LISA SOMEDA

非注意性盲目 (3)

非注意性盲目

 

映像が投影される面の持つ質感と、そこに投影された映像の「どちらかしか見えない」という状況が気になってスナップを撮ることがたまにあるのだけれど、そういう認知システムの特性を非注意性盲目というのだそう。

〝無意識の思考、深層心理、内的世界……そんなものは存在しない。〟という刺激的なコピーに挑発されて手に取った一冊。『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』(ニック・チェイター著 高橋達二・長谷川珈訳 講談社選書メチエ 2022)には、思いのほか視覚に関する話題が多く、非注意性盲目に関する実験は第8章に登場する。

 非注意性盲目という現象は、じつは誰にとっても身近な経験だ。夜間に明るい室内から窓の外を見てみよう。窓ガラスが映す室内の様子をまったく見ることなく、外の世界を眺めることができるはずだ。逆に、室内の反射を見るようにすれば、外の様子が消え去るのがわかる。もちろん、映像のうちどれが外でどれが反射なのかと視覚システムが迷ってしまうこともある。たとえば、室内の照明器具の反射なのに、空に何かが浮かんでいるように見えたりする(UFOの「目撃例」の原因の一つかもしれない)。あなたのご自宅や職場でも、室内と室外の奇妙な融合が見えることだろう。

 しかし、視覚システムがなしえないのは、二つ別々の光景を同時に「見る」ことである。着目して意味づけすることは、室内の世界の反射、外の世界、そのどちらにもできるし、双方の融合した奇妙な何かにさえできる。だが、室内と室外に同時にはできない。(後略)

(『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』ニック・チェイター著 高橋達二・長谷川珈訳 講談社選書メチエ 2022 p208より抜粋)

ここでは非注意性盲目についてしか触れないけれど、本書では、数々の実験結果から導き出される「ひとつながりの意味のあるまとまり」を一度にひとつしか扱えないという脳の特性から、心のありようが明らかにされていく。

話を非注意性盲目に戻すと、学生時代、写真をはじめた頃は撮りたいものしか見えていなくて、現像から戻ったフィルムを確認すると、撮った覚えのないものが画面に写り込んでいてがっかりすることがよくあった。そういったことは経験を重ねるとともにだんだん少なくはなってきたけれど、今でも離陸する機内の小さな窓から眼下に見える街を撮影しようと構えてからしばらく、カメラやスマホが窓に映り込んでいるのに気づかないことがある。そのたびに「ほんと、見たいものしか見ていないんだなぁ…」と苦笑する。

〝ひとの視覚とカメラによる視覚との差異に着目し「ひとはどのようにして見るのか」を考える〟というのが大学院の頃からのテーマだったが、じっさい写真をはじめた頃からずっとカメラは非注意性盲目について教えくれていた。ことあるごとに教え続けてくれていた。ただわたしが気づかなかっただけで。

トレードオフ

 

コロナ禍の影響で、商業地では空きテナントが増え、そのガラスにシートや板があてがわれている光景が目立つようになった。いっぽう住宅地では、地方移住の需要を見込んだ旺盛な投資により集合住宅の建設ラッシュ。真新しいガラスがシートで覆われている光景をよく見かけるようになった。

ガラスに映る像を見ようとすると、木目やシートの皺といった支持体が介入する。
木目やシートそのものを見ようとすると、映り込む像に阻まれる。
拮抗やトレードオフといったことばが脳裏をよぎるが、トレードオフは今の社会状況をもっとも象徴することばだ、とも思う。

なだらかに

 

写真の下部ではブツブツのついたシートを見ているはずが、上部に向かうにつれなだらかに、意識はガラスに反射する風景のほうに向き、シートそのものからは後退する。映像の支持体になると、ものの質感や存在感を感じられにくくなるのだろうか?

なだらかに

夜、車窓から外を見ようと思っても、光の反射が邪魔をしてなかなか外を見ることができない。幼いころに経験したそういうもどかしさに少し似ているかもしれない。

見ようとしてもなかなか見えない。