という表現があまりにも的確すぎて、かなしい。

つい、いつものように写メールを送ろうとしたり、してしまう。
もうこの世にいないのに。
それでも、送ってみようと思うこともある。
読まれなくても、返事がなくても、いっぱいつたえたいことがある。
いっぱい共有したいことがある。

 深いつながりのあっただれかが死ぬということは、わたしをその思いの宛て先としてくれていた他者を失うということである。これがなぜ痛いのか。その理由はそんなに不明ではない。〈わたし〉という存在は、だれかある他者の意識の宛て先としてかたちづくられてきたものだからだ。「わたし」が「他者の他者」としてあるとするならば、わたしをその思いの宛て先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。以後、わたしの思いはいつも「宛先不明」の付箋をつけて戻ってくるしかない。そのとき、わたしもまたその「他者」の他者としては死んだと言える。

(『〈ひと〉の現象学』 鷲田清一著 2013 筑摩書房 より抜粋)