龍安寺の石庭

読んでいた本の中で少し気になる文章を見つけた。それもごく最近、龍安寺の石庭を見に行ったところだ。

 この庭には、砂と石と石にへばりついた苔しかありません。石は全部で一五個、大小の違いがあって、かりに庭を左右に分割してみることが許されるならば、左にある二群の石は、右にある三群の石よりも、全体的に大きいものが配置してあります。非対称にもとづく石組みの配置が、微妙な均衡をつくりだしているとも言えるでしょう。石はとりたてて特別面白いという形をしていません。むしろ平凡な石という印象のほうが強く、そこに座り込んだ人は、石そのものに関心を引きつけられるよりも、石と石の関係や、全体配置のなかでも個々の石の位置のほうに、注意がいくように配慮されているように感じられます。つまり、これらの石には「自性」がないのです。
(中略)
 これをさきほどの、『華厳経』の思想について書かれた井筒俊彦の文章と比べてみると、仏教思想の構造と庭園の構造とがあまりにみごとに照応しあっていることに、驚かされます。この石庭のなかに置かれたそれぞれの石は、「自性」というものを持っていません。しかし、それぞれの石にはほかの石との関係から発生するところの、全体的関連性のなかでの独自性の感覚がそなわっています。無「自性」なのに、そこにはたしかにものがある、という存在感を生み出しているわけです。
 ところが、そういう石が個体としての存在感を持ち出したとたんに、足許の苔がそれをあざ笑うかのように、個体性の幻想を解体してしまうのです。(後略)
(『対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)』中沢新一著 講談社 2004 p195より抜粋)

「自性」のくだりがわかりにくいので、少し手前の文章も抜き出しておこう。

 (前略)私たちのひとりひとりが、宇宙の中でのかけがえのないたったひとつの個体であることの認識から、仏教は出発します。ここで西欧的な思考は同じように、個体性のかけがえのなさの認識から出発して、個体の確立という思想に向かっていくでしょう。つまり、個体性というもののベースに潜在している非対称性を、あらゆる思考の基礎にすえようとするでしょう。じっさいアリストテレスはそうやって、個体性というものを自分の哲学の出発点にすえました。そうすると、非対称性の論理学を使って、多くのことが矛盾なく説明できるように思われたからです。
 しかし、仏教はそこから反転して、この個体というものを対称性の思考の中に投げ込むことによって、非対称性と対称性の共存として発達してきた野生の思考の(バイロジック的な)知恵を、できるだけ完全なかたちにまで発達させようと試みてきました。(中略)自分はこの宇宙でたったひとつのかけがえのない存在なんだという、個体性の鋭い意識を保ったまま、すべてのもの(存在)のあいだに同質性をみいだしていこうとする対称性の思考を作動させることによって、宇宙のなかの極小部分としての個体や個人の自由ということについて、考えてみようとしたわけです。
 そのことを最初に、意識的に表現してみせたのが『華厳経』です。そこではまず、仏教思想の基本にのっとって、ものには自性(そのものとしての本質)はない、という認識から出発します。ものとものを区別し、分離する非対称的な意識の働きを止めて、そこに対称性の思考を働かせるとき、高度な哲学的思考の試練をへている仏教は、それをたんに「同質的である」というのではなく、もっと哲学的に「自性はない」と表現するわけです。

 そのうえで、あらためて今度はものには自性はないけれども、しかもものとものとのあいだには区別がある、ということを言い出すのです。
(同書 p190-191から抜粋)

ここで自性についての記述を深く追うのは控えるけれど、仏教における、ものの存在についての抽象的な思考を、この石庭がたえず現象させているというところが肝要なのだと思う。