LISA SOMEDA

映画 (13)

無時間性

 

いつだったか、WEBでRIVERSIDEの作品を観てくださった方に「写真なんですか?絵だと思っていました。」と言われたことがあって、そのときは「写真です。」と答えたものの、編集していると絵のように見えることがある。その事象についてはなんとなくやりすごしてきたが、もしかしたら考える糸口になるかもしれないということばに出会った。

無時間性

そのことばがひっかかったのは、RIVERSIDEの編集中、信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間や時計といった、時間を意識させるものを画面の中に見つけたときに、ハッとすることがあったから。そういうものに反応するということは、わたしは自分が撮った写真を無時間的なものと見なしているのではないか?と。

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Spring has come!
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Spring has come!
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Spring has come!
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Spring has come!
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また、はじめて展覧会を開いたときに、会場を提供してくださった企業の方から「三条大橋とか、場所の名前入れたほうが良かったんじゃないですか?」と言われたことがあり、写真が地図のように見えたんだと思ったが、地図ととらえるなら、まさに無時間的だ。

ソフトフォーカスは、写真という媒体が得意とするはずの細部描写を敢えて放棄することで、白黒写真を木炭デッサンと見紛うものに変えることもできる。だが、福原の作品の場合、ソフトフォーカスは写真を絵のように見せるためというよりは、無時間性の印象を補強するために用いられている。第一に、ソフトフォーカスの写真は、写真画像と、我々が肉眼で見ている世界の光景のあいだの差異を拡大することで、前者がまるで別世界の出来事であるかのように見せる。この別世界において、我々が暮らす世界と同じようなペースで時間が流れているのかどうか、我々には知る由もない。第二に、ソフトフォーカスの写真では多くの場合、それがごく短い時間で撮影されたことを示す証拠が画面から取り去られている。マーティンの《海老の籠を運ぶポーター》を例に見たように、人物の表情、洋服の裾といった要素は、ある写真が瞬間的に—おそらく数分の一秒以下の短い時間で—撮影されたことを示唆する。そういった要素はしばしば微細なものであり、ソフトフォーカスによって細部が抑圧されると同時に、写真から消え落ちてしまう。

(『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』 甲斐義明著 東京大学出版会 2021 pp.27-28より抜粋)

無時間性ということばは、ソフトフォーカスの技法についての説明とあわせて出てくるが、ここで注目したいのは、瞬間的に捉えたことを示唆する微細な要素が抜け落ちると無時間性の印象が補強されるということ。

わたしは細部をとらえることにこだわりがあるからソフトフォーカスは用いないが、40mほど離れた被写体を撮るので、必然的に人物の表情や洋服の裾といった微細な情報は脱落する。(その意味では、近距離より遠距離の被写体のほうが無時間性を帯びやすいと言える)

さらに、自転車のような動く被写体は、なるべく像が流れないよう速めのシャッタースピードで撮る。すると「動き」を感じさせる要素も抜け落ちる。上述のソフトフォーカスの話とは逆に、細部をとらえようとすることが、無時間性の印象を補強することにつながっている。

いっぽう、隣接する写真が異なる瞬間に撮られたものであること(時間性)をはっきりさせておきたいという気もちもある。

プリントの工房で「雪は難しいでしょう。つなげるときに濃度が揃わないから。」と言われ、いやむしろ吹雪に緩急があって写真の濃度が揃わないほうがおもしろいと思ったときに、自分が求めているのが滑らかにつながるひとまとまり(全体)ではなく、ひとつひとつの写真が独立しつつゆるくまとまりを仮構する構造であると自覚した。そして、それぞれの写真の独立性は時間性に拠っている。

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無時間性を帯びやすい方法で撮りながら、写真どうしの関係においては時間性を拠りどころとしている。そのことが明らかになったのは前進だと思う。絵のように見えることと無時間性のつながりについては、またあらためて。

世界にやさしく触れる

 

三脚を立て水平垂直をあわせ、最後にファイダーを覗きながらピントリングを繊細にまわすとき、世界にやさしく触れているような感覚になる。そして、そのことで自分自身が癒やされたり救われたりしている部分が少なからずあるのかもしれない、とふと思った。なにかにそっと触れるとき、やさしさは触れる対象だけでなく自分にも向けられる。

ここで話題にしたいのは、前段のほう。
ほんのわずかでも回しすぎるとピントが甘くなるので、必然的にピントリングには繊細に触れざるをえないが、その手つきによって、事後的にやさしさが喚起されるのではないか?と。

ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんと池谷裕二さんの対談に、興味深い話がある。(https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html

イーと発音するときの口をしてマンガを読んだときのほうが、ウーと発音する口で読んだときよりマンガがより面白く感じられるという実験結果について。脳は外界から隔離された存在で、脳それ自体では外界のことはわからず、唯一身体を通じて理解をする。ここで言えば、脳に届くふたつの情報「笑顔をつくっているようだ(イーを発音する口)」と「マンガを読んでいる」から脳は「マンガがおもしろい」という合理的な解釈を導き出すのだそう。身体の状態が先にあって、脳はあとからそれに解釈をくわえる。

だとすれば、繊細な手つきによってやさしい気もちが喚起されることも、あり得ない話ではない。

もうひとつ。
日日是好日という映画で、「お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ。」という台詞があった。ふるまいが先にあって、心は後からついてくる。そのことを、先人たちはよく知っていたのかもしれない。

七夕の夜

 

七夕の夜、珍しく母に作品の話をした。

フレームの中に何を選びとり、そして、焦点によってどの奥行きを選んで際立たせるか。写真は徹底して「選ぶ」ことに依拠しているけれど、フレームとピントによる選択を無効化してもそれでも作品として成立するだろうか?ということを考え続けている。と。

母に話したのはそこまでだけれど、選択を無効化するということを目指しながらも、それでもやはり周到に避けている(選ばないでいる)ものがあることには薄々気がついていて、最近は、何を撮るかより何をフレームからはずしているか、に関心が向いている。

先日、IZU PHOTO MUSEUMでフィオナ・タンの《Accent》を観た。

戦後、検閲は廃止され、報道の自由が保障されるようになったが、アメリカは検閲を行い、日本人の愛国心をかきたてるおそれがあるとして、映画から富士山のシーンを削除した。そして、その検閲は日本国民には知らされず、富士山の削除自体がわたしたちの認識から削除されていた。

わたしが展示室に入ったのは、おおよそ、そのような内容のセリフが語られているシーンだった。(正確にセリフを覚えていない)

少し面食らった。

時間軸(タイムライン)から削除されたり、フレームからはずされたりしたものがある、ということに、ふつう人は気づけない。

さまざまな情報戦が繰り広げられるこの時世に、はずされたものについて考える重みをずっしりと感じた。

フレームの解体

 

同僚が買ったばかりのおもちゃを嬉しそうに見せびらかしていた。
RICOH Theta

テレビショッピングさながらに機能を披露していたが、そのなかでもおもしろかったのが、360度の動画。動画なのに、視界を自分の好みの方向にかえられる。それもYouTubeにアップされた360度動画を、PCやスマホで見ることができる手軽さがすばらしい。

今まで、静止画の360度をおもしろいとは思ったことがなかったけれど、なぜかこれが動画になるとおもしろい。ストーリー性の強い動画、例えば事件の起こっている場面で、全然関係のない方を向くこともできる。フレームが解体された動画だ。

もしフレームがないと成立しないのであれば、逆に、どれだけフレームに依存していたかということがあぶりだされる。暗黙のうちに了解されていた映像の文法が無効になることで、逆に、どういう文法を使っていたのかということが明らかになるかもしれない。

もうひとつおもしろかったのが、スマホで見る場合、画面を操作するのではなく、スマホ本体を右に向けたり左に向けたりすると、360度動画の視界も右や左に移動する。マウスやタッチパネルで操作するよりも、スマホをリアルに動かすほうが、映像が連動する感動が大きいのと、リアリティを感じる。スマホが異空間に向けて穿たれた穴のようにすら思えてくる。操作が日常行為に近ければ近いほど、映像とリンクしたときのリアリティが強いのかもしれない。

映画的なるもの

 

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
(『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。

モザイク

 

モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である。それを掛けてしまえば、できた作品を観た被写体からクレームがつくことも、名誉毀損で訴えられることも、社会から「被写体の人権をどう考えているのか」と批判されることもない。要するに、被写体に対しても、観客に対しても、責任を取る必要がなくなる。そこから表現に対する緊張感が消え、堕落が始まるのではないか。

(『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)』 想田和弘著 中央法規 2009 p53より抜粋)

そして、精神病院の様子をモザイクなしで映し出した作品『精神』について。

 実は、僕と配給会社は、『精神』の広報活動の戦略を練る際、テレビを含めた日本のメディアが、映画やそれに出ている患者さんたちをセンセーショナルに、いわばホラー映画のように扱うことを、最も警戒していた。そのための対策も、いろいろ議論したりした。

 ところが、それは僕らの杞憂に過ぎないことが分かった。メディア側はむしろ、映画の登場人物やその近親者を傷つけたり、彼らから反感を買ったりしないよう、細心の注意を払っていた。腫れ物に触るがごとく、警戒していた。

 そして、そういった態度は、患者さんの顔にモザイクが掛かっていないことにこそ起因していることは明らかだった。モザイクが無いので、映画を取り上げる彼らにも被写体に対する責任が生じ、やりたい放題するわけにいかないのである。

(同書 p216より抜粋)

この文章の最後のほうに「モザイクを掛けないことが、実は被写体のイメージを守っているという、その逆説」とある。

モザイクのくだりについては、なるほどな、と思った。

つくり手の率直な言葉で綴られていて、好意的に読んではみたのだけれど、文章を読む限りにおいては、主題である患者の生きざま、よりも、それを「モザイクなしで見せること」に、作家が執心しているように感じられ、そのことに少し違和感を感じた。

なによりまず作品自体を見てみないと…。

食べること

 

スキャン待ちの読書が食傷気味になったので、DVDを借りてみる。ディスプレイが2台あると、こういうときに便利なんだな。

ツ●ヤの戦略にまんまとはまり、4本レンタル。
かたつむり食堂、プール、妹おすすめのクヒオ大佐…と、もう1枚はヒミツ。

かもめ食堂、西の魔女が死んだ、かたつむり食堂、と、料理をつくることと食べることに軸を置いて、暮らしを描き出す作品が最近増えているな…と思う。

飽食のこの国にあって、あたりまえであったはずの、料理を丁寧につくって食べることが、ユートピアのように描かれる不思議さ。

生活者の実感としては、素材の値段に関わらず、こんなもんでいいかと適当に食べ物を口に運ぶときががいちばん貧しく、丁寧に料理したものをゆっくりいただくときがいちばん贅沢に感じられる。

だが、こうも繰り返し理想化しなければならないくらい、わたしたちの食の風景は貧しくなっているのだろうか。

敬老の日の「ご長寿」特集で伝えられるところによると、家族と一緒に食事をする方は、たくさんの品数を会話をしながらゆっくり食べるため、血糖値の上昇がゆるやかにおさえられ、長生きの傾向にあるとのこと。

妙に真剣に見てしまった。

暑さを理由に

 

タイトルすら確かめず、ゴロゴロしながら、観るつもりもなく観ていたイタリア映画が、存外良かったのだ。

後で確認したら、ジュゼッペ・トルナトーレの作品だった。
そういうことか。

神戸から瀬戸内にかけての夏の光、そしてあの地域独特のヌケの良さ、開放感を、心底愛しているけれど、でもやっぱりおそろしく暑い。

結局、夏は、本を読むか、映画を観るか…なのね。
久しぶりにロマン座で、マカロニウエスタン観たいなぁ…。

見落とす

 

ふだんあまり映画は観ないほうなのだけれど、ふらっと立ち寄った三月書房で、その挑発的な「まえがき」にそそられて思わず買ってしまった一冊『映画の構造分析』(内田樹著 晶文社 2003)。5年前の大学院の講義ではわからなかった映画のナニが、これですっきり。

 無知というのは、何かを「うっかり見落とす」ことではなく、何かを「見つめ過ぎて」いるせいで、それ以外のものを見ない状態のことです。それは不注意ではなく、むしろ過度の集中と固執の効果なのです。

視線について、欲望について、そして、作品構造の重層的な分析、映画の構造のあまりの深さに恐れ入った、というのが正直なところ。

それにひきかえ、大多数の写真とそれにまつわる言説はあまりに素朴すぎやしないだろうか?

 私たちが隠れている何かを組織的に見落とすのは、抑圧の効果なのです。
 ですから、抑圧の効果を免れるただ一つの方法は、自分の眼に「ありのままの現実」として映現する風景は、私たちが何かから組織的に眼を逸らしていることによって成立しているという事実をいついかなるときも忘れないこと、それだけです。

写真が、組織的に見落としているもの、眼を逸らしているものって何だろうな。

幾千のディテイルの積みかさね

 

母は映画が好き。
BSで放映されている辺境の地の映画をもっぱら好んで観ている。
居間で一緒にゴロゴロしながら映画を観ていると、彼女が言う。

「(映画って)すごいわよね。それこそ幾千のディテイルの積みかさねじゃない。」

おっと、おかん。ええこと言うやん。
「幾千のディテイルの積みかさね」
素敵なフレーズや。どこからパクってきたんやろ…。

そんな母に、
「深夜、寝しなにテレビつけたら、ニューシネマパラダイスやっとってん。」
と言うと、「あら、そんなん寝られないじゃない。」と。

まったくその通りだったのが可笑しかった。
翌朝早くに用事があるのがわかっていながら、
〜早朝4時の放映を最後まで観てしまった。

4度目なのに、泣きながら。

カメラになった男

 

先週末、神戸の映画資料館で上映していたので、観に行った。

映画館のせいなのか、編集が原因なのか、音がとても酷かったのが残念だったし、技術的に拙い感じは否めないけれど、数年前に見た「きわめてよいふうけい」よりも、見るべきところは多かったように思う。

特に沖縄の講演会のシーン。
講演会のタイトルのなかで使われている「創造」ということばに対して、「写真はクリエイションじゃない、ドキュメントだ」と言っているところとか。

中平さんの写真には、まなざしに余計なものが混じってなくて、ものがただそこにあることだけが定着されて、成立している。やっぱりすごいなぁ、と思う。

撮影しているとき、楽しそうなのが印象的やった。

いのちの食べかた

 

数時間じっとしているのが苦手で、
ほとんど劇場に行かないし、あまり映画は観ないほうですが。

何年かにひとつくらい、これは観とかないとと思う映画があって、
「いのちの食べかた」
京都みなみ会館で上映中だったので、さっそく観に行く。

ドキュメンタリーになるのかな。
音楽もナレーションもなく、淡々と、動物が、植物が、食料化されていく工程と、
職員がご飯を食べる姿が交互に続くだけ。

牛や豚、鳥や魚が生きものから「肉」になるということがどういうことなのか。
人工交配がどういうことなのか。
知らなかったわけじゃないけれど、知識として知っているだけで、
実体験としてはなにも知らない。
そういうことを、目の当たりにさせられます。

ふつうにグロテスク。
しばらく緊張でからだが萎縮するほどに。

でも、食品加工におけるグロテスク、を隠蔽したり、
あるいは、誰かにそのグロテスクな作業を負わせているのに、
涼しい顔で知らないでいることは、もっとグロテスク。

まるで工業製品を扱うかのような無情さで、淡々と加工される動物・植物。

知らなかったわけじゃないけれど、でもどこかで、
せめて食品くらいは、人の手を介したあたたかいものだと思いたがっていたんやろな。
冷や水をあびせられたような気持ちになりました。

飲食業を営むUさんご一行と出くわして並んで一緒に観ましたが、
途中から、みなおかしを食べる手がとまってしまっていたのが印象的でした。

わたしは、帰り道も想像力のスイッチが入りっぱなし。
「海鮮かきあげ丼」の看板を見ては、生きたまま魚が腹を切り裂かれるシーン、
「焼き鳥」を見ては、鶏が首なしでコンベアで運ばれるシーン、
「牛丼」では、おびえる牛に高圧電流を流すシーン、
が頭をよぎって、なかなか、食欲が戻りません。

いのちの食べかた 公式サイト

キューバに行きたくなった。

 

R座、二度目の訪問。

一度訪れると、ハードルは低くなるもので、
日曜日の夜、みず知らずのひとと並んで映画を見るのが、楽しみになってきた。

サルサ!という映画、
タイトルのとおりのダンスムービーやけど、ダンスムービー特有のストーリーの安っぽさもなくて、気持ちよく見られた。フランス映画だし、少し、アフロアメリカンの描きかたに偏りを感じたけれど、青春恋愛映画としては、充分。ほんで、こんな機会がなければ、青春恋愛映画なんて、自分では絶対に見ないから、新鮮やった。オトも良い。

ところどころ、ききとれるスペイン語の響き。
キューバに行きたくなった。

日本はチマチマしてていややな、と、
ペルーから帰国したころから20年間ずっと思っていたから、
中南米、行ってしまったら、帰りたくなくなるだろうね。

35歳までに、メキシコとキューバと。

サルサ!