BLOG

ときどき、私を越える。

それまでワンショットでおさめていたものに、何度もシャッターを切っている。
迷いを変化の兆しととらえれば、決して悪いことではないのだけれど、どこか心許なさもつきまとう。気がつくと、ジョージア・オキーフと篠田桃紅の本を手にしていた。

あるときは、思いもかけないぐらい、墨は美しい表情を出すんです。自分でも、こんなにうっとりする線が引けるとは思わなかった、っていうものを授けるんです。ときどき、私を越える。こんなに美しいものを描ける力があったんだって、自分で自分にびっくりする。惚れ直すことができるんです。墨には、それくらい幅があるんですよ。

(『百歳の力』 篠田桃紅著 集英社新書 2014 p146より抜粋)

ときどき、私を越える。

何十年も墨の線を引き続けた作家が、それでもなお、自分を越える美しい線に出会い、驚く。
その事実に、こころが震えた。

書くこと

「書くこと」について、友人と話をした。

友人は、わたしがどこに着地するかわからないままでも書き始められることに、すこし興味を持っている様子だった。彼女は、どういうことを書くか決めてからでないと書けないと言う。

書いているうちに思いもよらない方向に展開したり、思いもよらないものに接続することが、即興演奏のようでおもしろいと感じていたが、書く人がみなそういう風に書くわけではない、ということを、わたしはその時はじめて知った。

書くことや、ものづくりで一番おもしろいのは、手を動かしているうちに、まったく想像もしなかったものが生まれる(というより「出会う」)ことだと思っている。とりかかった時点で、何ができあがるか、自分にはわかっていない。むしろ、わからないからこそ、自分の手が生み出す、まだ見ぬ何かを見たいと願う。そして、それが書いたり作ったりする強い動機になっている。

下條信輔さんの、『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』に、前意識についての記述を見つけた。「知っている」と知っている範囲(意識 conscious representation)の外側に同心円状に、知らずに「知っている」範囲(前意識 sub-conscious representation)が広がっている図を見て、なるほどなぁと思った。

書いたり、手を動かすことが、前意識と呼ばれる部分に働きかけをしているのかもしれない。

ここで特に私たちが考える前意識の知は、意識の知と無意識の知の境界領域、またはインターフェースにあたります。人が集中して考えたり、あるいはぼんやりと意識せずに考えるともなく考えているときに、突然天啓が閃く。スポーツによる身体的刺激や、音楽による情動の高揚、他人がまったく別の文脈で言った何気ない一言などが、しばしばきっかけになるようです。

こういう場合には、新たな知は外から直接与えられたわけではなく、といって内側にあらかじめ存在していたとも言えません。その両者の間でスパークし「組織化」されたのです。

この意味で前意識の知は、意識と無意識のインターフェースであると同時に、自己の心と物理環境、あるいは社会環境(他者)とのインターフェースでもあります。前意識を通してさまざまな情報や刺激が行き来するのです。(後略)

(『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』 下條信輔著 筑摩書房 2008 pp.258-259から抜粋)

音の遠近

久しぶりにクラシックのコンサートを聴きに行った。

ごくあたりまえのことだけれど、さまざまな質の音があちこちから響いてくることや、コントラバスの低い弦の音のゆたかさ、弦をはじく寸前の微かに擦れる音、指揮者ののびやかな身ぶりに自分の身体もどこか同調しているようなこと、いろいろ発見があっておもしろかった。

なかでも、ヨハンシュトラウスの「ばらの騎士」でバイオリンが近くの音、遠くの音を奏で分けている箇所。音だけで空間の奥行きがグンと広がったことに鳥肌が立った。音の強弱だけでなく、明瞭さや肌理といった音の質も奏で分けられていたように思う。実際の劇場の空間よりも、広さや奥行きを感じられたのが不思議だった。

音楽の道に進もうと思っていた10代の頃、ひたすら譜面を追っていた時期には、気づかなかったことばかりだ。離れたからこそ、気づくことがあるのかもしれない。

オリジナルとコピー

『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』にあった遷宮の話が、ずっとひっかかっていた。世界遺産への登録が検討された際、遷宮によって建て替えられた“新しい建物”をどうとらえるかが議論になったという。

コピーがオリジナルにとってかわるという存在のしかたが取りざたされたようだけれど、わたしたち自身、その細胞は日々新しいものに入れ替わっている。むしろ遷宮のシステムは、生物の在りように近いのではないか、とも思う。「存在のしかた」は、ひとつではないのだ。もっと世界に視野を広げれば、もっと多様な「存在のしかた」が見つかることだろう。

それと同時に、あたりまえに交わされる「オリジナルとコピー」という議論が、実に西欧的(西欧ローカル)な問いであることにも気づかされた。

最近、芸術の枠に組み込まれていない視覚表現に関心を持つようになった。そういったところから、芸術における議論を相対化する視点が得られるのではないか、と期待している面もある。そう考えるようになったきっかけは、この遷宮の話だ。

以下、『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い (岩波現代文庫)』 高階秀爾著 岩波現代文庫 2009より抜粋。

 ところが、伊勢神宮においては、コピーが本物にとって代わるーというか、コピーこそが本物であるーという、西欧の論理ではあり得ないはずのことが、現実に行われている。神殿が二十年ごとに建て直されるというのは、もともとは建物が古くなって損傷が激しくなったから新しいものに代えるという理由から始められたものであろうが、それは、本物がいたんできたからコピーで間に合わせるというものではない。新しく出来上がった瞬間に、それは「本物」となるのである。(p31より)

 問題は、もちろん伊勢神宮だけにあるのではない。日本古代のこの神殿が、西欧の論理を戸惑わせるようなやり方で今日まで生き続けているということは、とりも直さず、それが日本人の心性、価値観、ものの味方と、深いところでつながっているからであろう。

 差し当たりまずはっきりしていることは、日本人は西欧人ほどものそのものに価値を置いていないということである。あるいは、ものそのもののなかに本質はないと考えている。と言ってもよいかもしれない。伊勢神宮で大事なのは、建物そのものではない。いや建物はむろん大事ではあるが、その大事だということが、建物の材料であるものとは、必ずしもそのまま結びついていない。現実には二十世紀に建てられたものであっても、あるいは途中で何回も壊され、建て直されたものであっても、現在の伊勢神宮は、われわれにとって、やはり千数百年前とまったく同じ価値を持っている。(p32より)

 この「形見」という言葉は、もともと「かた」(型、形)に由来するものであろうが、とすれば、そのこと自体、きわめて意味深い。事実、西欧に「ものの思想」というものがあるとすれば、日本には「かたの思想」とでも呼ぶべきものがあって、ものそのものよりもかたないしは形の方を重要視する傾向が強いからである。伊勢神宮が六十回も建て直され、そのたびにものとしてはまったく新しい別の存在になりながら、一貫して同じ価値を保ち続けた理由は、それが同じ「かたち」を受け継いでいるからなのである。

 日本人のこのような価値観は、宗教の世界を離れて日常の世界においても、その現われを見出すことができる。さしずめ、歌舞伎の名跡などというものはその代表例であろう。

 かつては、梨園においてのみならず、武家でも商家でも似たようなことが行われていたが、団十郎とか歌右衛門という名前は、それを名乗る人が何回入れ代わっても、一貫してある一定の価値を示している。ちょうど伊勢神宮が、何回建て直されてもつねに伊勢神宮であるのと同じである。(p38より)

備忘録

いくらでも考えるべきことはあるのだけれど…
造形や表現を生み出すときの、プリミティブな衝動や、感覚を忘れないように。

頭だけで考えることも危険。ほんとうに「腑」に落ちているか。身体に訊いてみる。
一見、理屈が通っているように思えることも、実感がともなわなかったり、違和を感じるときは立ち止まろう。

写真は、被写体の意味や物語に安易に回収されてしまうから気をつけること。あくまでも「画面で何が起こっているか」「画面との間に何が立ち上がりうるか」に留まり続けること。

朝顔考

祖父が遺した朝顔の種を播いたのは一昨年のこと。
その花が種を落としていたのか、今年は播いたつもりのない鉢から二株の朝顔が芽を出した。

せっかくだからと鉢をわけて育ててみたら、片方は葉っぱも花も強く縮れた畸形だった。
しばらくのあいだ、畸形の株をかばうような心もちで水をやっていたのだけれど、ある朝、堂々と花を咲かせているのを見て、これがこの花の個性なんだと気がついた。

その発見はなんとも嬉しく、清々しさと開放感に溢れていた。ほんの少し自分の心がふくよかになった気もした。

つまりは、息苦しかったのだ。
正常や標準といった狭い範囲をくくり、そこから外れたものを排除したり、標準に近づけようとする社会の圧は日増しに強くなっている。その圧が恒常的であるがゆえに、気づきづらく、さらには、知らずしらず内面化してしまっていたのだろう。ずいぶん、無頓着になっていたものだ。

朝顔の花から学んだものは、大きい。


一昨年は、朝顔のつるを巻いて他者に寄りかかるありさまに、嫌悪感を隠せなかった。
できることなら、向日葵のように己の力ですっくと立っていたい、と思ったものだ。

でも今夏の台風で、強い風にあおられるなか、朝顔だけがまったく動じない様を見て、
他者の支えを前提として生きるしなやかな強さを朝顔に見出した。

平時だけを考えれば、向日葵の生き方でもいいのかもしれない。
けれど、有事を想定すれば、朝顔の生き方にも一理ある。

朝顔ひとつとっても、見える景色が変わることもあるのだと知った。

妄想

昨夕、水餃子を湯がくのに、ふと思いついて「OK google! 4分測って!」とお願いしたら、ちゃんとスマホのタイマーが起動して4分が計測された。調理中のような、両手が塞がっている場面では、音声でコントロールできるのは、ものすごくありがたい。長時間露光の撮影でも、使えるんじゃないかと思う。

先日、1年ぶりに訪れた漢方医で。
それまでは、話を聞きながら先生が問診内容をタイピングしていたのが、その日は、先生がこちらを向いて話を聞いているだけで、わたしの回答が画面の電子レシピにリアルタイムで書き加えられていくのに驚いた。よく見ると、奥に助手が座ってタイピングをしていたのだけれど。

先生がきちんと自分のほうに身体を向けているだけでも、ずいぶん印象が違う。それまでは、発話のタイミングを先生のタイピングのペースにあわせていたのが、普通に会話ができるようにもなった。
問診がスムーズになった分、診察時間は短縮されたが、「ながら聞き」ではなくなったので、コミュニケーションの質は高くなったと感じられた。(生産性の向上やなぁ)

医師は、医師にしかできないことをするべきで、タイピングをする必要はないという当たり前のことに気づかされたのと同時に、いずれこの部分は音声入力に取ってかわられるだろう、と思った。
最近の音声認識は、思っているよりずっと精度が高く、わたし自身、スマホの入力はほとんど音声に頼っている。

さて、こんなことを書いたのは、WEBが今後どうなっていくのかを考える機会があったから。
音声認識とアシスタントの能力がどんどん高くなれば、視覚ベースが音声ベースのコミュニケーションにとってかわられる場面も増えていくだろう。WEBはアシスタントにリーダブルな構造に変化していくだろうと予想している。

そういうことを考えていたせいか、膨大な撮影データから「あなたにオススメの被写体」をカメラにおすすめされたり、過去に設定された露出の解析をもとに、被写体に応じて「わたし好み」の画が得られる設定をカメラが自動的にほどこす時代がくるのではないか、というようなことを妄想した。

たぶん、技術的には可能だろうけど、そこまでいくと、撮影者の主体性が脅かされ、撮影する楽しみが奪われるから、あえて踏みとどまる(踏みとどまっている)のではないだろうか。
「オススメ」を裏切りたくなる天邪鬼な心根が、撮影者をよりクリエイティブに駆り立てる、ということになるのかもしれないが。

運動する都市のイメージ

 第二に、泥絵が人事・風俗のモティーフを排除するのに対して、浮世絵は人々の営みを前景化する。それは、絵師の関心の中心が、街を背景として繰り広げられる人間の〈出来事〉にあることを意味する。それに対して、人事・風俗モティーフがほとんど見られない泥絵の場合に際立つのは、都市空間そのものの〈フィジカル〉な存在である。つまり泥絵が描くのは、都市のハード面を形成する坂や道、建築物など不動のものである。主役は街そのものであって、街に生きる人間ではない。それに対し、浮世絵は都市のソフト面を描く。人事・風俗などはまさに運動する都市のイメージである。

 第三に、浮世絵が表象しようとしているものとは、移ろいゆく時間的モティーフであるといえるだろう。花鳥風月などをはじめとする循環する時間を指示する季節の景物は、広重の浮世絵にとって非常に重要な構成要素である。気がつけば過ぎ去るが、また返ってくるという循環する時間。そこに浮世絵の受容者は〈情趣〉を感じるにちがいない。また広重は、夕暮れや夜景、雨や雪など、一日の特定の時刻や気象を指示するモティーフも執拗に描いた。一瞬のうちに過ぎ去っていってしまう時間のはかなさもまた広重が好んで描くところであり、受容者はその〈情趣〉に感情移入しやすかったにちがいない。それとは反対に、泥絵の場合、花見や雪などきわめて稀な例を除いて、季節を判別することはほとんど不可能に近い。季節を表示する自然物がほとんど表象されることがないのと同様に、時刻を表示するモティーフもほとんど描かれない。泥絵には、朝焼けも夕暮れも夜景も存在しないのである。存在するのは、昼日中の抜けるような青い空の真下に静かにたたずむ江戸の街なのである。広重が時間的なものを〈情緒的〉に描くとすれば、泥絵はむしろ空間的なものを〈理性的〉に描いているといえるだろう。

トポグラフィの日本近代―江戸泥絵・横浜写真・芸術写真 (視覚文化叢書)』 佐藤守弘著 青弓社 2011 pp.41-42より抜粋

これは、泥絵と浮世絵を比較した記述だけれど、自分の関心が浮世絵師のそれとほぼ重なることにどきっとした。むろん、そのままなぞるつもりなどさらさらなく、むしろ〈情緒的〉にしか表現されなかった題材を〈理性的〉に扱おうと思っているのだが。

ARCHIVES

2018
2017
2016
2015
2014
2013