近づく、遠のく

昨日、何組かの展示を眺めながら、近くで見るよりも、遠のいて見たほうが映えるものがあるなぁ…と思ったのがきっかけになったか。

近づいたほうが、対象をよりよく把握できる場合と、遠のいたほうが、よりよく把握できる場合がある。特にノイズが入る場合は、遠のくほうが把握しやすくなるのかもしれない。今日は、そういうことを考えてながら歩いていた。

そして、ふと友人の作品を思い出す。遠のいて見たらすごい作品やった。

フレーミング

フレーミングについて前から考えていたこと。

画面の中の何らかを際立たせるために、撮影者は画面からさまざまなものを排除する。
物理的なフレーミングと抽象的なフレーミングで。

なるべくフレームを意識させないような体裁を採用し、
できるだけ排除しない、という見せかけをしているにもかかわらず、
そこにフレーミングは存在している。

自分は何を排除しているのか。

物理的な矩形によるフレーミング
徹底的に排除するのは、此岸の情報。
対岸にフォーカスするためには、撮影者の置かれている状況を示すものは排除
撮影者と被写体との関係性を見えなくすることで、撮影者の存在をできるかぎり見えなくする。

ピント位置による奥行きの中でのフレーミング
ある奥行きにピントをあわせ、その奥行きにあるもの以外をぼかすことで、
ある奥行きにピークをつくる。わたしはこの方法はとってはいない。

撮影条件の選択による抽象的なフレーミング
くっきりとした画を得るために、悪天候は忌避。
逆光や、順光でも影が濃すぎる状況は忌避。
長時間露光による被写体のブレも極力避けている。

何が周到に排除されているのか、完成物を見せられた者が想像するのはほんとうに難しい。
おそろしいほど無防備に、画面の中の世界をありのままに信じてしまうきわどさ。
この夏、経験したばかりではないか。

写真のドキュメント性を手放さないのであれば、
自分が何をフレームアウトしているかを自覚しなければ。

今まであたりまえに選択してきたフレームをゆさぶることはできないだろうか。
それが今、興味を持っていること。

実は、かなり戸惑っている。

たとえば、部屋に差し込む光がいいなぁと思って、カメラを構える。

ピントをあわせようとすると、カメラが自動的に拡大して見せてくれるから、数メートル先のカーテンの織のパターンまでしっかり把握できる。

確かにピントはものすごくシビアにあわせられるんやけど、最初に撮ろうとカメラを構えた欲望が何だったのかを忘れてしまうくらい、突如違う視覚にすり替えられる。

カメラを構えたつもりが、顕微鏡やったんか!と思うくらいの、不思議な経験。

ひとは慣れた道具を使うとき、自分の身体感覚を道具と一体化させたり拡張させたりする(※)、というけれど、わたしはこの機械と、どこまで身体感覚を一体化させられるのだろうか。

実は、かなり戸惑っている。

※『〈身〉の構造―身体論を超えて』

撮影禁止

重森三玲の庭が見られるということで、真如院の特別拝観へ。
撮影禁止だったから、気がついたことを手帳にメモ。

スケッチは下手だけど、それでもいざ描きとめはじめると、
連鎖的にいろんなことが気になりだして、植木の刈り込み方までじっくり観察。

いろんな色と形の石を組み合わせることでリズムをつくっているな、とか、うろこ石が上流部分で二手に分かれていて、囲んでいる石がグリーン系の場所ではうろこ石もグリーンっぽいもの。囲んでいる岩がマゼンタ系の場所ではうろこ石もマゼンタ系のものを配置しているな…とか。

普段はそこまで見ていないかもしれない。

カメラを構えているときは、
対象そのものに対しては、早々と「了解」してしまって、
それよりも、どうすれば良い写真になるか、どうすれば対象を魅力的にとらえられるか、
ということを中心に考えている気がする。
実はあまり対象そのものに注意を払っていないのかもしれない。

もしかしたら、今日は、撮影禁止だったからこそ、気づいたこと、多かったんじゃなかろうか。

久しぶりにドキドキした。

写真を見るしかた、というのはいろいろあると思うのだけれど、
抽象的な意味だとか、画面からたちのぼるニュアンスの伝達、というのではなく、
ただただ映っている像を具体的に見る、ということ自体のおもしろさ。
というのがある、と私は信じていて、それを探りたいというのが、
川のシリーズをしつこくしつこく続けている理由だと思う。

そういう像をただただ具体的に詳細を見ることのおもしろさ。

その意味で、昨日見た定点観測の写真集はのっけから面白かった。
画面のあちこちで建物が壊されては建つという変化が起こっているから、細部から目が離せない。まったく油断ができない。

「定点観測というのは、なにかひとつの建物がつくりはじめてからできあがるまで、だけれど、自分の写真はそうではない。万物の流転。」
と作家が明確に意図を語っているように、ひとつの大きなストーリーに回収されてしまわない定点観測。

同じものを、異なる時間に何度も撮影する以上、そこには何らかのストーリーが生まれるが、画面中にそのストーリーが無数に畳み込まれている。

言いかえれば、画面内の無数のストーリーを等価にとらえる定点観測。

前後の写真の差異(時間変化)をトリガーとして、地と図の転倒が起こること。
それが、画面のそこここで起こっているから、
いったん写真集として完結しているものの、ここにさらに新しい写真が加わることで、今ある写真の読み方がかわる可能性にひらかれていること。

久しぶりにドキドキした。

この数日で思い改めたこと。

無意識に排除しているものをひとつひとつ検証しよう、ということと、
撮ったものの画面の上で何が起こっているのかを、徹底的に見直すこと。
ささやかな気づきを、気づきのままで放置せずに掘り下げること。

この数日で思い改めたこと。

ザラっとした感覚

前に、友人とミラーレス一眼の話をしていたとき、
否定的な意見の中で、友人のひとりは、映像の微妙な遅れを問題にし、
わたしが液晶の像でピントをあわすことの難しさを問題にしていた。

今日、ふとその話を思い出したのは、ピントをあわせる最後の段階になると、
「見る」のモードが、ものの肌理や質感を確かめるモードになっていることに気づいたから。

ピントがあっているかどうかの判断は、視覚というより、
輪郭がキリっと際立つときに感じるザラっとした感覚、
むしろ触覚に近い感覚をあてにしているといったほうが、正確かもしれない。

普通にものを見るときのモードではない気がする。
だから液晶画面を介しても正確にその感覚が作動するか、を、すごく不安に感じている。

パラパラ漫画風に

大川のロケハンでラフに撮った画像をデジカメの液晶で再生すると、パラパラ漫画風に見えたのがおもしろかったので、スライドショーで表示してみた。

大川ロケハン

突如、船が現れたりするのは面白いんだけど……。

大川は鴨川とはまったく雰囲気が違うのと、場所によっては、高速道路と2階建てになっている部分があって、車-船-徒歩と、ひとの動きのバラエティが豊かなのが印象的。

ひと

水曜日のテレビ番組で、「行政の大きなお金を使って大きなモニュメンタルな建築をつくって、本当にひとのためになっているのか?と自問していたことや、難民キャンプや震災の現場で紙管の構造体が利用されたことで、建築がひとの役に立つことを実感した
」という坂茂さんの話が印象に残っていた。

そして翌日、建築事務所を営む友人とご飯を食べながら話していたときに、その友人が、「最近、自分はかわってきたと思う。以前は綺麗なものが好きで、自分の設計した建物に趣味の悪いタンスが置かれてたらいやだなぁと思ったけれど、最近そういうのは気にならなくなった。むしろ、そこにひとがいることこそが大事やと思うようになった。」と言っていた。

どちらも、もの(作品)ではなく、ひとを中心に据えるというところで、共通していると思う。立て続けにそういう話を聞いたので、今日はずっとそのことばかり考えていた。では、写真はどうなのか?

もうひとつ、彼女に訊かれた「最終的にはどういうものを撮っていこうと思っているのか?」という問いも、意外と鋭く刺さっている。たぶん、いまの段階ではわからない。風景/ポートレイト/うんぬん…という既存の分類の中のひとつを選ぶような選択にはならないと思う。得手-不得手や、撮るもの-撮らないものはあるけれど、もっと違う分節の仕方をすると思う。その場では、そういうことをうまく説明できなかった。

彼女の問いはドキッとしたけれど、ものすごく嬉しかった。学生時代は仲間同士で相手の制作の核心に近いところまで遠慮なく切り込むことも多かったけれど、最近そういう問いを投げかけてくれる人はめっきり減った。
あるいは、わたし自身が避けていたのかもしれない。

映画的なるもの

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。

Secret Knowledge

David Hockneyの『Secret Knowledge(秘密の知識)』
を精読する。

彼の仮説は、

  • 画家による光学機器の使用は1420年代にフランドル地方にて始まった(鏡のレンズ)
  • 16世紀には、個々の画家が実際に用いたかどうかは別として、ほとんどの画家が光学機器を用いた映像の影響を受けている

というもの。すでに確証されたフェルメールのカメラ・オブスクーラの使用より、はるかに早い時期に光学機器が用いられており、それがかなりの影響力を持っていたという。いずれも仮説なので、ことの真偽は留保しておくにしても、とても興味深い内容だった。

前からカメラ・オブスクーラの存在は知っていたけれど、わたしはごく一部の画家が部分的に用いた補助的な道具というニュアンスで受けとめていた。著者は実際に、明るいところにモデルを座らせ、暗い部屋でその像を写しとる実験をしている。その実験の様子を見て、はじめて「光学機器の使用」がどういうことかを理解した。

暗い部屋の中で、紙の上に投影された映像の輪郭をなぞっていたのだ。それは描くというより、写しとる作業に近い。画家が独自の線を生み出すという思い込みが崩れた。わたしにとっては、光学機器の使用がはじまった時期云々より、画家の光学機器の使い方が明らかになったことのほうがよっぽど衝撃的だった。

印画紙が発明されるまで、いわば画家たちはカメラの中で映像を画布に写しとっていたということになる。写真のフィールドからすると、射程に入れるべき映像の歴史が4世紀ほど前倒しになる可能性が出てきたのだ。

カメラが19世紀に発明されたと誤解している人は少なくない。カメラは発明ではなく、自然現象である。暗い部屋の雨戸に小さな穴が開いていれば、それだけで光学的な映像の投影はごく自然に起こる。カメラ・オブスクーラとは文字通り「暗室」を意味する。レンズも鏡も必要ではない。ただしそのままでは映像は薄暗いか、ぼんやりしているか、あるいはその両方である。大きな開口部にレンズを取り付けると、映像はずっと明るくなり、ピントも鮮明にあわせることができる。「写真」の発明とは、じつはカメラの内部に投影される情景を定着する化学薬品の発明にほかならない。しかしカメラのなかに投影された映像は、写真以前の何百年にもわたり、人びとの目に触れてきた。
(David Hockney 『Secret Knowledge(秘密の知識)
』青幻舎 2006 p200から抜粋)

35mmのフィルムカメラ

35mmのフィルムカメラ

友人に譲ってもらったminoltaのフィルムカメラを持って撮影にでかける。
contaxのRTS2がオシャカになってからだから、久しぶりのフィルムカメラでのスナップ。電池も不要のこのカメラは、露出を自分で設定しないといけないから、うすぐもり、露出が安定している今日みたいな日は撮影しやすいと思う。

シャッター音が、ちゃんと機構が働いている音のようで清々しい。仕上がりを見てみないとわからないけれど、けっこう相性の良いカメラだと思う。

フィルムも現像料もどんどん高くなっていって、いずれフィルム撮影が「道楽」と呼ばれる日が来るのだろうけど、フィルムカメラが要求する作法が、普段なおざりにしていることを見つめ直すきっかけにもなるので、わたしにはまだまだ必要なものだと思う。

備忘録

思っていたより晴れていたので、一部夕陽が逆光になる場面あり。少し撮影ポジションをズラして対応。建物の窓に反射する夕陽に対応するのが難しかった。歩行者、自転車の往来が例年より多かった。

2011年7月23日(土)
17:50〜21:30
絞り8.0
シャッタースピード 1/60〜2min
79コマ(有効数70くらい)

音を楽しむなんて意味はない

「そもそもmusicに音を楽しむなんて意味はないのよ。日本人が勝手に音という字と楽しむという字を充てただけで、楽しもうとなんてしなくていいの。」

中学生のころ、声楽の先生に言われたことを思い出した。
これから音楽の世界を志そうと思っている中学生にとっては、酷なことばに思えた。

でも、photograph(photo 光の graph 描かれたもの)に‘写真’ということばをあてがった際に前提とした「真を写す」という考え方が、そののちもたらした影響の大きさを考えると、ことば自体を疑ってみるというのも、悪くないのかもしれないと思う。

画像、という呼び方のほうがよっぽどシンプルだしね。

ペラリン

カメラ屋に行って、3Dデジカメで遊んでみる。いやぁ、おもしろいわ。

手前に物体A、奥に物体Bがあるとすると、AとBとの前後関係がすごく強調されて、AとBの間にある奥行きの空間はすごく意識されるんだけれど、AとBそのものの奥行きや量感があまり感じられなくて、物体そのものはペラリンとした感じ。

不思議だ。

ステレオ写真とかが流行った時代の視覚が、復権してきたともとれる。ちょっとおもしろくなりそう。