8年前の2016年、ロシア滞在も終わりに近づいた頃、予定していた撮影をなんとか終えたわたしは、ほかの撮影候補地を探しつつサンクトペテルブルクにある美術館、博物館に足を運んでいた。はじめ、博物館リストにあるクンストカメラをカメラに関連する施設と勘違いしていたが、調べてみると小さな博物館らしいことがわかった。そしてわたしはそこに「何が展示されているか」わかったうえで、クンストカメラを訪れた。クンストカメラが博物館の前身となるヴンダーカンマー(驚異の部屋)の別称だと知るのはその数年後のことになる。
歴代の皇帝の個人的なコレクションの集積場と言われるクンストカメラには、いつの時代の日本人だろう?と訝しく思うような人類学、民族学的な展示から、地球儀など科学に関連する展示まで、幅広く集められた収蔵品が魔術的な雰囲気を纏って陳列されていた。そしてほとんどの訪問者がいちばん衝撃を受けるのが、奇形の胎児(人間)のホルマリン漬けがずらっと並んだ展示室だ。
わたしも例外ではなく、そのときはただただショックを受けて帰途に着いたが、数年後に国立民族学博物館で開催された『驚異と怪異』という展示で驚異の部屋(ヴンダーカンマー)を知ったとき、人間の珍しいものを見たいという欲望の行き着く先をわたしはすでに見てしまったのだと悟った。個人のもっともプライベートな領域の深い悲しみを伴った存在を、その場から切り離し「珍しいもの」として蒐集し展示することのおぞましさ。museumの原点にはそういうおぞましさが潜んでいるのだと思った。わたしはそんな土台のうえに自分の作品を積みあげるのか?という戸惑い。そして、ほかでもないわたし自身が「何が展示されているか」わかったうえで観に行ったのだ。おぞましさはわたしの中にもある。
そんな経緯でmuseumというシステムに関心を持つようになったが、過去を掘り下げ起源に遡る方へと向かうと、どうしてもネガティブなことばかりが目についてしまう。それがだんだんしんどくなっていったというのもあるのかもしれない。今回、豊田市美術館の「未完のはじまり 未来のヴンダーカンマー」展を訪れたのは、なにか新しい視点が得られないだろうかという期待があった。
神話と現代的なメディウムを融合させた作品や、科学と錬金術的・魔術的な世界観とが渾然とした作品など、まざる(混ざる・交ざる)ことの豊かさを感じる作品群。国民的詩人の孫であるTaus Makhachevaの、祖父のパブリックイメージとプライベートな記憶を辿る作品。さまざまな切り口で、museumの機能———もとの環境や文脈からの切断、移動、分類———が揺さぶられ問われているが、強く印象に残ったのがフィクションとして構成された映像作品3点。
Taus Mackhachevaの《セレンディピティの採掘》は「半世紀前の未来科学者たちが提案したアイデア」という架空の設定に基づき、そのアイデアをもとにつくられたアクセサリーの形をしたガジェットが展示され、実際に身につけることもできる。最新ガジェットのはずなのにどこか魔術的・錬金術的な雰囲気が漂い、科学と錬金術の境目はどこにあるのだろうと考えた。
Yuichiro Tamuraの《TiOS》では生体との結合性が強いチタン(Titan)を軸にくすっと笑いを誘う未来像が提示され、産業技術と身体(生体)の関係性が浮かび上がる。カセットテープ、フロッピーディスク、HDD…記憶はいつも回転体が担っていたという指摘がふかく印象に残っている。
Liu Chuangの《リチウムの湖とポリフォニーの島Ⅱ》のリチウムの湖では、ウユニ塩湖でのリチウム採掘、歴史を遡ってポトシ銀山にも触れ、(鉱山をはじめとする)開発、輸送、それに伴う産業といったものの構造が、一方的に「新世界」と呼ぶ地域から略奪・蒐集を繰り返してきたmuseumの構造と不可分であることを考えさせられる。富の移動。いっぽうポリフォニーの島では、人間だけが地面のうえで歌を歌うという動物学的な説明にくわえ、ポリフォニーの祖と呼ばれるバッハ以前から少数民族の歌にポリフォニーが存在していることが指摘される。うつくしい映像のところどころに西洋中心主義批判がそっと織り込まれている。
企画自体が未来志向だということもあるけれど、ほとんどの作品が批判よりも可能性に開かれていて風通しの良さを感じた。そもそもが豊田市博物館の開館に向けてmuseumの起源に遡りつつ未来を考えるという企画だったので、展覧会を観たその足で開館したての豊田市博物館にも足を運んだ。
いわゆる未完でのオープン、と理解。未完は決して悪い意味ではなく、市民がグループをつくってその土地土地の石を集める取り組みが紹介されていたり、持ち寄られた「豊田での生活史を象徴するもの」が展示されていたり、ここで暮らすひとが自分たちで自分たちの歴史や環境を調べ考え続ける場として機能する博物館像が示されていた。それは「美と知の殿堂」といった啓蒙主義的な存在としてのmuseumから脱却する試みとしてもとらえられ、その意味で、あたらしいmuseum像を見ることができたと思う。3年後、5年後、10年後に今の未完がどんな未完に変わっていくのか楽しみである。
museumの起源には血生臭い簒奪の歴史が、そして未だに蒐集する/される非対称な構造が横たわってはいるが、それを乗り越え新しいmuseumをつくっていくことができると示されたように感じ、明るい気もちで博物館を後にした。
- 参考
- 未完の始まり:未来のヴンダーカンマー(豊田市美術館)
- 豊田市博物館(公式)
- 驚異と怪異(国立民族学博物館)
- クンストカメラ(wiki)
- クンストカメラ(公式)
- ロシア最古の博物館にして、ロシアの科学のゆりかご。ピョートルのクンストカメラ誕生物語(ロシアビヨンド)
- 奇形児などが展示されているピョートル大帝のクンストカメラ(ロシアビヨンド)
松宮秀治さんの「ミュージアム思想」はmuseumを考えるうえでとてもよい書籍ですが、高額で入手しづらくなっています。近くの図書館に蔵書がないなど事情がある方はご一報ください。お貸しします。