一望できない形態の作品をつくっていながら、編集や記録の段階で、全体を把握したいと思うことがある。そこに端を発し、ことあるごとに、全体を把握したい(一望したい、俯瞰したい)という人間の欲望の深さを感じるようになった。

身近なところでは、「結論から言うと」という物言いに集約される結論から先に述べる習慣が挙げられる。できるだけ早く、できれば一瞬で全体を把握したい欲望は、当然のものとして社会全体を覆っている。
そして、写真はその欲望を叶えるのに最適なメディアである、とも思う。

一方、小説や物語、音楽、映画のように時間経過のなかで展開することにこそ意味のある表現もある。

最近でこそ、そういった時間性に関心を持つようになったけれど、最初から時間性を意識していたわけではない。そもそもは写真の具体性をどう担保するかというところに関心があった。それがどうして時間性に結びついたのか、自分の中で整理できていなかったのかもしれない。あまりに端的に示している文章に出会って驚いた。

宇宙を研究するために可視光線で撮影している場合もあり、X線で撮影している場合もあり、電波望遠鏡の場合もある。それぞれ別の像が得られますが、宇宙はそういう個々の見え方を超えて一つであるものでしょう。私たちは、何かの手段を選んで、それぞれ限界のある図を得ることしかできません。なるほど人間は、さまざまな手段を使うことによって個々の宇宙像を少しずつ超えることができます。しかし、「具体的にして全体的なもの」をついに人間が一望に収めることはできないと思います。全体的であろうとすれば抽象的たらざるをえず、具体的なものは必ず部分的であるというのが、私たち人間の世界認識の限界です。

(『徴候・記憶・外傷』中井久夫著 みすず書房 2004)

2005年のインスタレーションを組み立てるにあたり「写真の内容を具体的に見てもらうためには、自分が今見ているものは部分でしかないという認識を持ってもらうことが必要だ」ということを直感的に考えていた。そして、作品を一望できない展示形態を採用した。一望できないということは、全体を把握するためには時間の幅が必要になる。

ようやく合点がいった。