LISA SOMEDA

芸術 (51)

再読

 

20年前に買いそびれたHysteric Sixを入手したのをきっかけに『なぜ、植物図鑑か』を再読。いま手元にあるのは2012年第3刷の文庫本だから、2000年代初頭の学生時代にコピーか何かで読み、2013年ころ文庫で再読。なので正確には再再読だろうと思う。

その直後、撮影中にふっと考えたことをX(旧twitter)に投稿したので、こちらにも移して(写して)おこうと思う。

季節によっては夜明け前に目が覚めてしまうようになり、ならばと早朝に散歩や読書、ブレストをするようになった。朝のブレストで頭に浮かんだことをメモするかのようにXに書き留めている。もしかしたら今後、Xをメモとして使い、その中から残したいものや話題を広げられるものをこちらに移すというスタイルになっていくかもしれない。

冬至だからなのか薄明から三脚立ててスタンバイしている人を多く見かけ、中平さんのテキストに自身が薄明や夜を撮ることを挙げてその情緒性を批判する記述があったのを思い出していた。学生の頃はそんなものなのかと教科書的に受け止めていたが、だんだんその叙情を排除する姿勢に違和が芽生えたのよね。けっこうそれって極端だよね…と。

そして、そのテキストが書かれた半世紀前よりカメラの性能が格段に上がり、薄明でも夜間でも高感度、拡大表示で対象を視認・凝視することが可能になって、いまや叙情性や情緒性と具体性・客観性・凝視的ふるまいは「どちらか」ではなく両立する可能性があるのではないかと。

これまで叙情的ととらえられてきた光景(ものがはっきり見えにくい状況)をバチッと隅々まで解像して捉えることが可能になったので、写真を巨視的にみて叙情的ととらえるか、微視的、具体的にみて客観的ととらえるかは作家が決めるのではなく、観者に委ねることもできるのではないかと思うようになった。

札幌での撮影以降、見えにくい状況で対象を精密にとらえることにこだわるようになったのは、道具が変わったことが大きいが、何かしら自分が感じた違和に応答するという側面もあったんだと気がついた。

中平さんのテキストをずっと覚えていたわけではない。むしろすっかり忘れていたというのが正しい。それでも、最初にテキストに触れた時点ですでにもう対話に巻き込まれていたんだと思う。

再読、してみるもんだね。

(2023-12-23 Xの投稿より

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非対称性

 

週末、ホー・ツーニェンの百鬼夜行展を観に、豊田市美術館を訪れた。

彼の作品をはじめて観たのは、2017年に森美術館と国立新美術館で開催された「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」だ。マレーの虎にまつわる映像が強く印象に残っている。

恥ずかしいことに、わたしはこのサンシャワー展をとおして、はじめてアジア地域における日本の侵略戦争、つまり加害の歴史を具体的に知った。

思い返せば、小中学校の課題図書で選ばれるのは、戦争でどのような被害を受けたかという話ばかりだった。歴史の授業でも、近現代史は学年末に足速に通り過ぎるようなものだった。高校では理数系を選ぶと自動的に地理に振り分けられるシステムになっていて、日本史とも世界史とも縁がなくなった。自国の侵略戦争についてほとんど何も知ることなく、あるいは知らされることなく、そして知ろうとすることなく、わたしは大人になってしまった。

くわえて、21世紀を生きるアジアの作家らが前世紀の侵略戦争を主題に選ぶまさにその事実によって、被侵略地域においては戦後何十年経っても「終わっていない」ことを思い知らされた。

加害者側はその先の人生で加害の事実を忘れたりなかったことにできるけれど、被害を負った側はその被害を忘れることもなかったことにすることもできない。加害と被害の立場には必ず、そういった非対称性が生まれる。

わたしが侵略戦争について知らずに生きてこられたこと、制作において侵略戦争を主題化せずに済んできたこと、その状況そのものが加害の立場の特権性なのだ。アジアの作家らが日本の侵略戦争を主題化する傍らで、日本人作家として何も知らずに「見るとはどういうことか」といった抽象的なテーマに取り組んでいられたこと、そこに立場の非対称性が現れている。

サンシャワー展においては、
欧米との関係でしか自らの立ち位置を考えてこなかったのではないか?
前世紀の戦争を被害の立場からしか見てこなかったのではないか?
そういった反省も促された。
近年の展覧会のなかで、もっとも深く考えさせられる展覧会だった。

だから、百鬼夜行展は絶対に見逃せない展示だった。

開催中の展覧会について多くを書くのは控えるが、百鬼夜行展ではとりわけ、ふたつめの『36の妖怪』が印象深かった。一瞬にして観者を傍観者の位置から引きずり下ろすその鮮やかな手際に、思わず息をのんだ。

もしまだ観ていなかったら、是非観に行ってほしい。

アルベルティのヴェール

 

アルベルティのヴェールについて、先日読み終えた『フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』に、さらに詳しい記述があったので抜粋しておく。

 遠近法の法則を体系化したアルベルティは、三次元の題材をカンヴァスといった二次元の平面上に描く際に役に立つ、単純な器具を考案した。〈アルベルティの薄布(ヴェール)〉とも呼ばれるその器具は、細番手の糸を荒く織った、透けて見えるほど薄い布地を太番手の糸で縫い目をつくって正方格子状に区切り、それを木枠に張ったものだ。画家はこの格子模様のきわめて薄い生地越し題材を見て、その生地と同じように格子状に区切った紙やカンヴァスにそのまま写し取っていく。遠近法を論じた『絵画論』のなかで、アルベルティはこう述べている。「われわれの仲間の間で、〈截断面〉とよび習わしているあのヴェール以上に有用なものは見出し得ないと私は考えている……このヴェールを眼と対象物の間におくと、視的(視覚の)ピラミッドが薄いヴェールを透っていく」(三輪福松訳、一九七一年、中央公論美術出版)

 アルブレヒト・デューラーは一五二五年に著した『測定法教則』で〈アルベルティのヴェール〉の別バージョンについて述べている。デューラーが記しているのは薄い布ではなくガラスに正方格子の罫線を入れたもので、それをテーブル上に垂直に立て、画家はガラス越しに題材を見て写し取っていくというものだ。(後略)

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 pp.122-123より抜粋)

薄い布地だったというのは興味深い。まさしくスクリーンそのもの。ガラスのように透明なものではなく、半透明の布地を透過する像を写していた。ガラスより薄布のほうが、空間を「平面の像に変換」してから描くというニュアンスは、いっそう強くなる。

ときどき、私を越える。

 

それまでワンショットでおさめていたものに、何度もシャッターを切っている。
迷いを変化の兆しととらえれば、決して悪いことではないのだけれど、どこか心許なさもつきまとう。気がつくと、ジョージア・オキーフと篠田桃紅の本を手にしていた。

あるときは、思いもかけないぐらい、墨は美しい表情を出すんです。自分でも、こんなにうっとりする線が引けるとは思わなかった、っていうものを授けるんです。ときどき、私を越える。こんなに美しいものを描ける力があったんだって、自分で自分にびっくりする。惚れ直すことができるんです。墨には、それくらい幅があるんですよ。

(『百歳の力 (集英社新書)』 篠田桃紅著 集英社新書 2014 p146より抜粋)

ときどき、私を越える。

何十年も墨の線を引き続けた作家が、それでもなお、自分を越える美しい線に出会い、驚く。
その事実に、こころが震えた。

オリジナルとコピー

 

増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』にあった遷宮の話が、ずっとひっかかっていた。世界遺産への登録が検討された際、遷宮によって建て替えられた“新しい建物”をどうとらえるかが議論になったという。

コピーがオリジナルにとってかわるという存在のしかたが取りざたされたようだけれど、わたしたち自身、その細胞は日々新しいものに入れ替わっている。むしろ遷宮のシステムは、生物の在りように近いのではないか、とも思う。「存在のしかた」は、ひとつではないのだ。もっと世界に視野を広げれば、もっと多様な「存在のしかた」が見つかることだろう。

それと同時に、あたりまえに交わされる「オリジナルとコピー」という議論が、実に西欧的(西欧ローカル)な問いであることにも気づかされた。

最近、芸術の枠に組み込まれていない視覚表現に関心を持つようになった。そういったところから、芸術における議論を相対化する視点が得られるのではないか、と期待している面もある。そう考えるようになったきっかけは、この遷宮の話だ。

以下、『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009より抜粋。

 ところが、伊勢神宮においては、コピーが本物にとって代わる—というか、コピーこそが本物である—という、西欧の論理ではあり得ないはずのことが、現実に行われている。神殿が二十年ごとに建て直されるというのは、もともとは建物が古くなって損傷が激しくなったから新しいものに代えるという理由から始められたものであろうが、それは、本物がいたんできたからコピーで間に合わせるというものではない。新しく出来上がった瞬間に、それは「本物」となるのである。(p31より)

 問題は、もちろん伊勢神宮だけにあるのではない。日本古代のこの神殿が、西欧の論理を戸惑わせるようなやり方で今日まで生き続けているということは、とりも直さず、それが日本人の心性、価値観、ものの味方と、深いところでつながっているからであろう。

 差し当たりまずはっきりしていることは、日本人は西欧人ほどものそのものに価値を置いていないということである。あるいは、ものそのもののなかに本質はないと考えている。と言ってもよいかもしれない。伊勢神宮で大事なのは、建物そのものではない。いや建物はむろん大事ではあるが、その大事だということが、建物の材料であるものとは、必ずしもそのまま結びついていない。現実には二十世紀に建てられたものであっても、あるいは途中で何回も壊され、建て直されたものであっても、現在の伊勢神宮は、われわれにとって、やはり千数百年前とまったく同じ価値を持っている。(p32より)

 この「形見」という言葉は、もともと「かた」(型、形)に由来するものであろうが、とすれば、そのこと自体、きわめて意味深い。事実、西欧に「ものの思想」というものがあるとすれば、日本には「かたの思想」とでも呼ぶべきものがあって、ものそのものよりもかたないしは形の方を重要視する傾向が強いからである。伊勢神宮が六十回も建て直され、そのたびにものとしてはまったく新しい別の存在になりながら、一貫して同じ価値を保ち続けた理由は、それが同じ「かたち」を受け継いでいるからなのである。

 日本人のこのような価値観は、宗教の世界を離れて日常の世界においても、その現われを見出すことができる。さしずめ、歌舞伎の名跡などというものはその代表例であろう。

 かつては、梨園においてのみならず、武家でも商家でも似たようなことが行われていたが、団十郎とか歌右衛門という名前は、それを名乗る人が何回入れ代わっても、一貫してある一定の価値を示している。ちょうど伊勢神宮が、何回建て直されてもつねに伊勢神宮であるのと同じである。(p38より)

運動する都市のイメージ

 

 第二に、泥絵が人事・風俗のモティーフを排除するのに対して、浮世絵は人々の営みを前景化する。それは、絵師の関心の中心が、街を背景として繰り広げられる人間の〈出来事〉にあることを意味する。それに対して、人事・風俗モティーフがほとんど見られない泥絵の場合に際立つのは、都市空間そのものの〈フィジカル〉な存在である。つまり泥絵が描くのは、都市のハード面を形成する坂や道、建築物など不動のものである。主役は街そのものであって、街に生きる人間ではない。それに対し、浮世絵は都市のソフト面を描く。人事・風俗などはまさに運動する都市のイメージである。

 第三に、浮世絵が表象しようとしているものとは、移ろいゆく時間的モティーフであるといえるだろう。花鳥風月などをはじめとする循環する時間を指示する季節の景物は、広重の浮世絵にとって非常に重要な構成要素である。気がつけば過ぎ去るが、また返ってくるという循環する時間。そこに浮世絵の受容者は〈情趣〉を感じるにちがいない。また広重は、夕暮れや夜景、雨や雪など、一日の特定の時刻や気象を指示するモティーフも執拗に描いた。一瞬のうちに過ぎ去っていってしまう時間のはかなさもまた広重が好んで描くところであり、受容者はその〈情趣〉に感情移入しやすかったにちがいない。それとは反対に、泥絵の場合、花見や雪などきわめて稀な例を除いて、季節を判別することはほとんど不可能に近い。季節を表示する自然物がほとんど表象されることがないのと同様に、時刻を表示するモティーフもほとんど描かれない。泥絵には、朝焼けも夕暮れも夜景も存在しないのである。存在するのは、昼日中の抜けるような青い空の真下に静かにたたずむ江戸の街なのである。広重が時間的なものを〈情緒的〉に描くとすれば、泥絵はむしろ空間的なものを〈理性的〉に描いているといえるだろう。

トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』 佐藤守弘著 青弓社 2011 pp.41-42より抜粋

これは、泥絵と浮世絵を比較した記述だけれど、自分の関心が浮世絵師のそれとほぼ重なることにどきっとした。むろん、そのままなぞるつもりなどさらさらなく、むしろ〈情緒的〉にしか表現されなかった題材を〈理性的〉に扱おうと思っているのだが。

魔術のような世界だった

 

部屋の整理をしていると、古い印画紙の箱と一緒に、大学時代、暗室で焼いたモノクロの写真が出てきた。

いま見ると拙いものばかりだけれど、せっかくなので何枚か残そうと選びながら、印画紙の質感っていいなぁ、と感じ入る。たぶん、当時のわたしはそんなふうには思っていなかった。

グラフィックデザインを志して進学したにもかかわらず、ずぶずぶと写真にはまり込んでしまった理由のひとつは、暗室作業が好きだったから。

暗室での作業が、ただただ楽しかった。
赤いランプの下、現像液のゆらめきの中で像が浮かび上がる瞬間がものすごく好きだった。もしかしたら、しあがった写真より、像の生まれる魔術的な瞬間を愛していたのかもしれない。

暗室の隣には立派なスタジオもあって、あるとき恩師がその重厚な扉に穴を穿ち、スタジオをまるっとカメラ・オブスキュラに仕立ててしまった。その小さい穴から射し込む光が結ぶ、さかさまの像は、それこそ魔術的だった。

すっかり忘れていたけれど、写真をはじめた頃、わたしにとって写真は、魔術のような世界だった。
作品云々よりずっと手前のところで、その魔術性に魅了されてしまったのだと思う。

フルデジタル化して、ずいぶん遠のいてしまったな。
もう一度、暗室作業、やってみようかな。

ピダハン

 

ずっと読みたいと思っていた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)。

ピダハンには「こんにちは」「ご機嫌いかが」「さようなら」「すみません」「どういたしまして」「ありがとう」といった交感的言語使用が見られない(感謝や謝意、後悔の気持ちは言葉ではなく行動で示す)。彼らは色の名を持たず、数を持たず、左右の概念を持たない。また、彼らは精霊を見ることができ、夢と日常をほぼ同じ領域のもの、同じように体験され、目撃されるものととらえている。絵や写真といった二次元のものを解読できないが、暗闇の中で30m先に佇むカイマン(ワニ)の存在を感知することができる。

伝道のためにその地に赴いた著者が、最終的には無神論者になってしまう結末は小気味いい。”ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ”と著者に言わしめるほど幸せに見え、そもそも迷える子羊ではなかったのだ。

どれも興味深いのだけれど、その中でもいちばん興味深いのは、ピダハンの文化では体験の直接性が重んじられること。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。(p.187から抜粋)

ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。(p.187から抜粋)

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。(pp.187-188より抜粋)

そして、色名や数を持たない理由が、この文化的制約に結びつく。

ここに挙げられたピダハンの表現をできるだけ逐語的に訳すと、「血は汚い」が黒、「それは見える」または「それは透ける」が白、「それは血」が赤、そして「いまのところ未熟」が緑だ。

 色名は少なくともひとつの点で数と共通項がある。数は、数字としての一般的な性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものであって、特定の物質だけに見られる、限定的な性質によって区分けするわけではない。同様に色を表す表現も、心理学や言語学、哲学の世界で縷々研究されてきたように、多くの形容詞とは異なり、可視光線のスペクトルに人工的な境界線を引くという特異な一般化の役割をもっている。

 単純な色名がないとはいえ、ピダハンが色を見分けられないとか、色を表現できないというわけではない。ピダハンもわたしたちと同じように身のまわりの色を見ている。だが彼らは、感知した色を色彩感覚の一般化にしか用いることができない融通の利かない単語によってコード化することをしない。その代わりに句を使う。(pp.169-170から抜粋)

直接体験したことを話すのに、すでに一般化された単語では用をなさないということか。思わず太字にしてしまったこのくだりが、ものすごく刺さった。

自らを与える出来事

 

贈与論だと思って手にとってみたら、ところどころ芸術に話が及んでいる。少し気になる箇所を抜粋。

 なぜなら、芸術作品はそれが与える効果において現れているものだからです。絵画鑑賞の際にわれわれの眼差しに現れるものの中に、物質性、有用性、存在を「還元」しても残るような、視覚を超えたものを芸術は与えてくれる、と彼はいいます。これは純粋に現れているものなのです。これは視覚で捉えるけれども、ふつうに視覚で捉えている物質的なものを超えています。メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』を引きながら、何か見えないものがある、それをわれわれは見ている、という言い方を彼はしています。

 こういった意味で、芸術は純粋に与えられているものといえます。あるいは、もっと正確には、芸術は自らを与える出来事なのです。だから、芸術作品の芸術性について考えていくと、物質性、有用性、存在は「還元」され、「与え」が現れてくるのです。「還元をすればするほど与えがある」というわけです。

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p29-p30より抜粋)

 現代のテクスト理論にも影響を及ぼしていますね。フランス語だと作家や作者は「auteur」です。また、神は「Auteur」で、大文字の作者、世界を創造した人、ということになります。こういうアナロジーがあることから、「神の死」から「作者」という概念自体も問い直そう、という考えが出てきます。

 僕らが作品を書くとき、僕らは何らかの意図とともに作品を書きますが、できあがった作品の中には、僕らの意図を超えて無意識をはじめいろいろなものが入ってきます。言語というのは僕らが意識的に統御できないもので、神の概念も終焉を迎えたのだから、「作者」に支配されないテクストの独自の動きを考えていいのではないか、というわけです。(後略)

(同著 p129-p130より抜粋)

バルテュス

 

そういえば、京都に巡回しているなぁと思って、ふと手に取ったのが『バルテュス、自身を語る』という本。(バルテュス著 河出書房新社 2011)

まだ彼の作品を見ていないのだけれど、彼の貫いた姿勢には学ぶところが多い。

ときに成功している芸術家の、ほとんどビジネス書のような持論に呆然とすることもあるのだけれど、バルテュスの言葉は違和感なくすうっと馴染む。彼のような姿勢は、彼が生きてた当時から、そして今もきっと「当世風」ではないのだけれど…
忘れてしまわないように、ここに少しとどめておこう。

画家はつねに鋭い視線でものを見ます。重要なことは実際に目に見えるものより遠くへ行くこと、しかしこの「より遠く」は現実のなかにもすでにあります。そういう研ぎ澄ました視線を持たなければなりません。そのものを見つづけること、そういうふうに注意して見なければならない。といっても現在の私のように視力が弱くてもあまり関係がなく、重要なのは内なる視線の緊張度。物事の内部に深く入り、想像もできないほど豊かな魂を持って生きていることを確認するやり方。(p235)

光はとらえがたく、画家には暴君的で、しかしつねに探し求められています。なぜなら光が照らすことで顔は崇高になり、身体は天使のようになるからです。私は仕事をとおしてずっとこの光の神秘を追い求めてきました。(p245)

絵を描くことは自分自身から抜け出すことです。自分を忘れ、何よりも無名でいることを好み、ときには危険をおかしてもその時代や身近な人たちと協調しないことです。流行に抵抗し、自分にとってよいと思うことには何がなんでも固執しなければなりません。(p274)

絵を描くことはまず知ろうとすること、真実を明らかにするためにあらゆることを試すことです。(p275)

私の人生で最良であり要なのは、絵との穏やかでひそやかで、直感的な関係です。見えないものに向かっての努力。画家に要求されるこの労苦。(P277)

久しぶりにドキドキした。

 

写真を見るしかた、というのはいろいろあると思うのだけれど、
抽象的な意味だとか、画面からたちのぼるニュアンスの伝達、というのではなく、
ただただ映っている像を具体的に見る、ということ自体のおもしろさ。
というのがある、と私は信じていて、それを探りたいというのが、
川のシリーズをしつこくしつこく続けている理由だと思う。

対岸のバーが窓辺に並べているウイスキーのラベル、自転車のリム、洗濯物を取り入れるご婦人だとか。

そういう像をただただ具体的に詳細を見ることのおもしろさ。

その意味で、昨日見た定点観測の写真集はのっけから面白かった。
画面のあちこちで建物が壊されては建つという変化が起こっているから、細部から目が離せない。まったく油断ができない。

「定点観測というのは、なにかひとつの建物がつくりはじめてからできあがるまで、だけれど、自分の写真はそうではない。万物の流転。」
と作家が明確に意図を語っているように、ひとつの大きなストーリーに回収されてしまわない定点観測。

同じものを、異なる時間に何度も撮影する以上、そこには何らかのストーリーが生まれるが、画面中にそのストーリーが無数に畳み込まれている。

言いかえれば、画面内の無数のストーリーを等価にとらえる定点観測。

前後の写真の差異(時間変化)をトリガーとして、地と図の転倒が起こること。
それが、画面のそこここで起こっているから、
いったん写真集として完結しているものの、ここにさらに新しい写真が加わることで、今ある写真の読み方がかわる可能性にひらかれていること。

久しぶりにドキドキした。

磐座

 

昨日、樂 吉左衞門さんの番組を見ていて、自然と同化するものを作りたいと思っても、土から何かを作り、何か表現をした瞬間、自然と相容れないものになっていくという話があって、磐座のことを思い出した。

はじめて磐座を見たのは、友人と一緒に自宅の裏の保久良神社に参詣したときのこと。
境内にある大きな岩の説明書きを読んだ友人が、「この岩、本殿よりよっぽど古いんだ。弥生時代だって。そのころからここは信仰の場所だったみたい。」と。

気になって周囲を見まわすと、不自然に大きな石が点在している。それだけのことなのだけど、そこには人為の痕跡が感じられた。

それからというもの、磐座が気になってしかたがなかったのだけれど、なぜなんだろうと考え直してみると、自然からモノを取り出して(磐座の場合は)並べるという、造形より手前の、いちばんプリミティブな人為(表現)をそこに見い出したからかもしれない。

表現というものの起源や、どうしてわたしたちは表現せずにはいられないのか、という疑問が、ずっと根っこにあるのだ。

大避神社の船祭り

 

和船

中沢新一さんの『精霊の王』を読んで以来、猿楽の祖である秦河勝をまつっている大避神社(兵庫県赤穂市坂越)に行ってみたいなぁと思っていたところ、10月の第2日曜日に船祭りを開催するらしいので、その祭りにあわせて出かけることにした。

猿楽の祖をまつっているといっても、大避神社の境内には、舞台のようなものはなく、境内じたいはシンプル。境内から坂越の浜と、神域とされる生島が見渡せる。

船祭りは、祭神である秦河勝が漂着した生島のお旅所へ神輿をお供する神事で、本祭の日は朝から船飾りがすすめられ、昼に神輿に大神さまの分霊をうつして、獅子舞を奉納し、船歌を唄い、頭人が拝礼をする一連の神事が執り行われる。それが終ると、一行は鼻高(猿田彦命)が先頭に、神社から浜のほうへ行列が繰り出す。

獅子舞

浜に神輿が着くと、神輿を船に載せるための板(バタ板)かけの練りがおこなわれ、無事神輿が乗船すると、漕船二隻が獅子船、頭人船、楽船、神輿、歌船を曳航して浦をぐるっと一周し、生島のお旅所へと向かう。

坂越の船祭

見どころは、和船の造作と、この祭礼船が、獅子を舞い、雅楽を奏で、船歌を歌いながら巡航する様子。この日は少し雲が厚かったので、色が少し沈んで見えたけれど、晴れた日なら、もっと綺麗に見えたのかもしれない。

曳航

日が暮れ、浜でかがり火がたかれるなか、生島での神事を終えた船が戻って来るのも、素敵な光景だった。

今年、国の重要無形文化財の指定を受けたが、それでも、少子化で漕手が少ないため、祭りのために坂越の出身者が東京や北海道をはじめ、全国各地から戻ってきて祭りに参加しているとのこと。大人も子どもも総出で、坂越の人々が大切に守ってきた祭りであることがよくわかるお祭りだった。

300年以上の歴史を持つ祭りだけれど、秦河勝が没したのが647年で、船祭りは江戸時代初期にはじまったと言われるから、その間に千年ほど経っている。なぜそのタイミングで祭りがはじまったのか、が気になるところ。

シデ振り

祭りと坂越の主要な産業である廻船業との間には深いつながりがあると、配られた資料に書かれていた。ちょうど今、読み始めている海民について書かれた網野善彦さんの本に、廻船業と芸能との関係について書かれていた箇所があったので、何かつながってきたらおもしろいなぁと思う。

最近は、中沢-網野両氏(この方々は甥と伯父の関係なのですね…)の著書の影響で、この国の歴史のなかで、芸能がどういう役割を果たして来たのか、とか、芸能民と呼ばれるひとびとがどういう人たちだったのか、ということにふつふつふつと興味が湧いている。

龍安寺の石庭

 

龍安寺の石庭

読んでいた本の中で少し気になる文章を見つけた。それもごく最近、龍安寺の石庭を見に行ったところだ。

 この庭には、砂と石と石にへばりついた苔しかありません。石は全部で一五個、大小の違いがあって、かりに庭を左右に分割してみることが許されるならば、左にある二群の石は、右にある三群の石よりも、全体的に大きいものが配置してあります。非対称にもとづく石組みの配置が、微妙な均衡をつくりだしているとも言えるでしょう。石はとりたてて特別面白いという形をしていません。むしろ平凡な石という印象のほうが強く、そこに座り込んだ人は、石そのものに関心を引きつけられるよりも、石と石の関係や、全体配置のなかでも個々の石の位置のほうに、注意がいくように配慮されているように感じられます。つまり、これらの石には「自性」がないのです。
(中略)
 これをさきほどの、『華厳経』の思想について書かれた井筒俊彦の文章と比べてみると、仏教思想の構造と庭園の構造とがあまりにみごとに照応しあっていることに、驚かされます。この石庭のなかに置かれたそれぞれの石は、「自性」というものを持っていません。しかし、それぞれの石にはほかの石との関係から発生するところの、全体的関連性のなかでの独自性の感覚がそなわっています。無「自性」なのに、そこにはたしかにものがある、という存在感を生み出しているわけです。
 ところが、そういう石が個体としての存在感を持ち出したとたんに、足許の苔がそれをあざ笑うかのように、個体性の幻想を解体してしまうのです。(後略)
(『対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)』中沢新一著 講談社 2004 p195より抜粋)

「自性」のくだりがわかりにくいので、少し手前の文章も抜き出しておこう。

 (前略)私たちのひとりひとりが、宇宙の中でのかけがえのないたったひとつの個体であることの認識から、仏教は出発します。ここで西欧的な思考は同じように、個体性のかけがえのなさの認識から出発して、個体の確立という思想に向かっていくでしょう。つまり、個体性というもののベースに潜在している非対称性を、あらゆる思考の基礎にすえようとするでしょう。じっさいアリストテレスはそうやって、個体性というものを自分の哲学の出発点にすえました。そうすると、非対称性の論理学を使って、多くのことが矛盾なく説明できるように思われたからです。
 しかし、仏教はそこから反転して、この個体というものを対称性の思考の中に投げ込むことによって、非対称性と対称性の共存として発達してきた野生の思考の(バイロジック的な)知恵を、できるだけ完全なかたちにまで発達させようと試みてきました。(中略)自分はこの宇宙でたったひとつのかけがえのない存在なんだという、個体性の鋭い意識を保ったまま、すべてのもの(存在)のあいだに同質性をみいだしていこうとする対称性の思考を作動させることによって、宇宙のなかの極小部分としての個体や個人の自由ということについて、考えてみようとしたわけです。
 そのことを最初に、意識的に表現してみせたのが『華厳経』です。そこではまず、仏教思想の基本にのっとって、ものには自性(そのものとしての本質)はない、という認識から出発します。ものとものを区別し、分離する非対称的な意識の働きを止めて、そこに対称性の思考を働かせるとき、高度な哲学的思考の試練をへている仏教は、それをたんに「同質的である」というのではなく、もっと哲学的に「自性はない」と表現するわけです。

 そのうえで、あらためて今度はものには自性はないけれども、しかもものとものとのあいだには区別がある、ということを言い出すのです。
(同書 p190-191から抜粋)

ここで自性についての記述を深く追うのは控えるけれど、仏教における、ものの存在についての抽象的な思考を、この石庭がたえず現象させているというところが肝要なのだと思う。

空間そのもののはじまり

 

昨日の「守宮神(宿神)」では少し寄り道をしてしまった。そもそもは、重森三玲の庭に興味を持って、中世から現在に至る作庭の、背後にある思想とか美意識を知りたいというところからスタートしたのだ。はからずも『精霊の王』に、その答えを見つけたように思う。長いけれど抜き出してみよう。

 立石僧や山水河原者は、庭園をつくる職人だ。彼らのおこなう芸能では、ことはさらに抽象的に深められている。庭園の職人たちは、西洋のジャルディニエールたちのように、いきなり空間の造形にとりかかるのではなく、空間の発生する土台をなす「前ー空間」を生み出すことから、彼らの仕事を開始する。「なにもない」と観念された場所に、庭園の職人はまず長い石を立てることからはじめる。この石は伊勢神宮の「心の御柱」や「六輪一露」説に言う輪に突き出た短い杭と同じように、潜在空間からこちらの世界のほうに突出してきた強度(力)の先端をあらわしている。この先端の向こう側には、存在への意志にみちみちた高次元の潜在空間が息づいている。そして、この先端のこちら側には、人間が知覚できる三次元の現実空間が広がっている。庭園職人が「なにもない」空間に打ち立てるその立石は、まさに絶対の転換点となって、空間そのもののはじまりを象徴する

 空間に突き出した猿田彦の鼻のようなこの立石が、「前ー空間」を出現させる。立石の下には、宿神の潜在空間が揺れている。その揺れの中から、三次元をもった現実の空間の原型が押し出されてくる。そして、「六輪一露」説における像輪さながらに、この空間の原型を素材にして、庭園の職人たちはそこに、起伏や窪みや水流や陰影や空気の流れなどでみたされた、現象の世界の風景を造形するのである。

 しかし、金春禅竹が像輪についての説明の中で語っているように、そうしてできてくる現象としての風景には、いたるところに「空」が滲入しているのでなければならない。庭園は目で見ることもでき、手が触れることもできる現実の空間にはちがいないのだけれど、その全体が宿神の潜在空間に包み込まれ、細部にいたるまで「空」の息吹が吹き込まれているために、向こう側のものでもないこちら側のものでもない、不思議な中間物質として、蹴鞠の鞠のように、どこか空中に浮かんているような印象を与えるのだ。

宇宙とか、大海原というレベルではなかった。「空間そのもののはじまり」という原初的で動的な現象を象徴するという、ものすごいチャレンジだったのだ。自分の認識をあらためなければならない。そして、自分の考えの射程範囲の狭さを痛感。今年はもう一度、庭園を見に行こう。

そしてもうひとつ気になったことがある。

 たいがいの西洋庭園とちがって、このような宿神的庭園では、風景の全体を見通すことができないように、特別な工夫がこらされている。宿神の創造する空間は、つねに生じてくるようでなければならないからだ。そのために、それは出来上がった空間として、全体を見通せるようなものであってはならない。一歩歩むたびに、新しい小道が開け、新しい風景が眼前に生じてくるようでなければ、それはけっして宿神的空間とは言えないだろう。植物は人に見られるものではなく、逆に人が植物によって見られるようになる。前ー空間では主客の分離がおこりにくい。その影響が庭園のすみずみまで浸透しているので、このタイプの庭園を歩いていると、人はだんだんと主体としての意識を薄くして、瞑想的な静けさの中に入り込んでいくようになる。たしかにこれも「六輪一露」に説かれていたとおりのことではないか。

 このように宿神を家業の守り神とする「諸芸」の職人や芸人たちのつくりあげてきたものは、どれも空間として特異な共通性をそなえているように見える。運動し、振動する潜在空間の内部から突き上げてくる力が、現実の世界に触れる瞬間に転換をおこして、そこに「無から有の創造」がおこっているかのようにすべての事態が進行していく、そういう全体性をそなえた空間を、職人や芸人たちは意識してつくりだそうとしてきたようなのだ。
(『精霊の王』中沢新一著 講談社 2003 p262-264から抜粋)

このくだりを読んだときに、以前、自分の展示において、どうしても「作品全体を一望できないように展示したい」という気持ちが強かったのを思い出した。

宿神の創造する空間は、つねに生じてくるようでなければならないからだ。
そのために、それは出来上がった空間として、全体を見通せるようなものであってはならない。

自分の制作が宿神の思想に直結しているとまでは言えないけれど、わたしに限らず、この国で生きて生活しているひとびとの、ものをつくり表現する営みの底には、かすかに宿神の思想が潜んでいるのかもしれない。

守宮神(宿神)

 

先日の「幽玄」の続き。この文章に中世の芸能者や職人の思想が垣間見える。

(前略)もっと普通には、芸能の達人たちはこの神=精霊の実在を、超感覚ないしは直感的にとらえていたように思える。つまり、自分の身体や感覚を、三次元の物質で構成された空間を抜け出して、そこに守宮神が住むという柔らかく律動する特殊な空間の中につないでいき、その音楽的な空間の動きを自分の身体の動きや声の振動をとおして、観客の見ている普通の世界の中に現出させていこうとしたのである。

 蹴鞠は蹴鞠の形をした守宮神(宿神)の助けを借りて、驚異の技を演じてみせようとした。ほかの芸能についても事情はほぼ同じで、「昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ」こそ、常の人の能力を超えた技芸の達成を実現することもできたのである。石を立てて庭を造るのにも、花を生ける(石の場合と同じように「花を立てる」、といったようだ)のにも、「諸道」の者たちはただ自分の美的感覚や造型の技術を頼みにすればよいというのではなく、それぞれの道にふさわしい守宮神の護りを得る必要があった。それはたんなる神頼みというものではなく、その神をとおして、それぞれの芸がどこかで「へその緒」のようなものをとおして、揺れ動く「シャグジ空間」につながっている必要を感じていたからである。そういう空間から立ち上がってきた石や花でなければ、霊性にひたされた芸能とは呼ぶことのできない、ただ美しいだけのただの物質的現象にすぎない、と見なされた。
(『精霊の王 (講談社学術文庫)』 中沢新一著 講談社 2003 p17-18より抜粋 原文は太字なし)

ここで出てくる「シャグジ空間」は先の記事では潜在空間と表現されていたものと同じである。では、このシャグジ空間とはどのようなものなのか。

 あきらかに、守宮神が住処とする特別な空間の様式というものが、猿楽の徒には明瞭に直観されていたのがわかる。それは、神々以前からあって、神々を自分の中から生み出す空間である。しかも生まれたばかりの神々を優しく包んで、破壊されないように守る役目をしているのも、この空間だ。この空間には荒々しい霊威が充満している。それが神々の背後にあって発動をおこなうとき、前面に立つ神々も奮い立って、それぞれの神威をふるうことができるのだという。宇宙以前・空間以前からすでにあったコーラ Chola(場所)とでも言おうか、物質的諸力の影響を受け付けないシールド空間とでも言おうか、これはきわめて難解な構造をした力動的空間であって、猿楽者たちはそれを直観によってつかみとろうとした。
(同書 p22-23から抜粋)

 守宮神=宿神の住む空間は、時間性と空間性において、私たちの知覚がとらえる時空間とは、ラジカルな違いをもっている。過去・現在・未来という時間の矢に貫かれながら進んでいく、私たちの知覚のとらえる時間の様式とは違って、「シャグジ空間」では時間は円環を描いている。そこには遠い過去のものと未来に出現してくるものとが、ひとつの現在の内部で同居しているのだ。また「シャグジ空間」は三次元の構成を越えた多様体としての構造をしている。そのおかげで、やすやすと鞠の表裏をひっくり返したりもできる。つまり、この世界にいながら、高次元の空間の内部に、するすると入り込んでいくこともできる。
(同書 p25-26から抜粋)

そして、この守宮神=宿神。その音韻の構造からも、胎生学的なイメージを擁している点においても、樹木との連関においても、諏訪のミシャグチと多くの共通点がある、と論は進み、こうまとめられる。

私たちがすでに見てきたように、宿神はこの列島上できわめて古い時代から生き続けてきた「古層の神」の一形態である。もともとは境界性をあらわそうとする「サないしス音+ク音」の結合として、さまざまに発音されてきた共通の神の観念のつながりの中から、宿神と呼ばれるこの芸能者の守護神はかたちづくられてきている。この「古層の神」はミシャグチの名前で、諏訪信仰圏では独自な発達をとげた。
(同書 p148から抜粋)

重森三玲の庭からスタートして、幽玄を経由し、宿神、そしてミシャグチと、気がついたら「古層の神」にたどり着いた。ずいぶん深追いをしてしまったけれど、ここまで来たのだから少しだけ寄り道をしたいと思う。

 猿楽の先祖たちは、神仏の鎮座する空間の背後にしつらえられた「後戸」の空間で、その芸をおこたったと記録されている。薄暗いその一角を芸能の徒たちはものごとが変容をおこし、滞っていたものが流動をとりもどし、超越性のうちにこわばってしまっているものに身体の運動性を注ぎ込むための、ダイナミックな場所につくりかえていこうとしたのである。

 そうしなければ、前面に立つ神仏たちの「霊性」が発動することはできない、と考えられていたからだ。「後戸の神」は神仏たちの背後にあって、場所を振動させ、活力を励起させ、霊性に活発な発動を促す力を持っている。それゆえ、日本人の宗教的思考の本質を理解するためには、折口信夫が考えたように、芸能史の理解が不可欠なのである。ここでは神仏は芸能的な原理と一体になって、はじめてその霊性を発揮する。

 ヨーロッパ的な「たましいの構造」において、舞踊的・霊性励起的・動態的な原理が、「ディオニソス」の名前と結びつけられて、神性の構造の内部深くに埋め込まれていることは、よく知られている。ところが、私たちの「たましいの構造」にあっては、同じ舞踊的・励起的な原理は、神仏の内部にではなく、その背後の空間で活動をおこなうのである。ヨーロッパ精神が「入れ子」の構造をもつとしたら、私たちのそれは異質な二原理の「並列」でできている。そして、このことが、日本人の宗教や哲学の思考の展開に、決定的な影響をおよぼしてきたのである。
(同書 p96から抜粋)

一番驚いたのはこのくだりだった。
神仏の背後には古層の神(後戸の神)の空間があって、その震えや活力がなければ、神仏が霊性を発動できない…。そんな複雑だとは想像もしえなかった。

諸芸についても、すでに完成した宗教的世界観を表現するものだとばかり思っていたから、古層の神の空間と神仏を架橋し、神仏の霊性の発動を促すものとして芸がとりおこなわれたということに、かなり衝撃を受けた。

この国における芸能の位置づけということについては、またあらためてとりあげたいと思う。

ここでひとつとどめておきたいのは、わたしにはこの話が宗教だけ歴史の中だけの話にとどまらないように思えるのだ。わたしたちが日常的に交わしているやりとりの中の「場の空気を読め」という暗黙のルールの中には、「主体のあいまいな空間」を前提とする独特の考え方があるように思う。もしかしたら、そこには、神仏の背後に古層の神の空間を据えるような複雑な思想構造が大きく影響しているのかもしれないし、気づいていないだけで、もっとほかの局面においても、影響を受けていることがたくさんあるのかもしれない。

幽玄

 

半年ほど前。写真とか視覚のことばかりを考えていて息がつまるというか、もう少し視野を広げようと思ったときに、ふと重森三玲の庭を思い出し、庭がただ庭としてあるのではなく、庭でありながら、より大きな存在を感じさせる構造をとっていることについて考えたいと思った。(「秘スレバ花ナリ」)

写真でも同じよう構造をもたすことができないだろうか?という野望をほんの少し抱きながら、彼の作庭の背後にある思想や美意識を知りたいと思って、三玲の著書『枯山水』を繙いた。そこではじめて幽玄ということばに出会う。その後で世阿弥の『風姿花伝』の現代訳も読んでみた。(「風姿花伝」)

正月に実家の裏にある保久良神社を参詣し、その裏にある磐座の存在を知った。ただ巨石がいくつか並んでいるだけなのに、なにかうっすらとひとの作為が感じられ、表現のいちばんプリミティブなかたちを見たような気がして、淡い関心を抱いた。ちょうどその頃に読んでいた『枯山水』のはじめのページに保久良神社の磐座の図版を見つけ、驚くとともに、磐座や先史時代に対する興味がいくぶん加速された。

それから半年間、磐座、縄文というキーワードに導かれて中沢新一さんの著書を読むようになり、仏教や神道が成立する以前のひとびとの精神世界に興味を持つようになった。そういう経緯で手に取った『精霊の王』で、はからずも、幽玄ということばに再会する。今回は世阿弥ではなく金春禅竹の『明宿集』の引用で。

住輪

 幽玄という概念は、住輪に描かれた短い杭または嘴状の突起に関わっているということが、この記述からはっきりわかる。そこは潜在空間から現実世界に突き出した岬であり、特異点であり、この短い突端の部分で転換がおこっているのだ。猿楽の芸人はこの要所をしっかりと会得することによって、「幽玄」の表現をわがものとすることができる。無相無欲の清浄心をもって、この岬に立てば、現実世界に顕われることも潜在空間に隠れることも、自在である。

(中略)猿楽の芸は、三輪清浄として示されたこの潜在空間を背後に抱えながら、演じられるのである。本来が物真似芸(ミミック)である猿楽は、自然界のさまざまな存在をミミックとして表現する。そのときに、目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。禅竹の思考はここからいよいよ深く猿楽芸の本質に迫っていくのである。(『精霊の王』中沢新一 講談社 2003 p234-235より抜粋)

目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、
具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。

この一文は、猿楽や作庭に対するわたしの認識をより鮮明にしてくれると同時に、思っていたほどことは単純ではない、ということも教えてくれた。

まずここで、作庭家や猿楽の芸能者は、
目に見えない潜在空間を背後に抱えながら具体物でできた現象の世界を表現する
ということがはっきりした。

しかし、作庭の場合で言えば、宇宙や大海といった(目に見える)ものを、石や砂で表現(あるいは象徴)している、というだけでは十分ではない。むしろ、目に見えない潜在空間と現実の世界をどう架橋するかに重きが置かれている。

この「目に見えない潜在空間」というのが、ものすごく深い。仏教や神道の成立以前の精神世界まで射程を広げないと、理解できないのだ。

特定の芸術分野(作庭)における思想や美意識を追っているつもりが、大変なところに合流してしまった…という感じ。

長くなるので、続きは後日。

風姿花伝

 

重森三玲の『枯山水』を読んでから気になっていたので、市村宏さんが全訳注をつけた風姿花伝を読んでみた。

秘スレバ花のくだり、どうも文脈が少し違うみたい。

通釈によると…

1、秘する花を知るべきこと。秘すればこそ花で、秘するのでなくては花ではないのだというのである。このけじめを理解するのが大事の花なのだ。そもそもあらゆる事、諸道諸芸において、その家々に秘事といってあるのは、秘するによって大きな効果があるためである。それ故、秘事ということを白日の下にさらけ出すと、何も大したことではない。だが、これを大したことでもないという人は、未だ秘事ということの大きな効用を知らぬからなのである。

(『風姿花伝』 全訳注 市村宏 講談社学術文庫 2011 p200より抜粋)

この通釈だと、秘伝というシステムについて書かいた文章のように読めるけれど、重森三玲は「秘事ということの大きな効用」という点を文脈から切り離して、枯山水の象徴性にあてはめて書いているように思う。

とにもかくにも「秘事ということの大きな効用」というポイントは見逃せないなぁ。

風姿花伝、もっと抽象的なものかと思っていたら、観客を飽きさせない工夫や年齢相応の精進のしかたなど、意外なほど具体的な内容が多くて面白かった。

秘スレバ花ナリ。

 

写真の画面の中ばかりに意識が向いているなぁ。内に閉じていく方向に向かっているなぁと思ったときに、ふと、以前見た重森三玲の庭の、庭が庭だけで閉じずにもっと大きな世界につながっている感じを思い出した。

そして、それら庭園がどういう意図や美意識のもとに組み立てられているのかということを知りたくなって『枯山水』を繙いた。(重森三玲著 中央公論新社 2008)

読んでみて気になったのは、幽玄、見立てる、空白の3つ。

幽玄

幽玄というのは、その表現の形式なり内容が、なんらかの形で、又は意味で隠されているものを指しているのであって、いわば本体の姿のままの形式や内容の、そのままの表現ではなく、全く異なった形や、内容として、別天地を創造した美の領域を指していることがことがわかるから(後略)(p70より抜粋)

この部分だけを抜き出してもわかりにくいと思う。ここで言っていることの具体例を枯山水に求めると、水に代わるものとしての表現材料として白砂を用い、また見る側も、砂を通して水を見いだそうとしていることが挙げられる。数個の石を立てて滝の表現とするのも然り。

砂を砂の美としてのみ創造もし、鑑賞もすることは、隠され、秘められている美がない訳であるから、これは幽玄ということはできないのである。

砂が水の表現材料として使われているからこそ幽玄であり、砂が砂としてのみ表現され、鑑賞されるのは、それは幽玄ではないのだそう。

このあたり、ものづくりをする際の素材と表現内容の関係を考えるヒントになりそう。

見立てる

庭園においては、園池の池水は池水と見つつ、同時に海景に見立てているのであり、枯山水における白砂は白砂と見つつしかも水と見立てるのである。

象徴というと、西洋絵画のヴァニタスのような、死の象徴としての頭蓋骨や、加齢や衰退などを意味する熟れた果物を思い浮かべるけれど、ここで言われている「見立て」とはまた全然意味が違う。

何が違うのだろうか?

死や、加齢などは、抽象性が高いのに対して、海景や滝、水は具体的である。庭園においては、象徴とする対象もまた具体的なものであるというのが大きな違いではないか。

ここでもうひとつ面白い記述を見つけた。池庭は、基本的には海景を表現しているのであり、そこに置かれる石は島の表現であるが、

池庭の中島などに要求されるものの中に、雲形とか、霞形とか、松皮様などのものがある。池中の中島は大体において、大海の島嶼を表現することが意図されているにもかかわらず、この中島に、雲の形とか、霞の形などといったものを形式上に意図すること、(後略)(p78より抜粋)

とある。で、雲の形や、霞の形のものをどうするかというと、

雲形の中島の場合では、雲が風に吹き流されているような形として表現し、霞形の中島の場合では、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿に作ることが主張されているのであって、(後略)

単純に池水を海と見立て、石を島と見立てるのにあるあきたらず、さらに島と見立てた上に、雲や霞の表現を求めるというのだ。中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見る。すごい。

ここで、わざわざ雲が風に吹き流されているような形、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿と書かれていることに気がつく。単に雲のかたち、あるいは霞のかたち、ではなく、雲(あるいは風)の動きや霞の動きを忠実に表現することに重点が置かれている。そう考えると、白砂が表現する波や水紋も、石を複数組み合わせて表現する滝も、水の動きを表現している。

石や砂といった基本的には動かないモノを材料とし、その形状によって、水や雲や霞といったまったく別のものを、その動きまでを含めて表現する。

ものすごく射程の広い話ではないか。

中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見るように、同時にAと見て、Bと見て、Cと見るような構造を写真に持たせることは可能なのだろうか。

またりんごだ…

 

先日読んだホックニーの本でセザンヌのりんごが出てきたけれど(「りんご」)、また全然違う文脈でセザンヌのりんごが登場していたので、メモしておこう。前者においては、単眼で見た世界と双眼で見た世界の違いの例としてとりあげられていたが、ここでは、見る行為に含まれる原初的な経験(なぞる-なめる)との関わりで紹介されている。両者で共通しているのは、視点は一点に固定されていない、ということ。

(前略)なぞるためには、まずはそれに触れなければならない。舌を押しつけるのであれ、歯茎で齧るのであれ、唇で挟むのであれ、はたまた舌先や唇、さらには指先で間を測りながら、そっとつついたり、さすっとり、撫でたりするのであれ。なぞるのは、まず輪郭である。物の外皮、物の表面をなぞりながら、ひとはその形状を、つまりはそのカーヴを、テクスチュア(肌理)を、そしてその硬軟を知る。カーヴやテクスチュアや硬軟は、口や手といった触れる器官で知る。けれども、物のそのカーヴは、物の全体的な輪郭の一部であるからには、視覚的にこそより完全にとらえられるもののようにおもわれる。メルロ=ポンティはその点について、描画といういとなみにふれてこう言う。

 林檎の輪郭を、続けて一気に描けば、この輪郭がひとつの物になるが、この場合、輪郭とは、観念上の限界であって、林檎の各面は、この限界を目指して、画面の奥の方へ遠ざかるのである。いかなる輪郭も示さなければ、対象から、その自同性を奪い去ることになるだろう。ただひとつの輪郭だけを示せば、奥行きを、つまり、われわれに、物を、われわれの前にひろげられたものとしてではなく、貯蔵物にあふれたものとして、汲み尽くしえぬ実在として示してくれるような次元を、犠牲にすることになるだろう。それゆえに、セザンヌは、色で抑揚をつけるに際して、対象のふくらみにしたがい、青い線で、いくつかの輪郭線を引くということになるわけだ。(M・メルロ=ポンティ「セザンヌの懐疑」粟津則雄訳)

 対象をあやすように、愛おしむようにしてその表面をなぞる手の運動、まるでその奇跡を視覚的にたどり、再現しているかのような、ひょろひょろとしたセザンヌの描画の線。セザンヌの描く林檎のひゅっひゅっと走るあの無数のかすり傷のような輪郭は、舌で舐め廻し、指でなぞる、そういうわたしたちの原初的な知覚の轍のようにみえないこともない。三木の表現をあらためて引けば、そうした「目玉による舐め回し」には、口による、そして手による対象の舐め廻しの記憶が蓄えられている。そうしたことがあるから、メルロ=ポンティは、「われわれは、対象の奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、固さなどを、見るのであり—それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見る」とまで言い切ったのである。これは、視覚から触覚、嗅覚まで、異なる感覚とされるものがその実、単独の感覚である以前にまずはたがいに交叉しあい、また深く侵蝕しあう、シネステジー(共感覚)の現象を言いかえたものであり、さらにそのことを敷衍して、別の著書では次のように書いている。「質・光・色彩・奥行といったものは、われわれの前に、そこにあるものではあるが、しかしわれわれの身体のうちに反響を喚び起こし、われわれの身体がそれを迎え入れるからこそ、そこにあるのだ。この内的等価物、つまり物が私のうちに引き起こすその現前の身体的方式、今度はそれが、これもまた目に見える見取り図を生ぜしめないわけがあろうか」(M・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳)、と。

(『「ぐずぐず」の理由』 鷲田清一著 角川選書 2011 p132-134より抜粋)

セザンヌに関する記述だけ抜き出したけれど、その前段には、以下のような文章がある。

 乳を吸う、味わうといういとなみに飽いてくると、つぎに赤子は口で外界の探索をはじめる。いやというほど物を舐め、しゃぶり、くわえ、齧る。人間のばあい、外界の物は、まずはしゃぶること、舌と唇と歯茎でなぞることで知られるのだ。

幼児たちは、やがてこの口の過程を卒業し、もはや内臓とは関係のない「手と目」の両者だけで満足するようになってくる。そこでは、この二種の触角による“撫で回し・舐め回し”の感覚・運動の共同作業が営まれるのであるが、そのうち、ここから“手を退き”、ついに目玉という、たった一つの触角でもってこと足りる世界が開かれて来ることになる。

 しかし、重要なことはその次にある。たしかにひとは、まずは口で、次に手で、そして眼で「舐め回す」ようになるのだが、「この最後に残った目玉による舐め回しの奥底には、かつてえんえんと続けられてきた本物の“舐め回し”の記憶が、そこではかけがえのない礎石となって、そうした視感覚をしっかり支え続けている」。

(同書 p131-132より抜粋)

これに関して、少し思いつくこと。

  • ある表面に対して垂直方向の運動、例えばぐっと対象に寄ってじっと(解像度を上げて詳しく)見るというような視覚の運動は、舐める、撫でる、との連携では説明しにくい。そういうのは、どうとらえるのだろうか。
  • 触覚の連携を示唆する視覚表現、あるいは触覚との連携で解釈される視覚表現を、最近目にする機会が多くなったように思う。これは制作者の関心が「絵画とはなにか?」や「写真とはなにか?」という問いから「見るとはなにか?」という、より根源的な問いに移行してきたからだろうか?

映画的なるもの

 

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
(『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。

りんご

 

秘密の知識』の中でカラヴァッジョの『果物籠』(1596)と、セザンヌの『7つのりんご』(1877-8)に描かれたりんごを比較している箇所がずっと気になっている。

図版を置いて、そこから離れて見れば見るほど、カラヴァッジョのりんごは見えにくくなり、画面に沈み込んでいく。逆に、セザンヌのりんごは、より強烈により明快になっていく、という記述。前者がレンズを通した単眼によって描かれているのに対し、後者は双眼による視覚を前提に描かれているという。

実際に自分も本を置いて離れたところから眺めてみて、なるほど、と思った。あまり話が抽象的になると、話についていけないことがあるけれど、こうやって実際に経験しながらであれば理解しやすい。

まず、離れて見てみてそこで現象することを捉えるという、こういう観賞の仕方があるということをはじめて知る。そして、写真に携わっているので、単眼による視覚と双眼による視覚の違いについては、どうしても関心を持たざるを得ない。「レンズという単眼による独裁の世界」という表現にはちょっと違和感を感じるけれど。

(前略)セザンヌの新しさは視点が定まらないことを意識し、ということはわたしたちは対象をつねに複数の、ときには矛盾する視点から見ていることを自覚したうえで、絵のなかに画題と自らの関係にまつわる疑問をもちこんだところにある。ここには人間らしい双眼の世界(二つの目、二つの視点、それにも伴う疑念)が展開している。それとは対照的に、レンズという単眼による独裁の世界(ベラスケス)は、つまるところ人間を数学的な位置に還元し、かれを空間、時間と切り離された位置に固定してしまう。

(『秘密の知識』 青幻舎 2006 p190より抜粋)

移動焦点の原理

 

先日読んだ、ホックニーの『秘密の知識』に、絵巻に関する記述があったので、メモしておく。

 

ここに1347年に中国で描かれた風景画の絵巻がある。本ではページを捲ることになり、巻物のように少しずつ繙くことはできないので、部分ごとに分けてお見せするしかない。これはアルベルティの窓とはちがう。これを見る者は情景の外側にいるのではなく、身近な風景の中をそぞろ歩くのである。視点は(ただひとつでなく)多数ある。これはわたしたちが歩き回るときの視点のあり方と変わらない。

 わたしの手許にある絵巻は、湖の辺の小さな村を見下ろす景色から始まる。そこから水辺へと降りると、湖面越しに彼方の山並みも望める。つづいて湖畔沿いに蛇行する道を行くと、頭上には山が聳え、小さな渓谷も目に入る。丘を昇り、湖を見下ろし、再び平野に下り、再度山に登る。ただひとりのひとがゆっくり巻物をひもといて初めて、このように目で見、感じることができる。巻物をすっかり拡げてしまえば、また美術館の催す展覧会ではそうならざるを得ないが、こうした効果は期待できず、風景はどことなくぎこちなく見えてしまう。図版をよりよく見るには虫眼鏡を使うことをお薦めする。わたしはこの絵巻からじつに多くを学んだ。この手法は[移動焦点の原理]と呼ばれる。この絵巻を原始的と呼ぶのは、どう考えてもふさわしくない。これは洗練を極めたもので、もしどこかに消失点があれば、それは動きを止めたこと、つまり見る者がもうそこにはいないことを意味すると気づかされる。
(『秘密の知識』 ディッド・ホックニー 青幻舎 2006 p230から抜粋 太字はわたしが勝手に)

要点をまとめる
・鑑賞者は画面の外側にいるのではない。身近な風景の中をそぞろ歩く
・視点は多数ある
・図版をよく見るには虫眼鏡を使うこと
・消失点があれば、それは動きをとめたことになる

《RIVERSIDE》のことを「大きな絵巻なんだね」と表現されたことがあって、それから絵巻の特徴や構造について、少し考えるようになった。

実は、作品化されずにお蔵入りのフィルムがいくつかあって、視界を遮るものがなく遠景まですぅっと抜けて見えてしまう風景の場合、絵としてあまりおもしろくない、というのがボツにした理由だけれど、この文章でひとつヒントを得た気がする。「消失点があれば、それは動きをとめたことになる」。消失点への求心力が、視線の水平方向の運動を妨げるということは大いに考えうる。ボツフィルムをもう一度見直して、考えてみようと思う。

「移動焦点の原理」というタームでgoogle先生に尋ねてみたけれど、芳しい回答が得られない。「移動焦点の原理」は、原文ではどうなっているんだろう。掘り下げて調べたいところ。

ひとつ言えるのは、カメラ(単眼)を使って絵巻構造の作品をつくるというのは、本質的な矛盾をはらんでいるということ。

Secret Knowledge つづき

 

おもしろいのは、アングルの肖像画(1829)を見たときに、フォルムが正確で精密なわりに素早い線で迷いがなく、さらに、ウォーホルがプロジェクターを用いて描いた作品の描線に似ているという、画家ならではの気づきからこのプロジェクトがスタートしているところ。

オールドマスターの作品を年代順に壁に並べることによって、自然主義の歩みが緩やかに進行したのではなく、突然の変化として現れたことが明らかになる。そして、その急な変化は、線遠近法の登場だけでは説明しきれない点が多いこと。さらに、画面中に、ピンぼけ、遠近法の歪み、複数の消失点など、光学機器ならではの特徴が見出されたことで、光学機器を利用したという仮説につなげていく。

絵画なのにピンぼけが確認されたり、線遠近法に基づけば一つしかないはずの消失点が2つ存在したり。いわゆる”エラー”に光学機器の存在がチラリ垣間見えるのが興味深い。

さらに、本来上から見下ろす視点で描かれるべきものが、なぜか正面から見た図となっているという点に着目し、当時の光学機器では広範囲を一度に映写できないため、人物ごと、あるいは部分部分に分けて描きコラージュしたのではないか?という説が浮上する。

あくまで仮説の積み重ねであるが、最終的には、

西洋絵画の根底をなすもっとも重要な二つの原理、つまり線遠近法(消失点)とキアロスクーロは、光学的に投影した自然の映像観察から生まれたことを理解した(p198)

というところまで進んでいく。線遠近法を獲得したことにより新しい空間表現が生まれたのではなく、まず先に光学的に投影された映像があって、そこから線遠近法が生まれたという。

さて、ちょうどこの本を読んだ直後に『カラヴァッジョ~天才画家の光と影~』という映画を観た。映画の中で、画家は平面鏡を利用していた。ホックニーは、鏡に映ったものを見るのと、鏡が投影したものを見るのはまったく違うという。

果たして画家はどのようにして描いたのだろうか。

Secret Knowledge

 

David Hockneyの『Secret Knowledge(秘密の知識)』を精読する。

彼の仮説は、

  1. 画家による光学機器の使用は1420年代にフランドル地方にて始まった(鏡のレンズ)
  2. 16世紀には、個々の画家が実際に用いたかどうかは別として、ほとんどの画家が光学機器を用いた映像の影響を受けている

というもの。すでに確証されたフェルメールのカメラ・オブスクーラの使用より、はるかに早い時期に光学機器が用いられており、それがかなりの影響力を持っていたという。いずれも仮説なので、ことの真偽は留保しておくにしても、とても興味深い内容だった。

前からカメラ・オブスクーラの存在は知っていたけれど、わたしはごく一部の画家が部分的に用いた補助的な道具というニュアンスで受けとめていた。著者は実際に、明るいところにモデルを座らせ、暗い部屋でその像を写しとる実験をしている。その実験の様子を見て、はじめて「光学機器の使用」がどういうことかを理解した。

暗い部屋の中で、紙の上に投影された映像の輪郭をなぞっていたのだ。それは描くというより、写しとる作業に近い。画家が独自の線を生み出すという思い込みが崩れた。わたしにとっては、光学機器の使用がはじまった時期云々より、画家の光学機器の使い方が明らかになったことのほうがよっぽど衝撃的だった。

印画紙が発明されるまで、いわば画家たちはカメラの中で映像を画布に写しとっていたということになる。写真のフィールドからすると、射程に入れるべき映像の歴史が4世紀ほど前倒しになる可能性が出てきたのだ。

カメラが19世紀に発明されたと誤解している人は少なくない。カメラは発明ではなく、自然現象である。暗い部屋の雨戸に小さな穴が開いていれば、それだけで光学的な映像の投影はごく自然に起こる。カメラ・オブスクーラとは文字通り「暗室」を意味する。レンズも鏡も必要ではない。ただしそのままでは映像は薄暗いか、ぼんやりしているか、あるいはその両方である。大きな開口部にレンズを取り付けると、映像はずっと明るくなり、ピントも鮮明にあわせることができる。「写真」の発明とは、じつはカメラの内部に投影される情景を定着する化学薬品の発明にほかならない。しかしカメラのなかに投影された映像は、写真以前の何百年にもわたり、人びとの目に触れてきた。

(『Secret Knowledge(秘密の知識)』David Hockney著 青幻舎 2006 p200から抜粋)

ミディアム・支持体・平面性

 

 リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠蔽するために技巧を用いてミディアムを隠してきた。モダニズムは、技巧を用いて芸術に注意を向けさせたのである。絵画のミディアムを構成している諸々の制限—平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性—は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だと見なすようになってきた。マネの絵画が最初のモダニズムの絵画になったのは、絵画がその上に描かれる表面を率直に宣言する、その効力によってであった。印象主義はマネに倣って、使用されている色彩がポットやチューブから出てきた現実の絵具でできているという事実に対して眼に疑念を抱かせないようにするために、下塗りや上塗りを公然と放棄したのだった。セザンヌは、ドローイングとデザインをキャンバスの矩形の形体により明確に合わせるために、真実らしさと正確さを犠牲にしたのだった。
 しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段であった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳 勁草書房 2005 p64・p65より抜粋)

(前略)古大家の作品は一点の絵として見える以前に、その中に存在するものが見られる傾向にあるのだが、一方モダニズムの絵画は、まず最初に一点の絵として見えるのである。もちろんこれは、古大家のものであれモダニストのものであれ、どんな種類の絵画でも最高の見方なのだが、モダニズムはそれを唯一の必須の見方として強いるのであり、モダニズムがそうするのに成功することは自己-批判に成功することなのである。
(同書 p66・p67より抜粋)

(前略)古大家たちは、ひとがその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つもり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである。(同書 p70より抜粋)

このあたりのことは大学の講義で聞いていたはずなのに、すっかり記憶から抜けている。もう一度、マネやセザンヌの作品をきちんと見たい。できれば、モダニズム以前の作品との比較で見たい。

これらはモダニズムの絵画についての記述だけれど、では写真において、ミディアム・支持体・平面性といったものに対して、(モダニズム如何にかかわらず)どういうアプローチがなされてきたのか。そして、モダニズムの下の写真とはどういったものであるのか。

12年ぶりの川村記念美術館

 

川村記念美術館

Barnett Newmanの作品を観るために千葉の佐倉を訪れた。
遠かったけれど、ちょうど紅葉の季節なのが幸い。

はじめて訪れたのは、12年前。
エジリちゃんと一緒に閉館間際に駆け込んだのを覚えている。でも何を観たのかさっぱり覚えていないというあたりが、だらしない。

Barnett Newman展、
全体的には、作品点数が少なく、遠くから足を運んだだけにもの足りなさを感じる。作品の中では、版画の作品の微妙な赤の差と、《アンナの光》の色とそのスケール感が印象に残った。

“大切なのはサイズではなく、スケール”

閉館時刻ぎりぎりまで粘っていたら、外はすっかり影絵の時間。

影絵の時間

エントツがめじるし

 

先週に続き、会期末に追われるように、SCAI THE BATH HOUSEに名和晃平さんの展示 Synthesis を観に行く。2度目なのにすっかり道に迷ってしまう。そんなときに目についたのがエントツ。

そうか、BATH HOUSEだから、エントツを目指せばいいのだ。

名和さんの展示を観るのはメゾンドエルメス以来。

平面の作品をはじめて見る。
でも印象に残ったのは、立体の作品のほうだ。

パッと見たときに、あれ?前に観た鹿の作品かな?と思ったら、違うのだ。
微妙に位置をずらした二重の鹿になっている。(2匹の鹿ではなく二重の鹿ね)
画廊の用意したテキストにはコピー&ペーストとあるが、まったくその通り。立体版コピペ。

とてもいい案配で位置をズラしてある。

長らく業界の話題となっていた「オリジナルとコピー」という二項対立を前提から揺さぶる。その手際の鮮やかなこと。そして、像といったときのボリュームを持った実体としての「像」と、いとも簡単にコピペできてしまう映像としての「像」の、どちらともとれるような存在の仕方が強く印象に残った。

すごい作品だった。

イメネ

 

今日が会期末。山本現代で開催されている高木正勝さんの映像作品。イメネ。

清澄や、京都の下京みたいに、ここも、ひとつのビルの中に複数のギャラリーがフロアごとに運営されているスタイル。

やはり作品を見ていて考えさせられるのは、「わたしたちがものの質感をどういう風に感じているのか」ということ。

液体のねばりけなんかは、そのてりっと光る加減だとか、とあわせて、ぬちゃっという音や、どろっとした動きの緩慢さなど、複合的な情報でその質感を感知しているのだと思う。

その液体がさらっとしているか、どろっとしているか、ということは、動いているところを見ることではじめてわかる「質感」なのかもしれない。

そういう動きによって生まれる質感が映像としてめまぐるしく変化するさまが印象的だった。

実体がないのにもかかわらず、映像の動きによって質感だけが立ち上がったり、あるいは、被写体自身のもつ質感とはまったく別の質感が、映像の動きによってもたらされるのは、すごくマジカルなことだと思う。

情緒・感情は批判力をもちうる。

 

 感情や情緒は行為である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることでいまの生活世界を批判する。

(『精神の政治学―作る精神とは何か (Fukutake Books)』今村仁司 福武書店 1989 p90より抜粋)

すごい作品と出会うと、こんなに自由で良いんだ、ということを思い知らされる。そして、それらの作品は、既存の枠をやすやすと越え出る奔放さを備えている。

いや、ことの順序が違うな。

それら作品を前にし、その奔放さに触れることによってはじめて、自分たちがとらわれている枠が認識される。

事前に自明な枠があるのではない。

作品に出会ってはじめて、自分がとらわれている枠が認識できるのだから、枠の出現は後だ。

だから、何かに対する批判そのものが目的である作品よりもむしろ、
ふわっと越え出てしまった作品にこそ、強い批判性を感じる。

この文章を読んで、そういうことを思い出した。
94コマ目のスキャンが終わる。

ハンス・コパー展

 

土曜、あわててハンス・コパー展を観に行く。

独特の薄さをそなえ、陶器の形そのものよりも、どうしても陶器が内包する空間のほうに意識が向く、いや、そんな抽象的なものではないな。

この薄い陶器の膜に内包されたの空気の’きもち’になるようなこと。
内包された側になりすます、というのか。
それがいやおうなく体感されるのが不思議でならなかった。

もう少し客観的にとらえなおすと、重量や、いわゆる塊としての量感から解放された世界。

くわえて、最初は一体化していた台座とオブジェの関係性がどんどん進化していく様子が興味深い。

そしてその美しさはおそろしくストイック。

後半のルーシーリーの作品の前で立ち止まって、不覚にも「ほっ」としてしまった。そのくらい、ハンス・コパーの作品を見ているときは、見ている側も張りつめていたのだと思う。

それにしてもルーシーリーの作品、良いなぁ。
印刷物でしか見たことがなかったけれど、実物の色、質感、えもいえぬバランス、に見蕩れてしまった。大阪での展示を楽しみにしておこう。

何度もくるくる、

 

早めに出て由比に寄り、名産の桜えびの”かきあげ丼”で腹ごしらえをしてから、IZU PHOTO MUSEUMに向かう。

木村友紀さんの展示。

作品点数こそ多くなかったものの、あまりに面白くて、何度もくるくる会場をまわってしまった。

複数の要素で構成される作品群。
たとえば写真Aに映っている窓辺の色紙3色と、写真Aの上に置いてある写真Bに映っている車の色3色とにが呼応し、なおかつ写真Aに映っている椅子と、そっくりの椅子が、写真Aを乗せている台と組み合わされていたり、と、複雑に要素が絡み合っている。

写真の前にどかっと植物が置いてあって、それがいかにも写真の中の世界にも置いてありそうな植物で、それが邪魔でイメージが見れないけれど、なんだかしっくりしてもいる。

そうやって、写真と現実のモノが介入しあっているのが、ものすごくおもしろい。

そして、離れた場所に展示してある作品Cにも、写真Aの作品で使った椅子と同じ椅子が使われていたり、写真Aがまた別の場所の展示では、別のモノとの関係性で別の作品として存在している、音楽でいうところの変奏のような展開の仕方であったり…(ここまで書いていてことばで説明する難しさを痛感…是非一度見てみてください)

いろんな関係の可能性が、見るたびに発見されるのがおもしろかった。

木村友紀さんの作品は、展示よりも展示写真を見ることのほうが多かったので、難解そうな印象を抱いていたのだけれど、今回、じっくり見てみて、実際に展示を見ることのうちに、その可能性の多くが含まれているのだとわかった。

‘新しいルール’を感じさせる作品群。

駿河平は遠かったけれど、行って良かったと思う。

今年の夏はいろいろ作品を見たけれど、いちばん刺激的で、そしていちばん考えさせられる展示だった。

silver light

 

金曜日の夜、建築はどこにあるの?を見に行く。

とうもろこし畑、赤稿といった作品は、見るひとの立ち位置や関わり方によって、様相がかわって見え、インスタレーション作品として、とてもおもしろかった。全体としては、説明書きを読んでコンセプトは理解できても、”体験として伝わるもの”が薄いと感じる作品のほうが多かった。

インスタレーションだけに、作品と対峙していろんな体験ができるものだと期待していた分、残念な気持ち、に。

そして常設展に足を運ぶ。

まさかこんなところで、出会うとは思わなかった、Gordon Matta-Clark の建築をぶった切る映像が見られたのが、大収穫。

破壊行為だと思っていたけれど、
実はすごく丁寧に緻密に、建築をぶった切っていたことを知る。

その切り込みによって、構造物の中にすっと光が射し込んでいる様子が、内部からのアングルで見られたのがすごく良かった。映像のなせるわざだ。モノクロの映像だから、色はわからないけれど、それでも射し込む光に”silver light”という表現はぴったりだと思った。

メモ

 

所有することは、ほとんど必然的に所有されることだ
ガブリエル・マルセル

荷物の間からメモが出てきた。
メモにしてはひどくマニアックなんだけど。

いま、このタイミングでひらりわたしの目前に現れたことに、なにか特別な意味があるのではないか、と、考えてしまう。2月の緊急レクチャーで、クリストが「所有できない作品形態」について説明していたことを思い出す。

所有によって制約を受けることがある。作品は自由でなければならない、と。

ジョン・ルーリー

 

法貴信也さんの作品を見に行くはずが、日曜休廊とのことで、予定変更で、ジョン・ルーリーのドローイング展を見に行く。フロアは若いひとでごった返していたけれど、けっこう集中してじっくり見ることができたと思う。

ポップでもなく、でも深刻になりすぎず、見るひとに負担をかけない絶妙の案配。
ひとつの画面を構成する筆致の差異だとか、色、前後の重なり、など、とてもおもしろく見ました。あと、タイトルのセンスが良いなぁと思う。

もう一度くらいは見に行きたいけど、行けるかなぁ。

正直なところ、最近は、写真作品よりも、ドローイングの作品を見るほうが楽しい。

提灯

 

ミックイタヤさんの個展、提灯を見に行く。ずっとお世話になっている美容室、ロマンザのマークがミックさんの作品で、それまでも作品集を見る機会もあったりしたから、「提灯?」と思いながらも遠出をした。

線で描かれた作品がすごく好きなのだけれど、提灯(立体物)のラインもやっぱり繊細なのが印象的だった。

展示の脇に置かれている、ちょっと良いつくりだなぁ…と思う本は、だいたい光淋社が出版したもの。20代前半のころ買っていた光淋社のzyappu。「かわった雑誌」くらいの印象しか持っていなかったけれど、いまなら、この出版社の心意気がよくわかる。

惜しいなぁと言うには、あまりに時間が経ちすぎているんだけど、この出版社を失ったことは、やっぱり惜しいと思った。

額縁はなかったし

 

しかし、コルビュジエ達は、大衆社会における芸術と社会との関係を正確に理解していた。その理解に基づいて作品を作り、また、その理解に基づいた巧妙なやり方で、作品を社会に投入したのである。

 大衆社会において、建築は一個の商品(オブジェクト)として大衆に受け入れられる。この決定的事実をコルビュジエ達は正確に理解していたのである。(中略)商品は、なによりもまずひとつの強固でわかりやすい図像性を持っていなければならない。一目見てはっとするようなパッケージをまとっていなければならない。そのパッケージの図像性が要請される。そのために彼らはまず建築を、その外部の世界から切断することを考えた。

 商品というものは通常、移動可能な自立したモノとして把握される。建築もまた環境から切断されてはじめて、商品として、人々から受け入れられると彼らは考えた。そのためにコルビュジエは列柱(ピロティー)を用いて建築を大地から浮上させて切断し、ミースは古典主義建築が行ったように、乱雑な大地の上にまず基壇を築き、その上に自らの芸術作品をうやうやしく配置したのである。ピロティーや基壇で切断された芸術作品には、単純でわかりやすい形態が与えられた。
(中略)

 切断への関心は、危機感の反映でもある。二〇世紀においては、商品化という操作によってのみ、芸術と社会とが回路を結びうるとするならば、二〇世紀の建築の置かれた位置は絶望的ですらあった。絵画や彫刻はすでに額縁や台座(基壇)によって、二〇世紀のはるか以前から、環境とは明確に切断されていた。ルネサンス以降の近代化のプロセスの中で、すでにその切断をはやばやと達成していたのである。さらにこれらの領域では、貴族的なパトロネージが、二〇世紀に到っても依然として力を保ちつづけており、商品化の必要性はより希薄だった。それに対し、建築の危機は深刻であった。額縁はなかったし、パトロネージも風前の灯火であった。

(『負ける建築』 隈研吾著 岩波書店 2004 p94-95から抜粋)

「額縁はなかったし」というところが、建築の側の本音ぽいのが可笑しかった。

ものを「作品」として他者に認識てもらうための道具立て、プロトコル、そしてその効能には、充分注意をしなければならない、と思ってはいたけれど、ここで、フレームの本質的な機能が、環境との切断ということをあらためて確認する。

作品のなかには、額縁や基壇などのわかりやすい道具立てに頼っていないとしても、そのほかの方法で、環境との切断を果たすことで、作品として成立しているものがあるのかもしれない。そういった作品群を環境との切断という視点を頼りに再検討することで、「作品」の成立前提を、考えたいと思う。

L_B_S

 

先週末、メゾンドエルメスで開催されている名和晃平さんの「L_B_S」展を観に行った。

入り口のところで、監視員の方に、「作品にはお手を触れないでください」と注意される。わざわざ、こんなところまで足を運ぶような客に、わざわざ、そんな注意をせんといかんもんなのかなぁ…と思っていたら、その理由がすぐにわかった。

表面の質感に対する関心を強くひき起こす作品。注意されなかったら、つい触って確かめたくなってしまっていただろうな、と思う。

展覧会タイトルのL_B_Sの、LはLiquid、BはBeads、SはScumで、展覧会はその3群の作品から構成されている。

Beadsは、鹿の表面を覆うビーズによって中に入っている鹿の像は歪められている。ビーズで覆われた透明のボリューム。

Liquidは、グリッド状に発生しては消えてゆく泡。うまれては消えてゆくその白い泡の表面に、しばらく見とれていた。

わたしにはどちらも、とても映像的に見えた。

これらは、塊、ボリュームとして受けとめることもできるし、その表面に生起する映像として受けとめることもできる。Scumに関しては、触覚に訴えかける表面の質感が特徴的であり、ものの存在の多層性、ということを考えさせられた。

ドアマンと、店内の雰囲気にビビりながらも、勇気を出して観に行って良かったと思う。

烏丸通り1ブロック分のこと。

 

晴れてはいたものの、かなり霞んでいたから、撮影は早い段階で断念し、もう一度見ておこうと思った、入江マキさんの個展に向かう。グリーンから青を通り越して紫までの色が印象に残る。

見たそばからはかなく消えゆく夢をたぐりよせるようなこと。
つじつまをあわせたり、輪郭を確定したとたんに崩壊するような世界を、そのまますくうようなこと。

そのあと、芸術センターで開催されているdual pointで、はじめてまともに高木正勝さんの映像を見て、しばらく動けなくなった。何ループくらい見ていただろう。映像でしかつくれない質感。

それから、cococn karasumaで開催されているNY TDC展まで足を運んでみたものの、作品の良し悪しより、展示物の状態の悪さが、気にかかった。

烏丸通り1ブロック分のこと。

考えごと

 

ロン・ミュエック展のことをしばらく引きずっている。

あれらの作品で、わたしにとっていちばん辛辣に感じられたのは、
いままでの彫刻作品がいかに抽象化され理想化されたものであったか、
ということを暴いたこと。

同じことを写真にあてはめて、
世に流通する写真群がいかに抽象化され、理想化されているか、
ということを考えさせられている。

切ったり貼ったり2

 

Gordon Matta-Clark

表紙の写真からおもしろくて、つい手にとってしまった。
写真がおもしろくて見ていたのだけれど、この方、写真家、ではない。だから、かえっておもしろいのかもしれない。

最初、切ったり貼ったりしているのは、写真なんだと思って見ていて、それだけでも充分おもしろかったのだけれど、途中で、それが実際に建築物をぶった切ってるとわかって、さらに、おもしろくなってきた。

届いたばかりで、まだなにも咀嚼できてないので、これからゆっくり向き合います。ワクワク。

純粋な領域

 

 しかし、それにしても「事象そのものへ」というザッハリッヒな探求、あるいは芸術の自律性の探求は、なぜ純粋な領域を要請するのか。なぜ、領域の固有性、あるいはその形式性、透明性を要請したのか。諸学問、諸芸術のそれぞれが自己に固有の領域へと閉じこもること、そのことがさまざまの知的・美的領域で並行現象として発生したこと、そういうことを可能にするトポスとは何であったのか。そういうトポスへの問いは、当然のこととして、そのトポスが閉じた系、閉じた回路として成立していることを前提とするが、ほんとうにそういう閉じた関係の世界というものは可能なのだろうか。

(『思考のエシックス―反・方法主義論』鷲田清一著 ナカニシヤ出版 2007年 p34から抜粋)

単純に「ファインアート」ってなんなんだろう?という問いがずっとあって、「ファイン」ということばで、ある表現領域を囲わないといけない理由とか、そういうことを知りたい。

そういう「囲いこみ」が表現としての閉塞感とか、制度としての閉塞感に、つながっているんじゃないの??という漠然とした感触とか。論理的に説明はできないけれど、感覚的に、ひっかかりを覚えていること。

※ザッハリッヒ:即物的 トポス:場所

芸術展示の現象学

 

つい先日、手もとに届きました。初版発行が12月20日になっているので、もうすぐ店頭に並ぶのでしょうか。

恩師のお声かけで、ほんの少し執筆しています。どこかで見かけたら、チラとのぞいてみてくださいな。表紙は松村康平さんのデザインです。『芸術展示の現象学』(太田喬夫・三木順子編 晃洋書房)

自由

 

タイトルがあやふやだけれど、

親戚の家で猪熊弦一郎の、ARIZONA AND CACCINA DOLLSという画集を見せてもらった。

少し古いものだと思うけれど、装丁も遊び心にあふれていて、
作品も、とてものびのびと楽しいものだった。
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の常設で見る額装された作品は、均整がとれていてちょっとストイック。それよりも、この画集の線は奔放で、見ていて楽しい。
子どものころ、無心に絵を描いていたころの楽しさを彷彿とさせる。

それと、原美術館で開催中のピピロッティリスト展。

素晴らしい作品に出会ったときはいつも「自由でいいんだ」ということを思い知らされる。
知らず知らずのうちに、既成の枠のなかにはまっていることに気づかされる。
自分を不自由にしているのは、ほかならぬ自分自身なのだけれど。

じゆうのけがに

 

voice galleryで開催されている、現代美術二等兵のかに展。

「自由の毛蟹」って…。

と、あいかわらず笑える作品が並んでいます。
例年より、全体的に作品が小ぶりな感じがしますが、
ニヤニヤしながら見てきました。

同時開催(?)のたれ流しライフスタイル展の現実逃避という作品がいちばん好き。
ネガティブとポジティブと、二種類枕があるのん、むちゃおもろかった。

もう会期末間近。27日(土)までです。
今年は、射手座ではなく、voiceなので、おまちがいのないように。

光景のめくれ

 

天候のせいでテスト撮影が延びている。晴写雨読だ。

 山の姿によって方位を知ることがなくても、そう、ビル群に視界を遮られた「巨大な密林」とでも言うべき東京にあっても、道に迷うことが少ないのは、目印の建造物から目的の場所まで移動してゆくその途中の光景をからだが憶えているからである。景観というのは、移動という運動のなかでのそういう光景のめくれというかたちで(あるいは、流れるように脇で眼に入っているらしい光景の断続というかたちで)身に刻まれるものであって、けっして正面に立ってこの景観はすばらしいというように感得されるものではないのである。

(『京都の平熱 哲学者の都市案内』 鷲田清一著 2007 講談社 より抜粋)

最近、大通りを歩くとき、しっかりと対面にある景観を確かめるようにしている。

ふだんは進行方向を向いて脇に見るともなく見ている光景を、あらためて正面から直視すると、見知らぬ街にいるかと思うくらい、まったく印象が異なる。脇に見ることと、正面からじっくり見ることはまったく違う体験なんだと実感していたところだ。

正面に立ってこの絵はすばらしいというように感得する、美術の要請する「見る」作法はかなり特殊だと思うから、その正面に立ってじっと見るという作法を、日常の何に適用したら、いちばん違和感があっておもしろいやろう…と、ずっと長い間考えている。

問いのたてかた。

 

最近「感じる」がずいぶんおろそかになっている、と思って、ひさしぶりに鷲田清一さんの著書をひらく。『〈想像〉のレッスン』は、具体的に芸術作品をひいて書かれたもので、いくつか写真作品についても書かれている。

「みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」。という、詩人のことばからはじまるこの著書のなかで、

アートもまた、わたしたちが住み込んでいるこの世界の、微細な変化や曖昧な感触を、曖昧なままに正確に色や音のかたちに定着させる技法だといえる。

(p18から抜粋)

とある。

最近、忘れがちだったかもしれない。
抽象的なコンセプトをああだこうだねりまわすより、自分の生活の中で感じたこと。どうしても無視できない齟齬。そういったものからスタートする、ということ。

「写真とはなにか」という問いは、もしかしたら写真をとりまくひとの間だけの問いでしかないかもしれない。「見る」とはどういうことか、という問いならもっと広く共有できる問いとなるのではないだろうか。

もう少し視野を広げてみよう。
そして、もう一度、問いのたてかたを考え直してみようと思う。

自閉的な近代の芸術観

 

わたしの旧くからの友人知人で、すすんで現代美術に接する人はほぼ皆無である。

伝統的な芸術に親しんでも、現代美術は苦手だという人は多い。どうして、それほどまでに現代美術は人々の生活から乖離しまったのか。その原因を探りたいと思っている。

 それ自体がそれによって切りとられた世界の断片の所有である絵を所有すること、それもできるだけたくさん収集することというコレクターの意思は、まさにルネッサンス以降の見る文化の一端であり、十八世紀末から十九世紀にかけて形を変えて、美術館や博物館というシステムへ回収されていくことになる。美術館や博物館はいわば十八世紀末に成立したブルジョア文化の現在における保存装置なのであり、かつての王権の変形した残骸なのである。(中略)

 また、一方で美術館や博物館は十九世紀に入ってからの激しい時代変動と同調して最後の礼拝的な場所としての機能も果たすようになっていく。(中略)

 “芸術の神殿”、芸術の絶対化といった考えが芽生えてくるのはこうした土壌からであり、この考えこそが芸術を芸術自身で自律させるという自閉的な近代の芸術観の根底をかたちづくることになる。芸術こそ最高の価値とみなすこの信仰は、いわば宗教の代用である。

ひきつづきジョン・バージャーの『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』からの抜粋である。「芸術を芸術自身で自律させるという自閉的な近代の芸術観」という視座は、その芸術観をごくあたりまえの「芸術のありかた」として受けとめていたわたしにとっては新鮮な驚きであった。

芸術を芸術自身で自律させる。すなわち、社会の直接的なオーダーからはなれたことが、現代の芸術が一般のひとびとにとって難解な表現を生み出したひとつの要因であることは否めない。

短絡的に結びつけるのは危険だけれど、こと現代美術が敬遠される…その理由のひとつを見た気がする。

精神の姿勢の問題

 

しかし油絵の伝統ほど、傑作と凡作の差が大きい文化はないだろう。この伝統においては、差は技術や想像力の問題ばかりではなく、絵に対する精神の姿勢の問題でもある。十七世紀以降、ますますその傾向が強いのだが、標準的な作品は多かれ少なかれ冷笑的に生みだされたものである。つまり、画家にとっては、依頼された作品を制作したり売ったりすることのほうが、その作品が表現している価値よりも意義があった。凡作は、画家が不器用だったり乱暴だったりした結果生まれたというより、市場の要求が芸術上の要求よりも強い結果として生まれてくるのだ。

(『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』ジョン・バージャー著 伊藤俊治訳 PARCO出版局 1986年 より抜粋)

市場が活発であればあるほど売れ筋が顕著になる。それにのっかるほうを選ぶ作家が多かったということ。精神の姿勢の問題とは、なるほどそういうことか。

しかし、作品を「売ること」をどうとらえるかは難しい。

売れ筋を狙うようなあざとい作家はまわりにはいないけれど、まっとうな作家のなかでも意見は二つに分かれている。「売る」からこそ生まれる緊張感によって作品のクオリティがあがるという考え方と、売るのを意識することから自由になりたいという考え方。前者は無意識のうちに市場のニーズをとりこんでしまう危険性を、後者はいわゆる「趣味」のレベルに埋没してしまう危険性を孕んでいる。

どちらのリスクをとりながら制作するかはそれぞれの作家しだいだ。ただ単に、作品をつくっているのではなく、どう経済とかかわるかは、作家であれば誰しも考えるところなのだろう。

そういった制作活動の基本的なスタンスにはじまり、細かいことをひとつひとつ丁寧に繊細に選択していくことが、よりよい作品の生まれる土壌になるのかもしれない。

constellation

 

修士の担当教官から教えてもらった。

“constellation”

布置という意味ともうひとつ、星座という意味がある。
忘れられないことばだ。

大学のころ、美術の文脈を知ってしまうと、知らないうちにその文脈の範囲内でしかものを作られなくなるんじゃないかと不安で、美術史、写真史にはそっぽを向いていた。そんなわたしを諭すように手渡されたことば。

長い芸術の営みのなかで、自分の実践がどの位置にあるのかを把握したうえで制作をしたほうがいい…と。

それから3年ほどたって、やっとその言葉の意味がわかりかけているのかもしれない。画家や美術家が、成功・不成功にかかわらず、どのようなトライアルを続けてきたのかを知りたいと思うようになった。

再読 ジョン・バージャー『イメージ』

 

ジョン・バージャーの『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』(伊藤俊治訳 1986年 PARCO出版局)を4年ぶりに再読した。原書は1972年に著されたとのことで30年以上も前のものだということを読み終わってから気づいた。そのくらい古さを感じさせないものだった。いくつかひっかかるポイントを抜き出してみたい。

しかし、いずれにしろ、今その原画が持っている独自性とは、それが”複製の原画”
であるということのなかにある。人が独自性を感じるのは、もはやその絵のイメージが示すもののなかにではなく、その絵のあり様のなかにある。(上述『イメージ Ways of Seeing―視覚とメディア』より抜粋)

先週末に見た「大絵巻」展。長蛇の列をつくっていたのは高山寺の「鳥獣戯画」だった。ほかにもおもしろい作品はいくつもあるにもかかわらず、また見るべき作品がほかにあるにもかかわらず、その列に並んだ背景には、グッズやモチーフに多く用いられ親しみ深い「鳥獣戯画」の原画を確認しよう、「ホンモノ」が複製とどうちがうか、その差異を見いだそう、そういうモチベーションが強く働いていたことは否定できない。

原画の意味はもはやそれがどのような特別なことを語りかけてくるかではなく、それがどのような特別な状態にあるかに見いだされる。(同書より)

複製とは複製物と割り引いて接し、原画(ホンモノ)は複製物との比較において接する。そのどちらも、真正面から作品と対峙することとはほど遠い。複製の出現によって奪われた体験。そういうものがあるということを再確認する。

わたしの記憶が正しければ、トーマス・シュトルートの美術館のシリーズはこれと同じ論旨で解説されていた。