LISA SOMEDA

ことば (22)

They looked, but did not see it.

 

タイトルのセンテンスは、昨年末に読んでいた今井むつみさんの『英語独習法』で見つけたもの。思いがけないところで、思いがけないことばに出会うのね。

人は外界にあるモノや出来事を全部(seeの意味で)「見ている」わけではない。無意識に情報を選んで、選んだ情報だけを見るのが普通である。注意を向けて、見るべきもの、次に起こるであろうことを予期しながら外界を(lookの意味で)「見ている」。当たり前のことが起こると、その情報は受け流してしまい、見たことを忘れる。予期しないことが起こり、それに気づけばびっくりする。そのときは記憶に残りやすい。しかし、注意を向けているつもりでも、予期しないものは気づかずに見逃しまうことも多い。

(『英語独習法』今井むつみ著 岩波新書 2020 p7より抜粋)

RIVERSIDEプロジェクトの根幹は、まさにこれだと思って。ふだん何気なく(lookの意味で)見ているものを写真に置き換えることで、seeの意味での見るに変換すること。

いつも見ていたはずだけれど、そうは見ていなかったんじゃない?と。

そして、日本語を使って考えているうちはなかなか言語化しにくかったのが、英語を借用することでこうもあっさり表現できるんだなぁ、と。

ここからはまったくの余談…
ちょうどこの本を読んでいたのと同時期に放映されていた恋愛ドラマに「好きです。likeではなくて、loveです!」という台詞があって、わざわざ英語を借用しないと自分の気もちすら伝えられないって日本語ってちょっと不便じゃない?と。自分の生活でも、漢方医の問診で「喉がかわきますか?」と訊かれたときに、乾く(dry)?渇く(thirsty)?どちらだろう?といつも戸惑う。局所的に喉を湿らせたいのか、身体が水分を欲しているのかは違うニーズだと思うので…。

何かを厳密に定義したり伝達するには、日本語は曖昧ですこし不便な道具なのかもしれない。

アーカイブ

 

そもそも、話すのがうまくない。
いつも言いたいことを言えない、言い足りないもどかしさがあって、書くことでやっと出し切る。

そのための道具としてブログを書きはじめ、しだいに生活の中での気づきや、読んだ本の印象深いフレーズをメモ書きのように残すことが増えてゆき…

それでも、書きはじめた頃から、ひとりの人間が作品をつくりながら何を考えどう生きたか、制作のさなかに考えたことをその都度綴っておけば、登山で言うところの踏み跡のようなものとして、あとからこの道を進む誰かの役に立つかもしれないとは思っていた。(そして実際に「読んでます」という若い作家の方が現れてびっくりした)

近年アクセスが安定しつつあるのに加え、自分自身を振り返るのにも役立つようになり、アーカイブとしての側面を少しずつ意識するようになっていった。

さらに今は、写真作品だけでなくこれらドキュメントも含めた営為を制作物としてとらえ直し、作品とドキュメントのつながりをもっと明確にしたいという欲も出てきた。

多くの作家にとってWEBは広報媒体のひとつかもしれないけれど、わたしはここを拠点とする。そう決めたので、これから少し時間をかけて手を入れていこうと思う。

もうひとつ。
20年近くひとつのプロジェクトに携わり、時間とともに作品に対する意味づけが自分の中で変遷するという経験をした。さらに20年続けたら、20年後のわたしは今とはまったく違う意味づけをするかもしれない。くわえて、人間は思っているよりずっとあやふやで一貫性に欠けているのではないか?という疑いもある。少なくとも自分のことは誰より自分がいちばんよく見えて〝いない〟。

つまり…定型フォーマットに則った「このコンセプトでこの作品をつくった」という作者の語りからこぼれ落ちるものが、わたしの意図を超えてここに残るかもしれないと期待している。

トレードオフ

 

コロナ禍の影響で、商業地では空きテナントが増え、そのガラスにシートや板があてがわれている光景が目立つようになった。いっぽう住宅地では、地方移住の需要を見込んだ旺盛な投資により集合住宅の建設ラッシュ。真新しいガラスがシートで覆われている光景をよく見かけるようになった。

ガラスに映る像を見ようとすると、木目やシートの皺といった支持体が介入する。
木目やシートそのものを見ようとすると、映り込む像に阻まれる。
拮抗やトレードオフといったことばが脳裏をよぎるが、トレードオフは今の社会状況をもっとも象徴することばだ、とも思う。

隔たり

 

平時モードに戻る前に、もうひとつ書き残しておこうと思う。

「隔たり」ということばは、ふつう二者の空間的・時間的な距離を指す。それだけでなく、たとえ二者の距離が限りなく近くても、ガラスや壁のような遮蔽物が間にあるような場面でも「隔たり」ということばを使う。これらはまったく異なる状況のはずなのに同じことばを使う。そのことに興味を持った。

この二つの状況に共通点を見出すとすれば、距離や遮蔽物によって二者の接触が阻まれているということではないか?「隔たり」ということばのベースには「触れることができない」(接触不可能性)というチクッと心が痛む経験が横たわっているのではないだろうか?

かつて、そんなことを考えたことがある。(隔たり 2014.04.26)

奇しくも、新型コロナウイルスの感染防止対策として、日常生活ではソーシャルディスタンスを保つよう促され、公共施設や商店の窓口には薄い透明のシートが貼られるようになった。ぼんやり考えていたことが、突然、可視化されてしまった。

選択の根拠

 

どうしてそれを選ぶのか、自分でその根拠がわからないまま選択を行なっていることは多いという自覚はずっとあった。特にものをつくる場面で。

いちばん身近なものでは、なぜそれを、そのようなかたちで写真に収めるのか?という問い。それはいつも自分につきまとっている。

最近読んだ、『あなたの脳のはなし』には、はっきりとこう書かかれている。

わたしたちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない

私たちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない。脳はつねに情報を周囲から引き出し、それを使って私たちの行動を導くのだが、気づかないうちに周囲の影響を受けていることが多い。「プライミング」と呼ばれる効果を例に取ろう。これはひとつのことが別のことの知覚に影響するものである。たとえば、温かい飲み物を持っている場合は家族との関係を好意的に表現し、冷たい飲み物を持っているときは、その関係についてやや好ましくない意見を述べる。なぜこんなことが起こるのか?心のなかの温かさを判断する脳のメカニズムが、物理的な温かさを判断するメカニズムと重なり合っているので、一方が他方に影響する。要するに、母親との関係ほど根本的なものについての意見が、温かいお茶を飲むか、それとも冷たいお茶を飲むかに、操られる可能性があるということだ。

(『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房 2017 pp.111-112から抜粋)

ほかに、硬い椅子に座っているときのほうが、柔らかい椅子に座っているときよりもビジネスにおいて強硬な姿勢を示す、といった例も挙げられている。

 もうひとつの例として、自覚されない「潜在的自己中心性」の影響を考えよう。これは、自分を思い起こさせるものに引きつけられる特性のことだ。社会心理学者のブレット・ペラムのチームは、歯学部と法学部の卒業生の記録を分析して、デニースやデニスという名前の歯科医(デンティスト)、そしてローラやローレンスという名前の弁護士(ロイヤー)が、統計的に多すぎることを発見している。

(同書 p112より抜粋)

さらにたたみかけるようにこう続く。

心理学者のジョン・ジョーンズのチームは、ジョージア州とフロリダ州の婚姻記録を調べ、実際に名前のイニシャルが同じ夫婦が予想より多いことを発見した。つまり、ジェニーはジョエルと結婚し、アレックスはエイミーと結婚し、ドニーはデイジーと結婚する可能性が高い。この種の無意識の影響は小さいが数値的な裏付けのあるものだ。

 要点はこうだ。もしあなたがデニスやローラやジェニーに、なぜその職業やその配偶者を選んだのかと訊いたら、彼らは意識にある説明を話すだろう。しかしその説明には、最も重要な人生の選択に対して無意識がおよぼす力は含まれていない。

(同書 pp.112-113より抜粋)

これほどまでに、無自覚に環境の影響を受けているのだとしたら、時間をかけて見つけた合理的に思える根拠も、疑わざるを得ない。

想像以上に「わかっていない」ことがわかって、少し恐ろしくなった。

投影

 

先日、とても興味深い話を聞いた。

現在子育て中の友人。
彼女は母親から「昔、子育てをしていたときあなた(友人自身)は神経質で、寝ついても音ですぐ目が覚めたけれど、孫(友人の息子)はよく眠ってくれる」と言われたのだそう。

わたしの知る限り、神経質なのは友人の母親のほうで、友人自身はおおらか。きっと友人の母親は、娘の寝つきの悪さを、ふつうの人よりずっとずっと心配したのではないかと想像する。

この話を聞いたとき、「投影」ということばが頭をよぎった。他者をとらえようとするとき、そこには「私」の気質や性質が否が応にも投影されてしまうのではないかと思う。

自他の境界は、思っている以上に曖昧なのかもしれない。

心をこめる

 

その日は、保育の仕事をしている友人と話をしていた。

休日に仕事を持ち帰ったという話をきいて、家に持ち帰らなければならないほど仕事量が多いのかと問うたところ、
新学期の帳面に子どもたちの名前を書くの、バタバタしている仕事中ではなくて、心をこめて書きたいから。という返事がかえってきた。

心をこめて名前を書く

という話が、おそろしく新鮮に聞こえるくらい、心をこめて何かをする、ということからわたしは遠ざかっていた。

彼女曰く、テキパキと合理的に仕事をするよりも、心をこめて名前を書くようなことのほうが、むしろ自分にできることなのではないか。と。

そのとき、わたしは虚をつかれた感じだったと思う。
わたしの仕事観のなかには、テキパキ合理的というチャンネルはあったけれど、ゆっくり心をこめて何かをするというチャンネルは、存在すらしていなかった。

少し話はそれるけれど、視覚表現に携わるなかで感じてきたことのひとつに、「ひとは、言語化されたり明示された内容よりも、その表現のもつニュアンスのほうに、大きく影響を受けるのではないか」というのがある。
たとえば、ひとが話をしていることばやその内容よりも、間の置きかたや声色、トーンといったもののほうから、より多くの影響を受けるようなこと。

そうであればなおさら、表現する立場のひとが「心をこめる」ことはとても重要だ。
受けとるひとは、心のこもっているものと、そうでないものを、とても敏感にかぎわける。

なのに、わたしはずっとそれをないがしろにしてきた。

心をこめる、ということをもう一度、考え直したい。

音を楽しむなんて意味はない

 

「そもそもmusicに音を楽しむなんて意味はないのよ。日本人が勝手に音という字と楽しむという字を充てただけで、楽しもうとなんてしなくていいの。」

中学生のころ、声楽の先生に言われたことを思い出した。
これから音楽の世界を志そうと思っている中学生にとっては、酷なことばに思えた。

でも、photograph(photo 光の graph 描かれたもの)に‘写真’ということばをあてがった際に前提とした「真を写す」という考え方が、そののちもたらした影響の大きさを考えると、ことば自体を疑ってみるというのも、悪くないのかもしれないと思う。

画像、という呼び方のほうがよっぽどシンプルだしね。

メモ

 

所有することは、ほとんど必然的に所有されることだ
ガブリエル・マルセル

荷物の間からメモが出てきた。
メモにしてはひどくマニアックなんだけど。

いま、このタイミングでひらりわたしの目前に現れたことに、なにか特別な意味があるのではないか、と、考えてしまう。2月の緊急レクチャーで、クリストが「所有できない作品形態」について説明していたことを思い出す。

所有によって制約を受けることがある。作品は自由でなければならない、と。

「ふんしつ」のふんは、イトヘンなんです。

 

申し訳なさそうに言われたものだから、
かえってこっちが申し訳ないきもちになる。

郵便局の窓口でのこと。

紛失の届出のところに粉失と書いて、
まったく間違いに気づかずに堂々と書類を提出したところ、
郵便局員さんに、やんわりと訂正されてしまった。

ことばには執着があるほうだから、
こんな間違いに気づかないなんて、はじめてのことだと思う。
(正確には、間違いに気づかなかったことに気づかされたのが「はじめて」だ)

ショックである。
書く能力が著しく低下している。

タイピングする分には全く不都合はないのだけれど、
いざペンを持って書く段になると、
適切な漢字が思い出せずにすこぶる不自由をするということに、
うすうす気がついてはいた。

でも、書き損じることはあっても、
書き損じたことに気がつかないほど、アホになっているとは思わなかった。

これは、能力の低下というより、ほとんど退化だ。

意識的に手でものを書くようにしておかないと、
ほんとうに、書く能力を“粉失”してしまうかもしれない。

ことばはいつも後から

 

なんだかいやな感じ、だとか、なじめない感じ、だとか、
そういう齟齬としてとらえられた感覚が、
ずいぶんあとになって、他人や自分のことばに輪郭づけられることが多い。

ことばはいつも後から追いついてくる。

最近やっとそういうことがわかりかけてきた。

ことばで輪郭づけられるまでの、居心地の悪さのようなものは、
勘違い、くらいのことばで簡単に片付けられるものかもしれない。

でも、ことばにならなくても、そういうもやっとした感覚は、
もやっとしたまま大事にとっておいたほうがいいのだ。

0.01とか0.00023くらいの、
ともすれば、端数や誤差として削られて0にされちゃうくらいの微細なズレの感覚は、
ことばに出会って増幅され、確たる差異として認識されうるものかもしれないし、
簡単に切り捨ててしまってはならない。そういうことを考えた。

なんとなく気持ちがわるい、とか、
なんとなく居心地がわるい、とか、
なんとなくなじめない、とか、
そういう気分にはならないにこしたことはないけれど、
そういのをなかったことにし続けると、
知らないあいだに大きくなにかを損ねてしまう、気がする。

感じていることに気づかないふりをする、なんてことは、
絶対にしないほうがいい。

身体で感じることをあなどってはならないし、
ほかでもない自分が感じるところを、もっと信用してやろうよ、と、
なぜかそう、強く思った。

時代がかわったのか、自分がかわったのか、

 

言葉づかいに違和を感じることがある。

昔から気になっていたのは「家族サービス」。
たいせつな家族と一緒に過ごす時間を、サービスというビジネスのタームでしかとらえられないことが、なんとも寂しくていやだな、と思っていた。

そういう違和感に通じることが書いてあったので抜き出してみる。

 書店にはビジネスコーナーがあり、「MBAに学ぶ企業戦略」だとか「ブランドエクイティ戦略」だとか「マネジメント戦略」といった「戦略本」が平積みとなって所狭しと並んでいます。わたしはいつも、ここはどんな「戦場」なのかといいたくなります。
 いったい、いつからビジネスが「戦争」になったのでしょうか。わたしの経験からいっても、モノの交換から始まって高度消費資本主義の現在にいたるまでの「商取引」の原理からいっても、ビジネスはモノを媒介とする平和的なコミュニケーションであり、戦争のアナロジーで語れるようなものではないはずです。
(『反戦略的ビジネスのすすめ』平川克美著 洋泉社 より抜粋)

そういう好戦的な言葉づかいが蔓延することで、時代の風潮がつくりだされる、というようなことも書かれていた。

本屋さんに行ったときに、ビジネスコーナーで感じる「いやな雰囲気」だとか、ひとが、ビジネスのノウハウを語るときのその語り口に対する違和感だとか、そういったものの理由がわかった気がした。

戦略的に誰かを出し抜いても、そういう相手にはいずれ出し抜かれるし、結果として出し抜かれなかったとしても、出し抜かれるかもしれない、という不安や緊張のなかで競争するようにして仕事をするのは、必ずしも良いパフォーマンスを生むとは思えない。それよりは、協調して互いの利益を確保するほうが、長期的にはプラスとなるんじゃないの?ということは、漠然と感じていた。お客さんが相手でも、業者さんが相手でも、あるいは同業者が相手でも、それは同じことだと思う。

だから、そういう「刺すか刺されるか」みたいな殺伐とした雰囲気を、なんかしんどい、と感じていたところに、この本に出会って、少しほっとした。

戦争のアナロジーで語ることによって、ビジネスをもっとほかの枠組みでとらえる可能性が削がれている、というこの本の主張に、わたしは深く共感する。

こういうのはほんの一例で、メディアの、ひとの、言葉づかいに違和を感じることが日増しに多くなっていってる。その多くが、そういう言葉をつかうことで、あえて、生きることを貧しくしているんじゃないか、そう感じるような言葉づかい。

はたして、時代がかわったのか、自分がかわったのか。

そういうことを伝えたかったのに

 

年をおうごとに、ことばのレパートリーは増えているはずなのに、いざとなると、ほんとうに伝えたいことを、まっすぐ伝えることが、どんどん、難しくなっていく。

ことばがうわすべりするのが、自分でもよくわかっていて、
つらくなって、さらにことばを重ねて、撃沈。

ほんとうは、すごく感謝していることとか、
その真摯な姿にこころをゆさぶられたこととか、
そういうことを伝えたかったのに。

人間はしばしば弱く、かつ間違っている。

 

内田樹さんのブログにあった、村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ。
からだの芯にずっしりきた。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.

「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。

たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
(内田樹の研究室 2009/2/18 「壁と卵」より抜粋)

自分のものであっても、他人のものであっても、「弱さ」によりそいたい。
そう思ってはきたが、

「たとえ間違っていても私は弱いものの側につく」
果たして自分は、ここまで言いきれるだろうか。

ことばが、乱れました。

 

昨日の挙式でのこと。

親族代表として挨拶をされた新郎の父が、挨拶のことばに詰まったときに、そうおっしゃった。

ことばが、乱れました。
こころが、ととのいません。

ゆっくりと、ひとこと、ひとこと、ていねいに紡ぎ出されることば。

思わずシャッターを押す手がとまった。
たったひとことに、ひっぱられた。

誰もがだいたい、こらえたり、誤摩化したり、あるいは、そのまま通り過ぎるところを、まっすぐ自分のこころのあり様を見つめ、そのままことばにされたことに、驚いた。

そして、新しく家族に迎えるお嫁さんを、「家族をあげて、いや、親族をあげて、お守りします。」とおっしゃるところにいたっては、他人の家族のことなのに、涙が出そうになった。

ひさしぶりに、こころの深いところにことばが触れた。

こんなにまっすぐ届くことばがあるんだな、と驚くのと同時に、
わたしたちが普段、どれだけことばをぞんざいに扱っているか、ということを身につまされもした。

きっと死ぬまで忘れることはないであろうそのことばは、
わたしの中で、今も疼くようにしてある。

なじむ、なじまない、

 

言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言語における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。(p63)

 作家的直観によって村上は「人の心に入り込む物語」と「入り込まない物語」の違いが、言葉の身体性に存することを見抜いている。「倍音」とは「耳には聴き取れないが、身体に入る」音のことである。倍音を響かせることばは、「何を語っているか」という意味性のレベルにおいてではなく、「どのように語っているか」というフィジカルなレベルにおいて、おそらくは聴き手に「響き」を伝えるのである。(p64)

 (中略)テクストを黙読しているときにも、私たちは「無声の声」で音読している。そして、「単音」しか出せないテクストと、「和音」を響かせているテクストの違いを聴き取っている。現に、同じような政治的主張を、同じような論拠で展開しているテクストなおに、こちらのテクストは「薄っぺら」で、こちらのテクストは「深い」という印象を与えることがある。「深い」言葉はどれほど簡単な主張を告げていても、確実に身体にしみこんでくる。(p77)

(いずれも『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)』 内田樹著 角川書店 2006 より抜粋)

響くことば、響かないことば。
そういうの、すごくよくわかる。

最近は、いっときほど、自分のことばが響いてないな、と感じることも。そういうのは、文章の内容ではなくて、切迫感のようなものだと思う。ことばが、このわたしに向かって迫ってきているような感覚。

さて、他人の文体についてだけれど、わたしの場合、なじむ、なじまない、というのが極端で、文体になじめない、ことが多い。目新しい内容でおもしろいはずの文章が、その文体になじめないと、おもしろく読めなかったりする。

文体に限らず、わたしは、なにかと判断を、「なじむ、なじまない」という生理的な感覚にゆだねているところが大きい、と思う。

霊感はまったくないけれど、土地や建物に「いやな感じ」を受けることは多いし、なるべくそういう場所は避けて暮らしている。確かに、OL時代の社員寮は「いやな感じ」で充満していたし、そこに住んでいるときは、夜中に金縛りにあうことが多かった。(人生のなかで金縛りにあったのはその時期だけだ。)

良い「気」の土地と悪い「気」の土地がある、ということを、同じ内田樹さんが別の著書に記していた。

一見合理的な考え方や、世間の論調にも、なじめないことが多い。自分自身の身の処し方にすら、なじめないと感じることがある。

違和感や齟齬がたとえ言語化できなくても、「なじめない」と感じた事実を、見過ごしてはならないと思いはじめたのは、作品をつくるようになってからだ。そして、デザインを組み立てるとき、写真に関わるときこそ、いちばん「なじむ、なじまない」の感覚に判断をゆだねているのだと思う。

理屈では問題なくても、どうしても、自分のきもちが「なじめない」ときは、ダメなんだと思う。どんなに根拠がなくても。そうやって身体に判断をゆだね続けていると、だんだんとその判断は厳しくなる一方だし、「なじむ」の条件が厳しくなると、「なじまない」=不快なものは増大していく。

ことばにならない違和感やら齟齬やらが、増大し続けているのだから、それは決して幸せな作業ではない。そう思いながら、でも、その後もどりできない道を、ひたすら全力で進んでいる。

響くことばから、ずいぶん話がそれてしまった。

雪の音を聴いてみる。

 

「ほんとうに雪はしんしんと降るのか?」

耳を澄ませて雪の音を聴いてみる。

舞い降りる瞬間の音は、スチャッ、スチャッ。
少し雨まじりだから、湿った音がする。

きっともっと細かい雪でも、
いちばんリアルな音は顔やからだにふりかかる音だし、
雪の降るなかにあるひとにとって、雪の音は、もっと具体的。
しんしん、ではない。

あとから気づいたけれど、きらきらと星が輝く、のきらきらは擬態語。
ゆらゆら揺れるの、ゆらゆらも擬態語。
同じように、しんしんも、擬音語じゃなくて、擬態語。

きらきらは煌めき、ゆらゆらは揺れる、ということばからも類推されるけれど、
しんしん、はどこから来るんだろう。

ひとつ言えるのは、そんな上品な表現は、
窓から外の雪を眺めているひとにとっての音景なんじゃないかということ。

今日も帰り道、雪にふられたけれど、雪の最中にあったら、
擬態語だとしても、きっと、「しんしんと」は使わないなと思う。

さて、長くなったけれど、
最中にあるひとと、それを傍観するひととでは、
表現に差があるということを考えていたのです。
ひとがどのポジションに身を置いているかは、
その表現のなかで、あからさまに露呈する。

よくも、わるくも。

一人称

 

ひとと話しているとき、
一人称に、そのひとの自己認識を垣間見るのがおもしろい。

一見おとなしそうなひとが、俺と言うのに驚いたり、
会社の社長さんが、僕と言っているのを素朴に感じたり、
おいら、なんて、かわいらしい表現をするひともいる。
あと、学者御用達の「小生」。

ふるくからの友人には、わしとかオレと言う女性もあるから、
一人称が豊富な日本語って本当におもしろい。

わたしは、わたし、か、うち、を使う。
そして、俺ということばの屹立した感じ、どうもなじめなくて、
どうしても、僕、わたし、を使うひとのほうを親しく感じてしまう。

ことばってほんまに不思議やね。

わたしは彼の志を纏う。

 

2年前からずっと気になっていて、なかなかうかがう機会もなかったのだけれど。
今日はじめて、きちんとお話をした。
そのひとの、ものをつくる姿勢に、身の引き締まる思いがする。

昨日描けなかった線が今夜は迷いなく引けた。

彼の書いたもののなかから、見つけたことば。
誤摩化したり、言い訳したり、の、自分が恥ずかしくなる。
いいものをつくりたい、という気持ちを、誤摩化したら、あかん。

わたしは彼の志を纏う。

ひとこと説法

 

正式な名称をしらない。
お寺の入り口の掲示板に書かれている「ひとこと説法」。

京都はお寺が多いのであちこちで目にするのだけれど、けっこうこれが興味深い。
なかには「?」なものもあるのだけれど。

徳もお金と同じく増減する

これは、願照寺の前にあったもの。「お金と同じく」というところに妙な説得力がある。徳の話をするのに、お金を引き合いに出すところがすごい。

毎日通る道には「わかっちゃいるけど、やめられない」というのもある。
タバコか?酒か?ギャンブルか?
そもそも誰に対する言い訳やねん。。。って、わたしはとても好きなんやけど。

あと、三条会に「茶のごとくもまれて味出る人間味」というのもあった。
なかなか個性的。

でも、こういうことばに見えないところで守られながら、
この町のひとは生きてきたのかもしれないな。

あのときの齟齬。

 

2年前「そんなの書けないよ」と思いながら、締め切りに追われて提出した修了論文。齟齬を抱えたまま人前に出してしまった文章。

自分の作品についてのテキストを求められ、久しぶりに修了論文を読み返して、あのときの齟齬が何だったのかを知る。

論文として成立させるために削った部分こそ、制作の肝。

最初から最終形態が見えていたわけではなくて、試行錯誤をしながら、その都度なにかを感じ、取捨選択を行ったはずなのに、論文としてまとめると、あたかも最初からコンセプトが決まってて、最終形態も見えてて、それに向かっていちばん合理的な方法でつくったかのような文章になる。

それってまったくの嘘やん。

いちばんリアルなのは、ドキュメントとして、ひとつひとつの試行で何を知り、その都度何を考え、どう最終形態に結びつけたか。それを時系列で丁寧に書くことなんだと思う。

批評家でも研究者でもない、制作者があえて4000字も書く意味ってそういうところにあるんじゃないかな。

constellation

 

修士の担当教官から教えてもらった。

“constellation”

布置という意味ともうひとつ、星座という意味がある。
忘れられないことばだ。

大学のころ、美術の文脈を知ってしまうと、知らないうちにその文脈の範囲内でしかものを作られなくなるんじゃないかと不安で、美術史、写真史にはそっぽを向いていた。そんなわたしを諭すように手渡されたことば。

長い芸術の営みのなかで、自分の実践がどの位置にあるのかを把握したうえで制作をしたほうがいい…と。

それから3年ほどたって、やっとその言葉の意味がわかりかけているのかもしれない。画家や美術家が、成功・不成功にかかわらず、どのようなトライアルを続けてきたのかを知りたいと思うようになった。