LISA SOMEDA

photography (72)

approximation

 

Monochrome photos are luminance patterns and color photos are converted patterns from countless to a few colors. Both are just approximations.

無時間性

 

とある本を読んでいたところ、無時間性ということばに出会う。

そういえば、RIVERSIDEの編集をしているときに、ハッと手を止める瞬間があって、それは信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間、時計の針…そういった時間を意識させるものに強く反応したんだということに気がついた。

逆に言うと、編集中、わたしは自分の撮った写真に無時間性を感じていて、だからこそ時間を意識させるものが登場するとハッとしたのだ。

unexplainable photographs

 

Through talking with others or seeing photo exhibitions, I’m getting back my passion to take unexplainable photographs.

I’m sure that there are such photographs which cause us no empathy, no good feelings and no understanding but remain in our heart deeply. I am eager to take such photographs.

I would like to touch the world in only my own sense, even though abandoning knowledge, contemporary context nor consistency of my works.

Trade-off

 

By the influence of COVID-19, vacant rooms are increased in central area in Kyoto, and it becomes often to be seen glass windows of vacant rooms covered with sheets or wood plates.
On the other hand, the rush of construction apartment buildings occurs in residence zone.
It becomes often to be seen the just new glass windows covered with sheets also there.

When I try to stare at the reflection on the glass, grains of wood or pleats of sheet interrupt me.
Then, when I try to stare at grains of wood or pleats of sheet themselves, the reflection on the glass interrupt me.
I remember the word “trade-off” with this experience, I think that it symbolizes social situation right now the most.

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Touching the world gently

 

Setting up the tripod, adjusting the camera horizontally and vertically, just when I turn the focus ring delicately at last, I feel as if I touch the world gently.
I wonder if I may be healed not so little by the gentle motion of my own hand. I wonder if I may be healed not so little by the gentle motion of my own hand. When I touch something gently, the gentleness is not only for the object but also for myself.

Here I would like to write about the first part.
For if the focus ring is turned a little too much, the screen image becomes a bit out of focus, it must be turned delicately.
I suppose that the delicate gentle motion of my hand causes gentleness in my mind.

There, I found an interesting story in an interview by Shigesato ITOI and Prof. Yuji IKEGAYA. (https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html
It’s about the experimental report that test subjects felt more funny when they read comics keeping their mouth pronouncing ‘ee’ than ‘woo’.
“The brain is isolated from the outside and it cannot recognize the outside by itself. The brain can recognize the outside only through the body. So, the brain makes a reasonable answer that the comic is funny based on two pieces of information, one is smiling (mouth pronouncing ‘ee’ ) and the other is reading a comic. The status of the body precedes the interpretation of the brain.” Prof. IKEGAYA said.

If so, I think that it’s not impossible that the gentle motion of one’s hand causes gentleness in one’s mind.

One more.

In the movie Nichinichi kore kôjitsu (2018 Japan), a teacher of traditional Japanese tea ceremony tells her student “You must start to learn “form” in Japanese way of tea. The first you learn “form”, the next “mind” accompanies it.”

Our predecessors may have known that the behavior comes first and the mind comes last.

gradually

 

When we see the bottom of the below image, we can see the sheet with protrusions. Then, seeing upper gradually, our awareness are to the reflection on the glass away from the sheet itself.
I wonder if it is difficult to aware the texture or existence of the object itself when it becomes the basement of the reflection.

gradually

I remember such a frustration I felt in childhood as when I would see the outside of the window in the train at night, the light reflected by the window kept me from seeing outside.

It’s difficult for me to see what I want to see.

もうひとりのリサちゃん

 

アルバム、と言えば、リサちゃんを思い出す。
Bobbin Robbinのお客さんで、もうひとりリサちゃんがいて、
(向こうから見たら、わたしのほうがもうひとりのリサちゃんなんだけど…)
そのリサちゃんは写真家で、そのときちょうどギャラリーで個展を開いていた。

結婚式の写真をハンドメイドのアルバムにまとめたものを展示していたと記憶しているけれど、愛嬌のあるアルバムとは裏腹に、写真が鋭かったのが印象に残っている。
鋭く、それでいて、凛としたうつくしさの備わっている写真だった。
わたしがもし間違って結婚式をあげることにでもなったら、
迷うことなく彼女に撮影を頼むだろう。

自分もまた、撮った写真をアルバムに仕立てる依頼を受けたので、
ふと、彼女のことを思い出してしまった。

もうひとりのリサちゃんは、今ごろどうしているんだろう。

リズム

 

作品とはまた別で、まとまった量の写真を編集する機会をいただいた。

複数の写真が配置されることによってうみだされるリズム、とか、仮構される、時間性、空間性。作業をしているうちに、だんだんそういうことが気になってきた。

実際にはまったく脈絡のない写真でも、並べると、それぞれの文脈とはまったく別の、あたらしい意味がうまれたりする。

おもしろいのだけれど、おそろしい、とも思う。

トーンカーブの日々

 

トーンカーブと格闘するうちに、夏が終わる。

写真は、撮った後が大変、ということがよくわかった。

色はほんとに難しい。相当色の偏った写真ばかりだったから、苦労したというのもあるけれど…
どうやったら、もっとスピードと精度、あがるんだろう…

工作中

 

ずいぶん長い間、書きそびれているな、と思っていたら、2ヶ月もあいてたのか…。

作業内容をノートにメモするようにしたら、それでことたりてしまっていた。

つないだ写真のラフを出力して、何の気なしに、蛇腹折りにして、手のひらサイズにしてみたら、これが意外とよい感じだったので、工作にのめりこむ。

PCで作業するより、実際モノを触っているほうが楽しいな。

晴れの日は撮影に出るほうが気分いいし、PCでの作業は、実際のところ、工程のなかでいちばんストレスフルなのだろう(いちばん重要だけど)。

そうはいっても、製本の目処がたったら、PC作業に戻らないといけない。

明日は、友人と一緒に杉本博司の展覧会を見て、場所を四ツ橋に移して、別の友人の展示を見て、東急ハンズに製本の道具を探しに行って、帰りに紙も選んでくる。

あと、できれば道頓堀の《とんぼりリバーウォーク》も見てみる。

土、日、と雨が続いたら、月曜の朝の光は綺麗だろうな。あまり欲張らずに早めに帰宅しよう。

まず青から順に届けられる。

 

早朝の撮影。
いちにちの始まりは、まず青から順に届けられる。

そのあとミドリが。黄色が。
そうして最後にやっと赤が。

まだまだ低すぎる露出とにらみあい、
かじかむ手を缶コーヒーであたためながら、
世界のことを少し知った。

シロムク

 

神式の挙式には参列したことがないので、いちど式の流れを見ておきたい、と思って、大安だったし、護王神社に二度目の下見に向かう。

建物の構造的に正面から新郎新婦を撮るのが難しいこととか、蛍光灯と外光のミックス光だとか、どのあたりにポジショニングすれば、儀式の邪魔にならないかとか、そういうことをひととおり確認。

わたしと並んで挙式を見ていた参拝客の方と「シロムクって良いですね。この神社も落ち着いていて良いですよね。」という話をしていると、「じゃぁ、あなたもここで式を挙げたらいいじゃない。わたし見にくるわ。」と言われてしまった。

ひゃぁ…。

もともと落ち着いた雰囲気の神社だったからかもしれないけれど、商業の匂いがプンプンしていたり、うわっつらにたくさんのイメージ(やイデオロギー)をかぶせて甘くコーティングした、カタカナのブライダルやウエディング、とは違う、まっとうな儀式としての結婚式だった。

お宮参りの延長としてとらえたら、幼い頃から見守ってもらっている神様の前で、婚姻の儀式を執り行うというのは、人間の成長のなかで都度神様と関わりゆく、長い時間軸のなかのひとつのステップとしての経験であり、それは、ことさらに「トクベツな瞬間」を強調するブライダル産業のありようとは、一線を画しているように思う。

まっとうな記録写真を撮ります。

0.5

 

撮った写真のうちどのくらいが、作品になるのですか?という問いに、

0.5%くらいかな
とそのひとが答えたことを思い出した。

ネガチェックをしてみて、実際そんなもんなんだなぁ、という実感があって、全然、撮り足りていない、ということもよくわかった。

そのものがなんであるか、ということよりも、
もののたたずまい、に興味があるということもわかったし、
狭い地域で撮ることの限界もはっきり見えてきている。

ここで、いったん総括したことは、その先を考えるうえで良かったのだと思う。

ということで、今日も路上へ。

道のりは、まだまだ長い。

 

とりあえず、2006-2008、3年分のネガチェックを終える。

結局、数千カットあったスナップのうち、見るに耐えうるものなんていくつもない。

質に対する意識が量を押し上げ、量が質を押し上げる、
という言葉の意味が、痛いほどわかる。

けっこう数を撮っていたつもりで、全然足りていない、ということも、よくわかった。

道のりは、まだまだ長い。

不純

 

まみえること、あるいは不純、
あるいは、整理されていないこと。

過剰なほど潔癖な写真を見ていて思ったこと。

せめぎあい

 

互いに侵食しあいながら、それでも共に在るさま。

ネガチェックを続けながら、気になるコマを拾っていると、光や影、物の「せめぎあい」に惹かれているんだと思う。それが写真として成功しているかどうかは、別としても、関心があるのは、共存とか、混在とか、そういうこと。

画面から都合の悪いものを引いて成立するのではなくて、
そこにあるもの全てで成立すること、とか。

削いで削いで純化する、というのではなくて、
不純のままに見えてくるもの、をじっと見ること。

備忘録

 

最近のキーワード。

  • ・つながりそうもないものごとの間をつなぐこと
  • ・へだたり-奥行き
  • ・眼で触診する
  • ・スピード
  • ・制度

おっちゃんに惚れるなよ

 

しかし、よくひとに声をかけられる。それも撮影中に。

今日もデータをとるために、川を南下していたら、橋の下のホームレスのおっちゃんに声をかけられた。

「自分、写真とってるんか?」
「はい」
「ほんじゃ、おっちゃんを撮らしたるわ。ホームレスやで。」
「え…」
「ほら、こんなポーズどうや?」

路上でひとは撮らないんだけど、わざわざ申し出ていただいたのを断る理由もなく、かんたんに二枚撮らせてもらった。

礼を言ったら。「おっちゃんに惚れるなよ」と返される。
うーん、それはたぶん大丈夫。

さて、データをとってみると、30秒、1分で時々刻々露出が変わる。
速いときは1分で1段くらい下がる。
撮影は思っているよりもずっと難しいかもしれない。

最近、この近辺にはえらくたくさん警官が出ていて、露出計とデジカメを持ってメモをとりながら歩いていたし、多少不審に思われたかも。

手を動かすと

 

頭もはたらくものなのなんだな、と思った。

突然、とても具体的なプランが思い浮かぶ。
するするっとからまった糸のほどけるような感触。

自分自身がすっきりと納得するところまでたどりついたら、あとは段取りの問題だけや。おもしろくなるよ。

セミ光沢

 

結局、紙はマットではなくセミ光沢というところで落ち着く。紙は厚すぎるとめくりにくい、ということもわかる。
細かい設定を決めるために、段階的に数値をかえてテストを行う。

昔、理科の実験でやっていたようなことをやっているな、と思う。

結果によっておのずと決まることもあるのだけれど、細かいことをひとつひとつ決めていくここらへんの作業が、案外しんどかったりもする。

なんでこんな魅力的なのに大阪を撮んないの?

 

月曜日に聞いた森山大道さんのことばが耳に残っていて、用事のついでと言いつつも、ずいぶん大阪の街を歩いたと思う。

大阪は地下鉄でしか移動しなかったから、地上を歩くと、案外コンパクトな街なのね。京都にない情景に触発されて、気がついたらけっこうシャッターを切っていた。

大阪が京都と違うのは、変化もまたしゃあないと受け入れる、あっけらかんとした空気が街から感じられることかな。京都は、かわらないことの価値を知りすぎている、と思う。

一足に転地とはいかなくても、撮る街をかえてみたら、あたらしいことが見えるかもしれない。

総括

 

スナップがある程度、固定化してきていて、やっぱりそれは、当然打破しなければならず、いったん、いままで撮ったものを総括をせんと、前にもうしろにも進めんという、切羽詰まった状況にある。

吐き出してしまいたい、という得体のしれない欲動。

数年分のネガをずらっと見通して、その遅々たる歩みに対する焦り。

スナップなんだから、もっと軽やかでいいはずなのに。総括で済まなければ、転地かな。

光のただなかにあるということ

 

撮影するこのわたしが光のただなかにあるということ。

透明な存在としてではなく、光のただなかにこの身を持って存在することは、単に視神経が刺激されるのとはまったく違う経験なのだと思う。

光にくるまれるような経験を、四角く区切った平面にどれだけ写しとることができるのだろう。

執拗に光と影を追ったスナップを見ながら、つくづく。

描き出す

 

というのは、スナップにおいては、あまり本質的ではないんじゃないか、と思う。

編集の力で何らかのテーマを「描き出す」ことはできても、スナップそのもので「描き出す」というのは、違うんじゃないかな、と。描き出すというより、結果として浮かび上がる、のほうが正しい気がする。

スナップにテーマだてをすることに違和感を感じているのは、そういったところ。

その場その場で被写体ととり結ぶ関係によって、アドリブで対応し続けることが、スナップの醍醐味だと思っている。

被写体や光との出会いによって、自分自身のものの見方そのものが更新されていくのが、ここちよい。そういう可能性に対して最大限身をひらきながらスナップを撮り続けるには、先にテーマだてをすることは無理なのだと思う。

絵画とか、美術作品の制作とは、根本的に方法論が違うんじゃないか、ということを考えていました。

webで見せる、ということ

 

展覧会でも写真集でもなく、webで写真を見せるとはどういうことか、ということをずっと考えていて。展覧会の告知や作品カタログのようなかたちではなく、webで何ができるんだろうか、と。webで見せること自体が作品であるにはどうしたらいいのか、と。

写真集も展覧会も、配置や点数の制約があって、それゆえそのなかでどう見せるか、という編集が見せどころでもあったりするのだけれど、そして、編集というのはとても魅惑的な作業なのだけれど、一旦、その編集の0度、写真そのものから何が見えるのか、というのを見てみたい、と思ってもいて。

いっそ、表示順序もランダムにして、総体としての「まとまり」を把握しにくいかたちで見せるのはどうだろうか、と思いはじめ、実験的ではあるけれどsnapをランダムに見せるscriptを組みはじめました。

編集というのはほんとうに”力”があって、写真そのもの、というよりも編集で見せてるんじゃないの??ということを考えたりして、シリーズとしてまとめることに、いまはまだ納得がいかなくて、写真点数をだんだん増やしていったら、輪郭があやふやなまま、育つような感じ。

コントロールすることを一旦放棄して、編集から自由になったところで、何が見えるのか。

何も見えないかもしれないし、しょうもないかもしれないけれど、見てみたい、と思うことはやってみようと思う。曖昧な表現でごめんなさい。違和感、とか齟齬とかは、ほんとうに、ことばにしにくい。

どうもことば足らずな感じだから

 

つけたすとすれば、あたかも写真が全能であるかのように錯覚させるような見せ方に、危機感を抱いている、ということ。

もっときちんと自分のなかで整理しないといけない。意図と方法論との結びつき、とか。

具体的である、ということ。

 

春霞、あるいは、黄砂の舞うなかの撮影。
遠景があまりにぼやけて、つまらない、と思ったときに気がついた。

その写真が、具体的であるかどうかということが、自分にとっては、すごく重要だということ。

霧の街の写真を見たpが、「ものは抽象的になると、美しく見えるからね」と言っていたのを思い出し、そうか、その写真が具体的かどうか、ということが、わたしにとっての、ひとつの判断の軸なんだ、と思った。

なんでも言語化すればいいものではないけれど、言語化することによって、いくぶん視界がクリアになった。

賭す

 

まったく安寧な場所に在って、なにひとつ賭すところのないひとのありよう、が、ほんとうにつまらない、と感じることがあって、それは、他人のフリ見て、我がフリ直せという意味で深く考えさせられている。

重々しい雰囲気とか、深刻すぎるものは、はなから苦手で、しぜん、気持ちは軽やかなものに向かうのだけれど、ただ、その軽やかさのなかにも、なにか賭されたものがなければ、と、思うようになった。

たとえ技巧的には稚拙であっても、ぎりぎりのところまで賭されたものには、切迫感がある。むかし友人の作品に、そういうものを見た。

作品の内容を安全なところから評価できないくらい、巻き込まれてしまうということ。つくり手の、もうどうにもならないこころのありようが、言葉や意味を介さないところで作用して、見る者のこころをゆさぶる、ということ。

その一回のシャッターに、一本の線に、ひと色に、どれだけのものが賭されているか。最近、そういうことをすごく意識するようになった。

朝のおくゆかしい光のなか

 

ゆっくりと漕ぎ出すように、
朝のおくゆかしい光のなか、撮影に出かける。

ある頃から、錆びたトタンに無数の色を見るようになった。

それからは、
世界のいろいろなものがすべて、いちいち、具体的。
軽い目眩に陥っているような状態が続く。

スナップをあまり長時間続けられなくなっているのは、
集中力や体力が落ちているのではなくて、
あまりに、それぞれが具体的になりすぎて、
その重みを受け止めきれなくなっているのかもしれない。

雲の端から太陽が顔をのぞかせるまで

 

雪と雪のあいまの晴れ間に、外に出る。

最近、自転車に乗らなくなった。
撮影をするのに、自転車のスピードは速すぎる、と気づいてから、
用があって遠くに行くとき、重いものを運ぶとき以外は自転車には乗らない。
市内で片道1時間半くらいまでの距離は徒歩圏になった。

そのうえ、撮影に出かけるときは、ものをつぶさに見ながら歩くから、
その歩くスピードすら遅くなっている。

だから、何時にどこかに着かなければならないと思いながら歩く、
その速さとこころもちでは、まったく撮影にならない。

雲の端から太陽が顔をのぞかせるまで、
じっと待てるだけのゆとりがないと。

わたしが、写真によって手に入れたのは、この遅さ、なんだと思う。
そして、その遅さは、この時代に対するささやかな抵抗なのかもしれない。

スキャン再開

 

悪天候のおかげで、調整する時間を得て、ようやく、暗部のツブれなくscanができるようになった。

2006年11月頃のスナップ。画面全体がゆるい感じ。
カメラのせいなのか、意識のせいなのか。

2005年から、途方に暮れた時期が1年半ほど続いて、2006年の晩夏ごろからやっと外に撮りに出かけられるようになったから、2006年11月は、スナップを撮り直しはじめた頃。ちょうど気候も良くて、毎日、出勤前の2時間、撮影に出ていた。

つたないけれど、それでも救われたのは、少なくとも、それらの写真を撮るときの動機は、写真からうかがえる。

カメラになった男

 

先週末、神戸の映画資料館で上映していたので、観に行った。

映画館のせいなのか、編集が原因なのか、音がとても酷かったのが残念だったし、技術的に拙い感じは否めないけれど、数年前に見た「きわめてよいふうけい」よりも、見るべきところは多かったように思う。

特に沖縄の講演会のシーン。
講演会のタイトルのなかで使われている「創造」ということばに対して、「写真はクリエイションじゃない、ドキュメントだ」と言っているところとか。

中平さんの写真には、まなざしに余計なものが混じってなくて、ものがただそこにあることだけが定着されて、成立している。やっぱりすごいなぁ、と思う。

撮影しているとき、楽しそうなのが印象的やった。

今年最後の作業は、

 

Tessarのレンズテスト。

これで、中判2機と、35mmのレンズのテストがほぼ終了。
摩耶山からの撮影では、被写体が遠すぎて、比較ができなかった。
今回、京都駅から街を撮影したくらいの中〜遠景くらいが、いちばん解像力の差が出て良かったと思う。

今回のフィルムを見た限りF11がピークのもよう。

ついこないだまで秋めいていたのに、気がついたら、街が冬の色にさまがわりしていて、びっくりした。もう年の瀬だものね。

週末から、もう一段、気温が下がるようだけれど、また少し、光もかわるのかな。

悪趣味。

 

画面のなかにヒエラルキーをつくらないこと、とか。

すでに価値づけをされているものの、その価値づけに加担するような写真を撮らないこと、とか。

そういうこと。

悪趣味な写真を大量に見てしまったのと、悪趣味な提案をさしむけられたのと、で、再認識。

怠慢

 

怠慢だと思った。

2年分、ほとんど未チェックのまま放置しているネガ。
スキャナの色再現が良くないせいにして、チェックを先延ばしにしていた。

撮ったものを、きちんと見ないでどうする。

そういう、ごく当たり前のことを、当たり前にできていないから、見えるものも、見えんのや。

世界はそんなに淡くない。

 

ひどく暗部のつぶれるスキャナに辟易しながら、ネガスキャンをぼつぼつはじめる。イチョウが写ってるから、ちょうど去年の今頃のスナップ。

たまに、オーバーでスキャンしてしまうと、イマドキの写真っぽくなるから、おもしろい。

スロウライフ系の雑誌には、「光にあふれた」写真がたくさん出まわってるんやなぁ…とつくづく思う。

わたしには、世界はそんなに淡くない。甘くもない。

時間が足りない

 

バランスの良い光やったんやと思う。
うす曇りのわりに、青に寄ってもいなかった。

光と影のコントラスト邪魔されずに、色がきちんと目に入ってきたから、いつもと違ったチャンネルで反応していた。その前の日と、まったく違うフレーミングでまったく違うものを撮ってる。

フレーミングすること、選択することによって、写真はいとも簡単にものを、被写体をトクベツなものしてしまう。その威力には十分慎重にならんといかん。意図があるならともかく、不用意に被写体に偏りがあるのはよくない、と思っている。

いつも、好んで細い路地に入りこむから、至近距離のスナップばかり撮ってしまうこと。見知らぬひとを撮るのが心理的に負担なこと。撮りたくなるもの、の、パターンが固定化してきていること。これらが、最近スナップのとき気にしていること。

中庸(?)な光のおかげで感じ方の軸がゆさぶられて、良かった。

あと50年生きれたとしても、あと何回、ゆさぶられるような光と出会うかわからない。
ほんとうに、ほんとうに、時間が足りない。

横殴りの光

 

最近、スナップを撮っていて、縦に構えることが多くなった。
縦にものを見ているというよりも、被写体によっては、35mmのフォーマット、横の長さを冗長に感じてしまう。

だからと言って、正方形は特殊すぎる。

縦位置/横位置、順光/逆光、比較のために撮ってみる。
順光と逆光の印象の違い、とか。
縦で撮る理由、横で撮る理由。
感覚だけではなくて、比較するなかで見えてくるものがあるのではないか。

そうはいっても、横殴りの光。軽い目眩の連続。
理性を手放さぬようぎゅっと。

この夏の収穫。

 

近景、中景のテストではわかりづらかったけれど、遠景でテストしてみて、ようやくレンズの解像力を観察することができた。

ハッセルのプラナー80mmよりPENTAX67のSMC105mmのほうが、解像力が高い。

数kmの道のりをかついで歩くには、華奢なハッセルのほうが良いのだけれど。機動性と解像力、どっちをとるか、悩むところやね。

実験と観察。この夏の収穫。

秋の日は釣瓶落とし

 

夜景の撮影は、まず先に露出を決めておき、明るい時刻から待機して、その露出にあった暗さを待って撮るのが良いと聞き、早めの時間からポートアイランドで待機していた。

17時前後から暗くなりはじめ、18時半にはほぼ真っ暗。露光しているあいだにも、露出計の値は変化する。

あまりに日暮れのペースが速いので驚いたと母に言うと、「秋の日は釣瓶落とし、と言うのよ。」と、ごく当然のことのように返された。

秋に近づくと、日暮れの時刻が早くなっても、日暮れのペースがそこまで速くなるとは予想していなかった。あまりのショックに言葉を失う。

最初データをとった初夏の頃は、17時すぎから、暗くなりはじめて、完全に暗くなるのは20時を越えてからだった。

3時間強あれば、光の変化を細かく追えると思っていたのに、それが半分に短縮されてしまったら、さすがに厳しい。

ベストシーズンはやっぱり夏至のころか。

今週末に予定していた撮影は、来年に持ち越し決定やね。
仕事の忙しさでのばしのばしにしていたことが、
心底悔やまれる。

今年、とれるだけのデータをとっておこう。

レンズのテスト

 

被写界深度の深さとピントそれ自体の質とは別ものだということを教えてもらい、朝から出かけて、35mmと中判のそれぞれ、レンズのテストを行う。

それってほぼ「ふりだし」っちゅうことやねんけど。かなりショックだったんだけど。

簡便なのが写真の良いところではあるが、道具の特性をきちんと知っておくほうが、何も知らないで使うより賢明だろう。

改善点ふたつ。

 

雨があがって、バタバタと動き回っていたけれど、朝のスナップ再開。

直接、作品につながらなかったとしても、わたしの軸はそこにある。
ただ、撮り終えたものをきちんと見る時間を持てていないところが最近の大きな問題。

スナップは、やっぱりネガからポジに戻そう。

夏の光は、コントラストがきつくて、どうも苦手。
外を出歩いて、ふだんより長時間粘っても、
ほとんどシャッターきらずに帰ってくる。
だからといって出歩くのをあきらめるのは、もうよそうと思う。

改善点ふたつ。

初校

 

大雨のなか、春に書いた原稿の初校が戻って来た。

今まで、アルバイトで父の原稿のチェックをしたことはあったけれど、初校の見慣れない体裁に少し戸惑う。

大それた思惑のある作品をつくっているわけではないから、文章を書くこと、少し躊躇もあったのだけれど、活字になることで、少し遠くなって、これが本になったら、ずっと遠くなることは想像に難くない。

先日、雨のなか、先輩と話していた。
わたしは写真家はそもそもいかがわしいもので、ジャズメンのようなもんだと思う。そして、むしろいかがわしいほうが、おもしろいことができるんじゃないかと思っている。

野に放たれて、たくましく生き延びながら写真を撮らんと、撮り続けんとあかん。というのがわたしの勘。そして、わたしは自分の勘を信じている。

ふんばりどころ。

 

自分の制作ではない撮影のしごと、考えるところが多い。

写真の仕事は、ほかの仕事と違って、自分の作品に傷をつけたくないから、絶対に下手できないというプレッシャーが強い…ということを実感する。

自分が、これは作品、これはcommercial、と分けていても、ひとは、そうは見ない。

今回の仕事は、先方の社長さんが、わたしがcommercialの人間ではないことを承知のうえで、それでも依頼してくださった。

その気持ちに、真摯にこたえたい、と思う。

自分のなかでのいくばくかの葛藤を抱えながら、貴重な晴れ、ロケハンにでかける。

わたしはcommercialを否定はしない。受けたオーダーの中で自分の表現とのバランスをいかにとるか、というせめぎあいも経験してみようと思う。もしかしたら、商業写真ではない人間が、そのせめぎあいの中からなにかを探るほうが、おもしろいものが生まれるかもしれない。

この夏は、また川を撮ります。
忙しさにかまけてそこを譲ったら、うちは終わりや。
ふんばりどころやな。

両の手のあいだに封じ込めたい

 

夕暮れどき、きちんと「いちにち」を見送ることができると、嬉しくなる。
気がつくとそとが暗くなっていたというのは、哀しい。

どんどん暗くなっていって、街に灯がともっていく、その時間のうつろいを、両の手のあいだに封じ込めたい。と、思うのです。

見てみたい。とか、つくりたいという、キラキラした気持ちがあるときは大丈夫。
で、想定しているのは、冊子。

美術手帖のインタビューでも、日本の作家の海外進出がすすまない理由として、作品が書籍になっていないということが挙げられていた。

ま、「進出」なんてどうでもええんやけど。

おもしろいもんをつくって、それを他人と共有するのに、冊子として流通するというのは、すごく良いと思うんだ。たいそうなもんとして、じゃなく、ひとの生活に入り込めるし。

あとは、めぐりあう機会の問題で、展覧会するのと、写真集をつくるのと、どちらが多くひとにめぐりあうやろか?ってところ。

ほんで、ひらく、めくる、とじる、もどる、といった操作が、
映像よりも自由なかたちで、見るひとにゆだねられてる。
「見る」方法を、ぽーんと相手にゆだねているというところが、おおらかでいいやん。

square

 

晴れた!

早速、届いたカメラのテスト撮影に出かける。
35mmの目になってしまっているから、ロクロクのsquareフォーマットに違和感を覚える。

作品は合成前提だから、もとのフォーマットは無効化されるけれど、
問題はほかの撮影で使うときやなぁ。

squareのフォーマットは、たいした写真やなくても、それっぽく見える魔力があるからなぁ。

気をつけないと。

中判カメラが届く。

 

しばらく雨マークが続くから、わずか1時間の昼休みに抜け出して強行でテスト撮影。ええあんばいに薄曇り。絞り22から2.8まで徐々にひらく。

撮り終えてから、気がつく。
本番で使うセットやないと意味ないやん…と。

気をとりなおして、ネットで公開されている、被写界深度の計算プログラムで計算してもらうと、40m離れた被写体にピントをあわせると、絞り2.8でも、19.360m〜∞までが被写界深度。ほんまなんかなぁ。

被写界深度の式、疲れていないときにちゃんと自分で計算してみよう。かなり理科や算数に近い。ま、数字じゃ納得できなくて、どうせ見てみないと気がすまないんだけど。

問題点は、水平垂直はええとしても、暗いなかで被写体に対して正面、がきちんと保てるのか…。思っていたよりずっと撮影条件が厳しい。

わざわざ、閉じない。

 

なにか特別な場所から、完璧に全体を把握できる目になりきるのは、好きではない。その現場に身を置いていることとか、完結させずにおくこととか、すべてを見渡せないままにしておくこととか。画面の外につながっていく意識だとか。

そういうこと。大事なのは。きっと。
わざわざ、閉じない。

ちょうど薄曇り。

 

ちょうど薄曇りなので撮影ポイントにでかける。

晴天よりも俄然良い。

被写体を落ち着いてじっと見ることができる。絶対に逆光でしか撮れない被写体だから、拡散光のほうが◎なんだな。晴天だと、バックから射す光が邪魔になる。こういうのん、理屈でわかってても、実際見てみるまで納得できひんもんなのね。

細部の色を引き出すために、ビビッドカラーのフィルムを使うこと。あとは、感度400にするか800にするかを決めることと、タイムテーブルをつくること。中判カメラを調達すること。(←これがいちばん難儀だな)

今回は、ドキュメンタリーという要素を強く意識する。
あとは、やってみた感触に従うしかないでしょう。

たいせつなのは実験精神と「見てみたい!」という強いきもち。
失敗を恐れないこと。

気持ちは太陽によりそう。

 

テスト撮影をはじめる。

夕暮れどき、どのくらいのペースで露出がかわるのか、
17時前からスタンバイ。定点観測をはじめる。

いわゆる夕暮れの印象を受け始めるのは17時40分ころ。
18時45分から加速度的に光量が減る。
19時40分でもまだ日没方向の空は明るい。

今日の京都の日の入り時刻が19:02だから、日の入り時刻がイコール空が完全に暗くなる時刻じゃないんだ…ということに気づく。

空の明るさが劇的にうつりかわるのは、17時すぎから20時前の3時間弱くらい。で、思ったよりも長いというのが今日の収穫。

やってみないとわからないことが多い。

5分間隔、時計を気にしながらも太陽が水平線に対して没する侵入角度が浅いほうが、同じ時間間隔で撮影してもこまかく光の変化を追えるのかな…などと想像する。目の前の光景を撮りながらも、気持ちは太陽によりそう。

晴天の逆光で撮るのは無理があるので、薄曇りの日にもテストしてみよう。
逆光であることが気にならないくらい光が拡散されるといいのだけれど。

18時40分ころ、南東から東の空が見せる少し濃いめのグラデーションが好い。

ぼんやりしとった。

 

ぼんやりしとった。
ARTZONEで開催されている、森山大道「記録7号」、今日までやったんやん。撮影の帰り際に寄ったカメラやさんで思い出したときは開場時間を過ぎていた。

まだ東京で会社勤めをしていた頃だから、1998年か99年のこと。
東京、渋谷のPARCOではじめて森山大道の写真展を見て、ショックを受けた。

それまでも、いくつか写真の展覧会は見てはいたけれど、こんな「ただならぬ」感を受ける写真を見たことはなかった。それまで写真に抱いていたイメージをばりっとはがされるような感じ。

そのうえ、名前に濁音が多いし、コントラストのきついバイクの写真が印象的で、マッチョでバイク乗り回しているようないかついニイサンだと思い込んでた。

その頃は新人OL(!)だったし、まさか自分が写真を撮るようになるとは思ってもいなかったのだけれど、その4年後には写真を撮りはじめるようになり、森山さんの本を読んだり、DVDを見たりしているうちに、まず「ニイサン」ではないことを知り、つぎにマッチョでバイクを乗り回しているようないかついひとではないことを知った。

先日のトークショウも開演に遅れて着いたら「満席です」と入場を断られ、あらためて写真展だけでも見に来ようと思っていたのに、ぼんやりしとった。

残念でならない。

取り戻すこと。

 

今週から、早朝の撮影を再開する。
ほんの30分でまったく光の調子がかわることに、あいも変わらず面食らう。

集中力が足らないのが自覚できるからもどかしい。
明日はうんと早くに起きようと思ったら降水確率60%。

連休に8時間ほど歩いただけで、ひどく消耗した。
体力も相当落ちているから、当面の目標は、まともに撮影できるだけの体力と集中力を取り戻すこと。

遺影

 

あるひとから、モノクロで写真を撮って欲しいという依頼があった。

「遺影」という言葉がチラリとよぎる。

話を聞いてみると、やはり遺影を撮ってほしいとのこと。
朝日新聞に遺影のシリーズがあって、そのプロジェクトに応募したが、応募が殺到して、無理だったと。それでもきちんと遺影を残しておきたいという気持ちはかわらないのでぜひ撮ってほしい、という。

かっこつけたりきばったりしない、ごく普通の表情が写っていればいいな…と思って、36枚ラフに撮りきる。きっと数枚は顔をくしゃくしゃにした笑顔で、ほとんどはカメラを向けられることに慣れていないひと特有のこわばった表情。でも、それが彼女のリアルだ。

遺影で思い出す。

18歳で亡くなった友人の実家。居間にある写真立てに、その友人が仲間と一緒に写っている写真が入れられていた。ある年、線香を上げにうかがうと、その写真の、仲間が写っている部分だけが、亡くなった友人の幼い頃の写真に差しかえられていた。

その不自然なコラージュを不思議そうに見ているわたしに、亡くなった友人の母が言う。
「ほかのみんなは生きているのに、失礼やと思って。」
しばらく言葉を失った。

こんなにせつない遺影を、わたしはほかに知らない。

拒絶反応

 

新しいカメラのフォーカシングスクリーンが肌にあわない。マイクロプリズムがうるさい。

マイクロプリズムの像を見ながらピントをあわせる操作をしているうちに、撮りたかったものの何がたいせつだったのかわからなくなる。

強制的にピントに意識を集中させられることで、撮る動機になったもの、場の持つニュアンスとかそういうものに対する意識がこぼれ落ちる。

思い返せば、写真を撮りはじめた最初の頃から、作品としての写真に対しては、画面の一部の「見せたいもの」にピントをあわせることに違和感があって、画面全体がくまなく大事だったりするものだとか、周縁にこそ意味があるものだとか、像そのものよりも画面から匂い立つ空気感とか距離感とか、に気持ちが向かっていた。わかりやすい視線の中心をつくることにも、全体で見ておさまり良い構図の一枚の絵をつくってしまうことにも「NO」という気持ちを抱き続けてきた。

しばらくこの拒絶反応と向き合ってみて、だめだったら、スクリーンをかえてみる。これだけ自分が拒絶していることがわかっただけでも良い経験だったと思おう。

出会わないと撮れない

 

先週の講演会で、美術作家と写真家の写真に対する態度の違いは”make”か”take”なんじゃないか、という話があった。

わたしは”take”のほうだと思う。

写真であるかぎり、出会わないと撮れない、ということ。

徒歩圏内の撮影にそろそろ限界を感じ、少し遠出をしてみる。
遠くに出かけたら、出かけたなりの出会いがあって、写真て、結局そういうことなんだと思う。

出会わないと撮れない。
部屋の中で「つくる」のとは違う。
きっとそれは究極的なこと。

すすんで出かけていこう、出会いにいこう。
ここのところ、その気持ち、強く強く。

よりによって光が良かった。

 

昇天。

父から譲り受けたのが二十歳すぎのことだから、10年来わたしのそばにあって、いちばん近しい存在だった愛用のカメラ。少しずつ老い衰えていくように、最初に液晶が、そして巻き上げ部分が、最後にミラーまわりが動かなくなっていった。

予感はあったのかもしれない。
でも、決定的な最期を迎えたその朝は、よりによって光が良かった。
このカメラで撮ることができないんだと思うと、
哀しいということばにたどり着く前に、もう涙があふれていて。

ことばをつぎたせばたすほど、気持ちが昂るから、何も考えないように、
努めて光を見ないよう、感じないようにして、そうっとそうっと家に向かう。

それはずっとこころに突き刺さったまま。いまもまだ胸が痛い。

見切れるフレーミング

 

見切れるフレーミング

普通に銀塩で撮影をしているけれど、同時にコンパクトデジカメも持ち歩いている。デジカメで写真を撮るというよりは、もっぱら動物の動画を撮ることが多い。動画だと、映っているものが見切れるフレーミングがあって、それが写真だとあまりないことだから新鮮に感じる。

こういうフレーミングを見ると、写真は1枚で完結させてしまおうとするあまり、几帳面に画面を構成しすぎるんだなとつくづく思う。どうしても、すでにある文法に即して写真を撮ってしまうから、少しゆさぶりをかけています。

このちょっとした「おもろいかも」の種をどう育てるか。見切れている写真でもどんなんでもええわけじゃなくて、どういうのんが「おもしろいんかなぁ」、どこにそのおもしろさがあるんかなぁ…と考えています。それもただ新鮮というだけでなく、恒久的なおもしろさになりえるのかということも。種は育つかもしれないし、育たないまま終わるかもしれない。

今、もっぱらの関心事は「脱中心化」。なにか見せたいものを(意識の)中心に据えてそれ以外のものをぼかしたり、画面から排除するという画面のつくり方はいやだなぁって。

排除しなかったり、完結しなかったり、ということ。

不安定な混交

 

雨があがり、カメラと一緒に外に出た。
強烈な黄色の光、夕暮れとともに押し寄せる青と不安定な混交。
あまりの振れ幅に、おどおどする。いつも通る道なのに。

同感

 

数年前に友人がプレゼントしてくれた美術手帖、森山大道さんのインタビュー記事を読み返していた。

「一枚のタブロー化された作品というのは本質的な意味で写真ではないという、タブロー化への反感もあった。」

写真をばっちりと一枚の完成された「作品」に仕上げることに違和感を覚えていた。他人の作品を否定はしないけれど、自分は違うと思っている。そういうふうに理由もわからないまま、自分の直感を確信していることがいくつもある。理由がそれに追いつくのに数年かかることもある。

自分でも理由がわからないから、たまに同感できるものに出会うとほっとする。
ほっとする。けれど、理由はまだ見つかっていない。

ただシンプルに、写真は断片なのだから断片のままでいいのだと思っている。

試されている。

 

うすもやのdefuse、印象そのものだった世界ははるか。

冬が来る。

くっきりとした空、なんと影の濃い。

暴力的なそのコントラストに、
不必要なほどはっきりした輪郭たちに、
目をそむけたくなるのをこらえて。

色も光もすべてが主張、主張、主張。雰囲気写真に逃げられない。
ハイコントラスト、目が痛くなるほどの乱暴なフィルムがあがるのは重々承知で、
わたしは外に出た。

どう撮ればいいのか。
どう受けとめればいいのか。
どう接すればいいのか。

光に試されている。日々、試されている。

見たかったんだ。

 

快調に朝の撮影を続けていて、今日はええ感じと思っていたら、フィルムを装填していないことに気がつく。ありえない。初歩的なミス。

そういえば、大竹伸朗だったかがインタビューで若かりし頃のことを思い出して「フィルムが入ってなくてもいいくらいだった。」と答えていたように記憶する。

毎日、午前中の限られた時間の中で徒歩で撮れる範囲は限られている。自ずと同じ被写体を何度も撮ることになるけれど、それでも、フィルムが入ってなくてもいいくらいとは思えない。

明日もまた歩いて、同じように撮るけれど、それでもやっぱり痛い。
見たかったんだ、その写真を。

同心円上をぐるぐるまわっている。

 

先日のミソヒトモジたちとの会話の中で「写真の本質って何?」と訊かれ、まったくコメントできずにいた。そのことでひどく、ひどく悶々としている。

そういうことは、案外近すぎて見えていない。いちばんシンプルな回答は、「光の記録媒体」なんだと思う。レコードが音の記録媒体であるように。

それにしても写真にはいろいろとロマンティックな言説がつきまとう。
過去性や記憶というキーワードはよく耳にするけれど、はたしてそれが「写真」の本質なのか。写真にしか言えないことなのか。それとも記録媒体全般にあてはまるものなのか。そういうことを、寝しなにつらつら考えながら、そういえば、王家衛の『ブエノスアイレス』で、南米最南端の岬をめざすチャンが、ファイにさし向けたのはカメラではなくてテープレコーダーだったな、とか。映画のラストで、ファイが台北にあるチャンの実家でくすねたのはチャンの写真だったな、とか。

核心にはたどりつけずに、同心円上をぐるぐるまわっている。まだしばらく悶々としそうだ。

写真は写真のままでいいんだと思う。

 

第1弾のフィルムがあがってきて、スキャニング。スキャナの設定のせいかえらく黒がつぶれているのが気になる。色ひとつで写真の印象はまったく変わるから、色って大事やなぁと思う。

以前よりずいぶんラフに構えるようになってきている。でも、まだまだ、いろんなものを引きずっている。

スナップって誰にでも撮れてお手軽なぶんいちばん慎重にならんとあかん。その緊張感がええのかもしれない。あと、ものごとを権威づけるシステムというものが根っから嫌いなんだと思う。真っ白い箱の力を借りてただの写真を「作品」にしてしまうこととか齟齬があった。

展覧会をして、わざわざ遠いところから足を運んでもらって、写真を見てもらうことにも気後れがあった。写真なんて流通のしようはいくらでもあるのに、わざわざ展覧会の会場に来てもらうんだったら、その会場じゃないと得られない体験を提示しないといけないと思っていた。だから、作品は自然とインスタレーションのかたちを採ってきた。展覧会という作品発表の形式が最初にあって、そこからインスタレーションという作品形態が導きだされるのは、順序がおかしいんじゃないか。まず作品があって、それに適した発表形式を選ぶのがまっとうなんじゃないか。

わたしはスナップを撮るのがいちばんしっくりするし、スナップなら点数もたくさん見せたほうがいい。いまは冊子形態やweb媒体といったものに発表形式をシフトしようと思っている。だから展覧会をするつもりはまったくない。数年かけてスナップを撮って、それを適切な方法で見せる。中長期プラン。だから毎日少しずつ撮りためていっている。

わたしは美術からスタートしたのではなく、写真からスタートしたのだから、写真は写真のままでいいんだ思う。わざわざ白い箱に持ち込んで「作品」として見せることを意識しなくていい。さりげない方法ですばらしい視覚体験を提示できれば本望。

手放す勇気。

 
空をつなげる

resetすると決めてからほぼ毎日、朝か晩は撮影に出かけている。

カメラを持った当初、なんやようわからんけど、妙にひっかかるという感覚だけをたよりに撮影をしていた。何を撮っているのかようわからへん写真ばっかりやった。数年撮っているうちに、フォトジェニックなものばかりを追うようになっていった。そして光や影に対するフェティッシュなまなざしも内面化してしまっている。

そういったものをすべてresetしたい。光や影も含め「もの」に対する関心を捨てて、その場から立ち上ぼるニュアンス(空気感という言葉は安直すぎて嫌いだけれど)に感覚を研ぎすませよう。たぶん、撮りはじめた頃の状態まで、いったん戻らないといけないと思う。それでもいい。

とある写真展で、技術に走ったおもしろくない写真と、つたなくても空気感をうまくとらえている写真とを同時に見たときに思った。写真に長く携わる人が陥る落とし穴にはまってはいけない、と。

手放す勇気。

まだまだ。まだまだ。

 

昨日の朝、コーヒーを淹れながらぼんやり考える。

被写体ではなくて、撮るものと撮られるものの「あいだにあるもの」、その関係をとらえたくてスナップを撮っているのだと思う。

「わたし」と「世界」との関係。

スナップについては、ずっと「何を撮っているのですか?」という問いに答え損じてきた。
なるべく特定の被写体ばかりを選ばないようにしてきた。
トクベツなものも撮らないようにしてきた。
被写体によってシリーズをまとめることに違和感を感じていた。
この数年、自分の興味が現象学のほうへと向かっていた。
そういうこと、すべてに合点がいった。

スナップによってとらえようとしているのは、被写体そのものではない。関係性なんだ。

それをきちんと言語化するのに4年もかかった。
そして、夜、むくんだ足が痛くて眠れないくらい、歩いて撮った。

まだまだ。まだまだ。

まだ少しはやい。

 

少し光が秋めいて、喜びいさんだ午前7時。

世界はあまりに黄色く、想像以上に光はきつく。
まだ少しはやいのかもしれない。

影も長すぎる。
朝の光は思っていたほど素敵じゃない。叙情的すぎる。

焦って撮った数枚のせいで、自己嫌悪。
仕上がったフィルムを見て、また自己嫌悪に陥ることも想像に難くない。

撮るべきもののないときは絶対に撮らないこと。

ひとつの覚悟

 

迷っていたのは、構成的な写真を撮るのかスナップを撮るのかということ。

わたしはスナップの可能性をずいぶん悲観していた。悲観しながら、自分の根本にあるのはスナップだという事実との間で、右往左往していたのだと思う。

「ただ」のスナップで何ができるのか。ましてや商業にのっからないところでスナップを撮り続けるなんて、趣味で終わってしまうんじゃないのか…。そういう思いが頭をかけめぐっていた。現代美術を前提として構成的な作品をつくるという方法もある。そのほうが傍目には「作品」と認識されやすい。でもね…本当にそんなことがしたいんかなぁって。

今日、ひとつの覚悟をする。
いまさらだけれど、わたしはスナップを撮る。

コンセプトをたてて構成して撮ることにも、同じような被写体ばかりを追うことにも、違和感を感じている。ごまかしてもしかたがない。

迷って立ちすくんでいるわたしの背中を押してくれたのは、批評家の丁寧で繊細なしごと。

今年いちばん贅沢だった10時間と40分。

 

初日ははずしてしまったけれど、清水穣氏の講義「森山大道研究」を3日間ぶっとおしで受ける。今年いちばん贅沢だった10時間と40分。

あらかじめ境界線を画定してそれを突き抜けるという、写真をとりまくモダニズムの二元論への批判を受けて、昨日の自分のコメントが、そのまんまモダニズムの言うところを引きずっているということに気づきドキっとする。「いま自分が撮っているものの限界をみきわめて、そこからそれを超える方向に向かっていきたいなと」…なんて。知らず知らずのうちに、ある思考体系を前提としているのは恐ろしいと思う。

展開が早かったからまだ未消化の部分も多いけれど、たくさんいいことがあった。森山大道の近作の読み方がやっとわかったこと。いつも煙にまかれるようであった写真論や写真批評について少しクリアになったこと。自分が抱える問題意識を整理できたこと。なによりも、スナップの可能性を信じる気持ちになれたこと。

感謝。

※最新号のInter Communication「コミュニケーションの現在・2006」に「荒れ・ブレ・暈け」再考 というタイトルで清水穣氏が寄稿されています。関心のある方はどうぞ。

指標性

 

投げかけられる影もまた、事物の指標的となり得よう。
写真と影の共通項、指標(インデックス)性。

写真を使わない

 

コンペ用に過去の作品をまとめると同時に、あたらしい展示プランを考える。

いろいろ作業をするなかで見えてきたこと。

現時点でわたしは、
写真そのものよりも空間展示に関心の重心がある。

ホワイトキューブの展示を前提とするプランの公募で
わたしがしあげたプランは、写真を使わないインスタレーション。

写真を撮っているうちに鋭利になったのは、光と影に対する感覚。
特に、影に対してはフェティッシュなほどにひきよせられる。
言葉で説明はできないけれど、そこにわたしにとっての「必然」がある。

影をテーマに作品をつくりたいと思っていたことにいまさら気づき、
大きなホワイトキューブに写真を展示するより、
影で空間を構成することを考えたいと思った。

すこし実験をはじめたから、このまま続けてみようと思う。

備忘録

 

備忘録

  • 写真の画面上で何が起こっているかということに意識的であること。
  • 隔たり、distanceという意味でも、differenceという意味でも。
  • 何がうつされているかではなく、イメージの強度、緊張感、そういった映像としての写真の評価軸を自分の中に持つこと。
  • 現実の光景と、写真の画面上のイメージとの差異におもしろさを感じていること。
  • ひとの視覚、ものの見方の特性を、カメラアイのつくりだすイメージとの差異によってあぶりだすこと。

日々悶々と考えていること。雲散霧消してしまうまえに。

質量0の写真。

 

写真は写真のままであるほうが、まだ自由なのではないだろうかと思うときがある。

写真を「作品」としてホワイトキューブで展示することにわたしはまだ違和感を感じている。

写真を展示をする際には、その空間で写真を見せる意味を考えたいと思ってきた。だからわたしの場合、写真の展示はインスタレーションとしかなりえない。どこでどのように見せるかは写真の内容と連動する。

話を戻そう。
写真はもともと複製物だからこそ写真集という形態が可能である。
提示の仕方としては、写真集の可能性もwebの可能性もあるのだ。
写真の複製物としての可能性をあたまの片隅で考えつづけること。

特にweb上を行き交うデジタルの、「質量0の写真」の可能性を。