LISA SOMEDA

芸能 (3)

大避神社の船祭り

 

和船

中沢新一さんの『精霊の王』を読んで以来、猿楽の祖である秦河勝をまつっている大避神社(兵庫県赤穂市坂越)に行ってみたいなぁと思っていたところ、10月の第2日曜日に船祭りを開催するらしいので、その祭りにあわせて出かけることにした。

猿楽の祖をまつっているといっても、大避神社の境内には、舞台のようなものはなく、境内じたいはシンプル。境内から坂越の浜と、神域とされる生島が見渡せる。

船祭りは、祭神である秦河勝が漂着した生島のお旅所へ神輿をお供する神事で、本祭の日は朝から船飾りがすすめられ、昼に神輿に大神さまの分霊をうつして、獅子舞を奉納し、船歌を唄い、頭人が拝礼をする一連の神事が執り行われる。それが終ると、一行は鼻高(猿田彦命)が先頭に、神社から浜のほうへ行列が繰り出す。

獅子舞

浜に神輿が着くと、神輿を船に載せるための板(バタ板)かけの練りがおこなわれ、無事神輿が乗船すると、漕船二隻が獅子船、頭人船、楽船、神輿、歌船を曳航して浦をぐるっと一周し、生島のお旅所へと向かう。

坂越の船祭

見どころは、和船の造作と、この祭礼船が、獅子を舞い、雅楽を奏で、船歌を歌いながら巡航する様子。この日は少し雲が厚かったので、色が少し沈んで見えたけれど、晴れた日なら、もっと綺麗に見えたのかもしれない。

曳航

日が暮れ、浜でかがり火がたかれるなか、生島での神事を終えた船が戻って来るのも、素敵な光景だった。

今年、国の重要無形文化財の指定を受けたが、それでも、少子化で漕手が少ないため、祭りのために坂越の出身者が東京や北海道をはじめ、全国各地から戻ってきて祭りに参加しているとのこと。大人も子どもも総出で、坂越の人々が大切に守ってきた祭りであることがよくわかるお祭りだった。

300年以上の歴史を持つ祭りだけれど、秦河勝が没したのが647年で、船祭りは江戸時代初期にはじまったと言われるから、その間に千年ほど経っている。なぜそのタイミングで祭りがはじまったのか、が気になるところ。

シデ振り

祭りと坂越の主要な産業である廻船業との間には深いつながりがあると、配られた資料に書かれていた。ちょうど今、読み始めている海民について書かれた網野善彦さんの本に、廻船業と芸能との関係について書かれていた箇所があったので、何かつながってきたらおもしろいなぁと思う。

最近は、中沢-網野両氏(この方々は甥と伯父の関係なのですね…)の著書の影響で、この国の歴史のなかで、芸能がどういう役割を果たして来たのか、とか、芸能民と呼ばれるひとびとがどういう人たちだったのか、ということにふつふつふつと興味が湧いている。

守宮神(宿神)

 

先日の「幽玄」の続き。この文章に中世の芸能者や職人の思想が垣間見える。

(前略)もっと普通には、芸能の達人たちはこの神=精霊の実在を、超感覚ないしは直感的にとらえていたように思える。つまり、自分の身体や感覚を、三次元の物質で構成された空間を抜け出して、そこに守宮神が住むという柔らかく律動する特殊な空間の中につないでいき、その音楽的な空間の動きを自分の身体の動きや声の振動をとおして、観客の見ている普通の世界の中に現出させていこうとしたのである。

 蹴鞠は蹴鞠の形をした守宮神(宿神)の助けを借りて、驚異の技を演じてみせようとした。ほかの芸能についても事情はほぼ同じで、「昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ」こそ、常の人の能力を超えた技芸の達成を実現することもできたのである。石を立てて庭を造るのにも、花を生ける(石の場合と同じように「花を立てる」、といったようだ)のにも、「諸道」の者たちはただ自分の美的感覚や造型の技術を頼みにすればよいというのではなく、それぞれの道にふさわしい守宮神の護りを得る必要があった。それはたんなる神頼みというものではなく、その神をとおして、それぞれの芸がどこかで「へその緒」のようなものをとおして、揺れ動く「シャグジ空間」につながっている必要を感じていたからである。そういう空間から立ち上がってきた石や花でなければ、霊性にひたされた芸能とは呼ぶことのできない、ただ美しいだけのただの物質的現象にすぎない、と見なされた。
(『精霊の王 (講談社学術文庫)』 中沢新一著 講談社 2003 p17-18より抜粋 原文は太字なし)

ここで出てくる「シャグジ空間」は先の記事では潜在空間と表現されていたものと同じである。では、このシャグジ空間とはどのようなものなのか。

 あきらかに、守宮神が住処とする特別な空間の様式というものが、猿楽の徒には明瞭に直観されていたのがわかる。それは、神々以前からあって、神々を自分の中から生み出す空間である。しかも生まれたばかりの神々を優しく包んで、破壊されないように守る役目をしているのも、この空間だ。この空間には荒々しい霊威が充満している。それが神々の背後にあって発動をおこなうとき、前面に立つ神々も奮い立って、それぞれの神威をふるうことができるのだという。宇宙以前・空間以前からすでにあったコーラ Chola(場所)とでも言おうか、物質的諸力の影響を受け付けないシールド空間とでも言おうか、これはきわめて難解な構造をした力動的空間であって、猿楽者たちはそれを直観によってつかみとろうとした。
(同書 p22-23から抜粋)

 守宮神=宿神の住む空間は、時間性と空間性において、私たちの知覚がとらえる時空間とは、ラジカルな違いをもっている。過去・現在・未来という時間の矢に貫かれながら進んでいく、私たちの知覚のとらえる時間の様式とは違って、「シャグジ空間」では時間は円環を描いている。そこには遠い過去のものと未来に出現してくるものとが、ひとつの現在の内部で同居しているのだ。また「シャグジ空間」は三次元の構成を越えた多様体としての構造をしている。そのおかげで、やすやすと鞠の表裏をひっくり返したりもできる。つまり、この世界にいながら、高次元の空間の内部に、するすると入り込んでいくこともできる。
(同書 p25-26から抜粋)

そして、この守宮神=宿神。その音韻の構造からも、胎生学的なイメージを擁している点においても、樹木との連関においても、諏訪のミシャグチと多くの共通点がある、と論は進み、こうまとめられる。

私たちがすでに見てきたように、宿神はこの列島上できわめて古い時代から生き続けてきた「古層の神」の一形態である。もともとは境界性をあらわそうとする「サないしス音+ク音」の結合として、さまざまに発音されてきた共通の神の観念のつながりの中から、宿神と呼ばれるこの芸能者の守護神はかたちづくられてきている。この「古層の神」はミシャグチの名前で、諏訪信仰圏では独自な発達をとげた。
(同書 p148から抜粋)

重森三玲の庭からスタートして、幽玄を経由し、宿神、そしてミシャグチと、気がついたら「古層の神」にたどり着いた。ずいぶん深追いをしてしまったけれど、ここまで来たのだから少しだけ寄り道をしたいと思う。

 猿楽の先祖たちは、神仏の鎮座する空間の背後にしつらえられた「後戸」の空間で、その芸をおこたったと記録されている。薄暗いその一角を芸能の徒たちはものごとが変容をおこし、滞っていたものが流動をとりもどし、超越性のうちにこわばってしまっているものに身体の運動性を注ぎ込むための、ダイナミックな場所につくりかえていこうとしたのである。

 そうしなければ、前面に立つ神仏たちの「霊性」が発動することはできない、と考えられていたからだ。「後戸の神」は神仏たちの背後にあって、場所を振動させ、活力を励起させ、霊性に活発な発動を促す力を持っている。それゆえ、日本人の宗教的思考の本質を理解するためには、折口信夫が考えたように、芸能史の理解が不可欠なのである。ここでは神仏は芸能的な原理と一体になって、はじめてその霊性を発揮する。

 ヨーロッパ的な「たましいの構造」において、舞踊的・霊性励起的・動態的な原理が、「ディオニソス」の名前と結びつけられて、神性の構造の内部深くに埋め込まれていることは、よく知られている。ところが、私たちの「たましいの構造」にあっては、同じ舞踊的・励起的な原理は、神仏の内部にではなく、その背後の空間で活動をおこなうのである。ヨーロッパ精神が「入れ子」の構造をもつとしたら、私たちのそれは異質な二原理の「並列」でできている。そして、このことが、日本人の宗教や哲学の思考の展開に、決定的な影響をおよぼしてきたのである。
(同書 p96から抜粋)

一番驚いたのはこのくだりだった。
神仏の背後には古層の神(後戸の神)の空間があって、その震えや活力がなければ、神仏が霊性を発動できない…。そんな複雑だとは想像もしえなかった。

諸芸についても、すでに完成した宗教的世界観を表現するものだとばかり思っていたから、古層の神の空間と神仏を架橋し、神仏の霊性の発動を促すものとして芸がとりおこなわれたということに、かなり衝撃を受けた。

この国における芸能の位置づけということについては、またあらためてとりあげたいと思う。

ここでひとつとどめておきたいのは、わたしにはこの話が宗教だけ歴史の中だけの話にとどまらないように思えるのだ。わたしたちが日常的に交わしているやりとりの中の「場の空気を読め」という暗黙のルールの中には、「主体のあいまいな空間」を前提とする独特の考え方があるように思う。もしかしたら、そこには、神仏の背後に古層の神の空間を据えるような複雑な思想構造が大きく影響しているのかもしれないし、気づいていないだけで、もっとほかの局面においても、影響を受けていることがたくさんあるのかもしれない。

幽玄

 

半年ほど前。写真とか視覚のことばかりを考えていて息がつまるというか、もう少し視野を広げようと思ったときに、ふと重森三玲の庭を思い出し、庭がただ庭としてあるのではなく、庭でありながら、より大きな存在を感じさせる構造をとっていることについて考えたいと思った。(「秘スレバ花ナリ」)

写真でも同じよう構造をもたすことができないだろうか?という野望をほんの少し抱きながら、彼の作庭の背後にある思想や美意識を知りたいと思って、三玲の著書『枯山水』を繙いた。そこではじめて幽玄ということばに出会う。その後で世阿弥の『風姿花伝』の現代訳も読んでみた。(「風姿花伝」)

正月に実家の裏にある保久良神社を参詣し、その裏にある磐座の存在を知った。ただ巨石がいくつか並んでいるだけなのに、なにかうっすらとひとの作為が感じられ、表現のいちばんプリミティブなかたちを見たような気がして、淡い関心を抱いた。ちょうどその頃に読んでいた『枯山水』のはじめのページに保久良神社の磐座の図版を見つけ、驚くとともに、磐座や先史時代に対する興味がいくぶん加速された。

それから半年間、磐座、縄文というキーワードに導かれて中沢新一さんの著書を読むようになり、仏教や神道が成立する以前のひとびとの精神世界に興味を持つようになった。そういう経緯で手に取った『精霊の王』で、はからずも、幽玄ということばに再会する。今回は世阿弥ではなく金春禅竹の『明宿集』の引用で。

住輪

 幽玄という概念は、住輪に描かれた短い杭または嘴状の突起に関わっているということが、この記述からはっきりわかる。そこは潜在空間から現実世界に突き出した岬であり、特異点であり、この短い突端の部分で転換がおこっているのだ。猿楽の芸人はこの要所をしっかりと会得することによって、「幽玄」の表現をわがものとすることができる。無相無欲の清浄心をもって、この岬に立てば、現実世界に顕われることも潜在空間に隠れることも、自在である。

(中略)猿楽の芸は、三輪清浄として示されたこの潜在空間を背後に抱えながら、演じられるのである。本来が物真似芸(ミミック)である猿楽は、自然界のさまざまな存在をミミックとして表現する。そのときに、目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。禅竹の思考はここからいよいよ深く猿楽芸の本質に迫っていくのである。(『精霊の王』中沢新一 講談社 2003 p234-235より抜粋)

目に見えない潜在空間を背後に抱えた芸能者は、
具体物でできた現象の世界を一体どうやって表現していったらいいのか。

この一文は、猿楽や作庭に対するわたしの認識をより鮮明にしてくれると同時に、思っていたほどことは単純ではない、ということも教えてくれた。

まずここで、作庭家や猿楽の芸能者は、
目に見えない潜在空間を背後に抱えながら具体物でできた現象の世界を表現する
ということがはっきりした。

しかし、作庭の場合で言えば、宇宙や大海といった(目に見える)ものを、石や砂で表現(あるいは象徴)している、というだけでは十分ではない。むしろ、目に見えない潜在空間と現実の世界をどう架橋するかに重きが置かれている。

この「目に見えない潜在空間」というのが、ものすごく深い。仏教や神道の成立以前の精神世界まで射程を広げないと、理解できないのだ。

特定の芸術分野(作庭)における思想や美意識を追っているつもりが、大変なところに合流してしまった…という感じ。

長くなるので、続きは後日。