三脚を立て水平垂直をあわせ、最後にファイダーを覗きながらピントリングを繊細にまわすとき、世界にやさしく触れているような感覚になる。そして、そのことで自分自身が癒やされたり救われたりしている部分が少なからずあるのかもしれない、とふと思った。なにかにそっと触れるとき、やさしさは触れる対象だけでなく自分にも向けられる。
ここで話題にしたいのは、前段のほう。
ほんのわずかでも回しすぎるとピントが甘くなるので、必然的にピントリングには繊細に触れざるをえないが、その手つきによって、事後的にやさしさが喚起されるのではないか?と。
ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんと池谷裕二さんの対談に、興味深い話がある。(https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html)
イーと発音するときの口をしてマンガを読んだときのほうが、ウーと発音する口で読んだときよりマンガがより面白く感じられるという実験結果について。脳は外界から隔離された存在で、脳それ自体では外界のことはわからず、唯一身体を通じて理解をする。ここで言えば、脳に届くふたつの情報「笑顔をつくっているようだ(イーを発音する口)」と「マンガを読んでいる」から脳は「マンガがおもしろい」という合理的な解釈を導き出すのだそう。身体の状態が先にあって、脳はあとからそれに解釈をくわえる。
だとすれば、繊細な手つきによってやさしい気もちが喚起されることも、あり得ない話ではない。
もうひとつ。
日日是好日という映画で、「お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ。」という台詞があった。ふるまいが先にあって、心は後からついてくる。そのことを、先人たちはよく知っていたのかもしれない。