昨日、樂 吉左衞門さんの番組を見ていて、自然と同化するものを作りたいと思っても、土から何かを作り、何か表現をした瞬間、自然と相容れないものになっていくという話があって、磐座のことを思い出した。
はじめて磐座を見たのは、友人と一緒に自宅の裏の保久良神社に参詣したときのこと。
境内にある大きな岩の説明書きを読んだ友人が、「この岩、本殿よりよっぽど古いんだ。弥生時代だって。そのころからここは信仰の場所だったみたい。」と。
気になって周囲を見まわすと、不自然に大きな石が点在している。それだけのことなのだけど、そこには人為の痕跡が感じられた。
それからというもの、磐座が気になってしかたがなかったのだけれど、なぜなんだろうと考え直してみると、自然からモノを取り出して(磐座の場合は)並べるという、造形より手前の、いちばんプリミティブな人為(表現)をそこに見い出したからかもしれない。
表現というものの起源や、どうしてわたしたちは表現せずにはいられないのか、という疑問が、ずっと根っこにあるのだ。