中力や体力が落ちているのではなくて、
あまりに、それぞれが具体的になりすぎて、
その重みを受け止めきれなくなっているのかもしれない。

時間が足りない

 

バランスの良い光やったんやと思う。
うす曇りのわりに、青に寄ってもいなかった。

光と影のコントラスト邪魔されずに、色がきちんと目に入ってきたから、いつもと違ったチャンネルで反応していた。その前の日と、まったく違うフレーミングでまったく違うものを撮ってる。

フレーミングすること、選択することによって、写真はいとも簡単にものを、被写体をトクベツなものしてしまう。その威力には十分慎重にならんといかん。意図があるならともかく、不用意に被写体に偏りがあるのはよくない、と思っている。

いつも、好んで細い路地に入りこむから、至近距離のスナップばかり撮ってしまうこと。見知らぬひとを撮るのが心理的に負担なこと。撮りたくなるもの、の、パターンが固定化してきていること。これらが、最近スナップのとき気にしていること。

中庸(?)な光のおかげで感じ方の軸がゆさぶられて、良かった。

あと50年生きれたとしても、あと何回、ゆさぶられるような光と出会うかわからない。
ほんとうに、ほんとうに、時間が足りない。

横殴りの光

 

最近、スナップを撮っていて、縦に構えることが多くなった。
縦にものを見ているというよりも、被写体によっては、35mmのフォーマット、横の長さを冗長に感じてしまう。

だからと言って、正方形は特殊すぎる。

縦位置/横位置、順光/逆光、比較のために撮ってみる。
順光と逆光の印象の違い、とか。
縦で撮る理由、横で撮る理由。
感覚だけではなくて、比較するなかで見えてくるものがあるのではないか。

そうはいっても、横殴りの光。軽い目眩の連続。
理性を手放さぬようぎゅっと。

秋の日は釣瓶落とし

 

夜景の撮影は、まず先に露出を決めておき、明るい時刻から待機して、その露出にあった暗さを待って撮るのが良いと聞き、早めの時間からポートアイランドで待機していた。

17時前後から暗くなりはじめ、18時半にはほぼ真っ暗。露光しているあいだにも、露出計の値は変化する。

あまりに日暮れのペースが速いので驚いたと母に言うと、「秋の日は釣瓶落とし、と言うのよ。」と、ごく当然のことのように返された。

秋に近づくと、日暮れの時刻が早くなっても、日暮れのペースがそこまで速くなるとは予想していなかった。あまりのショックに言葉を失う。

最初データをとった初夏の頃は、17時すぎから、暗くなりはじめて、完全に暗くなるのは20時を越えてからだった。

3時間強あれば、光の変化を細かく追えると思っていたのに、それが半分に短縮されてしまったら、さすがに厳しい。

ベストシーズンはやっぱり夏至のころか。

今週末に予定していた撮影は、来年に持ち越し決定やね。
仕事の忙しさでのばしのばしにしていたことが、
心底悔やまれる。

今年、とれるだけのデータをとっておこう。

改善点ふたつ。

 

雨があがって、バタバタと動き回っていたけれど、朝のスナップ再開。

直接、作品につながらなかったとしても、わたしの軸はそこにある。
ただ、撮り終えたものをきちんと見る時間を持てていないところが最近の大きな問題。

スナップは、やっぱりネガからポジに戻そう。

夏の光は、コントラストがきつくて、どうも苦手。
外を出歩いて、ふだんより長時間粘っても、
ほとんどシャッターきらずに帰ってくる。
だからといって出歩くのをあきらめるのは、もうよそうと思う。

改善点ふたつ。

取り戻すこと。

 

今週から、早朝の撮影を再開する。
ほんの30分でまったく光の調子がかわることに、あいも変わらず面食らう。

集中力が足らないのが自覚できるからもどかしい。
明日はうんと早くに起きようと思ったら降水確率60%。

連休に8時間ほど歩いただけで、ひどく消耗した。
体力も相当落ちているから、当面の目標は、まともに撮影できるだけの体力と集中力を取り戻すこと。

頂上だけの虹

 

窓の隙間、電線のすずめと目があう。
出がけの空はひっかききずだらけ。

光の質量。
頂上だけの虹。
ミドリの色が前と違う、とか。

午前7時の東京に、はつゆき。

よりによって光が良かった。

 

昇天。

父から譲り受けたのが二十歳すぎのことだから、10年来わたしのそばにあって、いちばん近しい存在だった愛用のカメラ。少しずつ老い衰えていくように、最初に液晶が、そして巻き上げ部分が、最後にミラーまわりが動かなくなっていった。

予感はあったのかもしれない。
でも、決定的な最期を迎えたその朝は、よりによって光が良かった。
このカメラで撮ることができないんだと思うと、
哀しいということばにたどり着く前に、もう涙があふれていて。

ことばをつぎたせばたすほど、気持ちが昂るから、何も考えないように、
努めて光を見ないよう、感じないようにして、そうっとそうっと家に向かう。

それはずっとこころに突き刺さったまま。いまもまだ胸が痛い。

不安定な混交

 

雨があがり、カメラと一緒に外に出た。
強烈な黄色の光、夕暮れとともに押し寄せる青と不安定な混交。
あまりの振れ幅に、おどおどする。いつも通る道なのに。

試されている。

 

うすもやのdefuse、印象そのものだった世界ははるか。

冬が来る。

くっきりとした空、なんと影の濃い。

暴力的なそのコントラストに、
不必要なほどはっきりした輪郭たちに、
目をそむけたくなるのをこらえて。

色も光もすべてが主張、主張、主張。雰囲気写真に逃げられない。
ハイコントラスト、目が痛くなるほどの乱暴なフィルムがあがるのは重々承知で、
わたしは外に出た。

どう撮ればいいのか。
どう受けとめればいいのか。
どう接すればいいのか。

光に試されている。日々、試されている。

手放す勇気。

 
空をつなげる

resetすると決めてからほぼ毎日、朝か晩は撮影に出かけている。

カメラを持った当初、なんやようわからんけど、妙にひっかかるという感覚だけをたよりに撮影をしていた。何を撮っているのかようわからへん写真ばっかりやった。数年撮っているうちに、フォトジェニックなものばかりを追うようになっていった。そして光や影に対するフェティッシュなまなざしも内面化してしまっている。

そういったものをすべてresetしたい。光や影も含め「もの」に対する関心を捨てて、その場から立ち上ぼるニュアンス(空気感という言葉は安直すぎて嫌いだけれど)に感覚を研ぎすませよう。たぶん、撮りはじめた頃の状態まで、いったん戻らないといけないと思う。それでもいい。

とある写真展で、技術に走ったおもしろくない写真と、つたなくても空気感をうまくとらえている写真とを同時に見たときに思った。写真に長く携わる人が陥る落とし穴にはまってはいけない、と。

手放す勇気。

まだ少しはやい。

 

少し光が秋めいて、喜びいさんだ午前7時。

世界はあまりに黄色く、想像以上に光はきつく。
まだ少しはやいのかもしれない。

影も長すぎる。
朝の光は思っていたほど素敵じゃない。叙情的すぎる。

焦って撮った数枚のせいで、自己嫌悪。
仕上がったフィルムを見て、また自己嫌悪に陥ることも想像に難くない。

撮るべきもののないときは絶対に撮らないこと。

実験開始

 

実験開始

先週から実験を開始。影のニュアンス、どのくらい制御可能か。ベランダの植木鉢を持ち込んでクリップライトでこじんまりと実験。

なぜ影なのか。ということ。
どこで、どういうかたちで見せるか。ということ。

動きのある影はおもしろい。

投影なのになぜ映像を使わないのかということ。
実体との関係性。

高松次郎の作品があたまをよぎったから(あれは絵画作品だけど)、図録を調べてみた。彼自身のコメントを読んだところ、一連の影の作品の制作意図はカンバスという媒体そのものの美しさを見せるところにあるらしい。

写真を使わない

 

コンペ用に過去の作品をまとめると同時に、あたらしい展示プランを考える。

いろいろ作業をするなかで見えてきたこと。

現時点でわたしは、
写真そのものよりも空間展示に関心の重心がある。

ホワイトキューブの展示を前提とするプランの公募で
わたしがしあげたプランは、写真を使わないインスタレーション。

写真を撮っているうちに鋭利になったのは、光と影に対する感覚。
特に、影に対してはフェティッシュなほどにひきよせられる。
言葉で説明はできないけれど、そこにわたしにとっての「必然」がある。

影をテーマに作品をつくりたいと思っていたことにいまさら気づき、
大きなホワイトキューブに写真を展示するより、
影で空間を構成することを考えたいと思った。

すこし実験をはじめたから、このまま続けてみようと思う。