ある作家のコンセプチュアルな写真作品。実際に作品を見るのは、ほとんどはじめてのことなので、とても期待をしていた。しかし、そのクオリティの高さとコンセプトへの見事なアプローチにも関わらず、ほとんど何も感じるところや考えるところ、思うところがなかったことに驚いた。

それから、そのことをずっと考え続けている。

作品を前にしたときに、観者は、言語化できなかったり、明確に意識化できない「何か」を受け取っているのではないか?そして観者の認知や判断は、少なからずその「何か」に依存しているのではないか、と。

少し前に読んだ『数学する身体』(森田真生著 新潮社 2015)の興味深い記述を思い出した。

かいつまんで書くと…
進化電子工学の研究で、ある課題を実現するチップの設計プロセスそのものを、人間の手を介さずに人工進化の方法だけで試みたところ、興味深い結果を得た。四千世代ほどの進化の後に、無事タスクをこなすチップが得られたが、そのチップは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数の論理ブロックしか使用していない。普通に考えるとその論理ブロックの数では機能するはずがない。数が少ないうえに、ほかの論理ブロックと繋がらず機能的にはどんな役割も果たしていない論理ブロックが5つも見つかった。だが、この5つの論理ブロックのどれ一つを取り除いても、回路は働かない。(おもしろくなってきた…)
そこで、この機能を果たしていないかのように見えるチップを詳しく調べたところ、この回路は電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたことがわかったという。

普通はノイズとして、エンジニアの手によって慎重に排除されるこうした漏出が、回路基板を通じてチップからチップへと伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのだ。チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を、進化的に獲得していたのである。

(『数学する身体』 森田真生著 新潮社 2015 pp.34-35から抜粋)

同じようなことが作品を介したコミュニケーションでも起こっているのではないだろうか。

言語として整えられたコンセプト(作家の意図)から漏れ出たノイズのようなものを、わたしたちは暗黙のうちに受け取っているのではないだろうか。とりわけ写真はノイズと親和性のある(というよりノイズにまみれた)メディアであるにもかかわらず、わたしが見た作品からはノイズが排除されすぎていたのではなかろうか。