LISA SOMEDA

薄明 (6)

再読

 

20年前に買いそびれたHysteric Sixを入手したのをきっかけに『なぜ、植物図鑑か』を再読。いま手元にあるのは2012年第3刷の文庫本だから、2000年代初頭の学生時代にコピーか何かで読み、2013年ころ文庫で再読。なので正確には再再読だろうと思う。

その直後、撮影中にふっと考えたことをX(旧twitter)に投稿したので、こちらにも移して(写して)おこうと思う。

季節によっては夜明け前に目が覚めてしまうようになり、ならばと早朝に散歩や読書、ブレストをするようになった。朝のブレストで頭に浮かんだことをメモするかのようにXに書き留めている。もしかしたら今後、Xをメモとして使い、その中から残したいものや話題を広げられるものをこちらに移すというスタイルになっていくかもしれない。

冬至だからなのか薄明から三脚立ててスタンバイしている人を多く見かけ、中平さんのテキストに自身が薄明や夜を撮ることを挙げてその情緒性を批判する記述があったのを思い出していた。学生の頃はそんなものなのかと教科書的に受け止めていたが、だんだんその叙情を排除する姿勢に違和が芽生えたのよね。けっこうそれって極端だよね…と。

そして、そのテキストが書かれた半世紀前よりカメラの性能が格段に上がり、薄明でも夜間でも高感度、拡大表示で対象を視認・凝視することが可能になって、いまや叙情性や情緒性と具体性・客観性・凝視的ふるまいは「どちらか」ではなく両立する可能性があるのではないかと。

これまで叙情的ととらえられてきた光景(ものがはっきり見えにくい状況)をバチッと隅々まで解像して捉えることが可能になったので、写真を巨視的にみて叙情的ととらえるか、微視的、具体的にみて客観的ととらえるかは作家が決めるのではなく、観者に委ねることもできるのではないかと思うようになった。

札幌での撮影以降、見えにくい状況で対象を精密にとらえることにこだわるようになったのは、道具が変わったことが大きいが、何かしら自分が感じた違和に応答するという側面もあったんだと気がついた。

中平さんのテキストをずっと覚えていたわけではない。むしろすっかり忘れていたというのが正しい。それでも、最初にテキストに触れた時点ですでにもう対話に巻き込まれていたんだと思う。

再読、してみるもんだね。

(2023-12-23 Xの投稿より

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2011.2.28

 

カメラのチェックしてたら、半年前の写真が出てきた。薄明かな。

薄明

12年ぶりの川村記念美術館

 

川村記念美術館

Barnett Newmanの作品を観るために千葉の佐倉を訪れた。
遠かったけれど、ちょうど紅葉の季節なのが幸い。

はじめて訪れたのは、12年前。
エジリちゃんと一緒に閉館間際に駆け込んだのを覚えている。でも何を観たのかさっぱり覚えていないというあたりが、だらしない。

Barnett Newman展、
全体的には、作品点数が少なく、遠くから足を運んだだけにもの足りなさを感じる。作品の中では、版画の作品の微妙な赤の差と、《アンナの光》の色とそのスケール感が印象に残った。

“大切なのはサイズではなく、スケール”

閉館時刻ぎりぎりまで粘っていたら、外はすっかり影絵の時間。

影絵の時間

まず青から順に届けられる。

 

早朝の撮影。
いちにちの始まりは、まず青から順に届けられる。

そのあとミドリが。黄色が。
そうして最後にやっと赤が。

まだまだ低すぎる露出とにらみあい、
かじかむ手を缶コーヒーであたためながら、
世界のことを少し知った。

極上のやさしさ

 

夕刻の空のいろは、極上のやさしさ。

一日の終わり、
とにかく感謝をしたい気持ちになったのは、
ずいぶん久しぶりかもしれない。

最近夜空を見上げていない。

叶ったらいいな、が、ほんの少し。

 

結局、深夜に外にでる口実ほしさ半分で、午前4時の再入稿。

寒くなると夜空が澄んで、
東の空のひときわ明るい星にこころを奪われながら、
なかば徒歩、なかば自転車の道程。

ひらけた場所で空を見上げる。
視界の端でとらえる流星。
流れたな、と思うのでせいいっぱい。

数年前の切羽詰まった気持ちはどこへやら。
いまは、叶ったらいいな、が、ほんの少し。