LISA SOMEDA

食べる (8)

千切りキャベツの袋

 

最近、実家の冷蔵庫に千切りキャベツの袋が常備されるようになって、野菜は、その滋味を味わう以前に、健康(あるいは美容)のために食べなきゃいけないもの、という記号として消費されている側面が大きいよなぁ…ということを考える。

切った状態で袋に入っていると、それが新鮮なのか、美味しそうな体をしているのか、まったく判別できないから、わたしは絶対に買わない。そう考えると、日常生活でいちばん集中してものを見るのは生鮮食品を選ぶときかもしれない。

色つや、肌理、張り…そういうものを見極めるときの「見る」経験を作品化したいとずっと考え続けている。

記号と、たたずまい。

節分

 

太巻

節分です。
今年のホームメイド恵方巻の参加者は、
しいたけ
みつば
たまご
うなぎ
です。

お米二合で、太巻4本。

とりあえず、写メで記念撮影。
すると、熊本に住む妹から「我が家の自慢の太巻」写メが届く。
妹は関西を離れて、余計に関西を意識しだしたのでしょう。ふふふ。
写メを介し、ちょっとした太巻対決。

恵方巻なので、今年の恵方、西南西を向いて無言で食す。

意外とボリュームがある。

残り3本を横目で見つめ、途方に暮れる。
味が落ちないうちに食べ切るのは無理…。

ということで、
吉田神社の節分祭に行く約束をしていたハルさんに、1.5本献上することに。

吉田神社の節分には、日本中の神さまがやってくるそうです。八百万。
にぎやかでいいじゃないですか。

22時。百万遍で待ち合わせをし、まずは、本殿でお参りする。
そのあと、お菓子の神さまにも手をあわせて、
さらに八百万の神さまの集合場所らしきところに行って、お参り。

地方名とやたらと具体的な神さまの数(?)が書かれたお社を
よくわからないままに、ぐるぐるまわる。

寒いので、日本酒のぬる燗をいただき、
からだも温まって良い気分になったところで、23時。

飲食の神さまのところに少し寄ってから、メイン会場に向かう。

吉田神社の節分

2/3のメインイベント。激しくお札が焼かれています。
一年の無病息災を祈るそうです。

無事、この1年を乗り切れますように。

炎って、やっぱりテンションがあがる。
寒い夜だったから、あったかくてありがたい、というのもある。
炎のまわりは、ぎゅうぎゅう押されて大変でした。
(太巻の具材になった気分が味わえます)

純粋な信心だけでお参りしているのではなくって、
こういう行事っておもしろいんだと思う。

厄年にお参りした壬生寺の節分のほうらく割りだって、
すごく楽しかった。

炎であったり、やたらたくさんのお社であったり、
参拝者がおもしろいと感じる「仕掛け」がそこここにあって、
そこには、ちゃんとテンションがあがる要素や、
関心をひきつける要素が盛り込まれている。
そして、みな気分良くおさいふを開く。

積極的に、燃やすとか割るといった破壊行為がとられるのは、
そこに個々人の破壊衝動が転嫁されることで、
日常生活の「ガス抜き」の機能も果たしているのかもしれないと思った。

ひとを集め、ものを見せ、体験させるしくみとして、
お祭りとか寺社の年中行事だとかは、
相当練られたシステムだとあらためて思った。

え?このテンションは日本酒のせい?

ぺルーめし

 

昨晩は来客があったので、久しぶりにぺルー料理をつくってみた。
ほんで、今日はその残りものがお昼ごはん。

セビッチェとアヒー デ ガジナ

手前の海鮮サラダのようなものが、セビッチェ(Cebiche)。奥がアヒー デ ガジナ(Ají de gallina)。セビッチェは白身魚をレモンでしめて、トマト、たまねぎなど生野菜と和えたもの。たまたま鯛が安かったので、今回は鯛でつくってみた。コリアンダーは嫌いなひともいるので、混ぜずにトッピング形式にしておく。

アヒー デ ガジナには、鶏のムネ肉をゆがいて割いたものが入っている。アヒー(とうがらし)が入っているので、もちろん辛い。カレーのようなとんがった辛さではなくて、くちあたりよくマイルドだけれどじわっとくる辛さ。来客ふたりは最後まで「カレー」と呼んでいた。

昨晩はこれにプラスじゃがいものビシソワーズ(ぺルー料理ではない)、という献立だったのだけれど、いちばんうまくできたのがビシソワーズというのが、なんとも複雑なところ。

ひとに食べてもらう、と思うと、料理って気合いが入るもんやね。

食べものの神様に今日も、感謝。

 

ひどかった鼻風邪がおさまってきたので、パンクの修理に自転車やさんに行く。

もうタイヤ自体がバーストしとるし、タイヤ交換の時期がきている。後輪のタイヤ交換は自信がないので、一度やり方を見せてもらおう、と。(ちなみに、前輪は自分で修理した)

「すいません、修理しているところ、見せてもらえませんか?今度自分で修理したいので。」とお願いしたら、「じゃぁ、教えますから、自分でタイヤ交換されますか?」と店員さん。

願ってもない。

そして、店員さんの指導のもと、およそ1時間ほどで、後輪のタイヤ交換をひととおり終える。細かいノウハウがあるのと、どこがどうなってどう動作するかというしくみを教えてもらえたので、やっぱり自分ひとりでやらんでよかったな、と思う。そもそも、工具が足らんかった。

作業を終えた後、「奥で手を洗ってもらってかまいません。」と言ってもらったので、店内奥まで進むと、店員さんがみなさん揃ってお昼休み。

真っ黒になった手を謎の洗剤でごしごし洗っていると、店長さんに「これ、飲みな。暖まるよ。」と、スープをすすめられる。

おぉ…コンソメスープ。
この荒々しさ、まさしく男の手料理☆

そして、すっかり《自転車屋の店長さんのまかない》をごちそうになって、店員4人と一緒に、世間話なんかしながら、まったり。

おっと。あやうく、立場を忘れるところやった。

修理代をまけてもらった上に、まかないまでごちそうになってしまったので、さすがに恐縮で、簡単に洗いものだけして、店を後にする。その足で、護王神社に寄って撮影現場の下見をしたあと、やっとこさ家に帰りつく頃には、1時間かけて覚えたはずの修理方法は、すっかり食べものの記憶にすりかわっていた。流行りの脳科学がどういうかは知らんけど、記憶なんて所詮そんなもんね。

とにもかくにも、自転車やさん、ありがとう。
そして、食べものの神様に今日も、感謝。

パネトン

 

ちょっと、神戸のパンを食べたいきもちになったので、
大丸のDONQに寄ってみたら「パネトーネ」が並んでいた。

このお菓子、もともとはイタリアのものらしいけれど、
ペルーでは「パネトン」と少し歯切れの良い音で呼ばれ、
クリスマスのころに食べていた。

懐かしくて、試しに買って帰ったら、見事にハマる。
オレンジのほのかな香りが食欲をそそり、
ほんのり甘いくらいの優しい味なので、朝食にも◎
少しトーストしてバターを添えて食べています。

それほど特別なものではないのだけれど、
クリスマスの記憶とゆわえられてるから、そのぶん余計に美味しい。

リーガのパネトーネも買ってみたけれど、DONQのほうがふんわりしている。
けっこう手間がかかるようだけど、自分でつくれるようになりたいな。

いのちの食べかた

 

数時間じっとしているのが苦手で、
ほとんど劇場に行かないし、あまり映画は観ないほうですが。

何年かにひとつくらい、これは観とかないとと思う映画があって、
「いのちの食べかた」
京都みなみ会館で上映中だったので、さっそく観に行く。

ドキュメンタリーになるのかな。
音楽もナレーションもなく、淡々と、動物が、植物が、食料化されていく工程と、
職員がご飯を食べる姿が交互に続くだけ。

牛や豚、鳥や魚が生きものから「肉」になるということがどういうことなのか。
人工交配がどういうことなのか。
知らなかったわけじゃないけれど、知識として知っているだけで、
実体験としてはなにも知らない。
そういうことを、目の当たりにさせられます。

ふつうにグロテスク。
しばらく緊張でからだが萎縮するほどに。

でも、食品加工におけるグロテスク、を隠蔽したり、
あるいは、誰かにそのグロテスクな作業を負わせているのに、
涼しい顔で知らないでいることは、もっとグロテスク。

まるで工業製品を扱うかのような無情さで、淡々と加工される動物・植物。

知らなかったわけじゃないけれど、でもどこかで、
せめて食品くらいは、人の手を介したあたたかいものだと思いたがっていたんやろな。
冷や水をあびせられたような気持ちになりました。

飲食業を営むUさんご一行と出くわして並んで一緒に観ましたが、
途中から、みなおかしを食べる手がとまってしまっていたのが印象的でした。

わたしは、帰り道も想像力のスイッチが入りっぱなし。
「海鮮かきあげ丼」の看板を見ては、生きたまま魚が腹を切り裂かれるシーン、
「焼き鳥」を見ては、鶏が首なしでコンベアで運ばれるシーン、
「牛丼」では、おびえる牛に高圧電流を流すシーン、
が頭をよぎって、なかなか、食欲が戻りません。

いのちの食べかた 公式サイト

ごちそうさま。

 

制作展の搬入で忙しいことは予想できていた。
節分なのにバタバタ過ごすことになるんだろうなぁ…なんて思っていたら、
学生が「お昼ごはんにどうぞ」と。

差しだされたのは重箱。中には手作りの太巻とお稲荷さん。

感謝をとびこえて感激。

心底すごいなぁと思う。
展示の搬入日。ふつうは自分の作品のことで頭がいっぱいのはず。
他人さんに手作りのもん持参するなんて考えの及ばぬところ。
そして、きっとこれからも、わたしには絶対できないことだ。

節分にいただいたのは、美味しさと感激。尊敬と感謝。清々しさ。
ごちそうさま。

そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。

 

高校生の頃、わたしは不登校寸前だった。

毎朝、ふとんの中で葛藤しながら、
気配で、母が弁当をつくってくれていることを察知していた。

母が弁当をつくってくれている。
だから行かなくっちゃ。
しんどくても、つらくても、理不尽なことだらけでも。
最後の最後で背中を押してくれたのは、母のつくる弁当だった。

お弁当をつくってもらっているという毎朝の事実が、
かろうじてわたしを高校生活につなぎとめていた。
それがなかったら、わたしは高校を辞めていた。と、いまでも思う。
ずいぶん甘ったれた話やけれど。

だから、ひとの料理をいただくこと。ひとに料理を食べてもらうこと。
軽く考えたらいけないと思っている。

「食」を単なる栄養や効能に、手間や金銭、の話だけに還元したらいけない。
その営みがどれだけひとの「生きる」を支えているか。

打ち切りになった番組への批判が横行しているけれど、
栄養や効能でしか食をとらえられない「食」に対する自分たちの態度の貧しさに、そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。