LISA SOMEDA

生きる (6)

油断すると、

 

つらいものやきついものを、ただただ受け止めた上で陽気を心がけるということと、見ないようにして散らして浮かれるというのは、似ているが大きく違うと思う。

小説だからと油断すると、ゴリッと本質的な言葉にあたる。これは、吉本ばななの『スナックちどり』の主人公の言。

今まで通りに日々を暮らすこと

 

全力で、いつもどおり、今まで通り、に日々を暮らそうとしている。

そうしないと、どこか日常の生活にほころびができたら、
そこからするするっと抜け落ちてしまうかもしれない、と思っている。

悲しくても、なんとかご飯が食べられるように、
毎朝起きて、会社に行って仕事をして、帰る。

くらいは、今のところ、できている。

必死で惰性にしがみついているのかもしれない。
そして、惰性に救われているのかもしれない。

雨の日には雨の日の 悲しみの日には悲しみの日の

 

御堂さんのところに掲示されていた。

雨の日には雨の日の 悲しみの日には悲しみの日の
かけがえのない大切な人生がある

かけがえのない、ということばに
ほんの少し救われたのかな。

もう二度と、悲しくない日なんか来ない。と思っているから
悲しみの日は、悲しみの日のまま、それでも、かけがえがないものだ、
と言ってもらえたのが、うれしかったのかもしれない。

悲しいなりに、生きていかなければならないのだから。

そうならねばならぬのなら

 

 千島列島の海辺の葦の中で救出されたあと、リンドバーグ夫妻は東京で熱烈な歓迎をうけるが、いよいよ船で横浜から出発するというとき、アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、あたらしい感動につつまれる。

「さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」

(『遠い朝の本たち』 須賀敦子著 ちくま文庫 2001 より抜粋)

ものごころついたときから、そうだった。
どうしようもなくかなしいときは、むさぼるように本を読んで、いっとき、現実から身をひく。
今日もまたそのように現実から遠ざかろうとして、当の文章に引き戻された。

さようなら
「そうならねばならぬのなら」

91歳で他界した祖母の葬儀で、
最後に母が棺の中の祖母に向けて「おかあさん、さようなら」と言ったのを覚えている。

そのときの、さようなら、には、
その別れを、かなしみもろとも受け入れる、母の決意が感じられた。

「そうならねばならぬのなら」

でも、一生かかっても、
さようなら、と諦めることのできない別れも、あるんじゃないだろうか。

解は一つではないのかもしれない。

 

世界はそんなに単純ではない
ということを、思い知る。

あることが、昨日とは全然違う様相を見せた。
昨日の自分の判断をくつがえすような事象が、今、現れた。
それも、己自身の関与によって。

自分は透明な観察者などではなくて、環境、あるいは対象に作用を及ぼす存在である、ということ。

関係性というのは、流動的でかつ相対的である、ということに加え、その複雑な関係性の項として、いやおうなしに自分自身も関与せざるを得ないのだ。

単純な二項対立の図式にあてはめられるような事象も、状況を俯瞰の位置から眺められるような状況も、実のところ「ほとんどない」のではなかろうか。

解なし。
あるいは、解は一つではないのかもしれない。

そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。

 

高校生の頃、わたしは不登校寸前だった。

毎朝、ふとんの中で葛藤しながら、
気配で、母が弁当をつくってくれていることを察知していた。

母が弁当をつくってくれている。
だから行かなくっちゃ。
しんどくても、つらくても、理不尽なことだらけでも。
最後の最後で背中を押してくれたのは、母のつくる弁当だった。

お弁当をつくってもらっているという毎朝の事実が、
かろうじてわたしを高校生活につなぎとめていた。
それがなかったら、わたしは高校を辞めていた。と、いまでも思う。
ずいぶん甘ったれた話やけれど。

だから、ひとの料理をいただくこと。ひとに料理を食べてもらうこと。
軽く考えたらいけないと思っている。

「食」を単なる栄養や効能に、手間や金銭、の話だけに還元したらいけない。
その営みがどれだけひとの「生きる」を支えているか。

打ち切りになった番組への批判が横行しているけれど、
栄養や効能でしか食をとらえられない「食」に対する自分たちの態度の貧しさに、そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。