年末年始、暇つぶしにめくった青木雄二の著書に、なんぼうまくいかなくても倒産しても、いちばん弱いもの、従業員に皺寄せがいくかたちで倒産したらあかん、と書いてあった。

最近つくづく思う。
不具合を末端のひとに皺寄せすることで帳尻をあわせるシステムがどれほど多いことか。小泉改革なんてその最たるものじゃないかと思う。

そして、久しぶりに読んだ鷲田清一の著書のなかで、山本理顕の『細胞都市』からひいている一節が目に留まる。

「今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負荷がかかるように、つまり社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。だから、家族が社会の最小単位としての役割を果たせなくなっているのだとしたら、それは、社会の側のシステムの不備を調整することがもはやできないということなのである。」

システムの末端で起こっていることを、末端の責任として取りざたすることが多い。システムの不備は、いともかんたんに末端を担うひとの不備としてすりかえられる。

目先のことより少し大きな枠組みに目を向けること。
自明なことを疑うこと。

そして自分がどんな立場であれ、どんなにささやかなことであれ、どんな大義名分があるにしても、いちばん弱い者に皺寄せのいく仕組みにしないこと。

発言すること。