少し前に読んだ、スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー』が読解不能だったことで、(なかば自信を失い)読書からずいぶん遠のいてしまっていた。
暑すぎる夏の夜は、読書にかぎる。
そばにあるのはポール・ヴィリリオの『ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容』。
速度と知覚の変容、という副題にひっぱられた。
まだ読みはじめたばかりだけれど、第一章の前の『緒言 外観をめぐる企て』からすでに、おもしろい予感がする。
こんな風にして絵画について何年もかんがえていたあるとき、わたしのものの見方にとつぜん変化がおこった。特別な価値のない物体にむかっていたわたしの視線がその傍らにあるもの、そのすぐ横にあるものに移ったのだ。平凡な物体が特別な物体に変化したということではない。「変容」がおこったわけではない。もっと重要ななにかがおこったのだ。とつぜん、わたしの眼前にあたらしいオブジェが出現した。切りとられ、切りこみをいれられた奇妙な形象の構成の全体がとつぜん目にみえるようになった。あたらしく観察されたオブジェはもはや平凡なもの、どうでもよいもの、無意味なものではなかった。それはまったく逆に、極度に多様であった。それはいたるところに存在していた。すべての空間、すべての世界があたらしい形象で充満した。(中略)卑小な幾何学になれてしまっていたために、あきらかに存在するにもかかわらず、われわれにはみえていなかった形態が出現した。われわれは円や球や立方体や四角形は完全に知覚することができるが、事物や人間の間の間隙やすきまを知覚するにはずっとおおくの困難をかんじる。物体によって切りとられ、形態によって型どりされた間隙というこの輪郭の存在にわれわれは気がつかない…。
(『ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容』 ポール・ヴィリリオ著 丸岡高弘訳 産業図書 2003 p11から抜粋)
のっけから強烈に気になる一節で、間隙を知覚できるようになったら、いったい何が見えるんだろう。その知覚のなかではどんな価値観の軸が出現するのだろう。ということが、気になってしかたがない。