LISA SOMEDA

展覧会 (27)

ヴンダーカンマー

 

8年前の2016年、ロシア滞在も終わりに近づいた頃、予定していた撮影をなんとか終えたわたしは、ほかの撮影候補地を探しつつサンクトペテルブルクにある美術館、博物館に足を運んでいた。はじめ、博物館リストにあるクンストカメラをカメラに関連する施設と勘違いしていたが、調べてみると小さな博物館らしいことがわかった。そしてわたしはそこに「何が展示されているか」わかったうえで、クンストカメラを訪れた。クンストカメラが博物館の前身となるヴンダーカンマー(驚異の部屋)の別称だと知るのはその数年後のことになる。

歴代の皇帝の個人的なコレクションの集積場と言われるクンストカメラには、いつの時代の日本人だろう?と訝しく思うような人類学、民族学的な展示から、地球儀など科学に関連する展示まで、幅広く集められた収蔵品が魔術的な雰囲気を纏って陳列されていた。そしてほとんどの訪問者がいちばん衝撃を受けるのが、奇形の胎児(人間)のホルマリン漬けがずらっと並んだ展示室だ。

わたしも例外ではなく、そのときはただただショックを受けて帰途に着いたが、数年後に国立民族学博物館で開催された『驚異と怪異』という展示で驚異の部屋(ヴンダーカンマー)を知ったとき、人間の珍しいものを見たいという欲望の行き着く先をわたしはすでに見てしまったのだと悟った。個人のもっともプライベートな領域の深い悲しみを伴った存在を、その場から切り離し「珍しいもの」として蒐集し展示することのおぞましさ。museumの原点にはそういうおぞましさが潜んでいるのだと思った。わたしはそんな土台のうえに自分の作品を積みあげるのか?という戸惑い。そして、ほかでもないわたし自身が「何が展示されているか」わかったうえで観に行ったのだ。おぞましさはわたしの中にもある。

そんな経緯でmuseumというシステムに関心を持つようになったが、過去を掘り下げ起源に遡る方へと向かうと、どうしてもネガティブなことばかりが目についてしまう。それがだんだんしんどくなっていったというのもあるのかもしれない。今回、豊田市美術館の「未完のはじまり 未来のヴンダーカンマー」展を訪れたのは、なにか新しい視点が得られないだろうかという期待があった。

神話と現代的なメディウムを融合させた作品や、科学と錬金術的・魔術的な世界観とが渾然とした作品など、まざる(混ざる・交ざる)ことの豊かさを感じる作品群。国民的詩人の孫であるTaus Makhachevaの、祖父のパブリックイメージとプライベートな記憶を辿る作品。さまざまな切り口で、museumの機能———もとの環境や文脈からの切断、移動、分類———が揺さぶられ問われているが、強く印象に残ったのがフィクションとして構成された映像作品3点。

Taus Mackhachevaの《セレンディピティの採掘》は「半世紀前の未来科学者たちが提案したアイデア」という架空の設定に基づき、そのアイデアをもとにつくられたアクセサリーの形をしたガジェットが展示され、実際に身につけることもできる。最新ガジェットのはずなのにどこか魔術的・錬金術的な雰囲気が漂い、科学と錬金術の境目はどこにあるのだろうと考えた。

Yuichiro Tamuraの《TiOS》では生体との結合性が強いチタン(Titan)を軸にくすっと笑いを誘う未来像が提示され、産業技術と身体(生体)の関係性が浮かび上がる。カセットテープ、フロッピーディスク、HDD…記憶はいつも回転体が担っていたという指摘がふかく印象に残っている。

Liu Chuangの《リチウムの湖とポリフォニーの島Ⅱ》のリチウムの湖では、ウユニ塩湖でのリチウム採掘、歴史を遡ってポトシ銀山にも触れ、(鉱山をはじめとする)開発、輸送、それに伴う産業といったものの構造が、一方的に「新世界」と呼ぶ地域から略奪・蒐集を繰り返してきたmuseumの構造と不可分であることを考えさせられる。富の移動。いっぽうポリフォニーの島では、人間だけが地面のうえで歌を歌うという動物学的な説明にくわえ、ポリフォニーの祖と呼ばれるバッハ以前から少数民族の歌にポリフォニーが存在していることが指摘される。うつくしい映像のところどころに西洋中心主義批判がそっと織り込まれている。

企画自体が未来志向だということもあるけれど、ほとんどの作品が批判よりも可能性に開かれていて風通しの良さを感じた。そもそもが豊田市博物館の開館に向けてmuseumの起源に遡りつつ未来を考えるという企画だったので、展覧会を観たその足で開館したての豊田市博物館にも足を運んだ。

いわゆる未完でのオープン、と理解。未完は決して悪い意味ではなく、市民がグループをつくってその土地土地の石を集める取り組みが紹介されていたり、持ち寄られた「豊田での生活史を象徴するもの」が展示されていたり、ここで暮らすひとが自分たちで自分たちの歴史や環境を調べ考え続ける場として機能する博物館像が示されていた。それは「美と知の殿堂」といった啓蒙主義的な存在としてのmuseumから脱却する試みとしてもとらえられ、その意味で、あたらしいmuseum像を見ることができたと思う。3年後、5年後、10年後に今の未完がどんな未完に変わっていくのか楽しみである。

museumの起源には血生臭い簒奪の歴史が、そして未だに蒐集する/される非対称な構造が横たわってはいるが、それを乗り越え新しいmuseumをつくっていくことができると示されたように感じ、明るい気もちで博物館を後にした。

参考
未完の始まり:未来のヴンダーカンマー(豊田市美術館)
豊田市博物館(公式)
驚異と怪異(国立民族学博物館)
クンストカメラ(wiki)
クンストカメラ(公式)
ロシア最古の博物館にして、ロシアの科学のゆりかご。ピョートルのクンストカメラ誕生物語(ロシアビヨンド)
奇形児などが展示されているピョートル大帝のクンストカメラ(ロシアビヨンド)

松宮秀治さんの「ミュージアム思想」はmuseumを考えるうえでとてもよい書籍ですが、高額で入手しづらくなっています。近くの図書館に蔵書がないなど事情がある方はご一報ください。お貸しします。

非対称性

 

週末、ホー・ツーニェンの百鬼夜行展を観に、豊田市美術館を訪れた。

彼の作品をはじめて観たのは、2017年に森美術館と国立新美術館で開催された「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」だ。マレーの虎にまつわる映像が強く印象に残っている。

恥ずかしいことに、わたしはこのサンシャワー展をとおして、はじめてアジア地域における日本の侵略戦争、つまり加害の歴史を具体的に知った。

思い返せば、小中学校の課題図書で選ばれるのは、戦争でどのような被害を受けたかという話ばかりだった。歴史の授業でも、近現代史は学年末に足速に通り過ぎるようなものだった。高校では理数系を選ぶと自動的に地理に振り分けられるシステムになっていて、日本史とも世界史とも縁がなくなった。自国の侵略戦争についてほとんど何も知ることなく、あるいは知らされることなく、そして知ろうとすることなく、わたしは大人になってしまった。

くわえて、21世紀を生きるアジアの作家らが前世紀の侵略戦争を主題に選ぶまさにその事実によって、被侵略地域においては戦後何十年経っても「終わっていない」ことを思い知らされた。

加害者側はその先の人生で加害の事実を忘れたりなかったことにできるけれど、被害を負った側はその被害を忘れることもなかったことにすることもできない。加害と被害の立場には必ず、そういった非対称性が生まれる。

わたしが侵略戦争について知らずに生きてこられたこと、制作において侵略戦争を主題化せずに済んできたこと、その状況そのものが加害の立場の特権性なのだ。アジアの作家らが日本の侵略戦争を主題化する傍らで、日本人作家として何も知らずに「見るとはどういうことか」といった抽象的なテーマに取り組んでいられたこと、そこに立場の非対称性が現れている。

サンシャワー展においては、
欧米との関係でしか自らの立ち位置を考えてこなかったのではないか?
前世紀の戦争を被害の立場からしか見てこなかったのではないか?
そういった反省も促された。
近年の展覧会のなかで、もっとも深く考えさせられる展覧会だった。

だから、百鬼夜行展は絶対に見逃せない展示だった。

開催中の展覧会について多くを書くのは控えるが、百鬼夜行展ではとりわけ、ふたつめの『36の妖怪』が印象深かった。一瞬にして観者を傍観者の位置から引きずり下ろすその鮮やかな手際に、思わず息をのんだ。

もしまだ観ていなかったら、是非観に行ってほしい。

画像スクロール用サンプルパッケージ

 

おかげさまで、オンライン展覧会 “On Your Side”は、多くの方のご訪問をいただき、感謝しております。
会期も残りわずかとなりましたので、まだの方は、下記URLにてご覧いただけると、たいへんうれしく思います。(終了しました)

https://somedalisa.net/exh2020/

さて、本展の作品表示のためにつくった画像スクロールプログラムのサンプルパッケージを用意しました。ダウンロードが可能です。

きわめてニッチな用途とは思いますが、必要な方はご利用ください。
MITライセンスにて配布しております。

sample.zip

音楽的に

 

先日訪れた展覧会で、展示構成がプログラミングのように構築されている印象を受けたのをきっかけに、ひとはどんなモデルで展示構成を考えるのだろうということに興味を持つようになった。

わたしの場合は、音楽的にとらえる傾向があるように思う。

2015年に札幌でペア作品を展示した際、それを表現するのに「主題と変奏」というフレーズが頭に浮かんだ。A/Bのような比較としてとらえられるペア作品ではあったが、2点を同時に視野に入れることはできないので、時間の流れを含んだ「主題と変奏」という表現はしっくりきた。同時に、そういう音楽的な表現がふと思い浮かんだことに、自分でも驚いた。

そう考えると、写真が横に並んでいく作品の構造はそのまま、矩形のユニットが横に並ぶ楽譜をなぞらえているようにも思え、幼少からのピアノレッスンをはじめとする20年余の音楽の経験は、意外なかたちで自分の中に深く根を下ろしているのかもしれないと思うようになった。

展示に限らず、何か構成を考える際に、主旋律、副旋律、転調、インヴェンションの1声、2声、3声の複雑な交錯といった音楽的な構造を、むしろ意図的に援用するのは面白いかもしれない、と思う。

七夕の夜

 

七夕の夜、珍しく母に作品の話をした。

フレームの中に何を選びとり、そして、焦点によってどの奥行きを選んで際立たせるか。写真は徹底して「選ぶ」ことに依拠しているけれど、フレームとピントによる選択を無効化してもそれでも作品として成立するだろうか?ということを考え続けている。と。

母に話したのはそこまでだけれど、選択を無効化するということを目指しながらも、それでもやはり周到に避けている(選ばないでいる)ものがあることには薄々気がついていて、最近は、何を撮るかより何をフレームからはずしているか、に関心が向いている。

先日、IZU PHOTO MUSEUMでフィオナ・タンの《Accent》を観た。

戦後、検閲は廃止され、報道の自由が保障されるようになったが、アメリカは検閲を行い、日本人の愛国心をかきたてるおそれがあるとして、映画から富士山のシーンを削除した。そして、その検閲は日本国民には知らされず、富士山の削除自体がわたしたちの認識から削除されていた。

わたしが展示室に入ったのは、おおよそ、そのような内容のセリフが語られているシーンだった。(正確にセリフを覚えていない)

少し面食らった。

時間軸(タイムライン)から削除されたり、フレームからはずされたりしたものがある、ということに、ふつう人は気づけない。

さまざまな情報戦が繰り広げられるこの時世に、はずされたものについて考える重みをずっしりと感じた。

見えないもの/見えるもの

 

そもそも偶像とは何でしょうか。それは「見えないもの」を「見えるもの」にしたものだと、ひとまずはいえます。神という見えないものを見えるようにしたのが偶像なのです。

 これをマリオンは「眼差しが支配する」と表現しています。われわれの眼差しが、対象を自分に引き寄せ、それで像を作ってしまう。本当は見えない神を「まあ、このあたりでいいだろう」と考えて作ってしまうわけです。このことは、実際に像を作ることだけではなくて、われわれのものの考え方においても、見えないものを見えるレベルまで落として拝んでいることにつながってきます。

(中略)

 ここまで語ってきた「偶像」に対して、マリオンはもうひとつ「イコン」という概念を考えます。古代ギリシア語では「アイコーン」で、似姿やイメージを指す言葉です。有名なのは聖書や聖人などの逸話を描いた聖画像ですね。カトリックにもありますが、東方教会がよく知られています。イコンというと、聖人は描かれますが、神は出てきません。神を描くのはやはりまずいわけですね。マリオンの考えでは、イコンにおいても見えざる神様への通路があるのです。「見えないものがある」というふうに描いていくのが画家の腕で、見えるものから見えないものへと無限に遡行して近づいていくのが、こうした聖画像の特徴です。

 ここで整理すると、見えないものを見えるもののレベルまで押し下げてしまったのが、「偶像」でした。いっぽう「イコン」は、見えるものから見えないものへ遡っていきます。

(『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』岩野卓司著 丸善出版 2014 p138-p139,p142-143より抜粋)

少し遠出をして散策した場所が、昔見た作品の撮られた現場であることに気づいた(あ、ここか!)のがつい最近のこと。

そしてこのテキストのおかげで、ようやく10年前に見た作品のことが少しわかりかけている。その展示では、細心の注意を払わないと見えないこと、見えるものを通して見えないものの存在が垣間見えること…そういうさまざまな「見る」を構造的に扱っていた、と。

当時は、写真の美しさや世界観だけで充分成立しているように思えたのだけれど。

第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」

 

おかげさまで無事、
第3回札幌500m美術館賞グランプリ展「SNOW」オープンしました!

2015年4月24日までの開催となります。
お近くにお越しの方は是非ご高覧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

同時開催されている田村陽子さんの「記憶する足形」も素敵な展示なので、ぜひ!

場所:札幌大通地下ギャラリー500m美術館
会期:1月31日(土) 〜 4月24日(金) 無休
時間:7:30~22:00 ※最終日は17:00まで
料金:無料

札幌大通地下ギャラリー500m美術館
http://500m.jp/exhibition/3263.html

展示風景 撮影 松村康平
撮影 松村康平

時間にかたどりを与える

 

先日訪れたみんぱくの「イメージの力」展。
パネルの文章がすごく良くて、その中でも印象的だったのが「物語を視覚化する試みは、いわば、時間にかたどりを与えるもの」というの。

時間性の問題が、このところずっと、ひっかかっていたからかもしれない。
時間にかたどりを与える、ということばが耳に残った。

展示ももちろん、とてもとても楽しめます。

入ってすぐのところにある作品。造形としてのインパクトもすごいけれど、驚いたのはこれが「椅子」やということ。実用品やったんや…

main

12年ぶりの川村記念美術館

 

川村記念美術館

Barnett Newmanの作品を観るために千葉の佐倉を訪れた。
遠かったけれど、ちょうど紅葉の季節なのが幸い。

はじめて訪れたのは、12年前。
エジリちゃんと一緒に閉館間際に駆け込んだのを覚えている。でも何を観たのかさっぱり覚えていないというあたりが、だらしない。

Barnett Newman展、
全体的には、作品点数が少なく、遠くから足を運んだだけにもの足りなさを感じる。作品の中では、版画の作品の微妙な赤の差と、《アンナの光》の色とそのスケール感が印象に残った。

“大切なのはサイズではなく、スケール”

閉館時刻ぎりぎりまで粘っていたら、外はすっかり影絵の時間。

影絵の時間

エントツがめじるし

 

先週に続き、会期末に追われるように、SCAI THE BATH HOUSEに名和晃平さんの展示 Synthesis を観に行く。2度目なのにすっかり道に迷ってしまう。そんなときに目についたのがエントツ。

そうか、BATH HOUSEだから、エントツを目指せばいいのだ。

名和さんの展示を観るのはメゾンドエルメス以来。

平面の作品をはじめて見る。
でも印象に残ったのは、立体の作品のほうだ。

パッと見たときに、あれ?前に観た鹿の作品かな?と思ったら、違うのだ。
微妙に位置をずらした二重の鹿になっている。(2匹の鹿ではなく二重の鹿ね)
画廊の用意したテキストにはコピー&ペーストとあるが、まったくその通り。立体版コピペ。

とてもいい案配で位置をズラしてある。

長らく業界の話題となっていた「オリジナルとコピー」という二項対立を前提から揺さぶる。その手際の鮮やかなこと。そして、像といったときのボリュームを持った実体としての「像」と、いとも簡単にコピペできてしまう映像としての「像」の、どちらともとれるような存在の仕方が強く印象に残った。

すごい作品だった。

イメネ

 

今日が会期末。山本現代で開催されている高木正勝さんの映像作品。イメネ。

清澄や、京都の下京みたいに、ここも、ひとつのビルの中に複数のギャラリーがフロアごとに運営されているスタイル。

やはり作品を見ていて考えさせられるのは、「わたしたちがものの質感をどういう風に感じているのか」ということ。

液体のねばりけなんかは、そのてりっと光る加減だとか、とあわせて、ぬちゃっという音や、どろっとした動きの緩慢さなど、複合的な情報でその質感を感知しているのだと思う。

その液体がさらっとしているか、どろっとしているか、ということは、動いているところを見ることではじめてわかる「質感」なのかもしれない。

そういう動きによって生まれる質感が映像としてめまぐるしく変化するさまが印象的だった。

実体がないのにもかかわらず、映像の動きによって質感だけが立ち上がったり、あるいは、被写体自身のもつ質感とはまったく別の質感が、映像の動きによってもたらされるのは、すごくマジカルなことだと思う。

ハンス・コパー展

 

土曜、あわててハンス・コパー展を観に行く。

独特の薄さをそなえ、陶器の形そのものよりも、どうしても陶器が内包する空間のほうに意識が向く、いや、そんな抽象的なものではないな。

この薄い陶器の膜に内包されたの空気の’きもち’になるようなこと。
内包された側になりすます、というのか。
それがいやおうなく体感されるのが不思議でならなかった。

もう少し客観的にとらえなおすと、重量や、いわゆる塊としての量感から解放された世界。

くわえて、最初は一体化していた台座とオブジェの関係性がどんどん進化していく様子が興味深い。

そしてその美しさはおそろしくストイック。

後半のルーシーリーの作品の前で立ち止まって、不覚にも「ほっ」としてしまった。そのくらい、ハンス・コパーの作品を見ているときは、見ている側も張りつめていたのだと思う。

それにしてもルーシーリーの作品、良いなぁ。
印刷物でしか見たことがなかったけれど、実物の色、質感、えもいえぬバランス、に見蕩れてしまった。大阪での展示を楽しみにしておこう。

何度もくるくる、

 

早めに出て由比に寄り、名産の桜えびの”かきあげ丼”で腹ごしらえをしてから、IZU PHOTO MUSEUMに向かう。

木村友紀さんの展示。

作品点数こそ多くなかったものの、あまりに面白くて、何度もくるくる会場をまわってしまった。

複数の要素で構成される作品群。
たとえば写真Aに映っている窓辺の色紙3色と、写真Aの上に置いてある写真Bに映っている車の色3色とにが呼応し、なおかつ写真Aに映っている椅子と、そっくりの椅子が、写真Aを乗せている台と組み合わされていたり、と、複雑に要素が絡み合っている。

写真の前にどかっと植物が置いてあって、それがいかにも写真の中の世界にも置いてありそうな植物で、それが邪魔でイメージが見れないけれど、なんだかしっくりしてもいる。

そうやって、写真と現実のモノが介入しあっているのが、ものすごくおもしろい。

そして、離れた場所に展示してある作品Cにも、写真Aの作品で使った椅子と同じ椅子が使われていたり、写真Aがまた別の場所の展示では、別のモノとの関係性で別の作品として存在している、音楽でいうところの変奏のような展開の仕方であったり…(ここまで書いていてことばで説明する難しさを痛感…是非一度見てみてください)

いろんな関係の可能性が、見るたびに発見されるのがおもしろかった。

木村友紀さんの作品は、展示よりも展示写真を見ることのほうが多かったので、難解そうな印象を抱いていたのだけれど、今回、じっくり見てみて、実際に展示を見ることのうちに、その可能性の多くが含まれているのだとわかった。

‘新しいルール’を感じさせる作品群。

駿河平は遠かったけれど、行って良かったと思う。

今年の夏はいろいろ作品を見たけれど、いちばん刺激的で、そしていちばん考えさせられる展示だった。

贅沢な夏

 

結局、昨日、もう一度、原のエグルストン展に行った。

6月に見に行った時点では図録が発売されておらず、図録を調達しがてら…のつもりが、図録に掲載されている画像の、妙にきついシャープネスが気になったので断念する。

結局、展示をもう一度ゆっくり見ることに。

この夏は、原で2回、谷中で1回、都合3回、エグルストンの展示を見た。
贅沢な夏だったと思う。

原の展示ではドローイングもあわせて展示されていたが、エグルストンの目には、ドローイングのような色面の構成、それも動きをともなった色の世界に見えているのだろうか…

ということと、

70年代の作品と、近作で、画面の構成の仕方が、がらっとかわっていること。

70年代にカラーで作品を出したときの状況をもっと具体的に想像ができたらいいのに、という思いと、それが、どのような変遷を経て、近作のようになってきたのかを、きちんと追いたい。

線をなぞる / 山手通り

 

会期末だということに気づき、あわてて、畠山直哉さんの「線をなぞる / 山手通り」を見に行く。

線をなぞる、のシリーズは、どう見たら良いのか、少し戸惑う。

空間の尋常ではない入り組み方が、写真によって平面に写し取られたことで変位するようなところが気になる。すっきりしない感じで、これはしばらく気になり続けるだろうなぁ。

Slow Glassのほうは、もっと素直に見る。

水滴のひとつひとつが、それぞれが独立したスクリーンであることが、発見のひとつ。

ガラス越しの背景にぼやけて見える像と、水滴に映る輪郭のはっきりとした、しかしデフォルメされた像との対比がおもしろい、と思った。

写真に写しでもしなければ、こんなに真剣に窓の水滴を凝視することはないから、やっぱり写真っておもしろい。

ある視点から見た光景を留めおくことによって、ディテールを凝視することができる、というのが、写真のおもしろさのひとつだと確信している。

赤いシャツに赤いキャップ

 

仕事のあとのその足で、SCAI THE BATHHOUSEにウイリアム・エグルストンの展示を観に行く。
猛暑日の午後、暑い中よくもこんなに…と思うほど、ギャラリーは若いお客さんで盛況。

ふと脇を通り抜ける男性。赤いシャツに赤いキャップ。
一度もじかに会ったことはないけれど、ひと目でそのひととわかった。

中平卓馬さん。

小柄な体躯から、独特の緊張感が放たれていた。

気後れがして、挨拶も握手もお願いができなかったけれど、その後ろ姿になんとなく”ごりやく”がありそうな気が(笑)。今日行って良かったー。夏の太陽に負けなくって良かったー。

原の展示と同じ作品もいくつかあったけれど、ギャラリーの展示にしては、ずいぶん充実した内容。
もう一度、客の少ない日にゆっくり見に行こう。

DVDも欲しいなぁ…

silver light

 

金曜日の夜、建築はどこにあるの?を見に行く。

とうもろこし畑、赤稿といった作品は、見るひとの立ち位置や関わり方によって、様相がかわって見え、インスタレーション作品として、とてもおもしろかった。全体としては、説明書きを読んでコンセプトは理解できても、”体験として伝わるもの”が薄いと感じる作品のほうが多かった。

インスタレーションだけに、作品と対峙していろんな体験ができるものだと期待していた分、残念な気持ち、に。

そして常設展に足を運ぶ。

まさかこんなところで、出会うとは思わなかった、Gordon Matta-Clark の建築をぶった切る映像が見られたのが、大収穫。

破壊行為だと思っていたけれど、
実はすごく丁寧に緻密に、建築をぶった切っていたことを知る。

その切り込みによって、構造物の中にすっと光が射し込んでいる様子が、内部からのアングルで見られたのがすごく良かった。映像のなせるわざだ。モノクロの映像だから、色はわからないけれど、それでも射し込む光に”silver light”という表現はぴったりだと思った。

エグルストン日和

 

原美術館のウィリアム・エグルストン展

ほどよい日よりだったので、少し遠出。
原美術館のウィリアム・エグルストン展を見に行く。

まさにエグルストン日和。

展示している作品を見るのは初めて。
思っていた以上に、色の組み合わせが綺麗。

こんなに世の中は色に溢れていて、なのに、見落としている色、見過ごしている色がなんと多いことか。
被写体の捉え方に、ティルマンスを想起する。
わたしたちの世代は、エグルストンよりも先にティルマンスに出会っているのだ。

帰り道は、いつもよりほんの少し、色が、多く見えた。

ジョン・ルーリー

 

法貴信也さんの作品を見に行くはずが、日曜休廊とのことで、予定変更で、ジョン・ルーリーのドローイング展を見に行く。フロアは若いひとでごった返していたけれど、けっこう集中してじっくり見ることができたと思う。

ポップでもなく、でも深刻になりすぎず、見るひとに負担をかけない絶妙の案配。
ひとつの画面を構成する筆致の差異だとか、色、前後の重なり、など、とてもおもしろく見ました。あと、タイトルのセンスが良いなぁと思う。

もう一度くらいは見に行きたいけど、行けるかなぁ。

正直なところ、最近は、写真作品よりも、ドローイングの作品を見るほうが楽しい。

提灯

 

ミックイタヤさんの個展、提灯を見に行く。ずっとお世話になっている美容室、ロマンザのマークがミックさんの作品で、それまでも作品集を見る機会もあったりしたから、「提灯?」と思いながらも遠出をした。

線で描かれた作品がすごく好きなのだけれど、提灯(立体物)のラインもやっぱり繊細なのが印象的だった。

展示の脇に置かれている、ちょっと良いつくりだなぁ…と思う本は、だいたい光淋社が出版したもの。20代前半のころ買っていた光淋社のzyappu。「かわった雑誌」くらいの印象しか持っていなかったけれど、いまなら、この出版社の心意気がよくわかる。

惜しいなぁと言うには、あまりに時間が経ちすぎているんだけど、この出版社を失ったことは、やっぱり惜しいと思った。

L_B_S

 

先週末、メゾンドエルメスで開催されている名和晃平さんの「L_B_S」展を観に行った。

入り口のところで、監視員の方に、「作品にはお手を触れないでください」と注意される。わざわざ、こんなところまで足を運ぶような客に、わざわざ、そんな注意をせんといかんもんなのかなぁ…と思っていたら、その理由がすぐにわかった。

表面の質感に対する関心を強くひき起こす作品。注意されなかったら、つい触って確かめたくなってしまっていただろうな、と思う。

展覧会タイトルのL_B_Sの、LはLiquid、BはBeads、SはScumで、展覧会はその3群の作品から構成されている。

Beadsは、鹿の表面を覆うビーズによって中に入っている鹿の像は歪められている。ビーズで覆われた透明のボリューム。

Liquidは、グリッド状に発生しては消えてゆく泡。うまれては消えてゆくその白い泡の表面に、しばらく見とれていた。

わたしにはどちらも、とても映像的に見えた。

これらは、塊、ボリュームとして受けとめることもできるし、その表面に生起する映像として受けとめることもできる。Scumに関しては、触覚に訴えかける表面の質感が特徴的であり、ものの存在の多層性、ということを考えさせられた。

ドアマンと、店内の雰囲気にビビりながらも、勇気を出して観に行って良かったと思う。

stillとmovie

 

2週間強の期限をきった作業に入る。scaningはルーティンワークだから、意識が手先と別のところを彷徨う。

先日、液晶絵画という展覧会を見たことも手伝って、《時間軸》ということをぼんやり考えていた。stillとmovieの境界線上にあって、その両者の差異を意識させる作品がおもしろかった。

自由

 

タイトルがあやふやだけれど、

親戚の家で猪熊弦一郎の、ARIZONA AND CACCINA DOLLSという画集を見せてもらった。

少し古いものだと思うけれど、装丁も遊び心にあふれていて、
作品も、とてものびのびと楽しいものだった。
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の常設で見る額装された作品は、均整がとれていてちょっとストイック。それよりも、この画集の線は奔放で、見ていて楽しい。
子どものころ、無心に絵を描いていたころの楽しさを彷彿とさせる。

それと、原美術館で開催中のピピロッティリスト展。

素晴らしい作品に出会ったときはいつも「自由でいいんだ」ということを思い知らされる。
知らず知らずのうちに、既成の枠のなかにはまっていることに気づかされる。
自分を不自由にしているのは、ほかならぬ自分自身なのだけれど。

ぼんやりしとった。

 

ぼんやりしとった。
ARTZONEで開催されている、森山大道「記録7号」、今日までやったんやん。撮影の帰り際に寄ったカメラやさんで思い出したときは開場時間を過ぎていた。

まだ東京で会社勤めをしていた頃だから、1998年か99年のこと。
東京、渋谷のPARCOではじめて森山大道の写真展を見て、ショックを受けた。

それまでも、いくつか写真の展覧会は見てはいたけれど、こんな「ただならぬ」感を受ける写真を見たことはなかった。それまで写真に抱いていたイメージをばりっとはがされるような感じ。

そのうえ、名前に濁音が多いし、コントラストのきついバイクの写真が印象的で、マッチョでバイク乗り回しているようないかついニイサンだと思い込んでた。

その頃は新人OL(!)だったし、まさか自分が写真を撮るようになるとは思ってもいなかったのだけれど、その4年後には写真を撮りはじめるようになり、森山さんの本を読んだり、DVDを見たりしているうちに、まず「ニイサン」ではないことを知り、つぎにマッチョでバイクを乗り回しているようないかついひとではないことを知った。

先日のトークショウも開演に遅れて着いたら「満席です」と入場を断られ、あらためて写真展だけでも見に来ようと思っていたのに、ぼんやりしとった。

残念でならない。

懐疑

 

 光線や視線、網膜といった概念を編んでいる〈線〉と〈膜〉という比喩、それがわたしたちの感覚に、なにがしかのバイヤスをかけてきたのだろう。二つの異なるもののあいだを走る線(矢印のように物に向かう視線、もしく彼方からこちらにやってくる光線)としての視覚、そして網膜というスクリーンに映る「像」としての視覚風景。ここでは視覚が、まるで知覚する主体と知覚される対象とのあいだの、眼球という媒体ないしは衝立を介して起こる出来事であるかのようにとらえられている。見るものが見られるものから隔離されているのだ。接触も摩擦も圧迫も浸透もない、距離を置いた関係として、である。「見え」とはしかし、そうした遠隔作用のなかで生まれるものだろうか。

 考えてみれば、わたしたちがじっと頭部を固定して物を見るのは、顕微鏡をのぞくときくらいしかない。ほとんどのばあい、頚を回し、身体を動かしながら、わたしたちは物の「見え」にふれている。視覚とはつねに運動のなかに組み込まれているのであって、物を正確に見るというのも、カメラに三脚を装着して微動だにしないよう固定するということではなさそうだ。触れるということが、物との接触や衝突ではなく、まさぐりにゆくという身体の運動のなかで起こったように、見るということもまた、網膜への刺激の投影ではなく、何かに向かうという、環境への動的なかかわりゆきのなかで生まれると考えたほうがいいのではないか。

(『感覚の幽い風景』 鷲田 清一著 紀伊国屋書店 2006 より抜粋)

「見る」とはどういうことか。視覚のモデルに対する懐疑。自分があまりに無批判でいたことに少しドキッとする。

ひとは見ようとして見るし、聞こうとして聞く。
たしかにそれは、動的で能動的。

やってみよう。

今、見えるもの。自分の部屋。少し離れたところにある展覧会のパンフレット。色鮮やかなので目をその方向に落ち着けて「見る」。もうその瞬間には、タイトルの文字をなぞっていて、さらにより細かい字を読もうと目を細める。また、少し視野を広げて、全体を見る。それから引用されている絵に目を移し、その裏に隠れている紙は何だろうと角度を変える…いざ「見る」となると、ひとところに留まることなく関心は移ろい続ける。なにか考えごとをしてぼうっとしていない限り、たしかに「見る」は動的だ。

展示現場での鑑賞者の「見る」をどう設計するかということに、以前から興味がある。考えるべきなのは、この方向かもしれない。

写真は写真のままでいいんだと思う。

 

第1弾のフィルムがあがってきて、スキャニング。スキャナの設定のせいかえらく黒がつぶれているのが気になる。色ひとつで写真の印象はまったく変わるから、色って大事やなぁと思う。

以前よりずいぶんラフに構えるようになってきている。でも、まだまだ、いろんなものを引きずっている。

スナップって誰にでも撮れてお手軽なぶんいちばん慎重にならんとあかん。その緊張感がええのかもしれない。あと、ものごとを権威づけるシステムというものが根っから嫌いなんだと思う。真っ白い箱の力を借りてただの写真を「作品」にしてしまうこととか齟齬があった。

展覧会をして、わざわざ遠いところから足を運んでもらって、写真を見てもらうことにも気後れがあった。写真なんて流通のしようはいくらでもあるのに、わざわざ展覧会の会場に来てもらうんだったら、その会場じゃないと得られない体験を提示しないといけないと思っていた。だから、作品は自然とインスタレーションのかたちを採ってきた。展覧会という作品発表の形式が最初にあって、そこからインスタレーションという作品形態が導きだされるのは、順序がおかしいんじゃないか。まず作品があって、それに適した発表形式を選ぶのがまっとうなんじゃないか。

わたしはスナップを撮るのがいちばんしっくりするし、スナップなら点数もたくさん見せたほうがいい。いまは冊子形態やweb媒体といったものに発表形式をシフトしようと思っている。だから展覧会をするつもりはまったくない。数年かけてスナップを撮って、それを適切な方法で見せる。中長期プラン。だから毎日少しずつ撮りためていっている。

わたしは美術からスタートしたのではなく、写真からスタートしたのだから、写真は写真のままでいいんだ思う。わざわざ白い箱に持ち込んで「作品」として見せることを意識しなくていい。さりげない方法ですばらしい視覚体験を提示できれば本望。

写真を使わない

 

コンペ用に過去の作品をまとめると同時に、あたらしい展示プランを考える。

いろいろ作業をするなかで見えてきたこと。

現時点でわたしは、
写真そのものよりも空間展示に関心の重心がある。

ホワイトキューブの展示を前提とするプランの公募で
わたしがしあげたプランは、写真を使わないインスタレーション。

写真を撮っているうちに鋭利になったのは、光と影に対する感覚。
特に、影に対してはフェティッシュなほどにひきよせられる。
言葉で説明はできないけれど、そこにわたしにとっての「必然」がある。

影をテーマに作品をつくりたいと思っていたことにいまさら気づき、
大きなホワイトキューブに写真を展示するより、
影で空間を構成することを考えたいと思った。

すこし実験をはじめたから、このまま続けてみようと思う。