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第3形態

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たまに見かけるマトリョーシュカスタイルのミキサー車

作品のポータブルな形態として、最初は冊子、それから折本にしてみたけれど、
ロシアで撮影した作品はあまりに長く、折本に仕立てるのすら難しいと判断。で、第3形態、巻子。

わたしは、日本美術の影響を多分に受けている、という自覚がある。先行する写真作品群よりずっと深いレベルで、日本美術の影響を受けている、と思っている。

でも、それは画面の構造的な問題であって、テイストとして和を取り入れることや、安易なエキゾチシズムに回収されるような表現は、絶対に避けたいと思っている。そういうこともあって、巻子の形態を採用するのに過剰なほど警戒心を持っていたのだけれど、巻子は固定されたフレームを持たないという点で、作品にもっとも適した形態である、と、ある日ふっと腹に落ちた。

実際作ってみると、巻子は、シンプルな構造でありながら大量の情報を輸送することができる、非常に優秀なアナログツールだと思う。一方、リニア編集とか、シーケンシャルアクセス、ということばを久しぶりに思い出すくらい、「前から順に」しか目標にたどり着けない、まどろっこしさもある。(カセットテープを思い出した)

そして、手で繰ってみた実感として、わたしの作品には巻子の形態がいちばんしっくりきている。
写真集を…と長らく思っていたけれど、作品の性質として、そもそも冊子には向いていないのかもしれない。

意外なところにヒントがあった

ここ数年、撮影旅行や、展覧会でバタバタしていて、知らぬ間にものが増えていた。
引っ越しや、トランクルームの利用も考えたけれど、まずはものを減らしてみようと思い、不要品の処分と部屋の整理に取り掛かったのが1年ほど前のこと。最近になってようやく、目に見えてものが減って気づいたことがある。

はじめは、身軽になりたいという思いに突き動かされていたのだけれど、ものが減って部屋が片づくと、
(誰もが言うことだけれど)まず、とても気分がいい。

そして、予期せぬ収穫は、今まで気づかなかったことに、気がつくようになったこと。

部屋のカーテンをシンプルなものにかけかえたら、翌朝、外から射し込む光が、窓ガラスを通すのと、通さないのとで、ほんの少し、緑み、あるいはマゼンタみ、を帯びていることに気がついた。
もしこれが、部屋がごちゃごちゃしていたり、にぎやかな柄のカーテンを吊っていたら、きっと気づかなかったろうと思う。日常生活での些末な気づきは、もっともっと、数え切れないくらいたくさんある。

ものが多いときは視覚刺激が多すぎて認識できなかったものが、ものが減って刺激が少なくなったせいで、より繊細に認識できるようになったのだと思う。感度が少し上がったのかもしれない。

どうしたら見る感度を上げられるか、ということをずっと考えていたけれど、意外なところにヒントがあった。

余計な刺激を減らせばいいのだ。

ベース

小学生の頃、わたしは家から少し離れたスイミングスクールに通っていた。
帰りのスクールバスは、夕暮れどきの千里ニュータウンをぬって走る。

ぽつぽつとあかりが灯りはじめる高層住宅をバスの窓から見上げながら、ひとつひとつの部屋に、それぞれを中心とした別々の世界が同時に存在する、ということを、ぼんやりと考えていた。そこはかとなく寂しい気もちで。

それからずっと後、哲学の講義で「それまでは自分と世界をひとつのものだと思っていたのが、自分とは関係なく世界が存在していることに気づいたときの幼児の痛み」という話を聞いたとき、「自分とは関係なく」のワンフレーズに、寂しさの出どころを言いあてられた気がした。

「自分とは関係なく、それぞれを中心とした別々の世界や物語が、同時に、そして無数に存在する」

幼い頃、ヒリヒリするような寂寥感とともに身につけた世界観が、自分の作品のベースにはある、と思う。

先に選択や判断がある

自分のなかですでに「ゆるぎなく決まっていること(選択や判断)」があって、その理由を何年もかけて探しながら作業をしているようなところがある、と気づいたのは最近のこと。

昨年サンクトペテルブルクで撮った写真は300カットを超え、地道に編集作業を続けていると、正直「長すぎる…」と心が折れそうになることもある。その一方で、冗長であることに確信を抱いてもいる。手を動かしながら、「なぜそんなに冗長性にこだわるの?」と、問い続ける。思い返せば、ずっとそんなふうにして作品を作ってきたのかもしれない。

というのは、「コンセプトがあって、それに向けてつくる」という枠組みで作品の説明を書くたびに、落ち着きの悪さや、嘘がある感じ、を抱いていたから。

作っている自分も、はじめから全部わかっているわけではないし、見通せているわけでもない。手を動かしながら、徐々に明らかになっていくことがある。
もしかしたら、それがおもしろくて作り続けているのかもしれない、とすら思う。

魔術のような世界だった

部屋の整理をしていると、古い印画紙の箱と一緒に、大学時代、暗室で焼いたモノクロの写真が出てきた。

いま見ると拙いものばかりだけれど、せっかくなので何枚か残そうと選びながら、印画紙の質感っていいなぁ、と感じ入る。たぶん、当時のわたしはそんなふうには思っていなかった。

グラフィックデザインを志して進学したにもかかわらず、ずぶずぶと写真にはまり込んでしまった理由のひとつは、暗室作業が好きだったから。

暗室での作業が、ただただ楽しかった。
赤いランプの下、現像液のゆらめきの中で像が浮かび上がる瞬間がものすごく好きだった。もしかしたら、しあがった写真より、像の生まれる魔術的な瞬間を愛していたのかもしれない。

暗室の隣には立派なスタジオもあって、あるとき恩師がその重厚な扉に穴を穿ち、スタジオをまるっとカメラ・オブスキュラに仕立ててしまった。その小さい穴から射し込む光が結ぶ、さかさまの像は、それこそ魔術的だった。

すっかり忘れていたけれど、写真をはじめた頃、わたしにとって写真は、魔術のような世界だった。
作品云々よりずっと手前のところで、その魔術性に魅了されてしまったのだと思う。

フルデジタル化して、ずいぶん遠のいてしまったな。
もう一度、暗室作業、やってみようかな。

ふんわり漂うのは沈丁花の香り

ふんわり漂うのは沈丁花の香り。
ついつい惹き寄せられる。

いいにおい。

春のあたたかい陽射しにくるまれるのも心地がいい。

あるときはストライプに、あるときはまだらに落ちる光と影。
くぐるようにそこを通り抜けるのもまた、楽しい。

ふと思う。
シャッターを切るときのトリガーは、必ずしも視覚によるものではない、と。

いま、ここ、にわたしの感覚を総動員しているのに、
写真におさめて「視覚に縮約する」とはどういうことだろうか。

記述方法と対象のマッチング

物理学では、科学者はモデルや理論をつくって、この宇宙に関する観測データを記述し、予測をおこなう。その一例がニュートンの重力理論であり、もう一つの例がアインシュタインの重力理論だ。これらの理論は、同じ現象を記述していながらも、まったく異なるたぐいの現実を表現している。ニュートンは、たとえば質量を持った物体が力を及ぼしあうと想像したが、アインシュタインの理論では、その効果は空間と時間の歪みによって起こるものであり、そこに力としての重力の概念は含まれていない。

 リンゴの落下はどちらの理論を使っても精度よく記述できるが、ニュートンの理論のほうがはるかに使いやすい。一方、運転中に道案内をしてくれる、衛星を使った全地球測位システム(GPS)で必要となる計算をおこなう際には、ニュートンの理論は間違った答えを与えるため、アインシュタインの理論を使わなければならない。現在では、どちらの理論も、自然界で現実に起こっていることの近似でしかないという意味で、実際には間違いであることがわかっている。しかし、適用可能な範囲で自然をきわめて正確に、そして有用な形で記述してくれるという点では、どちらの理論も正しい。

(『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p66より抜粋)

旧い話だけれど、工学部に在籍していたころのわたしは、とてつもない落ちこぼれだった。
次々と出現する記号にとまどい、まったく内容が理解できない講義に「母語がこんなに理解できないなんて!」と驚きすら覚えながら、暗号を書き留めるかのように板書を写す、そんな学生時代だった。
たぶん電磁理論の講義のあとだったか。「なんで、こんなわけのわからん記号をようさん使わなあかんのやろ。」とぼやく私に、

「aはbの3倍である、bはcを6つに等しく割ったうちの1つである。と文章で記述されるより、a=b×3 b=c÷6 のほうが簡潔やし、パッと見て事実関係がわかりやすいやろ。数式は、いくつかある表現のなかで、もっとも使い勝手のいいものと思ったらええねん。」

と級友が諭すように言ったのを思い出す。
そのときにはじめて、数式を「唯一の真実」ととらえるのではなく「数ある表現のうちのひとつ」ととらえることを知った。

同じころ、言語学の講義で、that節が入れ子になっているような英文は、日本語に訳すより英語のままのほうが事実関係を把握しやすいという話を聞いた。

CがDを嫌っていることをBが悩んでいるらしい、とAが言っていた。

というような、少し複雑な状況を説明するには、英語の構造のほうが日本語の構造よりも適している、と。
そこで、記述(表現)方法と対象とのあいだには、向き不向きがある、ということを知った。

ここに出てきた物理学の理論。数式、言語。もちろん、視覚表現も然り、だろう。
記述(表現)方法と対象とのマッチングについて、あらためて考えてみる必要があるな、と思った。

動くものを見る

昔、教習所で「動くものに視線をとられるから、フロントガラスに揺れるものをぶら下げないように」と言われたことを思い出したのは、降雪の中で撮影をしていたとき。ピントをあわせるために被写体を凝視しても、雪のチラつきにずいぶん注意を奪われることに気がついた。

それから、人は動くものに、(本人たちが思っているよりもずっと強く)注意がそがれてしまうのではないか、と考えるようになった。逆に言えば、写真の「静止していること」がもたらす効果は、想像以上に大きいのではないか、と。

静止しているからこそ、つぶさに観察ができる。
誰もが知っている、ごくあたりまえのことだけれど、これは案外、重要なことではないだろうか。

先日、ふと手に取った本にいくつか視覚に関する興味深い記述を見つけた。

適切な条件下で、ある映像を左目に、別の映像を右目に同時に見せられると、その両方を何らかの重なり合った形で見ることはなく、一方の映像だけが知覚される。そして、しばらくするともう一方の映像が見え、その後再び最初の映像が見えるというように、二つの映像が際限なく切り替わる。

 しかしコッホのグループは、片方の目に変化する映像を、もう片方の目に静止した映像を見せられると、変化する映像のほうだけが見え、静止した映像はけっして見えないことを発見した。つまり、右目に、卓球をしている2匹のサルのビデオを、左目に100ドル札の写真を見せられると、左目はその写真のデータを記録して脳に伝えているにもかかわらず、本人はその写真に気づかない。

(『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ著 水谷淳訳 2013 ダイヤモンド社 p56より抜粋)

このあと、変化する映像が優先的に意識にのぼり、変化しない映像は無意識の領域で処理されるという話につながっていくが、無意識の話はさておき、変化する(動く)映像のほうしか意識にのぼらないというのはすごいな、と思う。

それほどまでに、視覚のなかで「動き」が優先して処理されるとは思っていなかったから、ただただ驚いた。

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