LISA SOMEDA

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自由になった前足

 

このサイトでいちばんアクセスが多いのが「感覚比率」という2007年の投稿で、そこでは電話をしながらつい落書きをしてしまうという経験に触れたが、ちょうどいま読み終えた
ハンズ 手の精神史』にも、会話と手の動きについての記述があったので抜粋しておこうと思う。

この本では、わたしたちがいかにせわしなく〝手を動かさずにはいられない〟存在であるかが描かれており、電話であろうとなかろうと会話と手の動きはそもそも切っても切れない関係にあるようだ。

 第一世代の研究者たちは、手の使用がおおよそ二つのグループに分かれるという意見で一致していた。一方の「対象に焦点を当てる」手の運動は———特に、言葉を強調したり、区切りを入れたり、修飾したり、例示したりする際に———話し言葉と密接に関連していた。他方、引っ掻いたり、こすったりするような「身体に焦点を当てる」運動には、話し言葉との関連はみられなかった。対象に焦点を当てるジェスチャーは、発話のリズムにあわせて調整されており、その二つの同期のゆらぎが言語符号化における問題を直接的に示していると考えられた。発話と運動がうまく噛み合わない場合には、話者が何かを表現することに苦労している可能性がある、というわけだ。しかし、身体に焦点を当てる運動は、それとは異なったものであることがわかった。 それらの運動は、発話のリズムにはそれほど同期してはいなかったのである。そして、そうした運動は、分離や死別などの喪失の後にしばしば起こっていた。それはまるで、身体が痛みや悲嘆に反応して自分自身を刺激しているかのようであった。

 あらゆる研究者によって確認されていたように、先の二つのグループの違いは、実際にはより複雑なものであった。古典修辞学者もそう考えていたように、「対象に焦点を当てる運動」が話すことと結びついていたことは確かである。だが、「身体に焦点を当てる運動」が言語から完全に切り離されているわけではない。後者の運動は、話すこと自体にはほとんど関係がなかったが、そういった運動はまさに「聴く」という経験に関係していたのである。私たちは、聴衆を説得しようとしたり、あるいは単に聴衆とコミュニケーションをとろうとしたりするときに、意図的であるかどうかにかかわらず、ジェスチャーを用いることがある。しかし聞き手の側にも、身体の関与が存在する。実際、他人から話しかけられているときに、手を動かさないままでいられる人がいるだろうか?
ハンズ 手の精神史』(ダリアン・リーダー著 松本卓也・牧瀬英幹訳 左右社2020 pp.187−189より抜粋)

続く文章では、この問いに対して職業的に「聴く」ことが求められる精神分析家の例が挙げられている。

 実際、現在までの精神分析の文献についての調査記録を読むと、話を聴いている精神分析家がもっとも頻繁に行っていることは、メモをとることではなく、編み物をすることだったようだ。
(同書 p190より抜粋)

そして、フロイトの娘のアンナが分析中に編み物をしていたこと。フロイト自身は、喫煙するために手をせわしなく動かしたり、宝石の指輪を舐めたり、古美術品の置物やお守りをひっかき回したり、なでたりしていたことが描かれ、

 そのほかに分析家たちのあいだで頻繁に行われていたのは落書きで、それが話を聴くという経験と密接に関連しているのは間違いない。
(同書 p191より抜粋)

と括られている。

自分の経験に照らすと、対面だと話しづらいことも、作業だったりドライブしながらのほうが話しやすいことがある。養護教諭の友人は、わたしがなかなか話を切り出せないでいるとき、それを察して車のなかで運転しながら話を促してくれた。話しやすい場をつくってくれるってすごいな…と思った記憶がある。聞き手が手を動かしていることは聞き手自身の感覚のバランスをとっているだけでなく、話し手側の話しやすさにも影響を及ぼすのかもしれない。

さて、この本を読んだ直後、遺体科学の研究者である遠藤秀紀さんが、人間は木から下りて二足歩行になったことで、前足(手)が自由になり、重力によって喉のパーツが下にひっぱられて口に空間ができたことで音声言語を獲得したのではないか?とラジオで話されているのを聴いた。

もしその仮説が正しいとすれば、二足歩行によってもたらされたふたつのもの、自由な手(前足)と音声言語が切っても切れない関係にあるというのは興味深い。

つまるところ、わたしもまた自由になった前足を動かさずにはいられずに、この文章を綴っているのだ。

二足歩行についての話は52:17〜58:46まで。

無時間性

 

いつだったか、WEBでRIVERSIDEの作品を観てくださった方に「写真なんですか?絵だと思っていました。」と言われたことがあって、そのときは「写真です。」と答えたものの、編集していると絵のように見えることがある。その事象についてはなんとなくやりすごしてきたが、もしかしたら考える糸口になるかもしれないということばに出会った。

無時間性

そのことばがひっかかったのは、RIVERSIDEの編集中、信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間や時計といった、時間を意識させるものを画面の中に見つけたときに、ハッとすることがあったから。そういうものに反応するということは、わたしは自分が撮った写真を無時間的なものと見なしているのではないか?と。

СНЕГ
Spring has come!
СНЕГ
Spring has come!
СНЕГ
Spring has come!
СНЕГ
Spring has come!
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また、はじめて展覧会を開いたときに、会場を提供してくださった企業の方から「三条大橋とか、場所の名前入れたほうが良かったんじゃないですか?」と言われたことがあり、写真が地図のように見えたんだと思ったが、地図ととらえるなら、まさに無時間的だ。

ソフトフォーカスは、写真という媒体が得意とするはずの細部描写を敢えて放棄することで、白黒写真を木炭デッサンと見紛うものに変えることもできる。だが、福原の作品の場合、ソフトフォーカスは写真を絵のように見せるためというよりは、無時間性の印象を補強するために用いられている。第一に、ソフトフォーカスの写真は、写真画像と、我々が肉眼で見ている世界の光景のあいだの差異を拡大することで、前者がまるで別世界の出来事であるかのように見せる。この別世界において、我々が暮らす世界と同じようなペースで時間が流れているのかどうか、我々には知る由もない。第二に、ソフトフォーカスの写真では多くの場合、それがごく短い時間で撮影されたことを示す証拠が画面から取り去られている。マーティンの《海老の籠を運ぶポーター》を例に見たように、人物の表情、洋服の裾といった要素は、ある写真が瞬間的に—おそらく数分の一秒以下の短い時間で—撮影されたことを示唆する。そういった要素はしばしば微細なものであり、ソフトフォーカスによって細部が抑圧されると同時に、写真から消え落ちてしまう。

(『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』 甲斐義明著 東京大学出版会 2021 pp.27-28より抜粋)

無時間性ということばは、ソフトフォーカスの技法についての説明とあわせて出てくるが、ここで注目したいのは、瞬間的に捉えたことを示唆する微細な要素が抜け落ちると無時間性の印象が補強されるということ。

わたしは細部をとらえることにこだわりがあるからソフトフォーカスは用いないが、40mほど離れた被写体を撮るので、必然的に人物の表情や洋服の裾といった微細な情報は脱落する。(その意味では、近距離より遠距離の被写体のほうが無時間性を帯びやすいと言える)

さらに、自転車のような動く被写体は、なるべく像が流れないよう速めのシャッタースピードで撮る。すると「動き」を感じさせる要素も抜け落ちる。上述のソフトフォーカスの話とは逆に、細部をとらえようとすることが、無時間性の印象を補強することにつながっている。

いっぽう、隣接する写真が異なる瞬間に撮られたものであること(時間性)をはっきりさせておきたいという気もちもある。

プリントの工房で「雪は難しいでしょう。つなげるときに濃度が揃わないから。」と言われ、いやむしろ吹雪に緩急があって写真の濃度が揃わないほうがおもしろいと思ったときに、自分が求めているのが滑らかにつながるひとまとまり(全体)ではなく、ひとつひとつの写真が独立しつつゆるくまとまりを仮構する構造であると自覚した。そして、それぞれの写真の独立性は時間性に拠っている。

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無時間性を帯びやすい方法で撮りながら、写真どうしの関係においては時間性を拠りどころとしている。そのことが明らかになったのは前進だと思う。絵のように見えることと無時間性のつながりについては、またあらためて。

They looked, but did not see it.

 

タイトルのセンテンスは、昨年末に読んでいた今井むつみさんの『英語独習法』で見つけたもの。思いがけないところで、思いがけないことばに出会うのね。

人は外界にあるモノや出来事を全部(seeの意味で)「見ている」わけではない。無意識に情報を選んで、選んだ情報だけを見るのが普通である。注意を向けて、見るべきもの、次に起こるであろうことを予期しながら外界を(lookの意味で)「見ている」。当たり前のことが起こると、その情報は受け流してしまい、見たことを忘れる。予期しないことが起こり、それに気づけばびっくりする。そのときは記憶に残りやすい。しかし、注意を向けているつもりでも、予期しないものは気づかずに見逃しまうことも多い。

(『英語独習法』今井むつみ著 岩波新書 2020 p7より抜粋)

RIVERSIDEプロジェクトの根幹は、まさにこれだと思って。ふだん何気なく(lookの意味で)見ているものを写真に置き換えることで、seeの意味での見るに変換すること。

いつも見ていたはずだけれど、そうは見ていなかったんじゃない?と。

そして、日本語を使って考えているうちはなかなか言語化しにくかったのが、英語を借用することでこうもあっさり表現できるんだなぁ、と。

ここからはまったくの余談…
ちょうどこの本を読んでいたのと同時期に放映されていた恋愛ドラマに「好きです。likeではなくて、loveです!」という台詞があって、わざわざ英語を借用しないと自分の気もちすら伝えられないって日本語ってちょっと不便じゃない?と。自分の生活でも、漢方医の問診で「喉がかわきますか?」と訊かれたときに、乾く(dry)?渇く(thirsty)?どちらだろう?といつも戸惑う。局所的に喉を湿らせたいのか、身体が水分を欲しているのかは違うニーズだと思うので…。

何かを厳密に定義したり伝達するには、日本語は曖昧ですこし不便な道具なのかもしれない。

満足であるというのは過激なこと

 

先日、@CKUAで観たジェン・ボー(鄭波)の展覧会で、参考書籍として紹介されていた本の中に、好きな装丁のものがあり、後日、あらためて探し求めた。

植物と叡智の守り人

ネイティブアメリカンの植物学者が描くうつくしい世界観に触れ、しばらくこちらの世界に戻ってきたくなくなってしまった。それも、ただうつくしいのではなく、現代社会に対する鋭い洞察がいたるところにちりばめられている。心に刺さったところをいくつか書き留めておこうと思う。まずは、経済について。

ネイティブアメリカンの社会では、感謝、とりわけ地球や大地に対する感謝が重視されるが、資本主義社会でドライブのかかった欲望に歯止めをかける力を、著者はこの感謝という行為に見出している。

以下の記述は、著者が夢で見た光景ではあるが、心理描写が興味深い。

つい先日、その市が、鮮やかな質感とともに私の夢に出てきた。私はいつものように腕に籠を抱えて売店を縫って歩き、エディータの店に採りたてのコリアンダーを買いに行く。楽しくおしゃべりをした後、お金を払おうとするとエディータは、要らない、と手を振り、軽く私の腕を叩いて立ち去らせようとする。贈り物よ、と彼女が言う。どうもありがとう、と私は答える。お気に入りのパン屋では、丸いパンの上に清潔な布をかけてある。私はパンをいくつか選んで財布を開けるが、ここの店主もまた、まるでお金を払おうとするのが失礼なことでもあるかのように、要らない、と身ぶりで示す。私は困惑して周りを見回すーー見慣れた市場のはずなのに、様子がガラリと変わっている。私だけではなく、誰もお金を払っていないのだ。私はすっかり嬉しくなって、市場を足取り軽く歩き回る。ここで使える通貨は感謝だけなのだ。すべては贈り物なのである。まるで野原でイチゴを摘んでいるみたいだーー行商人たちは、地球からの贈り物を次の人に手渡す仲介者にすぎないのである。

わたしは自分の籠の中身を眺める。ズッキーニが二本、玉ねぎ一個、トマト、パン、それにコリアンダー。籠はまだ半分空だが、一杯になったみたいに感じる。必要なものは全部揃っている。私はチーズを売っている店に目をやり、買おうかな、と考えるが、買うのではなくてもらうことになることを考え、やっぱりやめることにする。おかしなものだーー市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。そして、明日私は何をお礼に持ってこようかと考え始めた。

もちろん、その夢は消えてしまったが、とても嬉しかった気持ちと自制心は消えなかった。それ以来何度もそのことを考え、私はそのとき、市場経済から贈与経済へ、私有財産から共有財産への転換を目の当たりにしたのだということが今ではわかる。そしてその転換によって私たちの関係は、手に入れた食べ物と同じくらい滋養たっぷりなものになった。(後略)

(『植物と叡智の守り人』 ロビン・ウォール・キマラー著 三木直子訳 築地書館 2018 pp.47-48から抜粋)

市場にあるものが全部、単にとても安いだけだったら、ふだん私はできるだけたくさんのものを買っただろう。でも全部が贈り物となったら、自制心が働いたのだ。必要以上のものは受け取りたくない。

贈与経済では、過剰な欲望は抑止される。これは、大事なポイントではないだろうか。

さらに、「感謝のことば」あるいは「すべてのものに先立つ言葉」として古くからネイティブアメリカンに伝わる慣習を紹介する章では、以下のように記されている。

感謝のことばを聞いていると、否応なく豊かな気持ちになる。それに、感謝の気持ちを表現するというのは素朴な行為に見えるかもしれないが、それは実は革命的な考え方だ。消費社会においては、満足であるというのは過激なことなのだ。自分に不足しているもののことではなく、自分がいかに豊かであるかを認識するのは、満たされない欲求を作り出すことによって繁栄する経済を弱体化させる。感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。感謝のことばは、あなたはすでに必要なものすべてを持っているということを思い出させる。感謝の念があれば、満足感を得るために買い物に行こうとは思わない。満足感というのは買えるものではなく、贈り物であって、それは経済全体を根幹から揺るがす。地球にとっても人にとっても、それは良い薬になる。

(同書pp.146-147から抜粋)

感謝の念は充足感を育てるが、経済の繁栄には欠乏感が必要なのだ。

持続可能な社会に向けて、まっさきに取り組むべきは、感謝の気持ちを表現する、ということなのかもしれない。

選択の根拠

 

どうしてそれを選ぶのか、自分でその根拠がわからないまま選択を行なっていることは多いという自覚はずっとあった。特にものをつくる場面で。

いちばん身近なものでは、なぜそれを、そのようなかたちで写真に収めるのか?という問い。それはいつも自分につきまとっている。

最近読んだ、『あなたの脳のはなし』には、はっきりとこう書かかれている。

わたしたちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない

私たちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない。脳はつねに情報を周囲から引き出し、それを使って私たちの行動を導くのだが、気づかないうちに周囲の影響を受けていることが多い。「プライミング」と呼ばれる効果を例に取ろう。これはひとつのことが別のことの知覚に影響するものである。たとえば、温かい飲み物を持っている場合は家族との関係を好意的に表現し、冷たい飲み物を持っているときは、その関係についてやや好ましくない意見を述べる。なぜこんなことが起こるのか?心のなかの温かさを判断する脳のメカニズムが、物理的な温かさを判断するメカニズムと重なり合っているので、一方が他方に影響する。要するに、母親との関係ほど根本的なものについての意見が、温かいお茶を飲むか、それとも冷たいお茶を飲むかに、操られる可能性があるということだ。

(『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房 2017 pp.111-112から抜粋)

ほかに、硬い椅子に座っているときのほうが、柔らかい椅子に座っているときよりもビジネスにおいて強硬な姿勢を示す、といった例も挙げられている。

 もうひとつの例として、自覚されない「潜在的自己中心性」の影響を考えよう。これは、自分を思い起こさせるものに引きつけられる特性のことだ。社会心理学者のブレット・ペラムのチームは、歯学部と法学部の卒業生の記録を分析して、デニースやデニスという名前の歯科医(デンティスト)、そしてローラやローレンスという名前の弁護士(ロイヤー)が、統計的に多すぎることを発見している。

(同書 p112より抜粋)

さらにたたみかけるようにこう続く。

心理学者のジョン・ジョーンズのチームは、ジョージア州とフロリダ州の婚姻記録を調べ、実際に名前のイニシャルが同じ夫婦が予想より多いことを発見した。つまり、ジェニーはジョエルと結婚し、アレックスはエイミーと結婚し、ドニーはデイジーと結婚する可能性が高い。この種の無意識の影響は小さいが数値的な裏付けのあるものだ。

 要点はこうだ。もしあなたがデニスやローラやジェニーに、なぜその職業やその配偶者を選んだのかと訊いたら、彼らは意識にある説明を話すだろう。しかしその説明には、最も重要な人生の選択に対して無意識がおよぼす力は含まれていない。

(同書 pp.112-113より抜粋)

これほどまでに、無自覚に環境の影響を受けているのだとしたら、時間をかけて見つけた合理的に思える根拠も、疑わざるを得ない。

想像以上に「わかっていない」ことがわかって、少し恐ろしくなった。

動くものを見る

 

昔、教習所で「動くものに視線をとられるから、フロントガラスに揺れるものをぶら下げないように」と言われたことを思い出したのは、降雪の中で撮影をしていたとき。ピントをあわせるために被写体を凝視しても、雪のチラつきにずいぶん注意を奪われることに気がついた。

それから、人は動くものに、(本人たちが思っているよりもずっと強く)注意がそがれてしまうのではないか、と考えるようになった。逆に言えば、写真の「静止していること」がもたらす効果は、想像以上に大きいのではないか、と。

静止しているからこそ、つぶさに観察ができる。
誰もが知っている、ごくあたりまえのことだけれど、これは案外、重要なことではないだろうか。

先日、ふと手に取った本にいくつか視覚に関する興味深い記述を見つけた。

適切な条件下で、ある映像を左目に、別の映像を右目に同時に見せられると、その両方を何らかの重なり合った形で見ることはなく、一方の映像だけが知覚される。そして、しばらくするともう一方の映像が見え、その後再び最初の映像が見えるというように、二つの映像が際限なく切り替わる。

 しかしコッホのグループは、片方の目に変化する映像を、もう片方の目に静止した映像を見せられると、変化する映像のほうだけが見え、静止した映像はけっして見えないことを発見した。つまり、右目に、卓球をしている2匹のサルのビデオを、左目に100ドル札の写真を見せられると、左目はその写真のデータを記録して脳に伝えているにもかかわらず、本人はその写真に気づかない。

(『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p56より抜粋)

このあと、変化する映像が優先的に意識にのぼり、変化しない映像は無意識の領域で処理されるという話につながっていくが、無意識の話はさておき、変化する(動く)映像のほうしか意識にのぼらないというのはすごいな、と思う。

それほどまでに、視覚のなかで「動き」が優先して処理されるとは思っていなかったから、ただただ驚いた。

夜の静かな時間

 

クラフト・エヴィング商會の「星を賣る店」の展示会場で、月下密造通信という名の壁新聞をいただいた。

その壁新聞に

子供のころにも思い、いまもなお実感するのですが、人は皆、夜の静かな時間を持つべきかもしれません。その時間に何をするか、何もしないか、何もしないとしても、どんな時間が流れるかを見守ったり考えたりする。船が港に帰ってきて、夜の海の底に錨をおろすみたいに。(中略)世の中にはさまざまな本がありますが、自分はつまるところ、こうした冬の夜に心静かにひもとく本があれば、あとは何も要らないのです。

というくだりがあって、ものすごく共感してしまった。

Dzibilnocac という遺跡。
現地の方にすらなじみが薄い遺跡のようだったけれど、どうしてもどうしても見たくてユカタン半島に向かった。それは、ル・クレジオの『歌の祭り』の、ジビルノカク、夜の書 で描かれていた情景がものすごく美しかったから。

 寺院の名は、ジビルノカク、「夜の書」という意味で、伝説によるとここにはマヤの文化英雄、文字の発明者である偉大なるイツァムナの弟子のひとりがかつて住み、長い夜を幾晩も費やして、イチジクの樹で作った紙片に神聖文字を描き、空にマヤの人々の秘密を読みとったのだという。(中略)

 ぼくがジビルノカクのことを語りたいと思ったのは、夜を費やして人が文字を書くというこの孤立した場所の伝統が、ぼくには美しいと思われるからだ。世界でもっとも居心地のよい場所。世界を忘れてただひとり、記号の中へと入ってゆくための影の部屋のように美しい。その記号が石に刻まれたものであれ、アコーディオンのように折りたたまれた紙に描かれたものであれ、夜の沈黙の中で人がゆっくりとめくる絵のない本のびっしりと文字がつまったページに印刷されたものであれ。夜、書き、夜、読むことは、あらゆる旅のうちでもっとも驚くべき、もっとも簡単な旅だ。(『歌の祭り』 ル・クレジオ著 菅啓次郎訳 岩波書店 2005 pp.204-205から抜粋)

つまるところ、
静かな夜にことばを紡いだり、本をひもといたり、
そういうことを、わたし自身が、ものすごく愛しているのだと思う。

静かな部屋で雨音を聞きながら、
つくづく、そう思った。

身体技法というアプローチ

 

チベットのモーツァルト』読了。
最近、かなり読書のペースが落ちているにもかかわらず、自分にとって必要な本にはうまく出会うものだなあと思う。

いきなり呪術とか聞きなれないことばが出てくるので面食らうかもしれないけれど、大事なことが書かれているので抜き出してみよう。

 カスタネダによればこの老呪術師は人類学者にむかってつねづね、呪術というもののもっとも大きな課題は「世界についての考えを変える」ことにつきるとまで語っている。彼は「世界」のリアリティというものが、人々がおたがいに会話を交換しあう間-主観的な過程をつうじて構成されると考える現象学者と、とても似た考え方をもっていた。つまりドン・ファンによれば、わたしたちは子供の頃から「他人が世界とはこうこうこういうものだ」と話すのを聞いて育ったおかげで、一定の形式をそなえた世界についての考え方とか感覚を獲得してきたのである。言いかえれば、他者のディスクールを中継点にしながら、世界のとらえ方をかたちづくってきたわけである。しかもわたしたちはこうして意識の内にとりこまれた他者のディスクールとのたえまのない「内部の対話」をくりかえし、そのディスクールの秩序にしたがって「現実」なるものを不断に構成しつづけている。だから「世界がかくかくでありしかじかであるというのは、ひとえにわしらが自分にせかいはかくかくでありしかじかであると言いきかせているから」なのであって、多様なレヴェルでたえまなく流れつづけている「内部の対話こそがわしらを縛りつけているもの」にほかならない、とドン・ファンは言いきるのである。

 だがその言いきりに関して、このインディアンの呪術師のほうが、同じことを主張するヨーロッパの現象学者よりもずっと自信にみち、さらにその先にある地点にまで踏みこんでいこうとする確かな手ごたえさえ感じられるのは、呪術師には現象学的認識を越えでていくのを可能にする確実な身体技法の伝統があるからだ。(中略)

 じつを言えば、チベット仏教の「風の行者」たちの場合も、それと同じなのだ。彼らもただたんに超能力なんてものを身につけるために、こんな訓練をしているのじゃない。そこからよけいな仏教的外皮をさっぱりぬぐい去ってみれば、早い話が「風の行者」のめざしていることも「世界についての考えを変える」ことにほかならないからである。チベットの密教行者たちも、「現実」が多層的な構成をもち、またその「現実」の表層部分の構成にたいしてディスクールの秩序が決定的な重要性をもっているという現象学的思考を前提にしている。しかも彼らはさらに、幻覚性植物ならぬ精巧をきわめた瞑想の身体技法を駆使して「内部の対話」を止め、たえまなく流れつづけている「世界」の構成作用を停止して、ダイナミックな流動性・運動性にみちた別種の「現実」のなかに踏みこんでいこうとしている。
(『チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)』 中沢新一 講談社 2003 p153-154から抜粋)

そんな大それたことばを使って考えたことはなかったけれど、自分が写真表現に携わるうえでやりたいと思っていることは「世界に対する認識をかえる」ことだと思っている。ガラッとではなくても、認識を少しズラすくらいのことでもできれば、現在あたりまえとされているものの見方(世界に対する考え方)を、多少は対象化できるのではないか、と思っていた。そして、日常の生活世界のかすかな破綻、亀裂のようなものを探すような方法を探ってきたと思う。

わたしは神秘主義者ではないし、西洋式のものの考え方にどっぷり身を浸しているほうだとは思うけれど、身体技法の獲得という方向からアプローチする、という方法は一考の価値ありだと思う。
というのも、ヨガの実践を通じて、ほんの少しの予備動作や運動イメージの持ち方によって、身体の可動範囲が広がったり、難しいバランスがとれたり、まさか自分がこんなことができるとは思わなかったことが、わりとあっさりできてしまうという体験をして、実はわたしたちは身体のごく限られた能力しか使っていないのではないか。逆に言えば、正しく修練すれば、違った身体のありかた、精神のありかた、ものの感じ方、にたどりつけるのではないか、と思うようになっていたからだ。

実際、いまのやりかたに行き詰まりを感じているし、方法を変えてみるというのは、安直な気がしないでもないけれど、もし修練のすえに違った世界認識や、世界の見えが得られるのであれば見てみたいと思うのは、視覚表現に携わる者として、まっとうな願いなのではないかとも思う。

近い—遠い

 

リハビリの夜 (シリーズケアをひらく)』(熊谷晋一郎 医学書院 2009)を読む。

少し気になる文章があったので抜き出しておこう。

 車いすに乗ったときに見える三次元の世界は、床に寝そべっていたころに見た二次元の世界とは異なる。それはただ単に、視点の位置が高くなったということだけではなくて、時間の流れの感じ方や、空間の広がりの感じ方にも変容をきたすものだ。

 まず空間の〈近いー遠い〉という感覚について考えよう。

 現在の私には車いすから降りたとたんに、それまで近くにあったモノが、急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。おそらく世界にある対象物への〈近いー遠い〉という距離感覚は、「対象との協応構造にあいた隙間」によって大きく影響を受けているように思う。

 たとえば、協応構造の隙間が小さくてすぐにつながることのできる範囲、すなわち手を伸ばせば届く範囲が「近くの場所」で、息切れしない程度の移動でつながれるところは「少し離れた場所」、やっとの努力でつながれる場所は「遠くの場所」、努力してもつながれない場所は「向こう側」というふうに。

だから床の上に転倒した二次元の世界では、多くの人や、モノとのあいだに大きな隙間が生じるために、それらが遠くの場所や向こう側に存在しているように感じられる。二次元の私にとってモノたちや人々は、数十センチの至近距離にこない限り、私とは関わりのない遠くの存在なわけで、それは壁や天井と違いのない風景とも言える。

 このように、協応構造にあいた隙間の大小によって空間の感じ方は変容する。その関係を整理するならば、「身体外協応構造の隙間が大きいものは遠くに、小さいものは近くに配置する」ということになるだろう。そして、空間の中で隙間が最も小さいのが「身体」である。
(前掲書 p169-p170から抜粋)

写真にたずさわるうえで、へだたり、遠近、ということについて、無関心ではいられない。ここでは、協応構造という専門的な用語が使われているが、距離あるいはへだたりの感覚が、単なる計量的なものではなく、生身の身体を介する「かかわりのもてなさ」としてマッピングされていることを、あらためて思い起こさせられた。

 電動車いすに乗っているときの世界の感じ方は、乗っていないときとはまるで違う。さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。運動の変化量、ひいては世界の見え方の変化量が大きくなることで、時間の流れ方も早くなるような気がする。行動の選択肢が格段に増えることで、自己身体のイメージもより可能性を持ったものとして感じられるようになる。

 このように電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうのである。
(前掲書 p171から抜粋)

ここでさらに変数が増える。運動の変化量、時間の感覚。

ここまではっきり認識したことはないけれど、体調の悪いとき、からだをかばいながら少し緩慢に動いて撮影しているときは、普段立ち止まらないようなものにぐっと引き寄せられることがある。いつもとは違うものに呼び止められるような感じ。それは、さっさと機敏に歩いているのでは気づかないようなこと。
あるいは、移動手段が歩くのと、自転車に乗るのとだけでも、撮影対象もそこで撮る写真もまったく違ってくる。それが車になり飛行機になると、まったく次元が違ってくる。そう。運動の変化量が上がるにつれて、遠いものを撮ることが多くなる。こういった経験から、運動の変化量と距離感覚とに関連があることは、少し想像がつく。

それに加えて時間の感覚。著者は電動車いすによる、加速する方向の変化について書いているけれど、わたしにとっては、スロウダウンのほうがよりリアルだ。これも、体調が悪く緩慢に動くときの、じっと床を這うような時間の感覚をよりどころにするしかないのだけれど。

さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。
このフレーズは、今の自分にとってすごく大事な気がする。

そして、電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうという文章の「電動車いす」を、車や飛行機にかえてみてもいい。
飛行機と車で移動しながら撮影をする写真家の作品を思い起こす。彼の作品のバックボーンは、その運動の変化量の大きさ。動力を利用することで、ヒューマンスケール(生身の身体)のリミットをはずしてしまったところにあるのではないか、ということを考えていた。

身体を含めた世界のイメージをすっかりかえるという経験を、身体感覚を研ぎすます方向で見いだそうとしていたけれど、運動の変化量をかえる、ということで得られるのであれば、これを試さない手はないだろう。

これはまだまだ、もっともっと時間をかけて考えていきたい。

子どものころのこと

 

久しぶりの更新。
3連休の最終日、ふらっと神戸にお出かけ。
秋物のシャツを探しに元町のStjarnaに。
お目当ての黒いシンプルなシャツはなかったけれど、かわりに白い動きやすそうなシャツを購入。

店長さん、今日は朝から姪の運動会に行ってきたそうな。
姪は走るのが得意ではなくてすごく悔しそうだった、という話を聞いて、そういえば、走るのが遅いとか、大人だったら一週間もすれば忘れることでも、子どもにとってはすごく重大でとても深刻だったりするんですよね、ということを話す。

それから岡本に戻って、甥の誕生日プレゼントを買いにひつじ書房へ。
絵が気になっていたおばけの絵が表紙の本を探していると伝えると、店長さんが少し怪訝な顔をして「子どもをこわがらせるの、あまり良くないと思いますよ」とおっしゃられ、眠るときに読み聞かせる本だったら、こちらのほうがいいですよ、と「おやすみなさいおつきさま」という本を薦めてくださった。おばけの絵が表紙の本は子どもによっては怖がって破いてしまったりするそうな。

少し戸惑いながら、薦められた本を開いてみると、綺麗な色づかいで、うさぎが眠る前にいろんなものにおやすみなさいと挨拶していく本で、すごく愛らしく素敵だったので、迷わずこちらをプレゼントに。

こわがらされて眠るより、一日のなかでお世話になったものたちそれぞれに、順におやすみなさいを言って眠るほうがおだやかで良いよなぁ。

今日は「子どもは思っているよりずっと繊細な生きものだ」ということを思い出すための日だったのかもしれない。そして、自分のこころの在り様が、日に日に殺伐としていってるよなぁ…と思い知らされもした。

空間そのもののはじまり

 

昨日の「守宮神(宿神)」では少し寄り道をしてしまった。そもそもは、重森三玲の庭に興味を持って、中世から現在に至る作庭の、背後にある思想とか美意識を知りたいというところからスタートしたのだ。はからずも『精霊の王』に、その答えを見つけたように思う。長いけれど抜き出してみよう。

 立石僧や山水河原者は、庭園をつくる職人だ。彼らのおこなう芸能では、ことはさらに抽象的に深められている。庭園の職人たちは、西洋のジャルディニエールたちのように、いきなり空間の造形にとりかかるのではなく、空間の発生する土台をなす「前ー空間」を生み出すことから、彼らの仕事を開始する。「なにもない」と観念された場所に、庭園の職人はまず長い石を立てることからはじめる。この石は伊勢神宮の「心の御柱」や「六輪一露」説に言う輪に突き出た短い杭と同じように、潜在空間からこちらの世界のほうに突出してきた強度(力)の先端をあらわしている。この先端の向こう側には、存在への意志にみちみちた高次元の潜在空間が息づいている。そして、この先端のこちら側には、人間が知覚できる三次元の現実空間が広がっている。庭園職人が「なにもない」空間に打ち立てるその立石は、まさに絶対の転換点となって、空間そのもののはじまりを象徴する

 空間に突き出した猿田彦の鼻のようなこの立石が、「前ー空間」を出現させる。立石の下には、宿神の潜在空間が揺れている。その揺れの中から、三次元をもった現実の空間の原型が押し出されてくる。そして、「六輪一露」説における像輪さながらに、この空間の原型を素材にして、庭園の職人たちはそこに、起伏や窪みや水流や陰影や空気の流れなどでみたされた、現象の世界の風景を造形するのである。

 しかし、金春禅竹が像輪についての説明の中で語っているように、そうしてできてくる現象としての風景には、いたるところに「空」が滲入しているのでなければならない。庭園は目で見ることもでき、手が触れることもできる現実の空間にはちがいないのだけれど、その全体が宿神の潜在空間に包み込まれ、細部にいたるまで「空」の息吹が吹き込まれているために、向こう側のものでもないこちら側のものでもない、不思議な中間物質として、蹴鞠の鞠のように、どこか空中に浮かんているような印象を与えるのだ。

宇宙とか、大海原というレベルではなかった。「空間そのもののはじまり」という原初的で動的な現象を象徴するという、ものすごいチャレンジだったのだ。自分の認識をあらためなければならない。そして、自分の考えの射程範囲の狭さを痛感。今年はもう一度、庭園を見に行こう。

そしてもうひとつ気になったことがある。

 たいがいの西洋庭園とちがって、このような宿神的庭園では、風景の全体を見通すことができないように、特別な工夫がこらされている。宿神の創造する空間は、つねに生じてくるようでなければならないからだ。そのために、それは出来上がった空間として、全体を見通せるようなものであってはならない。一歩歩むたびに、新しい小道が開け、新しい風景が眼前に生じてくるようでなければ、それはけっして宿神的空間とは言えないだろう。植物は人に見られるものではなく、逆に人が植物によって見られるようになる。前ー空間では主客の分離がおこりにくい。その影響が庭園のすみずみまで浸透しているので、このタイプの庭園を歩いていると、人はだんだんと主体としての意識を薄くして、瞑想的な静けさの中に入り込んでいくようになる。たしかにこれも「六輪一露」に説かれていたとおりのことではないか。

 このように宿神を家業の守り神とする「諸芸」の職人や芸人たちのつくりあげてきたものは、どれも空間として特異な共通性をそなえているように見える。運動し、振動する潜在空間の内部から突き上げてくる力が、現実の世界に触れる瞬間に転換をおこして、そこに「無から有の創造」がおこっているかのようにすべての事態が進行していく、そういう全体性をそなえた空間を、職人や芸人たちは意識してつくりだそうとしてきたようなのだ。
(『精霊の王』中沢新一著 講談社 2003 p262-264から抜粋)

このくだりを読んだときに、以前、自分の展示において、どうしても「作品全体を一望できないように展示したい」という気持ちが強かったのを思い出した。

宿神の創造する空間は、つねに生じてくるようでなければならないからだ。
そのために、それは出来上がった空間として、全体を見通せるようなものであってはならない。

自分の制作が宿神の思想に直結しているとまでは言えないけれど、わたしに限らず、この国で生きて生活しているひとびとの、ものをつくり表現する営みの底には、かすかに宿神の思想が潜んでいるのかもしれない。

守宮神(宿神)

 

先日の「幽玄」の続き。この文章に中世の芸能者や職人の思想が垣間見える。

(前略)もっと普通には、芸能の達人たちはこの神=精霊の実在を、超感覚ないしは直感的にとらえていたように思える。つまり、自分の身体や感覚を、三次元の物質で構成された空間を抜け出して、そこに守宮神が住むという柔らかく律動する特殊な空間の中につないでいき、その音楽的な空間の動きを自分の身体の動きや声の振動をとおして、観客の見ている普通の世界の中に現出させていこうとしたのである。

 蹴鞠は蹴鞠の形をした守宮神(宿神)の助けを借りて、驚異の技を演じてみせようとした。ほかの芸能についても事情はほぼ同じで、「昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ」こそ、常の人の能力を超えた技芸の達成を実現することもできたのである。石を立てて庭を造るのにも、花を生ける(石の場合と同じように「花を立てる」、といったようだ)のにも、「諸道」の者たちはただ自分の美的感覚や造型の技術を頼みにすればよいというのではなく、それぞれの道にふさわしい守宮神の護りを得る必要があった。それはたんなる神頼みというものではなく、その神をとおして、それぞれの芸がどこかで「へその緒」のようなものをとおして、揺れ動く「シャグジ空間」につながっている必要を感じていたからである。そういう空間から立ち上がってきた石や花でなければ、霊性にひたされた芸能とは呼ぶことのできない、ただ美しいだけのただの物質的現象にすぎない、と見なされた。
(『精霊の王 (講談社学術文庫)』 中沢新一著 講談社 2003 p17-18より抜粋 原文は太字なし)

ここで出てくる「シャグジ空間」は先の記事では潜在空間と表現されていたものと同じである。では、このシャグジ空間とはどのようなものなのか。

 あきらかに、守宮神が住処とする特別な空間の様式というものが、猿楽の徒には明瞭に直観されていたのがわかる。それは、神々以前からあって、神々を自分の中から生み出す空間である。しかも生まれたばかりの神々を優しく包んで、破壊されないように守る役目をしているのも、この空間だ。この空間には荒々しい霊威が充満している。それが神々の背後にあって発動をおこなうとき、前面に立つ神々も奮い立って、それぞれの神威をふるうことができるのだという。宇宙以前・空間以前からすでにあったコーラ Chola(場所)とでも言おうか、物質的諸力の影響を受け付けないシールド空間とでも言おうか、これはきわめて難解な構造をした力動的空間であって、猿楽者たちはそれを直観によってつかみとろうとした。
(同書 p22-23から抜粋)

 守宮神=宿神の住む空間は、時間性と空間性において、私たちの知覚がとらえる時空間とは、ラジカルな違いをもっている。過去・現在・未来という時間の矢に貫かれながら進んでいく、私たちの知覚のとらえる時間の様式とは違って、「シャグジ空間」では時間は円環を描いている。そこには遠い過去のものと未来に出現してくるものとが、ひとつの現在の内部で同居しているのだ。また「シャグジ空間」は三次元の構成を越えた多様体としての構造をしている。そのおかげで、やすやすと鞠の表裏をひっくり返したりもできる。つまり、この世界にいながら、高次元の空間の内部に、するすると入り込んでいくこともできる。
(同書 p25-26から抜粋)

そして、この守宮神=宿神。その音韻の構造からも、胎生学的なイメージを擁している点においても、樹木との連関においても、諏訪のミシャグチと多くの共通点がある、と論は進み、こうまとめられる。

私たちがすでに見てきたように、宿神はこの列島上できわめて古い時代から生き続けてきた「古層の神」の一形態である。もともとは境界性をあらわそうとする「サないしス音+ク音」の結合として、さまざまに発音されてきた共通の神の観念のつながりの中から、宿神と呼ばれるこの芸能者の守護神はかたちづくられてきている。この「古層の神」はミシャグチの名前で、諏訪信仰圏では独自な発達をとげた。
(同書 p148から抜粋)

重森三玲の庭からスタートして、幽玄を経由し、宿神、そしてミシャグチと、気がついたら「古層の神」にたどり着いた。ずいぶん深追いをしてしまったけれど、ここまで来たのだから少しだけ寄り道をしたいと思う。

 猿楽の先祖たちは、神仏の鎮座する空間の背後にしつらえられた「後戸」の空間で、その芸をおこたったと記録されている。薄暗いその一角を芸能の徒たちはものごとが変容をおこし、滞っていたものが流動をとりもどし、超越性のうちにこわばってしまっているものに身体の運動性を注ぎ込むための、ダイナミックな場所につくりかえていこうとしたのである。

 そうしなければ、前面に立つ神仏たちの「霊性」が発動することはできない、と考えられていたからだ。「後戸の神」は神仏たちの背後にあって、場所を振動させ、活力を励起させ、霊性に活発な発動を促す力を持っている。それゆえ、日本人の宗教的思考の本質を理解するためには、折口信夫が考えたように、芸能史の理解が不可欠なのである。ここでは神仏は芸能的な原理と一体になって、はじめてその霊性を発揮する。

 ヨーロッパ的な「たましいの構造」において、舞踊的・霊性励起的・動態的な原理が、「ディオニソス」の名前と結びつけられて、神性の構造の内部深くに埋め込まれていることは、よく知られている。ところが、私たちの「たましいの構造」にあっては、同じ舞踊的・励起的な原理は、神仏の内部にではなく、その背後の空間で活動をおこなうのである。ヨーロッパ精神が「入れ子」の構造をもつとしたら、私たちのそれは異質な二原理の「並列」でできている。そして、このことが、日本人の宗教や哲学の思考の展開に、決定的な影響をおよぼしてきたのである。
(同書 p96から抜粋)

一番驚いたのはこのくだりだった。
神仏の背後には古層の神(後戸の神)の空間があって、その震えや活力がなければ、神仏が霊性を発動できない…。そんな複雑だとは想像もしえなかった。

諸芸についても、すでに完成した宗教的世界観を表現するものだとばかり思っていたから、古層の神の空間と神仏を架橋し、神仏の霊性の発動を促すものとして芸がとりおこなわれたということに、かなり衝撃を受けた。

この国における芸能の位置づけということについては、またあらためてとりあげたいと思う。

ここでひとつとどめておきたいのは、わたしにはこの話が宗教だけ歴史の中だけの話にとどまらないように思えるのだ。わたしたちが日常的に交わしているやりとりの中の「場の空気を読め」という暗黙のルールの中には、「主体のあいまいな空間」を前提とする独特の考え方があるように思う。もしかしたら、そこには、神仏の背後に古層の神の空間を据えるような複雑な思想構造が大きく影響しているのかもしれないし、気づいていないだけで、もっとほかの局面においても、影響を受けていることがたくさんあるのかもしれない。

幽玄

 

半年ほど前。写真とか視覚のことばかりを考えていて息がつまるというか、もう少し視野を広げようと思ったときに、ふと重森三玲の庭を思い出し、庭がただ庭としてあるのではなく、庭でありながら、より大きな存在を感じさせる構造をとっていることについて考えたいと思った。(「秘スレバ花ナリ」)

写真でも同じよう構造をもたすことができないだろうか?という野望をほんの少し抱きながら、彼の作庭の背後にある思想や美意識を知りたいと思って、三玲の著書『枯山水』を繙いた。そこではじめて幽玄ということばに出会う。その後で世阿弥の『風姿花伝』の現代訳も読んでみた。(「風姿花伝」)

正月に実家の裏にある保久良神社を参詣し、その裏にある磐座の存在を知った。ただ巨石がいくつか並んでいるだけなのに、なにかうっすらとひとの作為が感じられ、表現のいちばんプリミティブなかたちを見たような気がして、淡い関心を抱いた。ちょうどその頃に読んでいた『枯山水』のはじめのページに保久良神社の磐座の図版を見つけ、驚くとともに、磐座や先史時代に対する興味がいくぶん加速された。

それから半年間、磐座、縄文というキーワードに導かれて中沢新一さんの著書を読むようになり、仏教や神道が成立する以前のひとびとの精神世界に興味を持つようになった。そういう経緯で手に取った『精霊の王』で、はからずも、幽玄ということばに再会する。今回は世阿弥ではなく金春禅竹の『明宿集』の引用で。

住輪

 幽玄という概念は、住輪に描かれた短い杭または嘴状の突起に関わっているということが、この記述からはっきりわかる。そこは潜在空間から現実世界に突き出した岬であり、特異点であり、この短い突端の部分で転換がおこっているのだ。猿楽の芸人はこの要所をしっかりと会得することによって、「幽玄」の表現をわがものとすることができる。無相無欲の清浄心をもって、この岬に立てば、現実世界に顕われることも潜在空間に隠れることも、自在である。

(中略)猿楽の芸は、三輪清浄として示されたこの潜在空間を背後に抱えながら、演じられるのである。本来が物真似芸(ミミック)である猿楽は、自然界のさまざまな存在をミミックとして表現する。そのときに、目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。禅竹の思考はここからいよいよ深く猿楽芸の本質に迫っていくのである。(『精霊の王』中沢新一 講談社 2003 p234-235より抜粋)

目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、
具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。

この一文は、猿楽や作庭に対するわたしの認識をより鮮明にしてくれると同時に、思っていたほどことは単純ではない、ということも教えてくれた。

まずここで、作庭家や猿楽の芸能者は、
目に見えない潜在空間を背後に抱えながら具体物でできた現象の世界を表現する
ということがはっきりした。

しかし、作庭の場合で言えば、宇宙や大海といった(目に見える)ものを、石や砂で表現(あるいは象徴)している、というだけでは十分ではない。むしろ、目に見えない潜在空間と現実の世界をどう架橋するかに重きが置かれている。

この「目に見えない潜在空間」というのが、ものすごく深い。仏教や神道の成立以前の精神世界まで射程を広げないと、理解できないのだ。

特定の芸術分野(作庭)における思想や美意識を追っているつもりが、大変なところに合流してしまった…という感じ。

長くなるので、続きは後日。

またりんごだ…

 

先日読んだホックニーの本でセザンヌのりんごが出てきたけれど(「りんご」)、また全然違う文脈でセザンヌのりんごが登場していたので、メモしておこう。前者においては、単眼で見た世界と双眼で見た世界の違いの例としてとりあげられていたが、ここでは、見る行為に含まれる原初的な経験(なぞる-なめる)との関わりで紹介されている。両者で共通しているのは、視点は一点に固定されていない、ということ。

(前略)なぞるためには、まずはそれに触れなければならない。舌を押しつけるのであれ、歯茎で齧るのであれ、唇で挟むのであれ、はたまた舌先や唇、さらには指先で間を測りながら、そっとつついたり、さすっとり、撫でたりするのであれ。なぞるのは、まず輪郭である。物の外皮、物の表面をなぞりながら、ひとはその形状を、つまりはそのカーヴを、テクスチュア(肌理)を、そしてその硬軟を知る。カーヴやテクスチュアや硬軟は、口や手といった触れる器官で知る。けれども、物のそのカーヴは、物の全体的な輪郭の一部であるからには、視覚的にこそより完全にとらえられるもののようにおもわれる。メルロ=ポンティはその点について、描画といういとなみにふれてこう言う。

 林檎の輪郭を、続けて一気に描けば、この輪郭がひとつの物になるが、この場合、輪郭とは、観念上の限界であって、林檎の各面は、この限界を目指して、画面の奥の方へ遠ざかるのである。いかなる輪郭も示さなければ、対象から、その自同性を奪い去ることになるだろう。ただひとつの輪郭だけを示せば、奥行きを、つまり、われわれに、物を、われわれの前にひろげられたものとしてではなく、貯蔵物にあふれたものとして、汲み尽くしえぬ実在として示してくれるような次元を、犠牲にすることになるだろう。それゆえに、セザンヌは、色で抑揚をつけるに際して、対象のふくらみにしたがい、青い線で、いくつかの輪郭線を引くということになるわけだ。(M・メルロ=ポンティ「セザンヌの懐疑」粟津則雄訳)

 対象をあやすように、愛おしむようにしてその表面をなぞる手の運動、まるでその奇跡を視覚的にたどり、再現しているかのような、ひょろひょろとしたセザンヌの描画の線。セザンヌの描く林檎のひゅっひゅっと走るあの無数のかすり傷のような輪郭は、舌で舐め廻し、指でなぞる、そういうわたしたちの原初的な知覚の轍のようにみえないこともない。三木の表現をあらためて引けば、そうした「目玉による舐め回し」には、口による、そして手による対象の舐め廻しの記憶が蓄えられている。そうしたことがあるから、メルロ=ポンティは、「われわれは、対象の奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、固さなどを、見るのであり—それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見る」とまで言い切ったのである。これは、視覚から触覚、嗅覚まで、異なる感覚とされるものがその実、単独の感覚である以前にまずはたがいに交叉しあい、また深く侵蝕しあう、シネステジー(共感覚)の現象を言いかえたものであり、さらにそのことを敷衍して、別の著書では次のように書いている。「質・光・色彩・奥行といったものは、われわれの前に、そこにあるものではあるが、しかしわれわれの身体のうちに反響を喚び起こし、われわれの身体がそれを迎え入れるからこそ、そこにあるのだ。この内的等価物、つまり物が私のうちに引き起こすその現前の身体的方式、今度はそれが、これもまた目に見える見取り図を生ぜしめないわけがあろうか」(M・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳)、と。

(『「ぐずぐず」の理由』 鷲田清一著 角川選書 2011 p132-134より抜粋)

セザンヌに関する記述だけ抜き出したけれど、その前段には、以下のような文章がある。

 乳を吸う、味わうといういとなみに飽いてくると、つぎに赤子は口で外界の探索をはじめる。いやというほど物を舐め、しゃぶり、くわえ、齧る。人間のばあい、外界の物は、まずはしゃぶること、舌と唇と歯茎でなぞることで知られるのだ。

幼児たちは、やがてこの口の過程を卒業し、もはや内臓とは関係のない「手と目」の両者だけで満足するようになってくる。そこでは、この二種の触角による“撫で回し・舐め回し”の感覚・運動の共同作業が営まれるのであるが、そのうち、ここから“手を退き”、ついに目玉という、たった一つの触角でもってこと足りる世界が開かれて来ることになる。

 しかし、重要なことはその次にある。たしかにひとは、まずは口で、次に手で、そして眼で「舐め回す」ようになるのだが、「この最後に残った目玉による舐め回しの奥底には、かつてえんえんと続けられてきた本物の“舐め回し”の記憶が、そこではかけがえのない礎石となって、そうした視感覚をしっかり支え続けている」。

(同書 p131-132より抜粋)

これに関して、少し思いつくこと。

  • ある表面に対して垂直方向の運動、例えばぐっと対象に寄ってじっと(解像度を上げて詳しく)見るというような視覚の運動は、舐める、撫でる、との連携では説明しにくい。そういうのは、どうとらえるのだろうか。
  • 触覚の連携を示唆する視覚表現、あるいは触覚との連携で解釈される視覚表現を、最近目にする機会が多くなったように思う。これは制作者の関心が「絵画とはなにか?」や「写真とはなにか?」という問いから「見るとはなにか?」という、より根源的な問いに移行してきたからだろうか?

同じ平面で異るのではない

 

今福龍太さんの『レヴィ=ストロース 夜と音楽』を読んで、気になっていた一冊『人種と歴史』(クロード・レヴィ=ストロース 荒川幾男訳 みすず書房 1970)。
込み入った部分は消化不良気味だけれど、2点気になった箇所を挙げておこう。特にひっかかったところを太字にしておく。

 諸々の人類文化が、相互にどのように、またどの程度異なるのか、その相違は互に消しあうのか対立しあうのか、あるいはいっしょになって調和ある全体をなすのかどうか、を知るには、まずその明細目録をつくってみなければならない。だが、まさにここから困難がはじまる。というのは、諸々の人類文化は、相互に同じ仕方で、また同じ平面で異るのではないことに気づかざるをえないからである。われわれは、まず、あるいは近くあるいは遠く、しかしいずれにしても同時代に、空間に並列された諸社会に出会う。次には、時間のなかで継起し、直接体験をもっては知ることのできない社会生活の諸形態を考慮に入れなければならない。(中略)最後に、《野蛮》とか、《未開》とか呼ばれる社会のような、文字を知らない現存の諸社会も、やはり、たとえ間接的な仕方をもってしても実際には知ることのできない別の諸形態が先行していたことを忘れてはならない。良心的な明細目録は、それらに対して、何ごとかを記録しうると思われる欄の数よりも、おそらくずっと多くの空欄をとっておかねばならないのである。(p11-12から抜粋)

「同じ平面で異るのではない」というのが、しっくりきた。他者というのはそういうものなんだと思う。人類文化というほど大きな枠組でなくても、比べようにもそもそもの構造がまったく違うということがままある。他者との差異に関しては、そのくらい「違う」こともありうると思っておいたほうが良いということには薄々気がついていた。そして、自分のモノサシでははかれない、あるいは自分の感覚では感受できない「なにか」があるかもしれないということをあらかじめ勘定に入れておくことも。「何ごとかを記録しうると思われる欄の数よりも、おそらくずっと多くの空欄をとっておかねばならない」

卑近な話になるけれど、友人であれ恋人であれ、人と知り合って関係をとり結ぶことの醍醐味は、他者のあり方に自分が影響を受けることだと思う。ときに他者との差異によって苦痛を感じることもあり、ときに、自分自身が大きく変わらなくてはならないこともある。そして、どれだけドラスティックに変われるかは、相手との差異のあり方に関わっている。世界を受けとめる構造からしてまるごと違う方が、影響の受け方も深い。そういうことをぼんやり考えていたところだったから、この文章に反応したんだと思う。
もう一点は、

 もっとも古くからある態度は、自分のものだとする文化形態にもっとも遠い道徳的、宗教的、社会的、美学的な文化の諸形態を、無条件に拒否するもので、それは、思いがけない状況におかれたとき、われわれのひとりひとりのなかにまたしても現れでてくるのだから、おそらく固い心理的基盤に立っているのであろう。《野蛮人の習慣》、《それはわれわれのものではない》、《それは許されるべきではなかろう》等々、われわれとは縁のない生き方や信仰の仕方や考え方に当面して、これと同じような身震い、嫌悪をあらわす粗野な反応がいっぱいある。こうして、古代は、ギリシア(次いでギリシア・ローマ)文化に属さぬものを、すべて同じ未開barbareの名のもとに一括した。次いで、西洋文明は、同じ意味で野蛮sauvageという言葉を用いた。これらの形容詞の背後には、同様の判断がかくされている。すなわち、未開(バルバール)という語は、語源的に、人間の言葉の意味値に反する鳥の啼声の不分明と不文節に関連しており、野蛮(ソーヴァージュ)という言葉は、人類文化に対立する動物生活の分野を思わせる。この二つの場合、ひとは、文化の差異という事実すら認めることを拒んでいるのである。自分たちが生きる規範と同じでないものは、すべて文化の外に、すなわち自然のなかに投返そうとするわけである。

 この素朴だが大ていのひとの心に深く根を下した見方は、ここで論ずる必要はない。というのは、この小冊子がそれをきっぱりと反駁しているからである。ここでは、この見方が、なかなか意味深長なパラドックスを蔵していることを指摘すれば足りよう。この、人類から《野蛮人》(あるいはそう思うことにしたものすべて)を除外する思考態度は、まさに当の野蛮人自身のもっとも顕著な特有の態度なのである。(中略)アメリカ発見の数年ののちに、大アンティル諸島では、スペイン人が原住民が魂をもっているかどうかを調べるために調査団を派遣したのに対して、原住民たちは、かれら白人の死体が腐敗を免れるものか否かを長い間見届けて確かめるために、白人の捕虜を水葬にすることにしたのである。

 この異様で悲劇的な挿話は、文化的相対主義のパラドックス(それは本書の別の個所で別の形でも問題にしよう)、をよく示している。つまり、自分が否定しようとするものともっとも完全に一致するのは、諸文化や慣習の間に区別をもうけようと主張する場合だというわけである。その文化ないし慣習をもっているもののなかでも一番《野蛮》で《未開》にみえるものに人間性を拒否しておいて、かれらの典型的な態度の一つを、他ならずかれらから借りているのである。(後略)(p16〜p18から抜粋)

「ひとのことをバカと言うひと(のその行為)がバカなのよ」と昔よく親に叱られた。このようなパラドクスに陥る危険は、身近な生活の中にも潜んでいる。

映画的なるもの

 

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
(『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。

レヴィ=ストロース 夜と音楽

 

(前略)西欧人である民族学者によって見出される「未開社会」、という不可避の植民地主義的構図を、結局は彼自身がブラジルにおいて追体験し、言説として再生産するほかなかったという事実への苦い反省が込められている。
 伝統文化の消滅に力を貸しながら、一方で知的ノスタルジーとともにそれを戦利品として展示・消費する西欧文化=学問の近代的な「しつけ」(ディシプリン)にたいし、レヴィ=ストロースほど自責の念にかられ、またそれにたいして倫理的な潔さを貫いた人類学者も二〇世紀においてはいなかった。小著ではあっても、西欧近代の人種主義の偏見と前進的歴史への過信にたいする激烈な批判である『人種と歴史』(一九五二)が、『悲しき熱帯』に先立って刊行されていることの倫理的意味を、わたしたちは再度確認しなければならないだろう。過去のフィールドへの追憶に浸る前に、彼は民族学という学問の根にある植民地主義と進歩への幻想とを、明晰にえぐり出しておく使命を感じたのだろう。
(『レヴィ=ストロース 夜と音楽』今福龍太著 みすず書房 2011 p46より抜粋)

以前清水穣さんの講義で聞いた、写真のモダニズムの話をふと思い出した。目に見える世界の向こう側には、手つかずのありのままのまっさらな世界、タブラ・ラサが存在するという、写真のモダニズムが前提とした世界観は、そのまま植民地主義の構図に置き換えられるという話。その話は目から鱗だったし、同時に、とても怖かった。無批判に作品をつくることの怖さ。そのとき、特定のイデオロギーを強化することに、意図せず加担するようなことにならないためにも、自分にも、自分のつくるものに対しても批判的でありつづけることが必要だと切実に思った。

レヴィ=ストロースが反省や自責の念を抱えながら、ブラジルとどう関わり続けたのか。まだ彼の著書を読んだことがないので、『人種と歴史』から順を追って読んでみようと思う。

りんご

 

秘密の知識』の中でカラヴァッジョの『果物籠』(1596)と、セザンヌの『7つのりんご』(1877-8)に描かれたりんごを比較している箇所がずっと気になっている。

図版を置いて、そこから離れて見れば見るほど、カラヴァッジョのりんごは見えにくくなり、画面に沈み込んでいく。逆に、セザンヌのりんごは、より強烈により明快になっていく、という記述。前者がレンズを通した単眼によって描かれているのに対し、後者は双眼による視覚を前提に描かれているという。

実際に自分も本を置いて離れたところから眺めてみて、なるほど、と思った。あまり話が抽象的になると、話についていけないことがあるけれど、こうやって実際に経験しながらであれば理解しやすい。

まず、離れて見てみてそこで現象することを捉えるという、こういう観賞の仕方があるということをはじめて知る。そして、写真に携わっているので、単眼による視覚と双眼による視覚の違いについては、どうしても関心を持たざるを得ない。「レンズという単眼による独裁の世界」という表現にはちょっと違和感を感じるけれど。

(前略)セザンヌの新しさは視点が定まらないことを意識し、ということはわたしたちは対象をつねに複数の、ときには矛盾する視点から見ていることを自覚したうえで、絵のなかに画題と自らの関係にまつわる疑問をもちこんだところにある。ここには人間らしい双眼の世界(二つの目、二つの視点、それにも伴う疑念)が展開している。それとは対照的に、レンズという単眼による独裁の世界(ベラスケス)は、つまるところ人間を数学的な位置に還元し、かれを空間、時間と切り離された位置に固定してしまう。

(『秘密の知識』 青幻舎 2006 p190より抜粋)

Secret Knowledge つづき

 

おもしろいのは、アングルの肖像画(1829)を見たときに、フォルムが正確で精密なわりに素早い線で迷いがなく、さらに、ウォーホルがプロジェクターを用いて描いた作品の描線に似ているという、画家ならではの気づきからこのプロジェクトがスタートしているところ。

オールドマスターの作品を年代順に壁に並べることによって、自然主義の歩みが緩やかに進行したのではなく、突然の変化として現れたことが明らかになる。そして、その急な変化は、線遠近法の登場だけでは説明しきれない点が多いこと。さらに、画面中に、ピンぼけ、遠近法の歪み、複数の消失点など、光学機器ならではの特徴が見出されたことで、光学機器を利用したという仮説につなげていく。

絵画なのにピンぼけが確認されたり、線遠近法に基づけば一つしかないはずの消失点が2つ存在したり。いわゆる”エラー”に光学機器の存在がチラリ垣間見えるのが興味深い。

さらに、本来上から見下ろす視点で描かれるべきものが、なぜか正面から見た図となっているという点に着目し、当時の光学機器では広範囲を一度に映写できないため、人物ごと、あるいは部分部分に分けて描きコラージュしたのではないか?という説が浮上する。

あくまで仮説の積み重ねであるが、最終的には、

西洋絵画の根底をなすもっとも重要な二つの原理、つまり線遠近法(消失点)とキアロスクーロは、光学的に投影した自然の映像観察から生まれたことを理解した(p198)

というところまで進んでいく。線遠近法を獲得したことにより新しい空間表現が生まれたのではなく、まず先に光学的に投影された映像があって、そこから線遠近法が生まれたという。

さて、ちょうどこの本を読んだ直後に『カラヴァッジョ~天才画家の光と影~』という映画を観た。映画の中で、画家は平面鏡を利用していた。ホックニーは、鏡に映ったものを見るのと、鏡が投影したものを見るのはまったく違うという。

果たして画家はどのようにして描いたのだろうか。

Secret Knowledge

 

David Hockneyの『Secret Knowledge(秘密の知識)』を精読する。

彼の仮説は、

  1. 画家による光学機器の使用は1420年代にフランドル地方にて始まった(鏡のレンズ)
  2. 16世紀には、個々の画家が実際に用いたかどうかは別として、ほとんどの画家が光学機器を用いた映像の影響を受けている

というもの。すでに確証されたフェルメールのカメラ・オブスクーラの使用より、はるかに早い時期に光学機器が用いられており、それがかなりの影響力を持っていたという。いずれも仮説なので、ことの真偽は留保しておくにしても、とても興味深い内容だった。

前からカメラ・オブスクーラの存在は知っていたけれど、わたしはごく一部の画家が部分的に用いた補助的な道具というニュアンスで受けとめていた。著者は実際に、明るいところにモデルを座らせ、暗い部屋でその像を写しとる実験をしている。その実験の様子を見て、はじめて「光学機器の使用」がどういうことかを理解した。

暗い部屋の中で、紙の上に投影された映像の輪郭をなぞっていたのだ。それは描くというより、写しとる作業に近い。画家が独自の線を生み出すという思い込みが崩れた。わたしにとっては、光学機器の使用がはじまった時期云々より、画家の光学機器の使い方が明らかになったことのほうがよっぽど衝撃的だった。

印画紙が発明されるまで、いわば画家たちはカメラの中で映像を画布に写しとっていたということになる。写真のフィールドからすると、射程に入れるべき映像の歴史が4世紀ほど前倒しになる可能性が出てきたのだ。

カメラが19世紀に発明されたと誤解している人は少なくない。カメラは発明ではなく、自然現象である。暗い部屋の雨戸に小さな穴が開いていれば、それだけで光学的な映像の投影はごく自然に起こる。カメラ・オブスクーラとは文字通り「暗室」を意味する。レンズも鏡も必要ではない。ただしそのままでは映像は薄暗いか、ぼんやりしているか、あるいはその両方である。大きな開口部にレンズを取り付けると、映像はずっと明るくなり、ピントも鮮明にあわせることができる。「写真」の発明とは、じつはカメラの内部に投影される情景を定着する化学薬品の発明にほかならない。しかしカメラのなかに投影された映像は、写真以前の何百年にもわたり、人びとの目に触れてきた。

(『Secret Knowledge(秘密の知識)』David Hockney著 青幻舎 2006 p200から抜粋)

なぜ写真は遠方を過剰に取り込むのか

 

 アウラとは、時間が映像を燃えあがらせ、音を立て、その音を消し去るときに作用する何かを名ざしている。それは、ベンヤミンが「視覚の無意識」と呼んだもの、すなわちプンクトゥム、盲点、可視的なものにおける接触と距離の盲点へわれわれを召喚して、危険と破滅の淵にさらすのだ。

 だがアウラとは、十九世紀には写真のある種の技術的問題、それもかなりやっかいな問題も意味していた。じつはその問題は、間接的にではあるが、ベンヤミンが語ろうとしていたことにもまさしく関連している。
 それは光暈と「ヴェール(かぶり)」の問題である。ある被写体が、よく理由のわからないまま偶然光の輪で取りまかれてしまうという、発光現象、あるいは光を防衛する現象の問題である。これは映像内に遠方が過剰に取り込まれることに関係するのだろうか。しばしばそのように考えられ、その過剰の理由が求められてきた。「なぜ写真は遠方を過剰に取り込むのか」が問われてきたわけである。
 これはまた、写真におけるスペクトルの問題、「スクリーン」と、ヴェールのかなたの啓示の問題、すなわち写真の魔術的で、悪魔的、涜神的な性質そのものの問題である。それは最終的には距離を隔てた接触という問題である。写真はそのあらゆる既知事項を覆したのだ。なぜなら写真に関しては、光のタッチや痕跡というのは虚辞ではなくなるのだから。以上のことを、医師イポリット・バラデュックの作品につかのま足を止めつつ描き出してみよう。(後略)

(『アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集』 J・ディディ=ユベルマン著 谷川多佳子・和田ゆりえ訳 リブロポート 1990 p132〜p133から抜粋)

 ところで、子供は神経質な女性に劣らず「感じやすい(感光しやすい)」存在である。ある日バラデュックは自分の息子を撮影した。その子はたまたまこのとき、幼い両手のなかに雉の死体、それも殺されてまもない死体を持っていた。誰がその死骸を彼の腕に置いたのか、父親はわれわれに告げてはいない。いずれにしろその映像は、ヴェールがかかったふうに現像された。
 精神科医のバラデュックは、そこに、魂が帆に風を孕んだような状態が何か別の光によって乾板上に描き出されているのを見てとった……。こうしてアウラが初めて彼の眼前に現れたのである。この日を境にバラデュックは、アウラがその全貌を明らかにするまで、飽くなき探求を続けることになった。(後略)

(同書 p134より抜粋)

 (前略)彼はそれを「魂の運動と光」のカテゴリーとして包摂した。なぜ魂の運動かといえば、魂とは軌跡をもたない運動、したがって分離を伴わない距離、距離を隔てた接触を可能にするものだからである。なぜ魂の光かといえば、アウラとは、内在的で、霞んだ、不可視の、しかしながら(非常に感光しやすい乾板を用いさえすれば)図示できるものだからである!

(同書 p135より抜粋)

アウラは図示できる?!
わたしがはじめてアウラという言葉に接したのはベンヤミンの著書であり、もっと抽象的なものと思っていた。こんな具体的な現象のことなの?と混乱したので、ここで少し整理してみたい。上述のバラデュックがアウラを図像化した『人間の魂』を著したのが1896年。ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』を著したのはそれからおよそ40年後の1936〜1939年とされている。つまり、ここで書かれているのはベンヤミン以前の話。「アウラ・ヒステリカ」ということばも、精神科医シャルコーにより、ヒステリー発作の前兆をさして名づけられたが、それも19世紀のことである。

いま現在、作業をしていてかぶりの現象が見られれば、撮影環境を調べたり、レンズや機材に不備がないか、ということをまず考える。それに比べると、バラデュックはずいぶん奇妙なとらえ方をするようにも思えるが、その差こそが、19世紀と21世紀の社会における写真の受容のされ方の違いなのかもしれない。かぶりの現象がどこか魔術的な意味あいを帯びて捉えられていることや、「なぜ写真は遠方を過剰に取り込むのか」という問いのうちに、19世紀の社会において写真がどのように受容されていたのか、その一端が垣間みえるようで興味深い。

もう一点、気になったのは、サルペトリエール病院で、写真の実践が病院の一部門(service)の高みにまで昇ったことについての記述。

 service(部門)とは、それにしても恐るべき小語である。そこにはすでに隷属(servitude)と虐待(sévice)の意がこめられている。私の問いは単に写真が何に奉仕(servir)したのかということにとどまらない。サルペトリエールで、誰が、あるいは何が、写真映像への隷属を強いられたのかも問うているのだ。

(同書 p73より抜粋)

この本では、映像(写真)を生み出す過程で、ときに搾取の構造をとったり、ときに共犯関係をとりむすびながら、医師と患者たちがどう巻き込まれていったかということが描き出されているが、ふと、隈研吾さんの『負ける建築』の一節を思い出した。

写真という二〇世紀メディアは、二〇世紀建築のデザインの方向性を逆向きに規定したのである。

かたや建築、かたや精神病院の症例写真だが、写真というメディアの特性が、単に属性としてその内側に大人しくとどまっているのではなく、それをとりまく人やものに力学的な影響を及ぼしているという点で共通している。そう考えると、写真とは何かという問いを、写真の内へ内へと探るだけではなく、写真をとりまくものとの関係の中にも、何か見えてくるものがあるのかもしれないと思った。

アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集
思いのほか写真論の色が濃かったけれど、19世紀〜20世紀の精神医学の進歩が社会にもたらした影響についてもっと明るければ、より得るところの多い本だと思う。今のところ、このあたりがわたしの限界なので、時間を置いてもう一度読み直したいと思う。

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている

 

最近また‘身体’に関心が戻ってきて、パラパラと読んでいた本のなかに、少し苦いフレーズを見つけた。

(前略)詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。

 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的に言うと「うるさい」ということですね。そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「わたしが語る」ということそのものの不快さなんです。

(『身体(からだ)の言い分』内田樹 池上六朗著 毎日新聞社 2009 p24・25より抜粋)

後半の若いひとたちが…のくだりでイメージされているのは、キムタクが扮する若者役に代表されるような若者像だと、ほかの著書で読んだ記憶がある。たしかに、彼の役柄はいつもいつも鼻についた。だから話はよくわかる。それでも、不思議なことに、自分のことばかり話していても、それが鼻につくひとと、つかないひとがある。その違いはどういうことなんだろう。

 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているのかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。

(同書 p83より抜粋)

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている、というのは面白い。
なぜかこのひとの話は聞いてしまう、ということもあるし、
逆に、このひとの話すことばはまったく響いてこない、ということもある。

「わたし、わたし」というコンテンツでも、余裕なく切羽詰まった様子で話されるのと、本人自身が客観視できる程度に余裕を持って話されるのでは、受け手には違って聞こえてくるのかもしれない。大事なのはむしろメッセージの「送り方」のほうなのか。

きっと(芸術)作品においても、コンテンツだけでなく、作品の差し出し方まで、
観賞者にまるごと観られているのだろう。実際、視覚表現領域でもコンセプトを押しつけてくる作品は「うるさい」。

だから、ここらへんの話は、うかうか人ごととして読んでいられないのだ。

備忘録 11-04-02

 

最終更新から6ヶ月以上経っているなんて…

パウル・クレー展に行きたいなぁと思って調べていたら、少し本を読んでみたいと思って。以下、メモです。

  • ・造形思考
  • ・造形理論ノート
  • ・無限の造形
  • ・クレーの日記
  • ・パウル・クレー/記号をめぐる仮説

入手困難なものもあるので、手に入るのから。環境の変化を理由に、ずいぶん長い間、思考が停止してる。

モザイク

 

モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である。それを掛けてしまえば、できた作品を観た被写体からクレームがつくことも、名誉毀損で訴えられることも、社会から「被写体の人権をどう考えているのか」と批判されることもない。要するに、被写体に対しても、観客に対しても、責任を取る必要がなくなる。そこから表現に対する緊張感が消え、堕落が始まるのではないか。

(『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)』 想田和弘著 中央法規 2009 p53より抜粋)

そして、精神病院の様子をモザイクなしで映し出した作品『精神』について。

 実は、僕と配給会社は、『精神』の広報活動の戦略を練る際、テレビを含めた日本のメディアが、映画やそれに出ている患者さんたちをセンセーショナルに、いわばホラー映画のように扱うことを、最も警戒していた。そのための対策も、いろいろ議論したりした。

 ところが、それは僕らの杞憂に過ぎないことが分かった。メディア側はむしろ、映画の登場人物やその近親者を傷つけたり、彼らから反感を買ったりしないよう、細心の注意を払っていた。腫れ物に触るがごとく、警戒していた。

 そして、そういった態度は、患者さんの顔にモザイクが掛かっていないことにこそ起因していることは明らかだった。モザイクが無いので、映画を取り上げる彼らにも被写体に対する責任が生じ、やりたい放題するわけにいかないのである。

(同書 p216より抜粋)

この文章の最後のほうに「モザイクを掛けないことが、実は被写体のイメージを守っているという、その逆説」とある。

モザイクのくだりについては、なるほどな、と思った。

つくり手の率直な言葉で綴られていて、好意的に読んではみたのだけれど、文章を読む限りにおいては、主題である患者の生きざま、よりも、それを「モザイクなしで見せること」に、作家が執心しているように感じられ、そのことに少し違和感を感じた。

なによりまず作品自体を見てみないと…。

老い

 

(前略)とりわけ、十九世紀に入って地球全体が世界資本主義の網の目にとらえられていく過程では、生産力の向上、技術革新、国際的規模での分業体系の深化、商品輸出や資本輸出のための市場争奪戦と帝国主義戦争の勃発、第二次大戦以降ではとくに西欧資本主義国間の貿易競争や商品開発競争の激化、といった現象が次から次へと展開し、この過程にまき込まれる個々人の日常生活は多忙をきわめるだけでなく、人生の浮沈も激しい。個人の人生は、経済という戦場で闘う戦士の人生のごときものであって、こういう個人に要求される資質は身体頑健、決断力、つねに生き生きしていることであり、つまるところ、若さである。経済戦争は老人ではやりぬけない。戦士は、つねに青年であり、せいぜい年をくってもかぎりなく青年的な壮年者でなくてはならない。経済戦争に耐えることのできないものは、たとえ若者であっても、老人であり、本物の老人がこの戦いで勝ちぬける見込みははじめから閉ざされている。近代や現代の経済生活では、老人であることはつねにマイナスの価値であり、老いの価値ははじめから極小値をとる。

 偏見をはなれていえば、幼年、青年、壮年、老年といったライフ・サイクルの各時期の間に価値の上下はない。本来は、それぞれの人生局面にはそれ固有の意義があるはずであり、子供と老人は社会のクズで、青年や壮年が社会の大黒柱だということはありえない。純粋に肉体的にみれば、若い者が強いのはあたり前だ。しかし肉体的に強いことと価値的に高いこととは、ストレートには結びつかない。にもかかわらず、近現代社会では、肉体的強さ=若さと価値観的プラス性とがストレートに結びついてしまった。それは個人の先入見とか、物の考え方の軽薄さといったものではない。近代市民社会とそれをドライブする資本主義市場経済が生みだしたイデオロギーこそ、老いの価値低下をひきおこしてきたし、今もそうである。

(『精神の政治学―作る精神とは何か (Fukutake Books)』今村仁司著 福武書店 1989 p141-142から抜粋)

もう20年以上も前に書かれた本。21年前だと、わたしは14歳か。両親がそろそろ「介護」に向き合わなければならなくなりはじめた頃に書かれたものだ。

それでも、この文章がそんなに古く感じられないのは、この20年の間に、老いを支える制度はそれなりに整いつつあっても、老いをとらえる人びとの意識それ自体は、それほど変わっていないからだと思う。

昔、撮影を依頼された商品が「アンチエイジング」を謳う化粧品だった。宣材写真を撮るのははじめてのことだったから、撮り方を教えてもらおうと思って頼んでいたひとに、まっこうから拒絶された。

肩こりの薬が肩こりに効くというのは単に効能を示すもの。
でも、アンチエイジングは、イデオロギーだ。
あなたはそれに加担するのですか?
と。

その時点では、まったく意味がわからなかった。
けれど、今ならよくわかる。

情緒・感情は批判力をもちうる。

 

 感情や情緒は行為である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることでいまの生活世界を批判する。

(『精神の政治学―作る精神とは何か (Fukutake Books)』今村仁司 福武書店 1989 p90より抜粋)

すごい作品と出会うと、こんなに自由で良いんだ、ということを思い知らされる。そして、それらの作品は、既存の枠をやすやすと越え出る奔放さを備えている。

いや、ことの順序が違うな。

それら作品を前にし、その奔放さに触れることによってはじめて、自分たちがとらわれている枠が認識される。

事前に自明な枠があるのではない。

作品に出会ってはじめて、自分がとらわれている枠が認識できるのだから、枠の出現は後だ。

だから、何かに対する批判そのものが目的である作品よりもむしろ、
ふわっと越え出てしまった作品にこそ、強い批判性を感じる。

この文章を読んで、そういうことを思い出した。
94コマ目のスキャンが終わる。

ちんぷんかんぷん

 

帰省時に持ちかえってゆっくり読もうと思ったパノフスキーの『象徴形式としての遠近法』

本文70ページほどであとは全部注と画像なのに、何度読んでも頭に入って来ないのは暑さのせいか?このテの本は、何度読んでもちんぷんかんぷん…

だからしつこく何度も読む。

遠近法は、ある時代固有のものであり、そしてその時代の世界観とリンクしている
ということは、わかった。

遠近法の作図による像と、実際の人の目に見える像の違い(ゆがみの部分)を、もう少し丁寧に読み直したい。

家族

 

最近読んだ2冊の本に、立て続けに家族についての記載を見つけたので、少し気になった。とりあえず、抜き書きをしておこう。考えるのはあとにして。

 たとえば核家族が住まうための家を建てることに、二〇世紀の人々は懸命になった。二〇世紀の経済を下支えしたのは、「持ち家」への願望である。従来の地縁、血縁が崩壊し、近代家族という孤立した単位が、大きな海を漂流しはじめたのが二〇世紀であった。近代家族という不確かで不安定な存在に対して、何らかの確固たる形を与えるために、彼らは住宅ローンで多額の借り入れをしてまで、家を建て、家族を「固定」しようとした。あるいはコンクリート製のマンションというかたい器のなかに収容することによって、存在の不安定を「固定」しようとした。地縁、血縁が崩壊したことで不安定になってしまった自分を、コンクリートというがちがちのもので再びかためたいと願ったのである。
(『自然な建築』 隈研吾 岩波新書 2008 p9より抜粋)

 このことを建築家の山本理顕さんは、もう少し厳しい口調で次のように書いている。「〈家族という—引用者注〉この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり、社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできている」、と。

 その最小単位じたいが、いま密度を下げている。独特の密度を可能にする閉じた関係を内蔵しにくくなっている。塗り固められた燕の巣のように、内部を密閉する鉄の扉によって、かろうじてイメージとして維持されているだけの内部を外部からがちっと遮断しているだけだとしか言いえないような家族も増えている。この防波堤が外されれば、イメージとしてかろうじて維持されている家族の形態もすぐにでもばらけてしまいそうだ。

(『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』 鷲田清一 筑摩新書 2010 p148より抜粋)

ちょうど、児童虐待のニュースが取りざたされていたから、余計に気になったのかもしれない。

子育て中の友人を訪ねて行ったとき、「わたしなんて、まだ仕事をしているから良いけれど、そうでなかったら24時間ずっと赤ちゃんと二人っきりなんだよ。大変なんだよ。会いに来てくれて嬉しかった。」としみじみと言われたことを思い出す。

そのとき、子育て中のお母さんは、想像以上に孤独なのだと思った。
そして、ひとつの命の責任を24時間引き受けることの重圧。

自分の親も決して100点満点の親ではなかったけれど、その親を相対化できる程度には、さまざまな大人に『からまれていた』と思う。

ズケズケ物を言う友だちのおかん、親よりも厳しいピアノの先生、いつも美味しい料理で迎えてくれる祖母、周囲の大人との関係が、案外、親子関係の弾力となっていたのかもしれない。家族関係を小さく小さく密閉することで、そういう弾力性が削がれていっているのかもしれない、という気がした。

連続、不連続

 

負ける建築』が存外おもしろかったのを思い出し、隈研吾の著作を読みはじめたのだけれど、造形と社会との連関の話だから、建築にとくに関心が強いわけではなくてもすごくおもしろい。

(前略)コンクリートは突然にかたまるのである。それまではドロドロとしていた不定形の液体であったものが、ある瞬間、突然に信じられないほどかたく、強い物質へと変身を遂げる。その瞬間から、もう後戻りがきかなくなる。コンクリートの時間というのは、そのような非連続的な時間である。木造建築の時間は、それとは対照的である。木造建築には、コンクリートの時間のような「特別なポイント」は存在しない。生活の変化に従って、あるいは部材の劣化に従って、少しずつ手直しし、少しずつ取りかえ、少しずつ変化していく。
 逆な見方をすれば、二〇世紀の人々は、コンクリートのような不連続な時間を求めたのである。

(『自然な建築』 隈研吾 岩波新書 2008 p8より抜粋)

最近、時間のことを考えていた。

決定的な完了時点があるから、グラフィックの仕事のほうが好き。
ウェブはどこまでいっても終りがないからつらい。
ずっとそう思っていたけれど、ここにきて、継続的に手をかけて育てていかなければならないウェブという媒体、「育てる」というのが、案外、性にあってるんじゃないか…と思いはじめていた。

そうか、ウェブの時間は連続なのだ。

写真にしても、1点ではなく、複数の関係性によって何が見えてくるか、ということのほうに関心があって、連続と不連続との境界あたりを、おもしろいと思っているのだ。

提灯

 

ミックイタヤさんの個展、提灯を見に行く。ずっとお世話になっている美容室、ロマンザのマークがミックさんの作品で、それまでも作品集を見る機会もあったりしたから、「提灯?」と思いながらも遠出をした。

線で描かれた作品がすごく好きなのだけれど、提灯(立体物)のラインもやっぱり繊細なのが印象的だった。

展示の脇に置かれている、ちょっと良いつくりだなぁ…と思う本は、だいたい光淋社が出版したもの。20代前半のころ買っていた光淋社のzyappu。「かわった雑誌」くらいの印象しか持っていなかったけれど、いまなら、この出版社の心意気がよくわかる。

惜しいなぁと言うには、あまりに時間が経ちすぎているんだけど、この出版社を失ったことは、やっぱり惜しいと思った。

ぼちぼち、ね。

 

ひどく寒い。

外出をずるずるのばしのばしにして、
借りていた『西の魔女が死んだ』を観る。

アイロン台が、茶色く焦げてしまっているのがずっと気になっていたので、
DVDを観つつ、その張り替えもする。

古くなったアイロン台は、
布を張り替えたらリニューアルできるのだ、ということを、ネットで知る。

ほとんど、のりで接着されていたので、
霧吹きで水をかけてしばらく置いたら、古い布も紙もはがれる。

もともとのクション材に、新しいクラフト紙を巻いて、
その上から布を巻いてタッカーを打ち、土台に固定する。

製本のりの配合を参考にして、
のりと、木工用ボンドと水を混ぜたものを、紙に刷毛で塗り、
その紙を、台の裏側に貼る。これは布の端を始末するため。

はずしておいた脚を、もとの位置にねじで留め直したら、できあがり。
買ったまま数年使っていなかったヴィンテージの生地で巻いたものだから、
ことのほかガーリーな仕上がりになる。

ガーリー。

こまごまとした家財道具は、
気がつくと、10年、15年選手になっているだなぁ…とつくづく思う。
とすれば、この先10年、ガーリーでいくのか?いけるのか?

それはさておき、
20代に、とりあえず「ひとりぐらし」をはじめるために慌てて買い揃えた家財道具。
さすがに30代も半ばにさしかかると、その安っぽさが気になるようになって、
少しずつ入れ替えはじめている。

慌てて買って「もたなかった」んだから、慌てて買い替えるのは愚かだ。
気に入ったものに出会ったら、都度、おさいふと相談、という感じで入れ替えている。

そんなふうに、身のまわりを少しずつリニューアルしていると、
でもそれって、自分自身も、同じなんだな、と気づく。

10年、15年、こころの中にわだかまっていることや、
執着し続けていることがあるとすれば、
そういうものこそ、都度、入れ替えていかなければならないんだ、と思う。
それも、ひといきにやろうと思うんじゃなくて、ぼちぼち、ね。
そんなことを考えていたら、
昨晩読んだ内田樹さんの本の「居着く」というくだりを思い出した。

 (中略)「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。

 「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。

 人をして居着かせることのできる説明というのは、実は非常によくできた説明なのである。あちこち論理的破綻があるような説明に人はおいそれと居着くことができない。居心地がいいから居着くのである。自分の現況を説明する当の言葉に本人もしっかりうなずいて「なるほど、まさに私の現状はこのとおりなのである」と納得できなければ、人は居着かない。

 そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自力で現況を改善するということができなくなる。

(『邪悪なものの鎮め方』 内田樹 2010 バジリコ p90より抜粋)

額縁はなかったし

 

しかし、コルビュジエ達は、大衆社会における芸術と社会との関係を正確に理解していた。その理解に基づいて作品を作り、また、その理解に基づいた巧妙なやり方で、作品を社会に投入したのである。

 大衆社会において、建築は一個の商品(オブジェクト)として大衆に受け入れられる。この決定的事実をコルビュジエ達は正確に理解していたのである。(中略)商品は、なによりもまずひとつの強固でわかりやすい図像性を持っていなければならない。一目見てはっとするようなパッケージをまとっていなければならない。そのパッケージの図像性が要請される。そのために彼らはまず建築を、その外部の世界から切断することを考えた。

 商品というものは通常、移動可能な自立したモノとして把握される。建築もまた環境から切断されてはじめて、商品として、人々から受け入れられると彼らは考えた。そのためにコルビュジエは列柱(ピロティー)を用いて建築を大地から浮上させて切断し、ミースは古典主義建築が行ったように、乱雑な大地の上にまず基壇を築き、その上に自らの芸術作品をうやうやしく配置したのである。ピロティーや基壇で切断された芸術作品には、単純でわかりやすい形態が与えられた。
(中略)

 切断への関心は、危機感の反映でもある。二〇世紀においては、商品化という操作によってのみ、芸術と社会とが回路を結びうるとするならば、二〇世紀の建築の置かれた位置は絶望的ですらあった。絵画や彫刻はすでに額縁や台座(基壇)によって、二〇世紀のはるか以前から、環境とは明確に切断されていた。ルネサンス以降の近代化のプロセスの中で、すでにその切断をはやばやと達成していたのである。さらにこれらの領域では、貴族的なパトロネージが、二〇世紀に到っても依然として力を保ちつづけており、商品化の必要性はより希薄だった。それに対し、建築の危機は深刻であった。額縁はなかったし、パトロネージも風前の灯火であった。

(『負ける建築』 隈研吾著 岩波書店 2004 p94-95から抜粋)

「額縁はなかったし」というところが、建築の側の本音ぽいのが可笑しかった。

ものを「作品」として他者に認識てもらうための道具立て、プロトコル、そしてその効能には、充分注意をしなければならない、と思ってはいたけれど、ここで、フレームの本質的な機能が、環境との切断ということをあらためて確認する。

作品のなかには、額縁や基壇などのわかりやすい道具立てに頼っていないとしても、そのほかの方法で、環境との切断を果たすことで、作品として成立しているものがあるのかもしれない。そういった作品群を環境との切断という視点を頼りに再検討することで、「作品」の成立前提を、考えたいと思う。

写真という二〇世紀メディア

 

本日はスキャナがすこぶる不調。

昨年の暮れに『負ける建築』(隈研吾著 岩波書店 2004年)を読んでから、わたしは 、けっこう長い間思考停止していたんじゃないかと思っている。

そのくらい、すっきりとして批判的な文章であり、なによりも、この本を貫く作家の批評的な姿勢に学ぶところが大きかった。

いちばん興味深かったのは、20世紀の建築-経済-政治の関係についての記述で、写真と直接関係ないのだけれど、建築の立場から書かれた「写真の性質」についての記述は少し気になったので、抜き出しておこう。

 ライトの根本にも「建築の民主主義」があったことは間違いがない。その証拠に彼は自由で流動的な空間に着目し、生涯、人間を拘束しない自由な空間を追求し続けた。しかし、同時に、空間の性状、空間の流動性を、二〇世紀の支配的メディア(すなわち写真)を使って伝達することがいかに困難であるかも、ライトは熟知していた。それゆえ彼はフォトジェニックな建築エレメントである空中にはり出したキャンティレバーをしばしば用いた。

 写真は空間を伝達することには、不向きだった。空間は形態的ヴォキャブラリーに変換されて、初めて写真上に表現される。大きくはり出した屋根やスラブの形態を見て、人はやっとのことで、その空間の流動を感知することができる。キャンティレバーという形態を通じて、屋内と屋外が相互に浸透しあう様子を感知できる。特に写真のフレームの端部にうつされたキャンティレバーは、広角レンズの生み出す歪みによって、一層、その空中への大胆な持ち出しを強調するのである。ロビー邸(一九〇九年)(図17参照)はそのようにして「傑作」となった。あるいは、ライトが三〇年代のユーソニアン住宅と呼ばれる一連の住宅でしばしば試みたように(図30)、木製の横羽目板に、さらに水平のボーダーを打ちつけることではじめて、水平の流れは誇張され、空間の流動性は写真的に伝達された。写真という二〇世紀メディアは、二〇世紀建築のデザインの方向性を逆向きに規定したのである。

(『負ける建築』 隈研吾著 岩波書店 2004年 p107から抜粋)

建築は、重く大きい建築物そのものを動かすことはできないから、その流通においては、いちばん写真に頼らざるを得ない分野であり、それだけに、写真の特性に対してシビアに、あるいは敏感にならざるを得ない、ということを知る。

写真を撮る側からは、差し出された被写体に対して、写真の特性をどう有利に働かせるか、というアプローチをとるのだけれど、その逆のアプローチ—写真の特性に応じて、被写体自体の形状が決定づけられるということ—が、建築という規模(テレビ映りを気にして痩せるタレントの比ではなく)で行われていることに驚き、そして、写真というメディアの持つ影響力の大きさをあらためて思い知らされた。

またまた、本をいただく。

 

昔、ふたりのお嬢さんの家庭教師をしていたご縁もあって、いろいろお仕事をいただいていました。最初にお目にかかってから、もう15年近くになりますが、こうして忘れずに本を送ってくださるのは嬉しいかぎりです。

家庭教師としてうかがっているときに、一緒に食卓を囲みながら、いろいろ会社のことについてお話をきく機会があったのですが、ひとつひとつ断片的だった話が、この本を読んで筋道がつきました。成功も、失敗も、あらいざらい書かれているなぁ、正直な人柄がにじみでている文章やなぁ、というのが率直な感想です。

いつもけつまずくゴミ箱があったら、足をひっかけない場所にゴミ箱を移す、経営というのは、そういうこまごまとした改善の積み重ねなのよ、とおっしゃっていたことを、ことあるごとに思い出します。

かわいいお嬢さんたちは、もう大人の女性になっているのかしら。
と楽しい想像をふくらませて、そろそろお礼状を書きましょう。

はじめての麦わら帽子

 

幼なじみから本が届く。タイトルは『はじめての麦わら帽子』。
本をいただく、というのはとても嬉しい。作業の手をとめて少し読んでみる。
しばらくして、思い直して、表紙カバーを脱がす。ふふふ。

表紙カバーの絵がらの淡いオレンジと花ぎれの色、
同じく表紙カバーの水色と本体表紙、栞もおそろい。淡く補色にちかい色づかいが綺麗な本です。

まだ読みはじめたところだけれど、娘さんのこと、だんなさんのこと、そして強烈に個性的なおかんのこと、おとんのこと、日々の生活のことが丁寧であたたかなまなざしでとらえられている。彼女の文章を読んでいると日だまりでぬくぬくしているような気持ちになる。

出産の際に病院をかわったことは聞いていたけれど、こんな大変で、身を切るような思いをしていたとは…。大変だったことでもひょうひょうと話すから、つい安心してきいていた。ごめんよ…。

いつもわたしのほうが励まされてばっかりだったけれど、いっぱい大変だったんだ。

活字をつたって、もう一度、ともだちと出会い直すかな。

だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。

 

昨日書いた『塩一トンの読書』はエッセイ集、あるいは書評集のようではあるけれど、ところどころ、著者のしずかな社会批判が込められていて、それがあまりにしずかなので、見過ごしてしまわないように記しておこうと思う。

 バイリングアルがよいなどと、人間を便利な機械に見たてたがる、無責任な意見が横行しているが、ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。

(『塩一トンの読書』須賀敦子著 河出書房新社 2003 p40から抜粋)

これは、フェルナンド・ペソアという詩人について書かれた文章にさしはさまれていた。

在留外国人の子どもの教育支援に携わっている母から、母語ではないことばで教育を受けなければならない彼らの抱える困難を、折りにふれ聞いているから、この部分がいちばん気になった。

もちろん彼らの多くは「バイリングアルがよい」などという教育的配慮から、日本で教育を受けているわけではない。両親の仕事の都合でいたしかたなく、日本で教育を受けることになった者がほとんどだ。

母の話を聞いていて、あるいは、帰国子女である自分の経験と照らして、
彼らのその重荷を、教育者がどれだけ理解できているだろうか、と、
ときに思うことがある。そういうところと共鳴した。

あと、関川夏央さんの『砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった』という本について書かれている文章の最後のほう。

 (中略)いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。

(『砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった』 関川夏央著 新潮社 1993 p157から抜粋)

これにいたっては、もうわたしが書き添えることなんて何もないと思う。

おいしいおやつみたいにこの本を読んだ。

 

楽しげな雰囲気が香りたつような表現で、いいな、と思ったのは、
須賀敦子さんの『塩一トンの読書』(河出書房新社 2003)。

仕事として書物に携わりながら、
でも、ときにこういうスタンスで本が読める、というのは、いいなぁ、と、心底思う。

サワイちゃんから「須賀敦子さん、翻訳家で、エッセイも良いんだよ。」とおすすめされていたので、作業のあいまの息抜きに『霧のむこうに住みたい』をひもといてみた。
情景の描写が重すぎも軽すぎもせず、風通しのよい文章だったから、二冊目を手にとった。

タイトルの塩一トンは、須賀さんが結婚したての頃、イタリア人の姑から、「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言われたことに由来する。塩一トンをいっしょに舐めるというのは、苦楽をともに経験するという意味らしい。

どの分野にあっても、ひとつことに携わっていると、理想と現実との乖離だとか、苦悩や困難があったりするのだけれど、でも、最後のところで、どちらに転ぶか、は大事なことだと思う。

いろいろあるけれど、それでもやっぱり好き、
というところに転ぶほうが、そうでないよりずっと幸せだし、
それこそが継続してひとつことに携わっていくうえでの、強みではないかと思う。

塩一トンの読書でありながら、「おいしいおやつみたいにこの本を」と言えるこの幸福感が、読むわたしをも幸せなきもちにさせてくれる、と思った。

須賀さんは夙川から芦屋のあたりで育っているので、同郷の人だ。
そう思うと、イタリアの生活を綴ったエッセイでも、彼女の文体には、なにかあのあたり(いわゆる阪神間)の風土、風通しのよさみたいなものがあらわれているような気がするから不思議だ。

ほとんど現実と向き合うだけで精一杯で、かれこれ10年近く、小説、というものをほとんど読んでいなかったけれど、これを機会に、また小説、読んでみようかな。

そう思わせる一冊でした。

時代がかわったのか、自分がかわったのか、

 

言葉づかいに違和を感じることがある。

昔から気になっていたのは「家族サービス」。
たいせつな家族と一緒に過ごす時間を、サービスというビジネスのタームでしかとらえられないことが、なんとも寂しくていやだな、と思っていた。

そういう違和感に通じることが書いてあったので抜き出してみる。

 書店にはビジネスコーナーがあり、「MBAに学ぶ企業戦略」だとか「ブランドエクイティ戦略」だとか「マネジメント戦略」といった「戦略本」が平積みとなって所狭しと並んでいます。わたしはいつも、ここはどんな「戦場」なのかといいたくなります。
 いったい、いつからビジネスが「戦争」になったのでしょうか。わたしの経験からいっても、モノの交換から始まって高度消費資本主義の現在にいたるまでの「商取引」の原理からいっても、ビジネスはモノを媒介とする平和的なコミュニケーションであり、戦争のアナロジーで語れるようなものではないはずです。
(『反戦略的ビジネスのすすめ』平川克美著 洋泉社 より抜粋)

そういう好戦的な言葉づかいが蔓延することで、時代の風潮がつくりだされる、というようなことも書かれていた。

本屋さんに行ったときに、ビジネスコーナーで感じる「いやな雰囲気」だとか、ひとが、ビジネスのノウハウを語るときのその語り口に対する違和感だとか、そういったものの理由がわかった気がした。

戦略的に誰かを出し抜いても、そういう相手にはいずれ出し抜かれるし、結果として出し抜かれなかったとしても、出し抜かれるかもしれない、という不安や緊張のなかで競争するようにして仕事をするのは、必ずしも良いパフォーマンスを生むとは思えない。それよりは、協調して互いの利益を確保するほうが、長期的にはプラスとなるんじゃないの?ということは、漠然と感じていた。お客さんが相手でも、業者さんが相手でも、あるいは同業者が相手でも、それは同じことだと思う。

だから、そういう「刺すか刺されるか」みたいな殺伐とした雰囲気を、なんかしんどい、と感じていたところに、この本に出会って、少しほっとした。

戦争のアナロジーで語ることによって、ビジネスをもっとほかの枠組みでとらえる可能性が削がれている、というこの本の主張に、わたしは深く共感する。

こういうのはほんの一例で、メディアの、ひとの、言葉づかいに違和を感じることが日増しに多くなっていってる。その多くが、そういう言葉をつかうことで、あえて、生きることを貧しくしているんじゃないか、そう感じるような言葉づかい。

はたして、時代がかわったのか、自分がかわったのか。

彼岸

 

歴史は苦手科目だったのだけれど、昨年あたりに出会った網野善彦の著書がおもしろくて、時間を見つけては、読み進めている。

川岸を撮っていることもあって、気になって読んでみたのが、『河原にできた中世の町―へんれきする人びとの集まるところ (歴史を旅する絵本)』(網野善彦著 司修絵 岩波書店 1988)。これは、児童書にしてはとても深く難しい内容を扱っている。

ふるくから、川べり、山べりなどの、自然とひとの生活の営まれる世界との境目が、あの世とこの世の境だと考えられていた。だから、向こう岸(彼岸)は、そのまま彼岸なのだ。ここ数週間スキャンしていたフィルムは、彼岸の写真だ。

写真家の中には、人の営みと自然との境がおもしろい、という人がけっこう多いのだけれど、そういう境に魅かれる気持ちの奥底には、本人も自覚しないかたちで、生と死に対する関心が横たわっているのかもしれない、などと思う。

さらに、そういう境の場所は、人の力のおよばぬ神仏の世界に近いので、人と人のこの世での関係もおよばないところとされ、物と物、物と銭を交換しても、あとぐされがない、ということで、商いをする場所として、発展した。

おもしろいのが、もし人びとの生活の中で物の交換が行われ、物を贈ったり、お返しをしたりすれば、人と人との個人的な結びつきが強くなってしまい売買にはならない、という理由で、ものの交換や売買を行う場所として、この世の縁とは無関係な場所が選ばれた、といういきさつ。

そういう、ひとの生活意識をベースに、社会がどう構成されていったか、という描写がとてもおもしろい。

今村仁の著書にある、貨幣と死の関係が、どうしても実感として理解できなかったけれど、これを機にもう一度読み直してみようかな。

見落とす

 

ふだんあまり映画は観ないほうなのだけれど、ふらっと立ち寄った三月書房で、その挑発的な「まえがき」にそそられて思わず買ってしまった一冊『映画の構造分析』(内田樹著 晶文社 2003)。5年前の大学院の講義ではわからなかった映画のナニが、これですっきり。

 無知というのは、何かを「うっかり見落とす」ことではなく、何かを「見つめ過ぎて」いるせいで、それ以外のものを見ない状態のことです。それは不注意ではなく、むしろ過度の集中と固執の効果なのです。

視線について、欲望について、そして、作品構造の重層的な分析、映画の構造のあまりの深さに恐れ入った、というのが正直なところ。

それにひきかえ、大多数の写真とそれにまつわる言説はあまりに素朴すぎやしないだろうか?

 私たちが隠れている何かを組織的に見落とすのは、抑圧の効果なのです。
 ですから、抑圧の効果を免れるただ一つの方法は、自分の眼に「ありのままの現実」として映現する風景は、私たちが何かから組織的に眼を逸らしていることによって成立しているという事実をいついかなるときも忘れないこと、それだけです。

写真が、組織的に見落としているもの、眼を逸らしているものって何だろうな。

おじょうちゃん、

 

おじょうちゃん、

見知らぬわたしのことを、
娘さんでも、お嬢さんでもなく、おじょうちゃんと呼ぶ哲学者から、
わたし宛に二冊の献本をいただいていると、実家から連絡があった。

作業に入って、ひたすら画面と向き合う日々が延々と続くと、
どうしても、自分ひとりで闘っているような気持ちになってしまう。
画面に現れる一枚一枚の画像に、浮いたり沈んだり。

そういった矢先のことだったから、
ものをいただいたということより、気にかけてくださったという事実が、
胸の深いところを衝く。

かつて、その哲学者が父に、
「おじょうちゃんはまだ京都でがんばっているのですか?」
と問うたことを思い出す。

まだ京都でがんばっている

何気ないそのひとことに、
含まれていることがらがあまりに多すぎて、胸が詰まった。

そして、くじけそうになるたびに、流されそうになるたびに、
そのひとことを思い出して、とりあえず前を向こう、と思い直す。

この3年はそういう3年だった。

間隙を知覚する

 

少し前に読んだ、スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー』が読解不能だったことで、(なかば自信を失い)読書からずいぶん遠のいてしまっていた。

暑すぎる夏の夜は、読書にかぎる。
そばにあるのはポール・ヴィリリオの『ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容』。
速度と知覚の変容、という副題にひっぱられた。

まだ読みはじめたばかりだけれど、第一章の前の『緒言 外観をめぐる企て』からすでに、おもしろい予感がする。

 こんな風にして絵画について何年もかんがえていたあるとき、わたしのものの見方にとつぜん変化がおこった。特別な価値のない物体にむかっていたわたしの視線がその傍らにあるもの、そのすぐ横にあるものに移ったのだ。平凡な物体が特別な物体に変化したということではない。「変容」がおこったわけではない。もっと重要ななにかがおこったのだ。とつぜん、わたしの眼前にあたらしいオブジェが出現した。切りとられ、切りこみをいれられた奇妙な形象の構成の全体がとつぜん目にみえるようになった。あたらしく観察されたオブジェはもはや平凡なもの、どうでもよいもの、無意味なものではなかった。それはまったく逆に、極度に多様であった。それはいたるところに存在していた。すべての空間、すべての世界があたらしい形象で充満した。(中略)卑小な幾何学になれてしまっていたために、あきらかに存在するにもかかわらず、われわれにはみえていなかった形態が出現した。われわれは円や球や立方体や四角形は完全に知覚することができるが、事物や人間の間の間隙やすきまを知覚するにはずっとおおくの困難をかんじる。物体によって切りとられ、形態によって型どりされた間隙というこの輪郭の存在にわれわれは気がつかない…。

(『ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容』 ポール・ヴィリリオ著 丸岡高弘訳 産業図書 2003 p11から抜粋)

のっけから強烈に気になる一節で、間隙を知覚できるようになったら、いったい何が見えるんだろう。その知覚のなかではどんな価値観の軸が出現するのだろう。ということが、気になってしかたがない。

切ったり貼ったり2

 

Gordon Matta-Clark

表紙の写真からおもしろくて、つい手にとってしまった。
写真がおもしろくて見ていたのだけれど、この方、写真家、ではない。だから、かえっておもしろいのかもしれない。

最初、切ったり貼ったりしているのは、写真なんだと思って見ていて、それだけでも充分おもしろかったのだけれど、途中で、それが実際に建築物をぶった切ってるとわかって、さらに、おもしろくなってきた。

届いたばかりで、まだなにも咀嚼できてないので、これからゆっくり向き合います。ワクワク。

切ったり貼ったり

 

Joachim Schmid: Photoworks 1982-2007

Gordon Mcdonald, John S. Weber, Joachim Schmid

中身を見ずに写真集を買うことはほとんどないけれど、京都で洋書を扱う書店をいくつかまわってみてもなかったので、思いきって買ってみた。

写真を、とてもアナログっぽく継いでいるのが、気になって。似たような写真を複数並べたり、違うひとの顔をわざと継ぎ目がわかるようにつないだり。

アタマで、継いでるとわかっていても、つい、ひとつのものとして見てしまう、まるで、わたしたちの眼のありよう、脳のありようを試されているよう。

写真を切ったり貼ったり、複数組み合わせたり、編集することによって何が見せられるかということの可能性、おもしろい。

このひとの情報はあまり(日本語では)見あたらないし、英語の解説ちゃんと読んでみようかな。

臆病にもほどがある

 

 スタイルはすでに思想である。ある思想を学ぶ(まねぶ)というのは、まずはある思想が世界を見る、世界に触れるそのスタイルに感応するということである。もうそういうアクセスの仕方しかできなくなるということである。その意味で、哲学はその語り口、その文体をないがしろにしてはいけないと、つよくおもう。

(『思考のエシックス―反・方法主義論』鷲田清一著 ナカニシヤ出版 2007年 p88から抜粋)

うえの文章は、語り口、文体について書かれたものだけれど、「もうそういうアクセスの仕方しかできなくなる」というところに、ドキっとした。

ある撮影スタイルに固定化することで、なにか可能性を逃してしまうような危機感を、うっすら感じていた。わたしが怖がっていたのはそういうことなのかもしれない。

「もうそういう見かたでしか、世界を見ることができなくなる」と。

ただ、最近はこうも思うようになった。
固定化せずに、更新し続ければいいのだ、と。

ある時点、ある時点で何らかのスタイルに着地したとしても、そこに留まらなかったらいい。

スタイルが固定化することを怖がってoutputを出せずにいるよりも、一旦、着地して、outputを出してみて、そこからまたあたらしく踏み出せばいい、と。

ここ数年の我が身をふりかえって、臆病にもほどがある、と思った。

純粋な領域

 

 しかし、それにしても「事象そのものへ」というザッハリッヒな探求、あるいは芸術の自律性の探求は、なぜ純粋な領域を要請するのか。なぜ、領域の固有性、あるいはその形式性、透明性を要請したのか。諸学問、諸芸術のそれぞれが自己に固有の領域へと閉じこもること、そのことがさまざまの知的・美的領域で並行現象として発生したこと、そういうことを可能にするトポスとは何であったのか。そういうトポスへの問いは、当然のこととして、そのトポスが閉じた系、閉じた回路として成立していることを前提とするが、ほんとうにそういう閉じた関係の世界というものは可能なのだろうか。

(『思考のエシックス―反・方法主義論』鷲田清一著 ナカニシヤ出版 2007年 p34から抜粋)

単純に「ファインアート」ってなんなんだろう?という問いがずっとあって、「ファイン」ということばで、ある表現領域を囲わないといけない理由とか、そういうことを知りたい。

そういう「囲いこみ」が表現としての閉塞感とか、制度としての閉塞感に、つながっているんじゃないの??という漠然とした感触とか。論理的に説明はできないけれど、感覚的に、ひっかかりを覚えていること。

※ザッハリッヒ:即物的 トポス:場所

撮れずに帰ってくる

 

先日、読んだ『ひきこもれ』(吉本隆明著 だいわ文庫 2002)に、10年の持続という話があった。

持続ということは大事です。持続的に何かをして、その中で経験を積んでいくことが必要ないような職業は存在しません。ある日突然、何ものかになれるということはないということは、知っておいたほうがいい。(中略)

 たとえば物書きというのは虚業で、政治家の次くらいにくだらない職業ですが、それでも持続ということが大事であることは変わらない。才能がどうこう言っても、十年続けないと一人前にはなれません。

 逆に言うと、十年続ければどんな物書きでも何とかなります。毎日毎日、五分でも十分でもいいから机に向かって原稿用紙を広げる。そして書く。何も書けなかったとしても、とにかく原稿用紙の前に座ることはやる。

まるで朝礼の校長先生のお話みたいやな、と思いながら、読んだのだけれど、「何も書けなかったとしても、とにかく原稿用紙の前に座ることはやる。」というくだりに救われたんだと思う。

スナップを撮りに出かけて行って、一枚も撮れずに帰ってくる、というのがたまにある。それを「無駄足」と思って落ち込んだりもするから。

スナップについては、実に10年どころではなく、30年、50年くらいのスパンじゃないと勝負にならない、と思いはじめている。

日々、経験を更新しながら、撮り続けること。
それが当面のわたしの課題だと思っている。

ある日突然、すごい写真が撮れるようになるわけではないけれど、続けているうちに、かならず機が熟す。

時間を分断しない

 

京大周辺の古本屋をつたっているうちに、
思い立って、久しぶりにガケ書房に立ち寄る。

当初の目的は九鬼周造の著書を探すことだったのに。

ひきこもれ
いささか乱暴なタイトルだな、と思いながら手に取ったのは、吉本隆明の著書。
このひとの本、何度も読もうとして、挫折してる…と、少し躊躇もあったのだけれど。

いざ開いてみると、ずいぶんやさしい文章で綴られている。
たぶん、不登校やひきこもりまっただなかの若者に向けて書かれたものなのだろう。

ほとんど家にこもり机に向かって仕事をする父親を見て育ったから、
下に抜粋するひきこもりについての記述は、わたしにとっては自明のことなんだけど。

世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。

(『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)』吉本隆明 だいわ文庫 2002から抜粋)

そこから、話は「子どもの時間を分断しないようにする」と展開する。

「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。

という視点から、親の立場として書かれている文章を抜き出してみると…

(中略)くだらない用事や何かを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。
 勉強している間は邪魔してはいけない、というのではない。遊んでいても、ただボーッとしているのであっても、まとまった時間を子どもにもたせることは大事なのです。一人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです。
 ぼくは子どもの頃、親に用事を言いつけられると、たいてい「おれ、知らないよ」と言って逃げていました。そうして表に遊びに行って、夕方まで帰らない。悪ガキでしたから、その手に限ると思っていました。
 そうするとどうなるかというと、親はぼくの姉にその用事を言いつける。姉はいつも文句も言わずに従っていました。
 いま思っても、あれはよくなかったなあと反省します。つもり、女の子のほうが親は用事を言いつけやすい。姉本人もそういうものだと思って、あまり疑問をもたずに用足しに行ったりするわけです。
 そういったことを当時のぼくはよくわかっていた。そして、うまく逃げながらも「自分が親になったら、これはちょっとやりたくないな」と思っていたのです。
 ぼくの子どもは二人とも女の子です。女の子が育っていく時に一番大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということなのではないかと思うのです。それ以外のことは、女の子でもやれば何とかなる気がするのですが、これだけは絶対に不利です。

この文章を読んでやっと、幼いころ抱えていた怒りの正体がわかった気がした。わたしは用事を言いつけられると、「いや」と言ってまっこうから母親と喧嘩して育ったほう。ずっと手伝いが嫌いなのかと思っていたけれど、いま思えば、それは手伝いがしたくないのではなくて、集中して何かをやっている最中に腰を折られることに腹を立てていたのだと思う。そういう意味では、母はとてもどんくさく、わざといやがらせをしているのか、相当無神経なのか、ことごとく言いつけるタイミングをはずし、なんでいまやっていることが終るまで待ってから声をかけてくれないのだろう?と、毎日怒っていた。

そのせいで、わたしは自分が家事が好きであるということに、ながいあいだ気づかずにいた。

いまさら、親のことをとやかく言うつもりはないけれど、自分がされていやだったことは、自分の子どもには絶対にしないでおこう、と思う。もし子どもを持つことがあれば。

そして、いま自分のこととしては、制作のための時間をまとめて持てるように、もう少し工夫しよう。ここのところ、人から頼まれた用事にふりまわされすぎている。

芸術展示の現象学

 

つい先日、手もとに届きました。初版発行が12月20日になっているので、もうすぐ店頭に並ぶのでしょうか。

恩師のお声かけで、ほんの少し執筆しています。どこかで見かけたら、チラとのぞいてみてくださいな。表紙は松村康平さんのデザインです。『芸術展示の現象学』(太田喬夫・三木順子編 晃洋書房)

隔たり

 

見続ける涯に火が・・・ 批評集成1965-1977

分厚い本だから、しばらく開いてみる勇気がなかったのだけれど、スキャンの待ち時間のあいだに読みはじめたら、ぐんぐんひきこまれてしまった。制作者の生のことばだけに、問題意識を共有しやすかった。

いくつも、とりあげるべき箇所はあるのだけれど、気になったところからひとつ。

睡眠薬を常用し続けることによる知覚異常の話のところで、距離感を喪失する幻覚を見るという記述。抜き出してみよう。

幻覚といってもありもしない幻を見るのではなく、つまりそれはこの距離感の崩壊であり、事物と私との間に保たれているはずのバランスを喪失することであった。たとえば、テーブルの上にコップが置いてあるとする。だが自分にはコップをコップとして認識することができず、私とコップとの関係を正常に知覚することができないのだ。

ふるくからの友人が、幼いころ、ものがだんだん、小さくなっていくように見えることがあったと言っていたことを思い出す。家族の問題に端を発したその症状は、家族関係の改善とともに、なくなっていったのだそう。

ものの大きさの見え、は、隔たりや距離感と密接にかかわり、それが崩壊するというのは、単なる知覚のエラーという以上の意味を持ち、心理的な危機とも深くかかわっているのだと思う。

中平卓馬さんの近作にひっかかりを覚えていて、それが何なんだろう、と、ずっと考えていたのだけれど、最近ようやく、それは、ものとの距離感、隔たりにあるのではないか、と思いはじめた。身体距離を侵されたときの居心地の悪さに似たなにか。

先日、自分の書いた文章を読み直してみることがあって、あらためて自分が「隔たり」に強い関心を持っていることに気がつく。被写体との距離感。

ショー

 

昼の学校 夜の学校

対談だしあまり気負って読まなくて良さそうだったので、手に取ってみた。森山さんの文章はけっこう読む機会が多いので、対談の内容はあまり目新しいことはなかったけれど、印象に残ったのは、「アメリカでは写真展のことを、ショーと言う」という話を、繰り返ししてはること。エキジビションとは言わないそうだ。

見世物なんだよね。

という森山さんのことばは、すとん、と納得できて、写真なんだから、そのくらい猥雑で軽やかで、ええやんって。

あとがきの「たかが写真であり、されど写真である。そのたかがをされどと言ってみたくって、ぼくは長年写真にこだわりつづけてきたような気がする。」というの、つくづく、うまいこと表現するなぁと思う。

「たかが写真」なんよ。本当に。たいそうなことやない。
でも、その「たかが」に、一生を賭けるひとが、賭けようとするひとが、少なからずおるんよね。

初校

 

大雨のなか、春に書いた原稿の初校が戻って来た。

今まで、アルバイトで父の原稿のチェックをしたことはあったけれど、初校の見慣れない体裁に少し戸惑う。

大それた思惑のある作品をつくっているわけではないから、文章を書くこと、少し躊躇もあったのだけれど、活字になることで、少し遠くなって、これが本になったら、ずっと遠くなることは想像に難くない。

先日、雨のなか、先輩と話していた。
わたしは写真家はそもそもいかがわしいもので、ジャズメンのようなもんだと思う。そして、むしろいかがわしいほうが、おもしろいことができるんじゃないかと思っている。

野に放たれて、たくましく生き延びながら写真を撮らんと、撮り続けんとあかん。というのがわたしの勘。そして、わたしは自分の勘を信じている。

両の手のあいだに封じ込めたい

 

夕暮れどき、きちんと「いちにち」を見送ることができると、嬉しくなる。
気がつくとそとが暗くなっていたというのは、哀しい。

どんどん暗くなっていって、街に灯がともっていく、その時間のうつろいを、両の手のあいだに封じ込めたい。と、思うのです。

見てみたい。とか、つくりたいという、キラキラした気持ちがあるときは大丈夫。
で、想定しているのは、冊子。

美術手帖のインタビューでも、日本の作家の海外進出がすすまない理由として、作品が書籍になっていないということが挙げられていた。

ま、「進出」なんてどうでもええんやけど。

おもしろいもんをつくって、それを他人と共有するのに、冊子として流通するというのは、すごく良いと思うんだ。たいそうなもんとして、じゃなく、ひとの生活に入り込めるし。

あとは、めぐりあう機会の問題で、展覧会するのと、写真集をつくるのと、どちらが多くひとにめぐりあうやろか?ってところ。

ほんで、ひらく、めくる、とじる、もどる、といった操作が、
映像よりも自由なかたちで、見るひとにゆだねられてる。
「見る」方法を、ぽーんと相手にゆだねているというところが、おおらかでいいやん。

Home / Away

 

ここ数日ずっと寝しなにShinjukuBuenos Airesを見ている。

「近所で写真を撮って作品つくるのは作家の怠慢」

という写真家の厳しいことばがずっと頭にあって、どこか遠くに行くことを考えはじめたから、一人の作家のホームタウンで撮る写真と、アウェイで撮る写真とを比べて見てみたい思った。

同じ写真家が撮っているのに、ずいぶん違うものに思える。

被写体の違い、だけなんやろうか。
ShinjukuよりもBuenos Airesのほうが作家のまなざしが自由になっている印象を受ける。

Buenos Airesは、特に見開き2ページの写真の組み合わせ方がおもしろい。

左ページのタンゴを踊る女性の網タイツが目をひけば、
右ページでは黒く濃く焼き付けられた橋脚の複雑な構造体が存在感を示している。
左右のページの被写体がまったく違っていても、どこか共振するところがあって、それがほどよい緊張感をもたらしているのだと思う。

1枚だけを見るのと、2枚を対で見るのは、2枚のたとえ片方を見ているつもりでも全然違う経験なんだと思う。

と、じいっと見ていると、寝そびれて起きそびれる。
明日は雨だから今夜はよふかしもいいかな。

今夜は眠れそうにない。

 

母から電話がかかってきた。

母:鷲田先生の「京都の平熱」。
わたし:知ってるよ。最近出た本だよね。
母:リサさんへって。
わたし:?

しばらく、理解ができなかった。

母:リサさんへ献本が届いてる。
わたし:父ちゃんじゃなくって?
母:おじょうちゃんに…だそうよ。

今日はいくつかよつばのクローバーが開いて、
白いミニバラもつぼみをほころばせたから、
きっといい日になると思ったけれど、さすがにこんなサプライズは想像だにしなかった。

京都を題材にした著書で、写真も鈴木理策さんの写真だからということで、
父ではなくわたし宛に献本してくださったとすれば、その心遣いに目眩がしそう。

如月に届いた印画紙にはじまり、今年は、身にあまるできごとが多い。

実家に帰るのは明日の晩なのに、そわそわしている。
どうも今夜は眠れそうにない。

建築写真

 

昨年12月発行とあるので、遅ればせながら。たぶん、「建築写真」というタイトルだけやったら縁遠く感じたけれど、巻頭がティルマンスの写真だったからつい手が伸びてしまった。頻繁に写真が特集で組まれたり、写真を扱う雑誌が増えているようだけれど、いまひとつ芯のあるものに出会えることはなく、この「建築写真」は最近の雑誌のなかでいちばんおもしろかったと思う。

いわゆる「建築写真」と聞いて想像する写真とは違う写真の可能性が提示されている。建築にあまり興味がなくても、写真特集として充分読める内容を擁している。掲載されている写真もさることながら、伊藤俊治氏の20世紀建築写真史はさらっと読めるわりに情報量が多いし、清水穣氏のティルマンスについてのテキストも刺激的。

黒と白のコントラストのきついレイアウトが文字を追いづらくさせているのと、ノンブルが見つけにくいのが難点だけれど。

「建築」と「写真」のかかわり方の可能性。という切り口。
漫然とカタログ化してしまう写真特集や、甘い雰囲気ものの雑誌が増えるなかで、方向性がきっちりしている特集は気持ちがいい。

まさぐる

 

 触れるというのはまさぐることだと、以前に書いた。触れるとは、身体の表面が物に接触するという偶発的な出来事を意味するのではなく、対象への能動的な関心をもって、触れるか触れないかのぎりぎりのところで物をまるで触診するかのように、愛撫するかのように探る行為だといった。が、これはなにも触覚にかぎられることではなかったのだ。触診、聴診のみならず、見ることもまたすぐれて世界をまさぐるという行為なのだろう。

(『感覚の幽い風景』 鷲田清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

「まさぐる」ということばがぴったりだと思った。
松江泰治氏の写真集『JP-22』。都市の見せる微細な表面を、わたしのまなざしはまさに「まさぐる」。潜るということばもどこかで聞いた気がする。細部にわけいるまなざし。そこから少し遠のいて全体を見るまなざし。細部に集中しているときは全体は見えていない。全体をまなざすときは、細部までは見られない。その視覚の不可能性や、往復運動はたしかに「潜る」行為に似ていると思った。

でも「まさぐる」もいい。
触覚的なニュアンスや、見る人の能動性をうまく表現している。
彼の写真はまさに、見るひとのまなざしが「まさぐる」ことを誘う。

わたしはそこがおもしろいと思う。

同感

 

数年前に友人がプレゼントしてくれた美術手帖、森山大道さんのインタビュー記事を読み返していた。

「一枚のタブロー化された作品というのは本質的な意味で写真ではないという、タブロー化への反感もあった。」

写真をばっちりと一枚の完成された「作品」に仕上げることに違和感を覚えていた。他人の作品を否定はしないけれど、自分は違うと思っている。そういうふうに理由もわからないまま、自分の直感を確信していることがいくつもある。理由がそれに追いつくのに数年かかることもある。

自分でも理由がわからないから、たまに同感できるものに出会うとほっとする。
ほっとする。けれど、理由はまだ見つかっていない。

ただシンプルに、写真は断片なのだから断片のままでいいのだと思っている。

自閉的な近代の芸術観

 

わたしの旧くからの友人知人で、すすんで現代美術に接する人はほぼ皆無である。

伝統的な芸術に親しんでも、現代美術は苦手だという人は多い。どうして、それほどまでに現代美術は人々の生活から乖離しまったのか。その原因を探りたいと思っている。

 それ自体がそれによって切りとられた世界の断片の所有である絵を所有すること、それもできるだけたくさん収集することというコレクターの意思は、まさにルネッサンス以降の見る文化の一端であり、十八世紀末から十九世紀にかけて形を変えて、美術館や博物館というシステムへ回収されていくことになる。美術館や博物館はいわば十八世紀末に成立したブルジョア文化の現在における保存装置なのであり、かつての王権の変形した残骸なのである。(中略)

 また、一方で美術館や博物館は十九世紀に入ってからの激しい時代変動と同調して最後の礼拝的な場所としての機能も果たすようになっていく。(中略)

 “芸術の神殿”、芸術の絶対化といった考えが芽生えてくるのはこうした土壌からであり、この考えこそが芸術を芸術自身で自律させるという自閉的な近代の芸術観の根底をかたちづくることになる。芸術こそ最高の価値とみなすこの信仰は、いわば宗教の代用である。

ひきつづきジョン・バージャーの『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』からの抜粋である。「芸術を芸術自身で自律させるという自閉的な近代の芸術観」という視座は、その芸術観をごくあたりまえの「芸術のありかた」として受けとめていたわたしにとっては新鮮な驚きであった。

芸術を芸術自身で自律させる。すなわち、社会の直接的なオーダーからはなれたことが、現代の芸術が一般のひとびとにとって難解な表現を生み出したひとつの要因であることは否めない。

短絡的に結びつけるのは危険だけれど、こと現代美術が敬遠される…その理由のひとつを見た気がする。

精神の姿勢の問題

 

しかし油絵の伝統ほど、傑作と凡作の差が大きい文化はないだろう。この伝統においては、差は技術や想像力の問題ばかりではなく、絵に対する精神の姿勢の問題でもある。十七世紀以降、ますますその傾向が強いのだが、標準的な作品は多かれ少なかれ冷笑的に生みだされたものである。つまり、画家にとっては、依頼された作品を制作したり売ったりすることのほうが、その作品が表現している価値よりも意義があった。凡作は、画家が不器用だったり乱暴だったりした結果生まれたというより、市場の要求が芸術上の要求よりも強い結果として生まれてくるのだ。

(『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』ジョン・バージャー著 伊藤俊治訳 PARCO出版局 1986年 より抜粋)

市場が活発であればあるほど売れ筋が顕著になる。それにのっかるほうを選ぶ作家が多かったということ。精神の姿勢の問題とは、なるほどそういうことか。

しかし、作品を「売ること」をどうとらえるかは難しい。

売れ筋を狙うようなあざとい作家はまわりにはいないけれど、まっとうな作家のなかでも意見は二つに分かれている。「売る」からこそ生まれる緊張感によって作品のクオリティがあがるという考え方と、売るのを意識することから自由になりたいという考え方。前者は無意識のうちに市場のニーズをとりこんでしまう危険性を、後者はいわゆる「趣味」のレベルに埋没してしまう危険性を孕んでいる。

どちらのリスクをとりながら制作するかはそれぞれの作家しだいだ。ただ単に、作品をつくっているのではなく、どう経済とかかわるかは、作家であれば誰しも考えるところなのだろう。

そういった制作活動の基本的なスタンスにはじまり、細かいことをひとつひとつ丁寧に繊細に選択していくことが、よりよい作品の生まれる土壌になるのかもしれない。

再読 ジョン・バージャー『イメージ』

 

ジョン・バージャーの『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』(伊藤俊治訳 1986年 PARCO出版局)を4年ぶりに再読した。原書は1972年に著されたとのことで30年以上も前のものだということを読み終わってから気づいた。そのくらい古さを感じさせないものだった。いくつかひっかかるポイントを抜き出してみたい。

しかし、いずれにしろ、今その原画が持っている独自性とは、それが”複製の原画”
であるということのなかにある。人が独自性を感じるのは、もはやその絵のイメージが示すもののなかにではなく、その絵のあり様のなかにある。(上述『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』より抜粋)

先週末に見た「大絵巻」展。長蛇の列をつくっていたのは高山寺の「鳥獣戯画」だった。ほかにもおもしろい作品はいくつもあるにもかかわらず、また見るべき作品がほかにあるにもかかわらず、その列に並んだ背景には、グッズやモチーフに多く用いられ親しみ深い「鳥獣戯画」の原画を確認しよう、「ホンモノ」が複製とどうちがうか、その差異を見いだそう、そういうモチベーションが強く働いていたことは否定できない。

原画の意味はもはやそれがどのような特別なことを語りかけてくるかではなく、それがどのような特別な状態にあるかに見いだされる。(同書より)

複製とは複製物と割り引いて接し、原画(ホンモノ)は複製物との比較において接する。そのどちらも、真正面から作品と対峙することとはほど遠い。複製の出現によって奪われた体験。そういうものがあるということを再確認する。

わたしの記憶が正しければ、トーマス・シュトルートの美術館のシリーズはこれと同じ論旨で解説されていた。