LISA SOMEDA

こころ (2)

1:25 a.m.

 

寝る前に小腹が空いてうっかりナッツを頬張ったせいで、案の定、深夜の逆流性食道炎。

こういうときはたいてい、不安や恐れ、悲しみといったものがアマルガムのようになった忌々しい夢を見て、ぎゅっと鳩尾を締めつけられるような痛みとともに目覚めるものだが、今夜の夢は祖母のものらしきワンピースと白いサンダルを手に彼女が行きたかったであろう場所を訪れ撮影するという夢だった。

見覚えのないワンピースだったが、縫い代にマジックでフルネームが記されているから施設に入った後のものだろう。断片的に、水面のきらめき、まだ浅い緑、初夏の風景だ。そして、その旅を通じて祖母のさびしさに触れた気がした。

鳩尾の痛みはいつもとさほど変わらないのに、なぜか今夜は、私の身体にはまださびしさが残っていたのかと、かつて置き去りにした感情をやさしく迎えにゆく心もちになっていた。

これまでずっと頑なに遠ざけたり固く閉ざされた箱に押し込むようにしてきた感情を、それもまたわたしの一部とやわらかく受け止められたのは、これがはじめてかもしれない。

1:25 a.m. まだ鳩尾は鈍く痛む

今でもわたしは

 

今年はあいにく体育館での開催となったのだけれど、赦免地踊を観に行った。

はじめて訪れたのは4年前。
市街地から北に向かうにつれ、少しずつ空気がひんやりと、夜がその存在感をましていくように感じられた。そして、山あいの夜の暗さと静けさに圧倒され、蝋燭の灯に揺らぐ切り子燈籠のうつくしさ、女性に扮する少年たちの妖しさに魅了された。

それこそ京都は祭りの宝庫で、雅なものから勇壮なものまで多種多様な祭りがあるのに、なぜこの小さな集落の祭りにひときわ心魅かれるのだろう?と、帰宅後もしばらく考え続けていた。


この数年、訪れた土地の夜の暗さにほっとすることがある。
ここは夜が夜らしい暗さだ、と。


半月ほど前、ある人から「なぜ写真なのですか?」と尋ねられた。

わたし絵が描けないんです/学生時代、自分で問いを立てることが求められたのは写真の課題だけだった。もしその課題が写真ではなく彫刻だったら、わたしは彫刻をしていたかもしれない/暗室だけが安心して泣ける場所だった/なにか素敵なもの、それまで見たことのないようなあたらしいものの見えかた、そういったものに意識を向けながら世界をまなざすこと、太陽の下を歩くという路上スナップの行為そのものが、当時の自分のこころを支えていたように思う

そんなふうに答えたと記憶している。

「もしかして暗室は…」
言いかけた相手のことばを引き取るように、わたしは答えた。
「子宮なのかもしれません。唯一、安心できる場所でした」


山あいの夜の圧倒的な暗さと静けさ。それに抗うのではなく、折り合いをつけるかのようにひっそり執り行われる集落の祭り。自分の輪郭がほどけるような暗さと静けさのなか、揺らめく灯に誘われ、ふだんは届くことのないこころの深い場所に触れられる気がした。

ああそうか。
今でもわたしは暗く静かな場所を求めているのかもしれない。