LISA SOMEDA

ひと (6)

あと2回。

 

もうどうしようもないタイミングで、どうしようもなくひとを好きになってしまうことって、あるんだな。

前からずっと、そのひとが濃やかな感受性をたずさえていること、気にはなっていたけれど、たわいのない話のなかでそのひとが口にした「夕陽が綺麗だったから」のひとことで、すっかり好きになってしまった。

どうしたものだか。

そのひとに会うことができるのは、もうあと2回。
あと2回。

2年ぶりの電話

 

2年ぶりに縫製業者のおっちゃんに電話をかけると、「おぉ、リサちゃんか、最近どないしとるん?」と。

かんたんに近況を伝えると、
「あんたまだ結婚してへんのかいな?はよ結婚したらいいのに。あんたなら、なんぼでも寄ってくるオトコはおるやろに、よっとる(選り好みしてる)んちゃうか?」

と、厳しいコメント。

「そんなことないですよ。」とこたえると、
「なら、オトコに隙を見せへんのやろ?」とぐっさり。

あの…注文の電話なんですけど…

でも、久しぶりの発注にもかかわらず、快く仕事を引き受けてもらえて、
さらには、結婚の心配までしてもらって…
(以前発注したときは、食べていける仕事あるんか?と心配してくれてはった…)

つくづく、ありがたいご縁やと思う。

最初お目にかかったときは、とても気難しそうな印象だったけれど、いざおつきあいしてみるとほんまにあったかくて、繊細で、こういうご縁は大事にしたい、と心底思う。

注文の電話なのに、こころがほっこりあったかくなって、かたく閉じつつあったこころが、ほんの少しほころびました。

おっちゃん、ありがとうね。

クジャクサボテン

 

母屋の軒先に、鮮やかなマゼンタの花。
艶っぽいなぁとしばらく眺めていた。

あとから、母屋の奥さんに、それがクジャクサボテンという名前だということと、2〜3日しか咲かない、ということを教えてもらった。

なにげなく目にしたものが、実は貴重な体験だったりするんだな。

ここのところ、慢性的な苛立ちを抱えていて、あたりまえのようにあるもののありがたみ、忘れかけていたかもしれない。

ダメダメや。

先月末、

 

大切なひとを亡くし、しばらくぼんやりしとったん。

熱いものを触ってギャーっと叫ぶような、そういう生理的な反応が続いていたんだと思う。

そういうこころのありようで過ごしていたから、ましてや、ことばを綴るような状態、ではなく。

ただ、わたしがのんきに彼岸なんてタイトルで文章を書いているときに、そのひとは病と闘い、そして、まさしく彼岸に行ってしまった。

葬儀に向かう夜行バスで、不意に目が覚めたのが朝の5時。
オレンジがかった朝の光で満たされた世界。
空に向かってぬくっと存在を示しているのは、富士やったんやろうか。
見たことのない美しい時間やった。

手のひら

 

きっと人酔いしただけだと思うのだけれど、とてもとても疲れて。
なぜか自分の手をあわせて「ああ、手のひらってやっぱりすごい…。」となかば夢うつつの状態で考えていたら、知らないあいだに眠っていた。

先日、NHKのプロフェッショナルという番組で専門看護士の北野愛子さんが、患者さんの手を握ることに対して、「手と手を触れ合わせることで、言葉でも表情でもないものが通じると思っている」というようなことを言っていた。

真偽のほどはわからないが、手をつないだほうが夫婦仲も良い、という話も聞く。

思い出したのは、いちばん不安だったとき、わたしはボーイフレンドの背中にやたら手のひらをくっつけていたこと。手のひらを相手のからだにくっつけるとびっくりするほど安心できること、そのころのわたしのちょっとした発見だった。

新年会の帰りみち、ひとりひとりの手を両手で握って別れの挨拶をする作家さんがいた。そのひとの両の手で自分の手が包まれたとき、じかに感情をさわられるような感覚にうろたえた。

根拠はないけれど、手のひらってやっぱりすごいんだと思う。
今度祖母に会うときは、そっとやさしく手を握ろう。

最後の荷物

 

「ひとをたいせつにする」ということを、
ひとからたいせつにされることによって学んだのは20代の最後の5年。
それを教えてくれたのは、かつてのひと、exだ。

今でも、そしてきっといつまでも、
たいせつにしてもらったことは清々しい感謝の気持ちとともに、思い出すのだろう。

それに比べてわたしは何もできなかったなぁ、と、
返しそびれていた「最後の荷物」を包みながら、つくづく思う。