(前略)西欧人である民族学者によって見出される「未開社会」、という不可避の植民地主義的構図を、結局は彼自身がブラジルにおいて追体験し、言説として再生産するほかなかったという事実への苦い反省が込められている。
 伝統文化の消滅に力を貸しながら、一方で知的ノスタルジーとともにそれを戦利品として展示・消費する西欧文化=学問の近代的な「しつけ」(ディシプリン)にたいし、レヴィ=ストロースほど自責の念にかられ、またそれにたいして倫理的な潔さを貫いた人類学者も二〇世紀においてはいなかった。小著ではあっても、西欧近代の人種主義の偏見と前進的歴史への過信にたいする激烈な批判である『人種と歴史』(一九五二)が、『悲しき熱帯』に先立って刊行されていることの倫理的意味を、わたしたちは再度確認しなければならないだろう。過去のフィールドへの追憶に浸る前に、彼は民族学という学問の根にある植民地主義と進歩への幻想とを、明晰にえぐり出しておく使命を感じたのだろう。
(『レヴィ=ストロース 夜と音楽』今福龍太著 みすず書房 2011 p46より抜粋)

以前清水穣さんの講義で聞いた、写真のモダニズムの話をふと思い出した。目に見える世界の向こう側には、手つかずのありのままのまっさらな世界、タブラ・ラサが存在するという、写真のモダニズムが前提とした世界観は、そのまま植民地主義の構図に置き換えられるという話。その話は目から鱗だったし、同時に、とても怖かった。無批判に作品をつくることの怖さ。そのとき、特定のイデオロギーを強化することに、意図せず加担するようなことにならないためにも、自分にも、自分のつくるものに対しても批判的でありつづけることが必要だと切実に思った。

レヴィ=ストロースが反省や自責の念を抱えながら、ブラジルとどう関わり続けたのか。まだ彼の著書を読んだことがないので、『人種と歴史』から順を追って読んでみようと思う。