LISA SOMEDA

感覚 (5)

得体の知れない写真

 

先日「ある種の貪欲さ」と書いてから、自分で書いたそのことばが気になり考え続けていた。

ひとと話をしたり、展覧会をいくつか観たなかで取り戻しつつあるのは、得体の知れない写真を撮りたいという気もち。

たしかにそういう写真はこの世にあって、感情移入できるわけでも、ことばで了解できるわけでもなく、むしろ良いとは思えないのになぜか引っかかる。そういう写真を撮りたいと思っていた。

これまでに身につけた知識、同時代的な文脈、自分自身の制作の一貫性…そういったものすべてをかなぐり捨ててでも、もう一度、自分の感覚だけを頼りに世界をまさぐるようなところに戻ってみたくなった。

17世紀のパラダイムシフト

 

ついこのあいだ、不可視性について考えたことをまとめたあと、とてもおもしろい本に出会った。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命

フェルメールとレーウェンフックの二人の生涯を軸に、望遠鏡と顕微鏡の発明によってもたらされたパラダイムシフト、当時の人々の世界認識がドラスティックに変わるさまが丹念に描かれている。

これまで遠すぎて見えなかったもの、小さすぎて見えなかったものが望遠鏡と顕微鏡の発明によって見えるようになったときにはじめて、人々は「自分たちの肉眼では見えない世界がある」ことを知り、受け容れなければならなかった。

わたしたちは何の疑問も抱かず、新型コロナウイルスは(肉眼では見えないけれど)存在すると思っているけれど、それは決してあたりまえの認識ではなく、この17世紀のパラダイムシフトを通じて獲得したものである。

望遠鏡が見せてくれるはるか彼方の天界、顕微鏡が見せてくれる微小な生物、それ自体とても大きな発見ではあるが、何より大きい発見は「肉眼では見えない不可視の世界がある」とわかったことだという。

 顕微鏡と望遠鏡が幅広く受け入れられるために必要だったのは、その作用原理を説明する光学理論だけではなかった。むしろ、世界は見かけどおりではなく、我々の眼には見えない隠された部分があるということを積極的に受け容れる姿勢のほうが重要だった。肉眼で観測するさまざまな現象の背後には不可視の世界があり、人間の眼に見えない部分にこそ目に目に見える自然現象の原因があることを理解しなければならなかった。この時代は〝世界は見かけ通りのものではない〟という認識が急速な勢いで広まった時期と見ることができる。

フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著 黒木章人訳 原書房 2019 p24より抜粋)

この「不可視の世界がある」という17世紀の発見がなければ、見えないものがあるという構造を前提とする無意識は発見されなかったかもしれない。21世紀のいま、わたしたちは実際に道具で観察できるケースだけでなく、無意識のように道具で観察できないケースであっても、「不可視の世界がある」ことを受け容れている。そこがとても興味深い。

選択の根拠

 

どうしてそれを選ぶのか、自分でその根拠がわからないまま選択を行なっていることは多いという自覚はずっとあった。特にものをつくる場面で。

いちばん身近なものでは、なぜそれを、そのようなかたちで写真に収めるのか?という問い。それはいつも自分につきまとっている。

最近読んだ、『あなたの脳のはなし』には、はっきりとこう書かかれている。

わたしたちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない

私たちはふつう自分の選択の根拠をわかっていない。脳はつねに情報を周囲から引き出し、それを使って私たちの行動を導くのだが、気づかないうちに周囲の影響を受けていることが多い。「プライミング」と呼ばれる効果を例に取ろう。これはひとつのことが別のことの知覚に影響するものである。たとえば、温かい飲み物を持っている場合は家族との関係を好意的に表現し、冷たい飲み物を持っているときは、その関係についてやや好ましくない意見を述べる。なぜこんなことが起こるのか?心のなかの温かさを判断する脳のメカニズムが、物理的な温かさを判断するメカニズムと重なり合っているので、一方が他方に影響する。要するに、母親との関係ほど根本的なものについての意見が、温かいお茶を飲むか、それとも冷たいお茶を飲むかに、操られる可能性があるということだ。

(『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房 2017 pp.111-112から抜粋)

ほかに、硬い椅子に座っているときのほうが、柔らかい椅子に座っているときよりもビジネスにおいて強硬な姿勢を示す、といった例も挙げられている。

 もうひとつの例として、自覚されない「潜在的自己中心性」の影響を考えよう。これは、自分を思い起こさせるものに引きつけられる特性のことだ。社会心理学者のブレット・ペラムのチームは、歯学部と法学部の卒業生の記録を分析して、デニースやデニスという名前の歯科医(デンティスト)、そしてローラやローレンスという名前の弁護士(ロイヤー)が、統計的に多すぎることを発見している。

(同書 p112より抜粋)

さらにたたみかけるようにこう続く。

心理学者のジョン・ジョーンズのチームは、ジョージア州とフロリダ州の婚姻記録を調べ、実際に名前のイニシャルが同じ夫婦が予想より多いことを発見した。つまり、ジェニーはジョエルと結婚し、アレックスはエイミーと結婚し、ドニーはデイジーと結婚する可能性が高い。この種の無意識の影響は小さいが数値的な裏付けのあるものだ。

 要点はこうだ。もしあなたがデニスやローラやジェニーに、なぜその職業やその配偶者を選んだのかと訊いたら、彼らは意識にある説明を話すだろう。しかしその説明には、最も重要な人生の選択に対して無意識がおよぼす力は含まれていない。

(同書 pp.112-113より抜粋)

これほどまでに、無自覚に環境の影響を受けているのだとしたら、時間をかけて見つけた合理的に思える根拠も、疑わざるを得ない。

想像以上に「わかっていない」ことがわかって、少し恐ろしくなった。

 

テレビで、「手で洗うのは効率は悪いけれど、固さやハリで、ネギの甘みや出来がわかる」と農家の方がネギを洗いながら話している場面があった。

おもしろいなぁと思う。

ふだん洗いものをするとき、洗い残しがないか最後指でなぞって確認するように、意識していなくても、目で確認しきれないものを指先の感覚がとらえることを、わたしたちは知っている。手の繊細さは、なにも特殊な技能習得者だけのものではない。

指先を切ってパックリ傷口があいたとき、その感覚がまったく狂って困ったことがある。こんな小さな傷で、こんなに困るのか!と驚いたことを思い出す。

わたしたちは生活の中で、うまいこと感覚を使い分けている。
そして、案外、多くの場面でその感覚に頼っている。

感覚比率

 

 あるいは、マーシャル・マクルーハンはこれを「感覚比率」という概念でとらえた。五感はつねにある比例関係のなかに置かれることで安定した現実感覚をかたちづくるが、いずれかの感官に新しいメディアが接続されることによってある単一の感覚だけがとりたてて活性化させられるとこの比例関係に歪みが生じ、それを回復するために別の感覚がみずからを暗示にかけるように刺激する。電話で長話をしていると指が知らないうちに脇の鉛筆を掴んで、眼の前の紙に三角や丸といった単純な図柄を書きはじめる。かなり強い筆圧でである。しだいにその形は増殖してゆき、気がつけばまるでシュールな絵のようなおぞましい図柄がそこにある。聴覚の不均衡な刺激が、視覚や触覚をおびき出したのである。そうして感覚の系はおのずから「感覚比率」の再編制を試みていたのだ。

(『感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫)』 鷲田清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

おもしろいなぁと思った。
わたしの場合、時間とともにだんだん強く受話器を耳に押しつけて、受話器を置いたあと、耳と腕が痛い。なんでこんなに力むのだろう…と。だから電話で長時間話をするのは苦手。

よくよく考えたら、対面でひとと話すときは、相手の表情のうつろいにきわどく神経をはりつめている。不愉快なことを言っていないか。本当におもしろいと思っているか。不用意なことばで傷つけてはいないか。そして、自分の表情が「間違っていない」か。顔のこわばり、手の表情。身体の揺れ。

ひととの対話は本来、すごく多様な感覚のチャンネルを駆使するもののはずなのに、電話というメディアによって、それが音声だけに集約されたとたん、それ以外の使われないチャンネルが誤動作するのだろうか。電話は電話で妙な緊張が漂う。

電話よりメールが気楽になってしまった原因は、そこらへんなのかもしれない。