ひどく寒い。
外出をずるずるのばしのばしにして、
借りていた『西の魔女が死んだ』を観る。
アイロン台が、茶色く焦げてしまっているのがずっと気になっていたので、
DVDを観つつ、その張り替えもする。
古くなったアイロン台は、
布を張り替えたらリニューアルできるのだ、ということを、ネットで知る。
ほとんど、のりで接着されていたので、
霧吹きで水をかけてしばらく置いたら、古い布も紙もはがれる。
もともとのクション材に、新しいクラフト紙を巻いて、
その上から布を巻いてタッカーを打ち、土台に固定する。
製本のりの配合を参考にして、
のりと、木工用ボンドと水を混ぜたものを、紙に刷毛で塗り、
その紙を、台の裏側に貼る。これは布の端を始末するため。
はずしておいた脚を、もとの位置にねじで留め直したら、できあがり。
買ったまま数年使っていなかったヴィンテージの生地で巻いたものだから、
ことのほかガーリーな仕上がりになる。
ガーリー。
こまごまとした家財道具は、
気がつくと、10年、15年選手になっているだなぁ…とつくづく思う。
とすれば、この先10年、ガーリーでいくのか?いけるのか?
それはさておき、
20代に、とりあえず「ひとりぐらし」をはじめるために慌てて買い揃えた家財道具。
さすがに30代も半ばにさしかかると、その安っぽさが気になるようになって、
少しずつ入れ替えはじめている。
慌てて買って「もたなかった」んだから、慌てて買い替えるのは愚かだ。
気に入ったものに出会ったら、都度、おさいふと相談、という感じで入れ替えている。
そんなふうに、身のまわりを少しずつリニューアルしていると、
でもそれって、自分自身も、同じなんだな、と気づく。
10年、15年、こころの中にわだかまっていることや、
執着し続けていることがあるとすれば、
そういうものこそ、都度、入れ替えていかなければならないんだ、と思う。
それも、ひといきにやろうと思うんじゃなくて、ぼちぼち、ね。
そんなことを考えていたら、
昨晩読んだ内田樹さんの本の「居着く」というくだりを思い出した。
(中略)「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
人をして居着かせることのできる説明というのは、実は非常によくできた説明なのである。あちこち論理的破綻があるような説明に人はおいそれと居着くことができない。居心地がいいから居着くのである。自分の現況を説明する当の言葉に本人もしっかりうなずいて「なるほど、まさに私の現状はこのとおりなのである」と納得できなければ、人は居着かない。
そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自力で現況を改善するということができなくなる。
(『邪悪なものの鎮め方』 内田樹 2010 バジリコ p90より抜粋)