LISA SOMEDA

色彩 (19)

息のあわないダンス

 

なにか考えや問いをもって撮影に向かうたび、おもしろいくらい裏切られたここ数日。写真は常に現実とのせめぎ合いだということを忘れないために、X(旧twitter)の投稿に少し手を加えてこちらに移しておこうと思う。写真はできるだけ同じ画角になるようトリミングしたうえ、後から加えた。

まるで息のあわないダンスのようだ。

2023-12-03

きょうは愛宕山に登るつもりが、電車の遅延と不安定な天候によりショートカット。体力と気もちを持て余し、保津峡駅のプラットフォームで撮り鉄の皆さんの横に並んでみた。ほかの方は保津峡を走り抜けるトロッコ列車を撮っている様子だったが、わたしはそばの枯れ木に覆われた山が目当て。晩秋の山は枯れ木も含め個体によって色がバラつくので、それぞれの木が個として見えてくることがある。

2023-12-02

以前、川で撮影をしていたときに、あまりに人出が多く、個として見えていたのが群に見えた途端におもしろみを失うということに気がついた。それからは人出が多すぎるタイミングを外して撮るよう気をつけている。

個と群で関心のありようが変わるのはなぜか? 個として見えていたものが群にしか見えなくなるその臨界点はどこにあるのか?「個と群」にまつわるそれらの問いはずっと意識の底に横たわっていたが、ここ数日の撮影であらためて意識化されてきた感触がある。

「個と群」

2023-12-05

「個と群」について考えてみたいと思って撮影に出かけ、戻って写真を確認したら、高解像度ならではの質感が立ち上がっていて、そちらの方がおもしろい。

2023-12-04

意図をもって撮影に臨んでも写真がその意図を裏切る。撮った写真によって意図がどんどん横滑りする。意図したとおりに撮れるより俄然楽しい。ワクワクする。

意図に写真を従わせようとするより、撮れてしまった写真と対話するような感じで進めるほうが自分にはあっている気がする。写真が教えてくれることがあるから、ぜんぶ自力でなんとかしようと思わなくてもいい。

2023-12-05

実体験を通じ、山上付近で巻かれるガスこそが雲とわかっていながら、空を見上げたときに雲になんらかの質感を見出すのはなぜだろうということを考えている。

経験が伴わないのに、鱗雲にはモロモロとした感触を、入道雲にはある種の張りを感じるのはなぜなのか。

2023-12-06

いま見ようとしているものはもしかしたら直射の順光ではないほうが良いかも…と思ったときに、ベッヒャーのような曇天がいいだとか、晴天の順光がいいだとか、他人がもっともらしく言う「いい」を真に受けていたなと気づく。晴天の順光、陰、霞、曇天、雨上がり、湿度の高い低い…どういった環境のどういう光がフィットするか?

マウスひとつでいかようにも色を調整できてしまう時代だからこそなおさら、現場に立って現物を見て、自分の感覚を総動員して確かめたいと思う。

さあ実験だ😊

2023-12-06

枯れ木を遠くから高解像度で撮ると、ふわふわっとした質感が立ち上がる。正確には知覚のバグだと思うのだけれど、被写体が本来備えているものとは違う質感を画像に見てしまう。以前にも似たような経験をしていて、降雪を撮ったらまるでその雪が写真の表面についた霜のように見えたことがある。これも知覚のバグだと思う。そのあたりを少し深堀りしたくなって、きょうも嵐山に向かった。

雨上がり。空気にふくまれる水蒸気が逆光を拡散し、視界が霞む。いつもより目を凝らしてピントを合わせる。質感というよりむしろ不可視性を考える機会となった。過剰な光もまた可視性を損なう。
2023-12-06

近似

 

モノクロームは輝度のパターンで、カラーだって無数の色が数色に置き換えられたもの。どちらも近似でしかない。

ピダハン

 

ずっと読みたいと思っていた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳 みすず書房 2012)。

ピダハンには「こんにちは」「ご機嫌いかが」「さようなら」「すみません」「どういたしまして」「ありがとう」といった交感的言語使用が見られない(感謝や謝意、後悔の気持ちは言葉ではなく行動で示す)。彼らは色の名を持たず、数を持たず、左右の概念を持たない。また、彼らは精霊を見ることができ、夢と日常をほぼ同じ領域のもの、同じように体験され、目撃されるものととらえている。絵や写真といった二次元のものを解読できないが、暗闇の中で30m先に佇むカイマン(ワニ)の存在を感知することができる。

伝道のためにその地に赴いた著者が、最終的には無神論者になってしまう結末は小気味いい。”ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ”と著者に言わしめるほど幸せに見え、そもそも迷える子羊ではなかったのだ。

どれも興味深いのだけれど、その中でもいちばん興味深いのは、ピダハンの文化では体験の直接性が重んじられること。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。(p.187から抜粋)

ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。(p.187から抜粋)

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。(pp.187-188より抜粋)

そして、色名や数を持たない理由が、この文化的制約に結びつく。

ここに挙げられたピダハンの表現をできるだけ逐語的に訳すと、「血は汚い」が黒、「それは見える」または「それは透ける」が白、「それは血」が赤、そして「いまのところ未熟」が緑だ。

 色名は少なくともひとつの点で数と共通項がある。数は、数字としての一般的な性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものであって、特定の物質だけに見られる、限定的な性質によって区分けするわけではない。同様に色を表す表現も、心理学や言語学、哲学の世界で縷々研究されてきたように、多くの形容詞とは異なり、可視光線のスペクトルに人工的な境界線を引くという特異な一般化の役割をもっている。

 単純な色名がないとはいえ、ピダハンが色を見分けられないとか、色を表現できないというわけではない。ピダハンもわたしたちと同じように身のまわりの色を見ている。だが彼らは、感知した色を色彩感覚の一般化にしか用いることができない融通の利かない単語によってコード化することをしない。その代わりに句を使う。(pp.169-170から抜粋)

直接体験したことを話すのに、すでに一般化された単語では用をなさないということか。思わず太字にしてしまったこのくだりが、ものすごく刺さった。

2011.2.28

 

カメラのチェックしてたら、半年前の写真が出てきた。薄明かな。

薄明

12年ぶりの川村記念美術館

 

川村記念美術館

Barnett Newmanの作品を観るために千葉の佐倉を訪れた。
遠かったけれど、ちょうど紅葉の季節なのが幸い。

はじめて訪れたのは、12年前。
エジリちゃんと一緒に閉館間際に駆け込んだのを覚えている。でも何を観たのかさっぱり覚えていないというあたりが、だらしない。

Barnett Newman展、
全体的には、作品点数が少なく、遠くから足を運んだだけにもの足りなさを感じる。作品の中では、版画の作品の微妙な赤の差と、《アンナの光》の色とそのスケール感が印象に残った。

“大切なのはサイズではなく、スケール”

閉館時刻ぎりぎりまで粘っていたら、外はすっかり影絵の時間。

影絵の時間

色のこと、みっつ、忘れないうちに

 

一、
静岡のあたりを通り過ぎるのが、ちょうど陽の沈むころ。
夏の空にしては、意外なほど優しく淡い色が、徐々に明度を失っていくのが、
はかなく、そしてうつくしかった。

一日を見送ることができて、嬉しい。

夏の海は好い。
それも暑さの勢いがそがれる頃の日暮れが好い。

二、
薄曇りの夕刻、あわてて出かけた道すがら、
名前を知らぬ花の紫の花弁が、アスファルトに散らばっているのを見かける。
咲いている花よりも、むしろアスファルトを背にグレイバックで見るほうが、
その紫は鮮やかで、艶かしく。

三、
電車の窓から見る彩度の低い空に、これまたさらに彩度を失った木々の緑。
その組み合わせに、なぜか、そこはかとなくありがたみを感じた。

エグルストン日和

 

原美術館のウィリアム・エグルストン展

ほどよい日よりだったので、少し遠出。
原美術館のウィリアム・エグルストン展を見に行く。

まさにエグルストン日和。

展示している作品を見るのは初めて。
思っていた以上に、色の組み合わせが綺麗。

こんなに世の中は色に溢れていて、なのに、見落としている色、見過ごしている色がなんと多いことか。
被写体の捉え方に、ティルマンスを想起する。
わたしたちの世代は、エグルストンよりも先にティルマンスに出会っているのだ。

帰り道は、いつもよりほんの少し、色が、多く見えた。

ジョン・ルーリー

 

法貴信也さんの作品を見に行くはずが、日曜休廊とのことで、予定変更で、ジョン・ルーリーのドローイング展を見に行く。フロアは若いひとでごった返していたけれど、けっこう集中してじっくり見ることができたと思う。

ポップでもなく、でも深刻になりすぎず、見るひとに負担をかけない絶妙の案配。
ひとつの画面を構成する筆致の差異だとか、色、前後の重なり、など、とてもおもしろく見ました。あと、タイトルのセンスが良いなぁと思う。

もう一度くらいは見に行きたいけど、行けるかなぁ。

正直なところ、最近は、写真作品よりも、ドローイングの作品を見るほうが楽しい。

けっこうマゼンタ

 

本日はキャリブレーション初め。(変なの)

現像に出していたフィルムを京都駅に引き取りに行く。
ちょうど夕暮れどきだったので、自転車からおりて、街の色をたしかめながら、てくてく。

今日の収穫。「夕暮れの街は、けっこうマゼンタに寄っている」

写真の色補正をしていて、夕方から夜にかけての写真が、妙にマゼンタ寄りに仕上がるな…と思っていたら、実際の景色もけっこうマゼンタに寄っているのだ。

色のこと

 

少しまえの夕方、ふらりと御所に出かけたら、夕暮れの光の中で、銀杏の木がことさら明るく輝いて見えていた。不思議な光景だったので、もう一度見たいと思って昼間にでかけたら、あの日の夕暮れほどパッとしなくてがっかりする。

あ、そうか…。
黄色いものは、もともと黄色に対応する波長だけを反射し、それ以外の波長を吸収する。緑色のものも同様に、緑の波長に対応する波長だけを反射し、それ以外の波長を吸収する。

夕暮れの光には、赤〜黄色に対応する波長がたっぷり含まれていて、それ以外の波長が少なかったんだ。だから、緑や青いものにとっては、もともと射してくる光に、反射すべき波長がないから、射してくる光のほとんどを吸収して、暗く沈んで見えていたのね。

そういうことを考えながら、しばらく散策。

どうして、わたしたちは、紅葉という現象を美しいと感じるのだろうか。どうして、葉は、散り際にわざわざこんな鮮やかに発色するのだろうか。(生物の生存戦略としてどういう合理的理由があるのだろうか…)とか、そんなことを考える。

ものをつくる立場としては、なにか「いい」と感じるとき、その対象のどういう要素に対して「いい」と感じるのかを考えざるを得ない。

そうして、一枚、落ち葉を持ち帰る。

紅葉

ただの道具ではない。

 

ようやくDICのカラーガイドを入手する。

いや、お金を払えば誰でも簡単に買えるものだし、入手しようと思えばいつでもできた。
仕事の内容的に、そろそろ入手してもいいのではないか、と、
ようやく思えたというほうが正確かもしれない。

思えば12年前からずっと欲しかったのだ。
もっと言えば、ポスターのデザインがしたいというのが12年前の夢で、わたしにとって、色指定のためにひっつけるカラーチップは、その仕事を象徴するとても素敵でキラキラしたものだった。だから、DICのカラーガイドは、わたしにとって、ただの道具ではない。デザインに携わるという夢そのものなんだと思う。とても遠いところからデザインの世界に憧れていたあの頃のキラキラした気持ちが、この小さいチップにぎゅぅっと詰まっている。

近づいてみたら、その世界は決してキラキラしているだけではなかったし、むしろ実際は泥臭くて地味な作業の積み重ねなのだけれど、それでも憧れてるだけではわからなかったものづくりの醍醐味に触れられて、結果オーライ。憧れと現実は違ったけれど、それでもやっぱり好きでいられたし、こっちの世界に来て良かったと思う。

ずっしり重いカラーガイドをめくりながら、
あの頃見上げていた山の、裾野くらいには辿り着いたのかなぁ…なんて。

さて、このカラーガイド。
最初は「こんなにたくさん!」と感激したのだけれど、
いざ、作業に入ると欲しい色にばっちり同じ発色のインクなんて見つからない。
欲しいのは、このチップとこのチップの間くらいの色…というように、のっけから難儀する。

写真でも色でいちばん苦労するけれど、ほんとうに色って難しい。

特色どうしを重ねたらどんな色になるのか、とか、
いろいろ知りたいこと、見てみたいことがたくさん。
そこらへん、まずは実験かなぁ。

やってみんとわからんことだらけやけど、だからこそ、
ものをつくるのは楽しいんやと思う。

トーンカーブの日々

 

トーンカーブと格闘するうちに、夏が終わる。

写真は、撮った後が大変、ということがよくわかった。

色はほんとに難しい。相当色の偏った写真ばかりだったから、苦労したというのもあるけれど…
どうやったら、もっとスピードと精度、あがるんだろう…

先月末、

 

大切なひとを亡くし、しばらくぼんやりしとったん。

熱いものを触ってギャーっと叫ぶような、そういう生理的な反応が続いていたんだと思う。

そういうこころのありようで過ごしていたから、ましてや、ことばを綴るような状態、ではなく。

ただ、わたしがのんきに彼岸なんてタイトルで文章を書いているときに、そのひとは病と闘い、そして、まさしく彼岸に行ってしまった。

葬儀に向かう夜行バスで、不意に目が覚めたのが朝の5時。
オレンジがかった朝の光で満たされた世界。
空に向かってぬくっと存在を示しているのは、富士やったんやろうか。
見たことのない美しい時間やった。

まず青から順に届けられる。

 

早朝の撮影。
いちにちの始まりは、まず青から順に届けられる。

そのあとミドリが。黄色が。
そうして最後にやっと赤が。

まだまだ低すぎる露出とにらみあい、
かじかむ手を缶コーヒーであたためながら、
世界のことを少し知った。

極上のやさしさ

 

夕刻の空のいろは、極上のやさしさ。

一日の終わり、
とにかく感謝をしたい気持ちになったのは、
ずいぶん久しぶりかもしれない。

最近夜空を見上げていない。

むらさきを吸い込んでしまう

 

目の前に見えるのは赤い花だった。

そのあと息を吸ったとき、
視界がむらさきの花でいっぱいで、
むらさきを吸い込んでしまうと思って、おそろしくて、
とっさに息をとめる。

クーピーの並べ替え、図形の問題、

 

なんで、この色とこの色が一緒やとうわぁ好きな感じになるんか、
そういうことを知りたかってん。

美学の話をしていたときに、同年に卒業したともだちが、
大学に入った理由のひとつ、として言っていたこと。
それが、このところ、ずっとこころにひっかかっている。

優美だと感じさせる曲線、と、そうでない曲線。
綺麗だと思わせる色あわせと、そうでない、色あわせ。

幼いころ、クーピーを並び替えて遊ぶのが好きだった。
(もしかしたら絵を描くことよりも…)
並べ方によって、きれいに見えたり見えなかったりしたことが不思議だった。

日々の生活のなかでも、
自分の目が喜んでいると感じること、と、そうでないこと、があって。
美の体験、ってなんなんだろう?と今さら気になりはじめた。

小学校高学年以降は、
一本の補助線を引くだけで、するするっと謎が解ける、
図形の問題にとり組むのがとても好きだった。
一本の線の持つ力に、ドキドキしていた。

見た目の美しさとは違う次元だけれど、
謎を解く補助線の機能を、美しいと感じていた。

線ってなんなんだろう。色ってなんなんだろう。

それらに接して、
わたしの目が喜んだり、喜ばなかったりするのは、
なんでなんだろう。

影絵の時刻

 

ほどけてしまったんだ。

とっくに、気づいていたのよ。
ここでの余生を送るような気持ちは、ぬぐいようもなく。
いまはもう、さよなら、を受け入れている。

あたらしいお願いと、感謝と、さようなら、糺の森に伝えにいった。

かえりみちは、影絵の時刻。
木々の濃い輪郭をくるむ、太陽のわずかに残した橙、そして紺。

時々刻々、深まる蒼。

 

遠い異国の旗を思わせる、月と星の配列。
時々刻々、深まる蒼。

気づけたことに、ほんの少し安堵する。

空の色、花の香り、草木のあざやかさ、街のたたずまい、ほほをなぜる風、
こころが共振しないままカメラを持って歩いても、つらいだけだった。

時間を気にしながらの路上スナップは、かえって毒だ。

きちんと世界に感応できるだけの余裕を、わたしは死守しなければならない。