LISA SOMEDA

言語 (14)

自由になった前足

 

このサイトでいちばんアクセスが多いのが「感覚比率」という2007年の投稿で、そこでは電話をしながらつい落書きをしてしまうという経験に触れたが、ちょうどいま読み終えた
ハンズ 手の精神史』にも、会話と手の動きについての記述があったので抜粋しておこうと思う。

この本では、わたしたちがいかにせわしなく〝手を動かさずにはいられない〟存在であるかが描かれており、電話であろうとなかろうと会話と手の動きはそもそも切っても切れない関係にあるようだ。

 第一世代の研究者たちは、手の使用がおおよそ二つのグループに分かれるという意見で一致していた。一方の「対象に焦点を当てる」手の運動は———特に、言葉を強調したり、区切りを入れたり、修飾したり、例示したりする際に———話し言葉と密接に関連していた。他方、引っ掻いたり、こすったりするような「身体に焦点を当てる」運動には、話し言葉との関連はみられなかった。対象に焦点を当てるジェスチャーは、発話のリズムにあわせて調整されており、その二つの同期のゆらぎが言語符号化における問題を直接的に示していると考えられた。発話と運動がうまく噛み合わない場合には、話者が何かを表現することに苦労している可能性がある、というわけだ。しかし、身体に焦点を当てる運動は、それとは異なったものであることがわかった。 それらの運動は、発話のリズムにはそれほど同期してはいなかったのである。そして、そうした運動は、分離や死別などの喪失の後にしばしば起こっていた。それはまるで、身体が痛みや悲嘆に反応して自分自身を刺激しているかのようであった。

 あらゆる研究者によって確認されていたように、先の二つのグループの違いは、実際にはより複雑なものであった。古典修辞学者もそう考えていたように、「対象に焦点を当てる運動」が話すことと結びついていたことは確かである。だが、「身体に焦点を当てる運動」が言語から完全に切り離されているわけではない。後者の運動は、話すこと自体にはほとんど関係がなかったが、そういった運動はまさに「聴く」という経験に関係していたのである。私たちは、聴衆を説得しようとしたり、あるいは単に聴衆とコミュニケーションをとろうとしたりするときに、意図的であるかどうかにかかわらず、ジェスチャーを用いることがある。しかし聞き手の側にも、身体の関与が存在する。実際、他人から話しかけられているときに、手を動かさないままでいられる人がいるだろうか?
ハンズ 手の精神史』(ダリアン・リーダー著 松本卓也・牧瀬英幹訳 左右社2020 pp.187−189より抜粋)

続く文章では、この問いに対して職業的に「聴く」ことが求められる精神分析家の例が挙げられている。

 実際、現在までの精神分析の文献についての調査記録を読むと、話を聴いている精神分析家がもっとも頻繁に行っていることは、メモをとることではなく、編み物をすることだったようだ。
(同書 p190より抜粋)

そして、フロイトの娘のアンナが分析中に編み物をしていたこと。フロイト自身は、喫煙するために手をせわしなく動かしたり、宝石の指輪を舐めたり、古美術品の置物やお守りをひっかき回したり、なでたりしていたことが描かれ、

 そのほかに分析家たちのあいだで頻繁に行われていたのは落書きで、それが話を聴くという経験と密接に関連しているのは間違いない。
(同書 p191より抜粋)

と括られている。

自分の経験に照らすと、対面だと話しづらいことも、作業だったりドライブしながらのほうが話しやすいことがある。養護教諭の友人は、わたしがなかなか話を切り出せないでいるとき、それを察して車のなかで運転しながら話を促してくれた。話しやすい場をつくってくれるってすごいな…と思った記憶がある。聞き手が手を動かしていることは聞き手自身の感覚のバランスをとっているだけでなく、話し手側の話しやすさにも影響を及ぼすのかもしれない。

さて、この本を読んだ直後、遺体科学の研究者である遠藤秀紀さんが、人間は木から下りて二足歩行になったことで、前足(手)が自由になり、重力によって喉のパーツが下にひっぱられて口に空間ができたことで音声言語を獲得したのではないか?とラジオで話されているのを聴いた。

もしその仮説が正しいとすれば、二足歩行によってもたらされたふたつのもの、自由な手(前足)と音声言語が切っても切れない関係にあるというのは興味深い。

つまるところ、わたしもまた自由になった前足を動かさずにはいられずに、この文章を綴っているのだ。

二足歩行についての話は52:17〜58:46まで。

実在の後ろ支えのない言葉

 

質感って英語ではtextureなんだよなぁ。textureは織物という実在によって後ろ支えされた言葉だけれど、質感という言葉にはそういった実在による後ろ支えを欠いたふわっとした感じがする…ということを考えていた。(「質感」という言葉には実在による後ろ支えはないが「肌理」にはある)

photographも photo-光 graph 書かれたもの(刻まれたもの)という構造で実在に後ろ支えされているが、写真という言葉にはそれがない。

この実在の後ろ支えがないふわっとした言葉を用いて思考し語ることと実在の後ろ支えのある言葉で思考し語ることとは、相当異なる経験ではないのだろうか?と。

というのも、抽象度が高くなった途端話が通じにくくなるということがここ何度か続き、はじめは自分の理解力や相手の言語運用能力を疑ったが、使う言葉に因る部分もあるのではないか?と考えるようになったのだ。

エティモンライン – 英語語源辞典
https://www.etymonline.com/jp/word/photograph

記述方法と対象のマッチング

 

物理学では、科学者はモデルや理論をつくって、この宇宙に関する観測データを記述し、予測をおこなう。その一例がニュートンの重力理論であり、もう一つの例がアインシュタインの重力理論だ。これらの理論は、同じ現象を記述していながらも、まったく異なるたぐいの現実を表現している。ニュートンは、たとえば質量を持った物体が力を及ぼしあうと想像したが、アインシュタインの理論では、その効果は空間と時間の歪みによって起こるものであり、そこに力としての重力の概念は含まれていない。

 リンゴの落下はどちらの理論を使っても精度よく記述できるが、ニュートンの理論のほうがはるかに使いやすい。一方、運転中に道案内をしてくれる、衛星を使った全地球測位システム(GPS)で必要となる計算をおこなう際には、ニュートンの理論は間違った答えを与えるため、アインシュタインの理論を使わなければならない。現在では、どちらの理論も、自然界で現実に起こっていることの近似でしかないという意味で、実際には間違いであることがわかっている。しかし、適用可能な範囲で自然をきわめて正確に、そして有用な形で記述してくれるという点では、どちらの理論も正しい。

(『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p66より抜粋)

旧い話だけれど、工学部に在籍していたころのわたしは、とてつもない落ちこぼれだった。
次々と出現する記号にとまどい、まったく内容が理解できない講義に「母語がこんなに理解できないなんて!」と驚きすら覚えながら、暗号を書き留めるかのように板書を写す、そんな学生時代だった。
たぶん電磁理論の講義のあとだったか。「なんで、こんなわけのわからん記号をようさん使わなあかんのやろ。」とぼやく私に、

「aはbの3倍である、bはcを6つに等しく割ったうちの1つである。と文章で記述されるより、a=b×3 b=c÷6 のほうが簡潔やし、パッと見て事実関係がわかりやすいやろ。数式は、いくつかある表現のなかで、もっとも使い勝手のいいものと思ったらええねん。」

と級友が諭すように言ったのを思い出す。
そのときにはじめて、数式を「唯一の真実」ととらえるのではなく「数ある表現のうちのひとつ」ととらえることを知った。

同じころ、言語学の講義で、that節が入れ子になっているような英文は、日本語に訳すより英語のままのほうが事実関係を把握しやすいという話を聞いた。

CがDを嫌っていることをBが悩んでいるらしい、とAが言っていた。

というような、少し複雑な状況を説明するには、英語の構造のほうが日本語の構造よりも適している、と。
そこで、記述(表現)方法と対象とのあいだには、向き不向きがある、ということを知った。

ここに出てきた物理学の理論。数式、言語。もちろん、視覚表現も然り、だろう。
記述(表現)方法と対象とのマッチングについて、あらためて考えてみる必要があるな、と思った。

経験識閾

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)の以下のくだりは、ものすごく興味深い。それぞれの文化のなかで、(ふだん意識していないが)ものごとを認知するうえで何に重点を置いているか、ということが言語からあからさまにわかる例。

(前略)マッチの火が瞬いて消えそうになる。男たちは、「マッチがイビピーオする」と言った。別の晩にも、消えかかるキャンプファイアーを前に、この言葉が同じように使われた。このような状況では、イビピーオは副詞として用いられてはいなかった。

(中略)ある物質が視界に入ってくる、または視界から出ていくという状態を表すために使われるものなのだ。誰かが川の湾曲部を曲がって現れるのは視界に入ってくることだし、それならば何かが視界から消えるとき、たとえば飛行機が水平線の彼方に見えなくなるのにピダハンがこの表現を使うのもうなずける。
(p183から抜粋)

イビピーオは、ぴったりと重なる英語の見つからない文化的概念ないし価値観を含意していると思われる。もちろん「ジョンは消えた」とか、「ビリーがたったいま現れた」という言い方をすることはできる。しかしこれはイビピーオと同じではない。第一に英語では「消えた」というときと「現れた」というときに別々の言葉を用いるのだから、両者は別々の概念だ。またここが肝心なのだが、われわれ英語圏の話しては、現れたり去って行ったりする人物のほうに焦点を当てていて、誰彼がわれわれの知覚の範囲に入ってきたとかそこから出て行ったとう事実に着目しているのではない。

最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名付けた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。消えかかる炎は知覚経験のうちと外を絶えず行き来する炎なのである。
(pp.183-184から抜粋)

現れる、あるいは消えるという現象に重きをおくピダハンの認知のありようから、翻って、自分の属する文化の認知のありようはどうなのか?と、考えるきっかけになる。

認知と文化

 

先の『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)から、認知と文化に関する記述で気になったところを書き留めておく。

“写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっている”

アナコンダを流木と見誤ったこの経験から、わたしは心理学者がとうの昔に知っていた事実を教わった。認知とは学習されるものなのだ。わたしたちは世界をふたつの観点から見聞きし、感じ取る。理論家としての視点と宇宙の住人としての視点と。それもわたしたちの経験と予測に照らし合せて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。
(p.314から抜粋)

わたしのような都会人は、道を歩く時には車や自転車、ほかの歩行者には注意を払うが、爬虫類を警戒はしない。ジャングルの道を歩くときに何に気をつければいいのか、わたしにはわからない。この夜のことも、認知と文化に関する教訓であったわけだが、とはいえそのときにはそれをはっきり意識していたわけではなかった。わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。
(pp.345-346から抜粋)

都市の文化的社会ではジャングル暮らしの秘訣が身につかないように、ピダハンのジャングルを基盤とした文化では都会生活への備えがうまく身につかない。西洋文明育ちなら子どもでもわかるようなことが、ピダハンにはわからない場合もある。たとえば、ピダハンは絵や写真といった二次元のものが解読できない。写真を渡されると横向きにしたりさかさまにしたりして、ここにはいったい何が見えるはずなのかとわたしに尋ねてきたりする。近年彼らも写真を目にする機会が増えてきたので、だいぶ慣れてはきたが、それでも二次元描写を読み解くのは、彼らには難儀なようだ。(後略)

写真を読み取るという一見ごく誰でもできそうなことの背景にも、文化が色濃く関わっていることが、ここからもわかる。
(pp.347-348から抜粋)

ピダハン

 

ずっと読みたいと思っていた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)。

ピダハンには「こんにちは」「ご機嫌いかが」「さようなら」「すみません」「どういたしまして」「ありがとう」といった交感的言語使用が見られない(感謝や謝意、後悔の気持ちは言葉ではなく行動で示す)。彼らは色の名を持たず、数を持たず、左右の概念を持たない。また、彼らは精霊を見ることができ、夢と日常をほぼ同じ領域のもの、同じように体験され、目撃されるものととらえている。絵や写真といった二次元のものを解読できないが、暗闇の中で30m先に佇むカイマン(ワニ)の存在を感知することができる。

伝道のためにその地に赴いた著者が、最終的には無神論者になってしまう結末は小気味いい。”ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ”と著者に言わしめるほど幸せに見え、そもそも迷える子羊ではなかったのだ。

どれも興味深いのだけれど、その中でもいちばん興味深いのは、ピダハンの文化では体験の直接性が重んじられること。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。(p.187から抜粋)

ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。(p.187から抜粋)

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。(pp.187-188より抜粋)

そして、色名や数を持たない理由が、この文化的制約に結びつく。

ここに挙げられたピダハンの表現をできるだけ逐語的に訳すと、「血は汚い」が黒、「それは見える」または「それは透ける」が白、「それは血」が赤、そして「いまのところ未熟」が緑だ。

 色名は少なくともひとつの点で数と共通項がある。数は、数字としての一般的な性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものであって、特定の物質だけに見られる、限定的な性質によって区分けするわけではない。同様に色を表す表現も、心理学や言語学、哲学の世界で縷々研究されてきたように、多くの形容詞とは異なり、可視光線のスペクトルに人工的な境界線を引くという特異な一般化の役割をもっている。

 単純な色名がないとはいえ、ピダハンが色を見分けられないとか、色を表現できないというわけではない。ピダハンもわたしたちと同じように身のまわりの色を見ている。だが彼らは、感知した色を色彩感覚の一般化にしか用いることができない融通の利かない単語によってコード化することをしない。その代わりに句を使う。(pp.169-170から抜粋)

直接体験したことを話すのに、すでに一般化された単語では用をなさないということか。思わず太字にしてしまったこのくだりが、ものすごく刺さった。

単語帳をのぞいてみる

 

毎日コツコツ英語の勉強をしていると言いはっているので、ちょっと母の単語帳をのぞいてみる。

skip out…夜逃げする
become a beer belly…ビール腹になる

…この単語、いつ使う気なんやろか。

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている

 

最近また‘身体’に関心が戻ってきて、パラパラと読んでいた本のなかに、少し苦いフレーズを見つけた。

(前略)詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。

 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的に言うと「うるさい」ということですね。そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「わたしが語る」ということそのものの不快さなんです。

(『身体(からだ)の言い分』内田樹 池上六朗著 毎日新聞社 2009 p24・25より抜粋)

後半の若いひとたちが…のくだりでイメージされているのは、キムタクが扮する若者役に代表されるような若者像だと、ほかの著書で読んだ記憶がある。たしかに、彼の役柄はいつもいつも鼻についた。だから話はよくわかる。それでも、不思議なことに、自分のことばかり話していても、それが鼻につくひとと、つかないひとがある。その違いはどういうことなんだろう。

 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているのかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。

(同書 p83より抜粋)

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている、というのは面白い。
なぜかこのひとの話は聞いてしまう、ということもあるし、
逆に、このひとの話すことばはまったく響いてこない、ということもある。

「わたし、わたし」というコンテンツでも、余裕なく切羽詰まった様子で話されるのと、本人自身が客観視できる程度に余裕を持って話されるのでは、受け手には違って聞こえてくるのかもしれない。大事なのはむしろメッセージの「送り方」のほうなのか。

きっと(芸術)作品においても、コンテンツだけでなく、作品の差し出し方まで、
観賞者にまるごと観られているのだろう。実際、視覚表現領域でもコンセプトを押しつけてくる作品は「うるさい」。

だから、ここらへんの話は、うかうか人ごととして読んでいられないのだ。

音で読む

 

電通のセミナーに出席。

いろいろおもしろい話が聞けたのだけれど、ひとつ印象的だったのが、わかりやすい文章を書くには、文章を書いたら声を出して読んでみる、ということ。

おおかたの日本人は、ものを読むときに、音にして認識するので、声を出して読んだときに、すらすらと読めない文章は、目で追いながら読んだとしても、読みにくいのだ、と。

ということで、いま、わたしはこの文章を、声を出しながら書いている。

ちょっと込み入ったことを書こうとしたら、途端に、ことばがぎこちなくなるときがある。
そういうときも、声を出して読んでみたら良いのだ、と思えば、少し気が楽になった。

お、なんだか口述筆記みたいになってきたぞ。

だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。

 

昨日書いた『塩一トンの読書』はエッセイ集、あるいは書評集のようではあるけれど、ところどころ、著者のしずかな社会批判が込められていて、それがあまりにしずかなので、見過ごしてしまわないように記しておこうと思う。

 バイリングアルがよいなどと、人間を便利な機械に見たてたがる、無責任な意見が横行しているが、ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。

(『塩一トンの読書』須賀敦子著 河出書房新社 2003 p40から抜粋)

これは、フェルナンド・ペソアという詩人について書かれた文章にさしはさまれていた。

在留外国人の子どもの教育支援に携わっている母から、母語ではないことばで教育を受けなければならない彼らの抱える困難を、折りにふれ聞いているから、この部分がいちばん気になった。

もちろん彼らの多くは「バイリングアルがよい」などという教育的配慮から、日本で教育を受けているわけではない。両親の仕事の都合でいたしかたなく、日本で教育を受けることになった者がほとんどだ。

母の話を聞いていて、あるいは、帰国子女である自分の経験と照らして、
彼らのその重荷を、教育者がどれだけ理解できているだろうか、と、
ときに思うことがある。そういうところと共鳴した。

あと、関川夏央さんの『砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった』という本について書かれている文章の最後のほう。

 (中略)いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。

(『砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった』 関川夏央著 新潮社 1993 p157から抜粋)

これにいたっては、もうわたしが書き添えることなんて何もないと思う。

雪の音を聴いてみる。

 

「ほんとうに雪はしんしんと降るのか?」

耳を澄ませて雪の音を聴いてみる。

舞い降りる瞬間の音は、スチャッ、スチャッ。
少し雨まじりだから、湿った音がする。

きっともっと細かい雪でも、
いちばんリアルな音は顔やからだにふりかかる音だし、
雪の降るなかにあるひとにとって、雪の音は、もっと具体的。
しんしん、ではない。

あとから気づいたけれど、きらきらと星が輝く、のきらきらは擬態語。
ゆらゆら揺れるの、ゆらゆらも擬態語。
同じように、しんしんも、擬音語じゃなくて、擬態語。

きらきらは煌めき、ゆらゆらは揺れる、ということばからも類推されるけれど、
しんしん、はどこから来るんだろう。

ひとつ言えるのは、そんな上品な表現は、
窓から外の雪を眺めているひとにとっての音景なんじゃないかということ。

今日も帰り道、雪にふられたけれど、雪の最中にあったら、
擬態語だとしても、きっと、「しんしんと」は使わないなと思う。

さて、長くなったけれど、
最中にあるひとと、それを傍観するひととでは、
表現に差があるということを考えていたのです。
ひとがどのポジションに身を置いているかは、
その表現のなかで、あからさまに露呈する。

よくも、わるくも。

朱入れ

 

訂正記号をいちいち父に尋ねながら、初校のゲラに朱入れ。
3ヶ月あけて読み直すと、文章のアラが目立つ。

「日本語は書き下しで、英語みたいに前に戻って読むことはないから、戻って読まないとわからないような文章はよくない。」

と教えられる。
なるほど。日本語ってリニアな構造なんだ。

おかんのワンポイント英単語 悪意のある例文つき

 

実家で夕食を食べていると、母がex(エクス)ということばを教えてくれた。
元カレや元カノ、前妻や前夫を指すことばだそうな。

“She bumpt into her ex at Hakata station.”
(彼女は博多駅でばったり元カレに出会った。)

ご丁寧に例文までつくってくれて。。。

言葉に対する感受性

 

できるだけゆっくり『写真と日々』を読んでいた。クールでスピーディーな分析に追いつけずに、何度も反芻しゆっくり咀嚼しながら読み進むのが通例なのだけれど、突然、胸が詰まる思いがした。少し長いけれどその箇所を抜き出そう。

 この時期の中平の文章の異様さは、「私」が、ある例外を除いて、格変化しないところからくる。格助詞を欠いた、いわば不定詞形の「私」。「思い出すことができない」「必要な文章を書く」「作り上げねばならない」という動詞の主語になりえずに、ただそのとなりにあるだけの「私」。あらゆる文脈に接続される以前の、内包を持たないまま宙に浮いた形式としての私は、しかし、「私が写真家で在る」という文章においてのみ、主語となる。「私は」ではない。「私が」なのだ。あなたは何ですか?私は写真家です。写真家はどなたですか?私が写真家です。「私」よりも「写真家」が先なのである。つまり、「写真家で在る」ということのみ、このたったひとつの絆を通じて、不定詞の「私」は世界に接続される。写真が、平凡であることの重みという、人の実存をつなぎ止めることがあるのだ。透明な形式にすぎなかった者が、現実性を獲得して色づく。「原点」とはこのことである。無名性はじつは問題ではない。私は中平卓馬だ、ではなく、中平卓馬が私だ、なのだ。
(『写真と日々』 清水穣著 現代思潮新社 2006 から抜粋)

記憶をまったく喪失してしまうということがどういうことなのか、わたしにはまったく想像もできていなかった。けれど、この文章を読んだとき、その凄まじさに触れて不覚にも泣いてしまった。

これだけ丁寧に説明されてやっと知りえるというのは、わたしが鈍感なだけかもしれない。でも、「私、ほとんど何事も思い出すことができず、…私ようやく必要な文章を書くことが、可能となりましたが…」という中平の文章から、彼の置かれている状況を濃やかに察する感受性。感受性にもいろいろあるけれど、言葉に対する感受性のすごいものに出会った気がした。