LISA SOMEDA

スナップ (25)

横滑り

 

桃山商事のポッドキャストで、横滑りしながらどんどん展開していく女性同士の会話のあり方(カシミア話法?カシミア論法?)が取り上げられていて、ジェンダーによって会話のスタイルに違いがあるの?という驚きが「横滑り」を意識するきっかけだったと思う。

たしかに、さいしょに何を話していたのか忘れるくらい会話が展開する(「で、何の話をしてたんだっけ?」と急に立ち止まる)という状況にはよく遭遇する。でもそれは前の話とのつながりを切断してまったく新しい話がはじめられるのではなく、前の話のどこかしらにフックしながら、しかも「思いがけないところ」にフックして次の話がはじめられるという形で展開する。わたしはそのライブ感こそが会話(雑談)の醍醐味じゃないかとすら思うが、話のなかの「思いがけないところ」というのは会話におけるある種のプンクトゥムなんじゃないか?と思ったのだ。つまり横滑りして展開するとりとめのない会話というのは、プンクトゥムの連鎖ではなかろうか?と。

ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

(『明るい部屋 写真についての覚書』 ロラン・バルト著 花輪光訳 みすず書房 1985 p.37より抜粋)

仮にその発散的なスタイルの会話を女性的だというのであれば、いっそそれを徹底的にやってみようじゃないか、イメージで!という考えがよぎったのだ。あらかじめテーマや形式を決めてイメージを集め編む収束的な方法ではなく、横滑りするのを楽しみながら前のイメージのどこかしらにフックして次のイメージをつなげる発散的な方法を試してみようじゃないか、と。

おもしろければプロジェクト化すればいいし、数名でやってみるのも良いかもしれない。まずはsmall startで。

ことの発端はこのフライヤーだったのではないかと思う(事後的に)。
土器のマットな質感の黒がずっと頭にあったのだろう。おもむろにブラックデニムがほしい気もちになり、街でたまたま出会ったのが3本のデニムを1本に統合した再構築デニム。

つながっているようなつながっていないようなデニムの継ぎ方から連想されるイメージを手元の写真から選んでみる。ここからスタートだ。

息のあわないダンス

 

なにか考えや問いをもって撮影に向かうたび、おもしろいくらい裏切られたここ数日。写真は常に現実とのせめぎ合いだということを忘れないために、X(旧twitter)の投稿に少し手を加えてこちらに移しておこうと思う。写真はできるだけ同じ画角になるようトリミングしたうえ、後から加えた。

まるで息のあわないダンスのようだ。

2023-12-03

きょうは愛宕山に登るつもりが、電車の遅延と不安定な天候によりショートカット。体力と気もちを持て余し、保津峡駅のプラットフォームで撮り鉄の皆さんの横に並んでみた。ほかの方は保津峡を走り抜けるトロッコ列車を撮っている様子だったが、わたしはそばの枯れ木に覆われた山が目当て。晩秋の山は枯れ木も含め個体によって色がバラつくので、それぞれの木が個として見えてくることがある。

2023-12-02

以前、川で撮影をしていたときに、あまりに人出が多く、個として見えていたのが群に見えた途端におもしろみを失うということに気がついた。それからは人出が多すぎるタイミングを外して撮るよう気をつけている。

個と群で関心のありようが変わるのはなぜか? 個として見えていたものが群にしか見えなくなるその臨界点はどこにあるのか?「個と群」にまつわるそれらの問いはずっと意識の底に横たわっていたが、ここ数日の撮影であらためて意識化されてきた感触がある。

「個と群」

2023-12-05

「個と群」について考えてみたいと思って撮影に出かけ、戻って写真を確認したら、高解像度ならではの質感が立ち上がっていて、そちらの方がおもしろい。

2023-12-04

意図をもって撮影に臨んでも写真がその意図を裏切る。撮った写真によって意図がどんどん横滑りする。意図したとおりに撮れるより俄然楽しい。ワクワクする。

意図に写真を従わせようとするより、撮れてしまった写真と対話するような感じで進めるほうが自分にはあっている気がする。写真が教えてくれることがあるから、ぜんぶ自力でなんとかしようと思わなくてもいい。

2023-12-05

実体験を通じ、山上付近で巻かれるガスこそが雲とわかっていながら、空を見上げたときに雲になんらかの質感を見出すのはなぜだろうということを考えている。

経験が伴わないのに、鱗雲にはモロモロとした感触を、入道雲にはある種の張りを感じるのはなぜなのか。

2023-12-06

いま見ようとしているものはもしかしたら直射の順光ではないほうが良いかも…と思ったときに、ベッヒャーのような曇天がいいだとか、晴天の順光がいいだとか、他人がもっともらしく言う「いい」を真に受けていたなと気づく。晴天の順光、陰、霞、曇天、雨上がり、湿度の高い低い…どういった環境のどういう光がフィットするか?

マウスひとつでいかようにも色を調整できてしまう時代だからこそなおさら、現場に立って現物を見て、自分の感覚を総動員して確かめたいと思う。

さあ実験だ😊

2023-12-06

枯れ木を遠くから高解像度で撮ると、ふわふわっとした質感が立ち上がる。正確には知覚のバグだと思うのだけれど、被写体が本来備えているものとは違う質感を画像に見てしまう。以前にも似たような経験をしていて、降雪を撮ったらまるでその雪が写真の表面についた霜のように見えたことがある。これも知覚のバグだと思う。そのあたりを少し深堀りしたくなって、きょうも嵐山に向かった。

雨上がり。空気にふくまれる水蒸気が逆光を拡散し、視界が霞む。いつもより目を凝らしてピントを合わせる。質感というよりむしろ不可視性を考える機会となった。過剰な光もまた可視性を損なう。
2023-12-06

祭りの夜に

 

先の八瀬の赦免地踊りに続き、この週末は鞍馬の火祭りを訪れた。
この祭りも最後に訪れたのは2019年で、2度目の来訪となる。

はじめて訪れたときは、祭りの熱気と燃え盛る炎に煽られ、執拗にシャッターを切っていたように思う。

今回は、写真を撮るというより祭りそのものを楽しもうと思って訪れたこともあり、鞍馬街道のほぼ最奥で軒を借りて松明が通るのを待っていた。

鞍馬の火祭りは鞍馬寺ではなく由岐神社の神事で、氏子それぞれの軒先で篝(エジ)が焚かれている。両親と同年代と思しきご夫婦が互いに相手の薪のくべ方に注文をつけあっているのを聞くとはなしに聞いていたら、なんとなく氏子同士の立ち話に加わることになっていた。

氏子のひとりが「松の枝を市原に取りに行ったんやけれど、(時節柄、マツタケ)泥棒と疑われんかと思ってな」と話しているのを聞いてあらためて各戸の篝を見てみたら、薪を山のように積んでいるもの、一定量を保ってこまめに薪を足していっているもの、それぞれの個性が滲みでているようすが見えてきた。

篝が焚かれた街道の光景を、できるだけうつくしい画に仕上げようとシャッターを切るのと、それぞれの篝にその火の守りをする人の個性を見出しながらシャッターを切るのとでは、まなざしのあり方はまったくちがう。

先の赦免地踊でも、はじめて訪れたときは切り子燈籠のうつくしさや女性に扮した少年たちの妖しさに魅了されたが、ことしは隣席の方から「今回は息子が燈籠着(燈籠をかぶって歩く役)を、夫が警固(燈籠着のそばについて燈籠を支える役)をしている」と聞いたことで、息子の頭に載せられた5kgもの燈籠を力強く支える父親の手が見えてきた。

それまで見ていなかったもの、見えていなかったものが見えるようになった、という気がしたのだ。

日頃から「見栄えのいい写真を撮ってやろうという欲は時として足枷になる」と自分を戒めてきたが、その欲はよく見ることの妨げにすらなりうると思った。

外から来訪し、フォトジェニックな被写体を追って見栄えのする光景を切り取って帰るより、その場その場で居合わせた人と関わることによって、まなざしがそれまでよりずっと丁寧に細やかになった。個別具体的なひとの営みが、以前よりよく見えるようになった。

翻ると、それまでわたしは、ひとを記号のようにとらえていたのだと思う。

わたしだけではない。その夜、祭りの場でシャッターを切っていたほとんどの来訪者が祭りの担い手を、それぞれの画面を構成する要素/匿名の存在/記号のように扱っていたのではないだろうか?さらに言えば、見知らぬ他者を画面に取り込む写真実践のすべてに同様の問いは潜んでおり、それを不問に付したまま写真は消費されてきたのではないだろうか?

個別具体的な生をもつ他者を、画面を構成するものとしてとらえること、あるいは記号のようにとらえることへの違和。近年芽生えたその違和を、なかったことにせず考え続けたいと思う。

トレードオフ

 

コロナ禍の影響で、商業地では空きテナントが増え、そのガラスにシートや板があてがわれている光景が目立つようになった。いっぽう住宅地では、地方移住の需要を見込んだ旺盛な投資により集合住宅の建設ラッシュ。真新しいガラスがシートで覆われている光景をよく見かけるようになった。

ガラスに映る像を見ようとすると、木目やシートの皺といった支持体が介入する。
木目やシートそのものを見ようとすると、映り込む像に阻まれる。
拮抗やトレードオフといったことばが脳裏をよぎるが、トレードオフは今の社会状況をもっとも象徴することばだ、とも思う。

見えているのに見えていないこと

 

15年分のスナップ総ざらえも、あと少し。

ステキと思って撮ったのでは「ない」もの。なんかようわからんけど気になるわと思って撮ったものばかりを集めてみると、自分の関心がどこにあるのかが少しクリアになってきた。

視覚のくせ(エラー)が垣間見えるような場面、画面要素の拮抗状態、前後関係の撹乱をはじめとする識別不可能性。見えなさ。

フェンス(ネット)より手前に突き出ている枝に対しては、立体感や奥行きを感じたりディテールを見ることができるのに、フェンスより奥のものに対しては、奥行きや立体感を感じたりディテールを見ることができない。

むしろフェンスがつくる平面に像がペッタリ吸着されているような気さえする。脳内では面の認識が優先されているのだろうか?

こういった見えているのに見えていないこと。見えなさ。

備忘録

 
  1. 写真が奥行きを約めてしまうことによる見えの変容
  2. 平面、あるいは平面が仮構された状況。及び、その平面への介入
  3. 透けてみえる対象が映像のように感じること(質感の混在が原因?)奥行きが失われるように感じること

人間の視覚では捉えられない無意識の世界をレンズが〜という話ではなく、ひとは見ているつもりになっているが、そもそも目の前にあるものすらあまり見ていない、とあらためて。

2012.01.11

 

fence-plants

pond

 

swan

2011.01.02

 

紅葉の頃からものの色が気になってしかたがなくなって、よくある光景でも、こういうのは色が多くて少し目眩がする。

grass

2011.12.23

 

web

最近、ものの色が気になってしかたがない…

夙川

 

SHUKUGAWA

これを撮りながら、モネの睡蓮を思い出した。水面に映る映像(木々)と、浮かんでいる紅葉によってかろうじて規定される透明な水面と、透けて見える川底の藻や石。実体と映像が交差していて、たまに自分が何を見ているのか混乱する。とりわけ写真では、ピントをどこにあわせるかを厳密に要求されるから、「何を見ているのか」を絶えず自問せずにはいられない。

2011.11.02

 

approach

2011.11.01

 

totan-plants

2011.10.23

 

flowers

影が長くなっとる

 

陽射しのきつさは相変わらずだけれど、2時3時の時点ですでに影が長くなっとる。
秋が待ちどおしい。

long shadow

2010.8.21

 

2010.8.21

2010.8.21

 

2010.8.21

小石川の猫

 

小石川の猫

決して動物が好きなわけではないのだけれど、3年間ネコ屋敷に住んだせいか、猫を見るとついカメラを構えてしまう。

しかし、猫って器用に寝るもんだなぁ。寝返りうたんのか…

2010.6.25

 

2010.6.25

今回の相手は鴨ではなく、

 

今回の相手は鴨ではなく

友人が、気負いなくブログに写真を載せているのを見て、ちょっとうらやましくなってしまった。魔がさしてる。

2010.6.6

 

2010.6.6

まずは音を聴いてみる。

 

foxtail

「撮ってください」と頼まれることと、撮りためたものの中から「ピックアップして、ください」と頼まれることと両方あるのだけれど、今回は後者のほうで、年明けからフィルム総ざらえ大会になっていた。

ねこじゃらしは、英語でfoxtailというのだそう。キツネのしっぽ。
オーダーにかなう写真じゃないけれど、一枚そっとしのばせた。

テレビを見るときと読書するとき以外は音楽を流していることが多い。ものの見えかたとか受け取めかたって、そのときかかっている音楽に影響を受けてしまう。次のお題はその逆で、曲を聴いて感じたイメージを写真にのっける。

まずは音を聴いてみる。

運動神経が悪いので

 

運動神経が悪いので

先の写真と対にするつもりで撮ったもの。下を向いて撮って、上を見たら鳥が飛んでいたのであわてて撮って。「田んぼのいろは、ほらこの空の色と同じじゃないか…」ということ。色への関心。

鳥と居合わせると必ず撮ってしまう。でも、運動神経が悪いので動く被写体は苦手。

そっけない。

 

そっけない。

鏡やガラスは、ものが映ると反射面のそのものの質感が退いて、その表面を認識しにくくしてしまうけれど、もの(ここでは田んぼ)がその表面としての体裁を保ったまま、反射面としての機能を持っているという事態に興味があります。

このときは、「映りこむってかたちだけでなく色も一緒に映るんだ!」という単純な事実を発見して感動していました。

そのわりにはそっけない。

モノクロの感受性

 

モノクロの感受性

逆光だからか、叙情的。

「いい写真を撮りたい」という気持ちをどう実現していこうと考えたときに、ただ感受性や気分に頼るだけではだめで、冷静な分析とあわせていかないといけないなとあらためて思っています。

自分がどういった被写体のどういうところに関心があって撮っているのかということを徹底的に洗い出して分析するところからはじめようと思います。いま自分が撮っているものの限界をみきわめて、そこからそれを超える方向に向かっていきたいなと。

ちょうどいま、写真批評の講義を聴講していて、「泣かせる」写真の手法というのは定石があり、「海のような空虚な写真は見るひとが感情移入をしやすい、フェティッシュなものもしかり…」などといった話をきいています。いい写真を…という思いが、結果として単なる「泣かせる」手法に回収されるようなことにはなりたくないなぁ。