言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言語における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。(p63)
作家的直観によって村上は「人の心に入り込む物語」と「入り込まない物語」の違いが、言葉の身体性に存することを見抜いている。「倍音」とは「耳には聴き取れないが、身体に入る」音のことである。倍音を響かせることばは、「何を語っているか」という意味性のレベルにおいてではなく、「どのように語っているか」というフィジカルなレベルにおいて、おそらくは聴き手に「響き」を伝えるのである。(p64)
(中略)テクストを黙読しているときにも、私たちは「無声の声」で音読している。そして、「単音」しか出せないテクストと、「和音」を響かせているテクストの違いを聴き取っている。現に、同じような政治的主張を、同じような論拠で展開しているテクストなおに、こちらのテクストは「薄っぺら」で、こちらのテクストは「深い」という印象を与えることがある。「深い」言葉はどれほど簡単な主張を告げていても、確実に身体にしみこんでくる。(p77)
(いずれも『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)』 内田樹著 角川書店 2006 より抜粋)
響くことば、響かないことば。
そういうの、すごくよくわかる。
最近は、いっときほど、自分のことばが響いてないな、と感じることも。そういうのは、文章の内容ではなくて、切迫感のようなものだと思う。ことばが、このわたしに向かって迫ってきているような感覚。
さて、他人の文体についてだけれど、わたしの場合、なじむ、なじまない、というのが極端で、文体になじめない、ことが多い。目新しい内容でおもしろいはずの文章が、その文体になじめないと、おもしろく読めなかったりする。
文体に限らず、わたしは、なにかと判断を、「なじむ、なじまない」という生理的な感覚にゆだねているところが大きい、と思う。
霊感はまったくないけれど、土地や建物に「いやな感じ」を受けることは多いし、なるべくそういう場所は避けて暮らしている。確かに、OL時代の社員寮は「いやな感じ」で充満していたし、そこに住んでいるときは、夜中に金縛りにあうことが多かった。(人生のなかで金縛りにあったのはその時期だけだ。)
良い「気」の土地と悪い「気」の土地がある、ということを、同じ内田樹さんが別の著書に記していた。
一見合理的な考え方や、世間の論調にも、なじめないことが多い。自分自身の身の処し方にすら、なじめないと感じることがある。
違和感や齟齬がたとえ言語化できなくても、「なじめない」と感じた事実を、見過ごしてはならないと思いはじめたのは、作品をつくるようになってからだ。そして、デザインを組み立てるとき、写真に関わるときこそ、いちばん「なじむ、なじまない」の感覚に判断をゆだねているのだと思う。
理屈では問題なくても、どうしても、自分のきもちが「なじめない」ときは、ダメなんだと思う。どんなに根拠がなくても。そうやって身体に判断をゆだね続けていると、だんだんとその判断は厳しくなる一方だし、「なじむ」の条件が厳しくなると、「なじまない」=不快なものは増大していく。
ことばにならない違和感やら齟齬やらが、増大し続けているのだから、それは決して幸せな作業ではない。そう思いながら、でも、その後もどりできない道を、ひたすら全力で進んでいる。
響くことばから、ずいぶん話がそれてしまった。