LISA SOMEDA

速度 (10)

潜像

 

新型コロナウイルスによる外出自粛期間中、部屋の壁に射す光をインターバルで撮っていた。

青の時間と呼ばれる薄明の光がどんなふうに変化するのか。
どんなふうにわたしたちのところに夜は訪れるのか。

そんな素朴な疑問から撮りはじめたものの、ただうっすら明暗差があるだけの壁にレンズを向け「なんも撮れへんやろうな」と思いながらインターバル撮影をセットする日もあった。その写真を「手応え薄そう…」と思いながらタイムラプスにしあげてみたら、通常速度ではまったく気づかない微かな光の変化が、外の雲のゆるやかな流れを反映していることに気がついた。なんだか潜像みたいだなと、そのとき思った。

目の前にあるのに、そのままでは認識できないもの。

もうひとつは、ぼやけていた影の輪郭が光の調子の変化によって引き締まっていくさま。それが現像液にひたした印画紙に像がふわっと現れる瞬間にとてもよく似ていて、心揺さぶられるものがあった。

輪郭がゆるすぎてぼんやりとしか認識できない身のまわりの明度差が実は何かの像だとすれば、世界は潜像で満ちているのではないか、と。

この文章を読んで、そんなことを思い出した。

さて、ここで少し遡って考えてみたいのは、現像によって「像」が現れる前に、その真っ白な感光紙の上には何があったのか、ということだ。そこには確かに「像」が準備されていただろう。だが、それは見えない。トルボットは、その不可視の像に「潜像(latent image) 」という名前を与えた。「latent」はラテン語の起源を持つ単語で「隠れて見えない」という意味を持つ。しかし「見えない像」とは、いったいなんのことか?もし不可視な像があるとしたら、それは純粋に観念的なものであり、僕らの頭の中にしか存在しなかったもののはずだ。それが、喩えでもなんでもなく、そこに、その白い紙の上に、実際にあるという。

 観念がそのまま日常世界に、呆気にとられるほどの即物性を備えて舞い降りてきてしまったかのような、魔法を見ることにも似た衝撃がここにはないだろうか。「潜像」は、「像」とは未だ呼べない、表象不可能な「像への可能態」だ。こんな「像」のありようは、確かに写真術誕生以前には、決して存在しなかった。

(『自然の鉛筆 The Pencil of Nature』ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット著 青山勝編・訳 赤々舎 2016 / 団栗と写真 ゲルハルト・リヒターおよび「像」についてのメモランダム 畠山直哉 p.89より)

像の現れに驚くこと。それが、写真術の始まりだった。現れる以前の「見えない像」に胸をはずませること。それが写真行為の原点だった。写真とは、「見えない像」というパラドックスが現実に成立してしまった時代、つまり僕らの暮らす現代を、驚きの目で眺めることだった。写真はそうして、写真家に限らず、すべての人間の視覚的認識を根底から変質させたはずだ。(同書 p.90より)

不可視性

 

近年、見えなさに関心を持っていて、つい「不可視性」ということばを使ってしまうこともあるが、けっこう意味の幅が広いことばなので、少し整理してみたいと思っていた。

ちょうどいい機会なので、「見えない/見えにくい」とはどういう状況かを、いちど整理してみようと思う。現時点で思いついたことを書き出しただけなので、あらためて分類し直したり、更新するかもしれない。「自分の近くにあるかどうかがわかる/わからない」という項目には、新型コロナの影響がモロに出ているが、現在の関心は少なからずそこにある。

  • 肉眼で視認できない

    • -知覚する方法がない

      そもそも、その対象を思いうかべることすらできない→考察できない
    • -知覚する方法がある

      • 【道具を用いて】
        ・自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ウイルス、細菌等、放射能、電波、電気等
      • 【視覚以外の感覚で】
        ・自分の近くにあるかどうかがわからないケース
        ホワイトアウト、ブラックアウトなど手探りの状況
        ・自分の近くにあるかどうかがわかるケース
        花粉、湿度、気圧、気配、香り
      • 【現象を通じて】
        ・現象と対象の関係を知っている
        運動、熱、光→電気
        風→空気
  • (不完全だが)肉眼で視認できる

    • ・対象を特定できない
      暗すぎる、明るすぎる、近すぎる、速すぎる状況など
    • ・対象を特定できるが正確に認識できない
      複数の像の混在(反射と透過など)、半透明のフィルターを介する状況など
      変化が非常にゆるやかな(微細な)事象 ※追記

新型コロナウイルスの感染拡大を機に、なぜ、見えないことがそんなに不安をもたらすのかを考えていたけれど、こうやって例を挙げてみると、日常生活の中に「見えないもの」はけっこう沢山ある。にもかかわらず、空気や電気に対して不安にはならない。不安と結びつくのは「自分に危害をもたらしうるもの」と「見えない」が組み合わさったときだ。

そして、ひとが「見えない」というとき、その前段には、その対象が存在することを知っている。まったく意識にものぼらないものに対して「見えない」という自覚は芽生えない。肉眼で見る以外の方法で知覚されうるものや、伝え聞いて存在を知っているものにしか「見えない」という経験は成り立たない。それがわかったのは大きな収穫かもしれない。

1.「見えないけれどある」ことを知っている
2.(吹雪や霧など状況のせいで一時的に)本来見えるべきものが見えない

これらのように、「見えない」ことを自覚するためには、前提となる条件がある。

いちばん厄介なのは、見えているつもり。見えないことに気づかないこと。「見えない」が見えないことかもしれない。

時間と空間の抹殺

 

〈パノラマ的視覚〉の一語に勢いづいて、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』を繙いた。

のっけからすごい表現だなぁと思ったのが、この「時間と空間の抹殺」という表現。そのくらい、当時の人々にとって鉄道のもたらした速度は脅威だったのだろう。

 時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世期初期の共通表現(トポス)であった。この観念は、新しい交通手段が獲得した速度に由来している。所与の空間的隔たりを踏破するためには、伝統的にはある決まった旅行の時間または輸送の時間が必要であったが、この距離が、突然その時間の何分の一かで踏破されることとなり、これを裏返せば、同じ時間で昔の空間的な隔たりの何倍かが進められることになった。

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化』(ヴォルフガング・シヴェルブシュ著 加藤二郎訳 法政大学出版局 1982) pp.49から抜粋

(前略)抹殺されたものとして体験されるのは、伝統的な空間及び時間の連続性である。この連続性は、自然と有機的に結びついていた昔の交通技術の特徴である。昔の交通技術は、旅をして通過する空間と模倣的関係にあったので、旅行者には、この空間を生き生きとした統一体として知覚させたのである。(後略)

鉄道が空間と時間とを抹殺するという考えは、交通技術が突然に全く新たな他の交通技術によって代替されたときに見出される、知覚のこのような現実喪失と理解することができよう。鉄道が作り出す時間・空間の関係は、技術以前の時代のその関係にくらべると、抽象的なものに見え、時間・空間感覚を阻害するものと写る。(後略)

同書 p53より抜粋

高速移動があたりまえの時代に生きる者としては、「抹殺」とまで言う衝撃は想像しにくいけれど(正直、大げさだなと思うし)、翻って考えると、鉄道以前の旅では、それだけ濃密な関係が、人と空間の間にあったということなのだろう。

このことで少し思いあたることがある。
写真を撮るようになってから、歩くことで、その土地への親近感が増すのに気がついた。ひと月に満たない滞在でも、歩いた土地には愛着が湧く。徒歩の次が自転車。逆に、バスで観光地を巡るパッケージツアーでは、そのような親近感は抱き難い。
「歩くと、土地との関係が近くなる」というのが、近年のわたしの発見で、鉄道の登場以前に馬車や徒歩で移動していた時代には、むしろその感覚のほうがデフォルトだったのかもしれない。

十九世期初期の人々に抹殺とまで言わしめた、鉄道の速度がもたらした「時間・空間感覚の阻害」は、朝夕通勤電車にゆられ、ときに新幹線で移動するわたしたちに、もはや何の違和感ももたらさない。テクノロジーによって、ひとびとの知覚のありようが変わるということは、今後もっと顕著に起こるだろう。
シンギュラリティーに戦々恐々としているわたしたちの有様は、22世紀からまなざせば、なんと大げさな、と、とらえられるのかもしれない。

前景の欠落

 

最近は、本来の目的とは違うところで、興味深い文章に出会うことが多い。今日は、横浜写真について調べようと繙いた本から。

文化史研究者ヴォルフガング・シヴェルブシュ(Wolfgang Schivelbusch)が看破したように、十九世紀後半の鉄道の発達の結果、ヨーロッパ人の知覚は劇的に変化した。産業革命以前は旅行者は、自らがそのなかに含まれる前景を仲介として、常に景観と同一空間に属していた。ところが、高速で移動する鉄道の車窓からでは、飛び去るように過ぎていく前景を捉えることはもはや不可能に近い。車上の人と景観の間には「ほとんど実体なき境目」が挿入されることになる。この前景なき空間認識を、シヴェルブシュは〈パノラマ的視覚〉―刹那的・印象派的とも言いかえられる視覚体験―と呼ぶ。(後略)

(『トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』佐藤守弘著 青弓社 2011 p112より抜粋)

「車窓から見える景色が映像的に見えるのはなぜだろう」という、10年来のモヤモヤがすっと解消した。

前景を認識できないから(処理が追いつかない)→景観と同一空間内に自分を定位することができず→景観と自分との関わりが希薄になり→リアリティの欠如→結果、景観を「映像的」と感じる、ということか。

こういう視覚の綻びが見え隠れするところが、いちばんおもしろい。

怪我の功名?

 

あろうことか、デジタルカメラを全滅させてしまい、久しぶりにアナログの35mmを持って出かける。しかもフルマニュアル機。これが思いのほか新鮮やった。

露出を測って、絞りとシャッタースピードを全部手であわせるので、スナップにしてはずいぶん手間がかかるけれど、手間がかかる分、何を撮りたくて、何を撮りたくないかのフィルタリングが厳しくなる。

デジタルのスナップだと刺激に応じて矢継ぎ早に撮っていたのが、アナログのフルマニュアル機だと、撮りたいと思ってから撮るまでに溜めができて、被写体との関わりが少し変容するように思う。浅い呼吸が、少し深くなるような感じかな。ちょっとスピードを落としてみるのも悪くないなと思う。

1pxの影

 

写真は、空間を平面に圧縮するのだけれど、webに携わるときは、ディスプレイの平面上でいかに立体あるいは空間を表現するか、という逆ベクトルの要請を受ける。

たとえば、ボタン。
あからさまにツヤップリッとさせるのはさすがに時代遅れだけれど、まんまフラットでは訴求力が弱い。押すことを促すために、フラットに見せかけつつ、気づかれない程度の影をつけたりする。10%以下の濃度でたった1pxの影。それでもひとの目はよくできているもので、まったく影のないものに比べると、手前に浮き出ているように感じる。

数年前に流行ったパララックスも、手前として設定したオブジェクトと、奥にあると設定したオブジェクトの速度に差をつけて、奥行きや立体感を表現する。

つどつど、わたしたちが何によって手前-奥を認知するのかということを考えさせられる。

まったく、空間を平面に圧縮すること、平面に空間を立ち上げること、の往還の中におるわいね。

のっぺりつるん

 

スピーディー、と言えば、聞こえはいいのかもしれないけれど、今年に入って、あまり自分のペースやなく動いてたんだろうな。ゆっくり考える、とか、感じる、とかやなかったように思う。

なんとなく、すべてが拙速。
目先のことばかりにとらわれている。

無心に手を動かしていると、それはそれで、しっかり充実もしているのだけれど、「考える」をおろそかにしたり、あとまわしにしとるし、このままやとあかんな、と、今日ふと気づいた。

いまのこの作業がひとだんらくついたら、少し考える時間をつくろう。

なにより、毎日がのっぺりつるんとしていて、感じる、の精度が危機的にさがってる。

速度は光

 

 ものがみえるのは光の放射速度がものの表面に効果をおよぼすからにほかならない。また物体は速く移動すればそれだけはっきりと知覚することができなくなる。だからつぎのような自明の理をうけいれざるをえない。すなわち視野のなかにはいるものはすべて加速や減速という現象をとおしてみられている。速度の大きさはあらゆる面で照明の強さと同一の効果をもつ。速度は光であり、世界中の光のすべてである。だから外見とは運動にほかならず、外観(アパランス)とは瞬間的かつ欺瞞的透明さ(トランスパランス)にほかならない。移動する視線、場所であり目でもある視線によって事物が一瞬にとらえられてはすぐに後方に消えさっていくのとおなじように、空間的次元それ自身もうつろいやすいつかの間の現象にすぎないからである。

 それ故、速度の源泉(発電機やモーター)は光の源泉であり、映像の源泉である。世界の次元に話をかぎれば、速度の源泉とは世界の映像の源泉なのである。

(『ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容』 ポール・ヴィリリオ 丸岡高弘訳 産業図書 2003 p155,156から抜粋)

数年前、車窓から見る風景がとても映像的だと感じて、テストをしていたことを思い出す。

車窓から見る風景が質感を欠いて見えることとか、実際手で触れられないこととか、そういうことを考えていたと思う。出発のときの、ある場所から引きはがされる感じだとか、停車時、速度がゆるむにつれて、見えるもののリアリティが徐々に取り戻されるような感じとか。速度は光、と断言されると、少し戸惑うけれど、そういう実感とリンクするのでとてもひっかかりを覚える文章。

雲の端から太陽が顔をのぞかせるまで

 

雪と雪のあいまの晴れ間に、外に出る。

最近、自転車に乗らなくなった。
撮影をするのに、自転車のスピードは速すぎる、と気づいてから、
用があって遠くに行くとき、重いものを運ぶとき以外は自転車には乗らない。
市内で片道1時間半くらいまでの距離は徒歩圏になった。

そのうえ、撮影に出かけるときは、ものをつぶさに見ながら歩くから、
その歩くスピードすら遅くなっている。

だから、何時にどこかに着かなければならないと思いながら歩く、
その速さとこころもちでは、まったく撮影にならない。

雲の端から太陽が顔をのぞかせるまで、
じっと待てるだけのゆとりがないと。

わたしが、写真によって手に入れたのは、この遅さ、なんだと思う。
そして、その遅さは、この時代に対するささやかな抵抗なのかもしれない。

残された時間

 

ひこうき雲が徐々にただれ、流されながらとけていく。

そういうゆったりとした時間は、もう明日には失われるんじゃないかという不安に突然襲われることがある。時間とのかかわり方の最終的な決定権は自分の手中にあるはずなのに。

しかし母は言う。
「わたしたち、年寄りが急くのはね、死ぬまでの残された時間を意識するからなのよ。あなたたち若い人は、まだいくらでも時間があると思ってる。」

親の世代がせわしないのは、ひとえに高度成長期を生き抜いてきた人々に特有の「ハヤさ」なんだと思っていたし、だからこそ、他人ごとで済ませていた。何かにつけ、両親からせかされ、うんざりしてきたというのもあると思う。

そう言われるまで、「残された時間」なんてことに思い及びもしなかった。
自分とは違う人生の季節を生きる親の目にうつるのは、自分とは違う景色なんだと思い知る。

もう少し寄り添って耳を傾けてみようかな。