LISA SOMEDA

隔たり (10)

近すぎて見慣れない山。はるか遠くの見慣れた山。

 

昨年5月に記したメモより。

先日実家で窓の外を眺めたとき、はるか遠くに見える山が紀州山地だということにはじめて気がついた。

神戸の海と山に挟まれたほんなわずかな平地で、しぜん太陽の射す海側に気もちが向くのと、うしろの山(六甲山系)はまなざすには近すぎるのとで、日常生活では、六甲山系よりもむしろ、遠く紀州の山影のほうが視界に入りやすい。

ほぼその上で生活しているにもかかわらず、視界に入らない六甲山系に感じる馴染み深さはどこか抽象的。いっぽう、訪れたことすらない紀州の山々に感じる馴染み深さは日々の生活で見慣れている分、現実的。

近すぎて見慣れない山と、はるか遠くの見慣れた山。
物理的距離と心理的距離は必ずしも一致しないのかもしれない。ひとが土地ととりむすぶ関係は、案外複雑だ。

さらに言えば、六甲山系をあたりまえのように「うしろ」と認識しているのもふしぎなことだ。海沿いの埋立地のあたりから六甲山系を眺めるときは、ただ山を眺めているだけなのに、「うしろをふりかえる」気もちになっている。

京都にあっては、必ずしも北が「うしろ」ではないし、特定の方角の山を「ふりかえる」と感じたことは一度もない。

隔たり

 

平時モードに戻る前に、もうひとつ書き残しておこうと思う。

「隔たり」ということばは、ふつう二者の空間的・時間的な距離を指す。それだけでなく、たとえ二者の距離が限りなく近くても、ガラスや壁のような遮蔽物が間にあるような場面でも「隔たり」ということばを使う。これらはまったく異なる状況のはずなのに同じことばを使う。そのことに興味を持った。

この二つの状況に共通点を見出すとすれば、距離や遮蔽物によって二者の接触が阻まれているということではないか?「隔たり」ということばのベースには「触れることができない」(接触不可能性)というチクッと心が痛む経験が横たわっているのではないだろうか?

かつて、そんなことを考えたことがある。(隔たり 2014.04.26)

奇しくも、新型コロナウイルスの感染防止対策として、日常生活ではソーシャルディスタンスを保つよう促され、公共施設や商店の窓口には薄い透明のシートが貼られるようになった。ぼんやり考えていたことが、突然、可視化されてしまった。

見えているのに見えていないこと

 

15年分のスナップ総ざらえも、あと少し。

ステキと思って撮ったのでは「ない」もの。なんかようわからんけど気になるわと思って撮ったものばかりを集めてみると、自分の関心がどこにあるのかが少しクリアになってきた。

視覚のくせ(エラー)が垣間見えるような場面、画面要素の拮抗状態、前後関係の撹乱をはじめとする識別不可能性。見えなさ。

フェンス(ネット)より手前に突き出ている枝に対しては、立体感や奥行きを感じたりディテールを見ることができるのに、フェンスより奥のものに対しては、奥行きや立体感を感じたりディテールを見ることができない。

むしろフェンスがつくる平面に像がペッタリ吸着されているような気さえする。脳内では面の認識が優先されているのだろうか?

こういった見えているのに見えていないこと。見えなさ。

備忘録

 
  1. 写真が奥行きを約めてしまうことによる見えの変容
  2. 平面、あるいは平面が仮構された状況。及び、その平面への介入
  3. 透けてみえる対象が映像のように感じること(質感の混在が原因?)奥行きが失われるように感じること

人間の視覚では捉えられない無意識の世界をレンズが〜という話ではなく、ひとは見ているつもりになっているが、そもそも目の前にあるものすらあまり見ていない、とあらためて。

距離を尊重する

 

 マリオンは「ディスタンス(距離)」について語っています。それは神と人間との距離であり、父なる神と子であるキリストの距離です。「偶像」はこの距離を縮めます。イコンはこの距離を尊重します。(後略)

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p148-p149より抜粋)

このあとには、肯定神学、否定神学を通じてどのように神との「距離を尊重するか」という話が続く。

「距離を尊重する」ということばが、とてもしっくりくる感じがあって、本筋を離れてどんどん思いはふくらむ。ひとつは、写真における距離の問題。もうひとつは、人間関係の距離の問題。

特に後者。同世代の友人と話をしていると、人間関係の不調は結局、(心理的な)距離感の齟齬として話が着地することが多い。それをずっと、距離の近さ、つまりは量的な問題だと捉えていたけれど、このくだりを読んで、量の多寡ではなく、相手との距離を尊重することができるかどうか、姿勢の問題かもしれないと思った。

隔たり

 

あの日は隔たりということを考えていた。

隔たりとは、すなわち、距離(distance)なのだろうか。

たとえば、2者の間に遮蔽物があり、距離としては非常に接近できたとしても、実際に触ることができない、という状況を考えてみる。数値的には距離を限りなく0に近づけたとしても、接触不可能な限り、そこには隔たりが存在するのではないだろうか。
だとすれば、隔たりとは、2者の接触可能性に基づく概念であり、そこには身体性が深く差しこまれているのではないだろうか。と。

近い—遠い

 

リハビリの夜 (シリーズケアをひらく)』(熊谷晋一郎 医学書院 2009)を読む。

少し気になる文章があったので抜き出しておこう。

 車いすに乗ったときに見える三次元の世界は、床に寝そべっていたころに見た二次元の世界とは異なる。それはただ単に、視点の位置が高くなったということだけではなくて、時間の流れの感じ方や、空間の広がりの感じ方にも変容をきたすものだ。

 まず空間の〈近いー遠い〉という感覚について考えよう。

 現在の私には車いすから降りたとたんに、それまで近くにあったモノが、急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。おそらく世界にある対象物への〈近いー遠い〉という距離感覚は、「対象との協応構造にあいた隙間」によって大きく影響を受けているように思う。

 たとえば、協応構造の隙間が小さくてすぐにつながることのできる範囲、すなわち手を伸ばせば届く範囲が「近くの場所」で、息切れしない程度の移動でつながれるところは「少し離れた場所」、やっとの努力でつながれる場所は「遠くの場所」、努力してもつながれない場所は「向こう側」というふうに。

だから床の上に転倒した二次元の世界では、多くの人や、モノとのあいだに大きな隙間が生じるために、それらが遠くの場所や向こう側に存在しているように感じられる。二次元の私にとってモノたちや人々は、数十センチの至近距離にこない限り、私とは関わりのない遠くの存在なわけで、それは壁や天井と違いのない風景とも言える。

 このように、協応構造にあいた隙間の大小によって空間の感じ方は変容する。その関係を整理するならば、「身体外協応構造の隙間が大きいものは遠くに、小さいものは近くに配置する」ということになるだろう。そして、空間の中で隙間が最も小さいのが「身体」である。
(前掲書 p169-p170から抜粋)

写真にたずさわるうえで、へだたり、遠近、ということについて、無関心ではいられない。ここでは、協応構造という専門的な用語が使われているが、距離あるいはへだたりの感覚が、単なる計量的なものではなく、生身の身体を介する「かかわりのもてなさ」としてマッピングされていることを、あらためて思い起こさせられた。

 電動車いすに乗っているときの世界の感じ方は、乗っていないときとはまるで違う。さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。運動の変化量、ひいては世界の見え方の変化量が大きくなることで、時間の流れ方も早くなるような気がする。行動の選択肢が格段に増えることで、自己身体のイメージもより可能性を持ったものとして感じられるようになる。

 このように電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうのである。
(前掲書 p171から抜粋)

ここでさらに変数が増える。運動の変化量、時間の感覚。

ここまではっきり認識したことはないけれど、体調の悪いとき、からだをかばいながら少し緩慢に動いて撮影しているときは、普段立ち止まらないようなものにぐっと引き寄せられることがある。いつもとは違うものに呼び止められるような感じ。それは、さっさと機敏に歩いているのでは気づかないようなこと。
あるいは、移動手段が歩くのと、自転車に乗るのとだけでも、撮影対象もそこで撮る写真もまったく違ってくる。それが車になり飛行機になると、まったく次元が違ってくる。そう。運動の変化量が上がるにつれて、遠いものを撮ることが多くなる。こういった経験から、運動の変化量と距離感覚とに関連があることは、少し想像がつく。

それに加えて時間の感覚。著者は電動車いすによる、加速する方向の変化について書いているけれど、わたしにとっては、スロウダウンのほうがよりリアルだ。これも、体調が悪く緩慢に動くときの、じっと床を這うような時間の感覚をよりどころにするしかないのだけれど。

さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。
このフレーズは、今の自分にとってすごく大事な気がする。

そして、電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうという文章の「電動車いす」を、車や飛行機にかえてみてもいい。
飛行機と車で移動しながら撮影をする写真家の作品を思い起こす。彼の作品のバックボーンは、その運動の変化量の大きさ。動力を利用することで、ヒューマンスケール(生身の身体)のリミットをはずしてしまったところにあるのではないか、ということを考えていた。

身体を含めた世界のイメージをすっかりかえるという経験を、身体感覚を研ぎすます方向で見いだそうとしていたけれど、運動の変化量をかえる、ということで得られるのであれば、これを試さない手はないだろう。

これはまだまだ、もっともっと時間をかけて考えていきたい。

隔たり

 

見続ける涯に火が・・・ 批評集成1965-1977

分厚い本だから、しばらく開いてみる勇気がなかったのだけれど、スキャンの待ち時間のあいだに読みはじめたら、ぐんぐんひきこまれてしまった。制作者の生のことばだけに、問題意識を共有しやすかった。

いくつも、とりあげるべき箇所はあるのだけれど、気になったところからひとつ。

睡眠薬を常用し続けることによる知覚異常の話のところで、距離感を喪失する幻覚を見るという記述。抜き出してみよう。

幻覚といってもありもしない幻を見るのではなく、つまりそれはこの距離感の崩壊であり、事物と私との間に保たれているはずのバランスを喪失することであった。たとえば、テーブルの上にコップが置いてあるとする。だが自分にはコップをコップとして認識することができず、私とコップとの関係を正常に知覚することができないのだ。

ふるくからの友人が、幼いころ、ものがだんだん、小さくなっていくように見えることがあったと言っていたことを思い出す。家族の問題に端を発したその症状は、家族関係の改善とともに、なくなっていったのだそう。

ものの大きさの見え、は、隔たりや距離感と密接にかかわり、それが崩壊するというのは、単なる知覚のエラーという以上の意味を持ち、心理的な危機とも深くかかわっているのだと思う。

中平卓馬さんの近作にひっかかりを覚えていて、それが何なんだろう、と、ずっと考えていたのだけれど、最近ようやく、それは、ものとの距離感、隔たりにあるのではないか、と思いはじめた。身体距離を侵されたときの居心地の悪さに似たなにか。

先日、自分の書いた文章を読み直してみることがあって、あらためて自分が「隔たり」に強い関心を持っていることに気がつく。被写体との距離感。

懐疑

 

 光線や視線、網膜といった概念を編んでいる〈線〉と〈膜〉という比喩、それがわたしたちの感覚に、なにがしかのバイヤスをかけてきたのだろう。二つの異なるもののあいだを走る線(矢印のように物に向かう視線、もしく彼方からこちらにやってくる光線)としての視覚、そして網膜というスクリーンに映る「像」としての視覚風景。ここでは視覚が、まるで知覚する主体と知覚される対象とのあいだの、眼球という媒体ないしは衝立を介して起こる出来事であるかのようにとらえられている。見るものが見られるものから隔離されているのだ。接触も摩擦も圧迫も浸透もない、距離を置いた関係として、である。「見え」とはしかし、そうした遠隔作用のなかで生まれるものだろうか。

 考えてみれば、わたしたちがじっと頭部を固定して物を見るのは、顕微鏡をのぞくときくらいしかない。ほとんどのばあい、頚を回し、身体を動かしながら、わたしたちは物の「見え」にふれている。視覚とはつねに運動のなかに組み込まれているのであって、物を正確に見るというのも、カメラに三脚を装着して微動だにしないよう固定するということではなさそうだ。触れるということが、物との接触や衝突ではなく、まさぐりにゆくという身体の運動のなかで起こったように、見るということもまた、網膜への刺激の投影ではなく、何かに向かうという、環境への動的なかかわりゆきのなかで生まれると考えたほうがいいのではないか。

(『感覚の幽い風景』 鷲田 清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

「見る」とはどういうことか。視覚のモデルに対する懐疑。自分があまりに無批判でいたことに少しドキッとする。

ひとは見ようとして見るし、聞こうとして聞く。
たしかにそれは、動的で能動的。

やってみよう。

今、見えるもの。自分の部屋。少し離れたところにある展覧会のパンフレット。色鮮やかなので目をその方向に落ち着けて「見る」。もうその瞬間には、タイトルの文字をなぞっていて、さらにより細かい字を読もうと目を細める。また、少し視野を広げて、全体を見る。それから引用されている絵に目を移し、その裏に隠れている紙は何だろうと角度を変える…いざ「見る」となると、ひとところに留まることなく関心は移ろい続ける。なにか考えごとをしてぼうっとしていない限り、たしかに「見る」は動的だ。

展示現場での鑑賞者の「見る」をどう設計するかということに、以前から興味がある。考えるべきなのは、この方向かもしれない。

備忘録

 
  • 写真の画面上で何が起こっているかということに意識的であること。
  • 隔たり、distanceという意味でも、differenceという意味でも。
  • 何がうつされているかではなく、イメージの強度、緊張感、そういった映像としての写真の評価軸を自分の中に持つこと。
  • 現実の光景と、写真の画面上のイメージとの差異におもしろさを感じていること。
  • ひとの視覚、ものの見方の特性を、カメラアイのつくりだすイメージとの差異によってあぶりだすこと。

日々悶々と考えていること。雲散霧消してしまうまえに。