松岡正剛の書評(千夜千冊)に良寛全集についての書評があったので読んでいたところ、せつない、ということばについて書かれたところで、立ち往生。

 こうして、良寛はどんなときも、一番「せつないこと」だけを表現し、語りあおうとした。「せつない」とは古語では、人や物を大切に思うということなのである。そのために、そのことが悲しくも淋しくも恋しくもなることなのだ。それで、やるせなくもなる。

 しかし、切実を切り出さずして、何が思想であろうか。切実に向わずして、何が生活であろうか。切実に突入することがなくて、何が恋情であろうか。切実を引き受けずして、いったい何が編集であろうか。

松岡正剛 千夜千冊 第千夜から抜粋)

ある頃からほとんど小説を読まなくなり、
かわりに思想書、哲学書を読むようになったのは、
そこに哲学者の、思想家の、切実、が垣間見えることがあるから。
その切実にふれて、こころが震えるから。

そして、せつない、がもともと人や物を大切に思うことを意味していた、
という解説に納得した。

年を重ねるほどに、せつないと感じることが増えているのは、
きっと、たいせつに思う関係が増えているのだ。
たいせつに思う関係が時間を重ねることによって築かれるものであれば、
生きた時間のぶんだけ、せつなさは増えて当然なのかもしれない。

そして、彼のことばを借りれば、
切実にこの世界に触れることなしに、なにが写真家であろうか。