本日はスキャナがすこぶる不調。
昨年の暮れに『負ける建築』(隈研吾著 岩波書店 2004年)を読んでから、わたしは 、けっこう長い間思考停止していたんじゃないかと思っている。
そのくらい、すっきりとして批判的な文章であり、なによりも、この本を貫く作家の批評的な姿勢に学ぶところが大きかった。
いちばん興味深かったのは、20世紀の建築-経済-政治の関係についての記述で、写真と直接関係ないのだけれど、建築の立場から書かれた「写真の性質」についての記述は少し気になったので、抜き出しておこう。
ライトの根本にも「建築の民主主義」があったことは間違いがない。その証拠に彼は自由で流動的な空間に着目し、生涯、人間を拘束しない自由な空間を追求し続けた。しかし、同時に、空間の性状、空間の流動性を、二〇世紀の支配的メディア(すなわち写真)を使って伝達することがいかに困難であるかも、ライトは熟知していた。それゆえ彼はフォトジェニックな建築エレメントである空中にはり出したキャンティレバーをしばしば用いた。
写真は空間を伝達することには、不向きだった。空間は形態的ヴォキャブラリーに変換されて、初めて写真上に表現される。大きくはり出した屋根やスラブの形態を見て、人はやっとのことで、その空間の流動を感知することができる。キャンティレバーという形態を通じて、屋内と屋外が相互に浸透しあう様子を感知できる。特に写真のフレームの端部にうつされたキャンティレバーは、広角レンズの生み出す歪みによって、一層、その空中への大胆な持ち出しを強調するのである。ロビー邸(一九〇九年)(図17参照)はそのようにして「傑作」となった。あるいは、ライトが三〇年代のユーソニアン住宅と呼ばれる一連の住宅でしばしば試みたように(図30)、木製の横羽目板に、さらに水平のボーダーを打ちつけることではじめて、水平の流れは誇張され、空間の流動性は写真的に伝達された。写真という二〇世紀メディアは、二〇世紀建築のデザインの方向性を逆向きに規定したのである。
(『負ける建築』 隈研吾著 岩波書店 2004年 p107から抜粋)
建築は、重く大きい建築物そのものを動かすことはできないから、その流通においては、いちばん写真に頼らざるを得ない分野であり、それだけに、写真の特性に対してシビアに、あるいは敏感にならざるを得ない、ということを知る。
写真を撮る側からは、差し出された被写体に対して、写真の特性をどう有利に働かせるか、というアプローチをとるのだけれど、その逆のアプローチ—写真の特性に応じて、被写体自体の形状が決定づけられるということ—が、建築という規模(テレビ映りを気にして痩せるタレントの比ではなく)で行われていることに驚き、そして、写真というメディアの持つ影響力の大きさをあらためて思い知らされた。