実は、かなり戸惑っている。

たとえば、部屋に差し込む光がいいなぁと思って、カメラを構える。

ピントをあわせようとすると、カメラが自動的に拡大して見せてくれるから、数メートル先のカーテンの織のパターンまでしっかり把握できる。

確かにピントはものすごくシビアにあわせられるんやけど、最初に撮ろうとカメラを構えた欲望が何だったのかを忘れてしまうくらい、突如違う視覚にすり替えられる。

カメラを構えたつもりが、顕微鏡やったんか!と思うくらいの、不思議な経験。

ひとは慣れた道具を使うとき、自分の身体感覚を道具と一体化させたり拡張させたりする(※)、というけれど、わたしはこの機械と、どこまで身体感覚を一体化させられるのだろうか。

実は、かなり戸惑っている。

※『〈身〉の構造―身体論を超えて』

「みる」と「きく」

安田登さんの『あわいの力』に興味深い文章をみつけた。

「閉じることができる」という、行為に対する負の方向の可能性こそが、その器官の主体性を担保している、というところが、すごくおもしろい。

 顔には、目と口と鼻と耳の四種類の穴があります。このうち目と口には「みる」という動詞が使われます。味を「みる」といいますよね。そして、耳と鼻は「きく」。香りは、中国(漢文)でも、かなり古い文献から「聞く」という動詞を使っています。

 「みる」と「きく」の違いは何かというと、「みる」器官(目と口)は自分の意思で閉じることができるのに対し、「きく」器官(耳と鼻)は自分の意思では閉じられないというところにあります。「みる」器官には閉じたり開いたりする筋肉があるけれども、「きく」器官の筋肉は退化しているか、かなり弱くなってしまっています。耳と鼻も手や道具の助けを借りれば閉じることはできますが、しかし完全に外とのつながりを断つことはできません。耳栓をしても外の音は聞こえてきますし、強烈な匂いがするところでは、鼻を塞いでも匂いを遮断することはできません。

 ところが、「みる」器官である目や口は、自分の意思でいつでも、しかも完全に外とのつながりを断つことができます。見たくないものは目を閉じれば絶対に見えないし、食べたくないものは口を閉じれば食べなくて済みます。

 ロロ・メイは、五感を「主体的(subjective)」と「客体的(objective)」の二つに分けます。そのうち「みる」器官は「主体的(subjective)」であり、「きく」器官は「客体的(objective)」であるというのです。

(『あわいの力』安田登著 ミシマ社 2014 p47より抜粋)

観想

先日読んだ『チベットのモーツァルト』の中の身体技法に関する部分から、視覚と世界認識に関わるところを抜き出しておこう。

 観想は映像的な想像力の訓練にかかわっており、視覚がたえまなく外の世界を構成しつづける対象化の意識作用に変容をもたらそうとしている。観想の訓練をおこなおうとするには、生き生きとした視覚的なヴィジョンにみちた像を、自分の前方ないし頭上の空間にありありと想起させ、また自分の身体そのものまで神々の純粋なイメージに変容させていかなければならないタントラ仏教は訓練のあらゆる場面で、この技法をフルに活用しているのである。
 太陽や月や星あるいはロウソクの炎などを凝視する訓練も、それにおとらず重要な技法だ。それは意識を一定の対象に集中することによって、意識の内部でたえまなく立ち騒ぐ認識作用を静止にむかわせる。それはまた、外界の対象世界を静止像として固定するためにめまぐるしく動き回っている眼球の運動まで停止させていこうとするから、視覚による世界の構成作用にいちじるしい変化がもたらされるのだ。
(『チベットのモーツァルト』中沢新一著 講談社 2003 p148-149より抜粋)

もういっちょ。

 「風の瞑想歩行」の訓練は、わたしたちをただちにタントラ仏教の身体論や意識論の心臓部にいざなっていく。それは、この歩行訓練が、「風の究竟次第」とか「管と風」などと呼ばれる密教身体論(それは同時に意識の本性をめぐる教えなのである)の核心にふれる重要なテーマを学んでいくのに必要な準備段階をなしているからである。
 この瞑想歩行は、身体をめぐる意識に確実な変容をもたらす。この訓練は「内部の対話」を止めていく。間-主観的なディスクールが構成するリアリティの喚起力を静止に向かわせようとするのである。そのために「からだの重さをまったく感じなくなった」歩行訓練中の行者には、自分の身体とそれをとりまく世界とがまったく異なるように体験されるようになる。眼球が外にとらえている世界には、対象志向性をもった意識が構成する現実につきものの「人間味」のようなものが消えている。周囲の光景は「まるで夢の中に出てくるように」どこか超然としているし、それを見ている意識主体も奇妙な宙吊りの状態にある。しかも夢のなかとちがって、日常の客観的現実につつまれた身体感覚を失いながらも、身体はそれとは別種の直感的な意識の流れにしたがって、正確な実際行動をおこしているのである。
 この歩行訓練は、身体が対象化のできるたんなる客観的リアリティではなく、そこを貫いていくいくつもの層に折りたたまれた意識の流れが構成する、これまた多層的なリアリティにほかならないことを体得させるために、絶妙の効果を発揮する。ことによると、身体が稠密な物質でできているという考えはまちがっているのかもしれない。それはこちたき幻影の皮膜として身体の本性をおおいかくし、もともとそこにあってそこを貫いている「風」のように軽やかな運動体を見えなくさせているだけなのかも知れない。(中略)
 「風の究竟次第」の身体技法は、日常的意識がたえまなく「内部の対話」をつづけながらかたちづくっている稠密な表層的身体(表層的と言っているのは、それがのちに言語シンタックスに展開していくような二元論化する構造潜勢力のつくりあげる現象学的身体であるからだ)の脱ー客体化ということを、おしすすめる。そして同じ場所に、微細な差異の感覚をともないつつ運動し、流動していく無数の力線を見出し、そのダイナミックな現実領域に手違いなく踏み込んでいくためのテクノロジーをあたえていこうとしているのである。
(同書 p155-157より抜粋)

密教修行の記述が続くので、これだけ読んだ方は、「そめちゃんは一体どこに向かっとるんやー」と、少し戸惑うかもしれない。けれど、世界のとらえかたを変えるための方法のひとつのバリエーション、あるいは、現状の世界認識のありかたを対象化するために、まったく違うフィールドの知の体系に対して自分をひらくておくというのは必要なことだと思う。

話を写真に戻すと、先日、写真家とのやりとりの中で、「なんで自分がそれを撮ったのか自分でもわからない写真があって、それがおもしろい」という話がでていたことを思い出した。
撮った自分ですらわからないものに、そのときの自分が反応していた、という事実はとても興味深い。なにかを感じシャッターを押すにいたった経緯を言葉として整理できないまま、それでもなお、なにがしか「気にかかる」感触だけを残している。このことは、もしかしたら、ここで抜粋した「対象志向性をもった意識」からするっと抜け落ちたなにかを身体がひろった…とは考えられないだろうか。

身体技法というアプローチ

『チベットのモーツァルト』読了。
最近、かなり読書のペースが落ちているにもかかわらず、自分にとって必要な本にはうまく出会うものだなあと思う。

いきなり呪術とか聞きなれないことばが出てくるので面食らうかもしれないけれど、大事なことが書かれているので抜き出してみよう。

 カスタネダによればこの老呪術師は人類学者にむかってつねづね、呪術というもののもっとも大きな課題は「世界についての考えを変える」ことにつきるとまで語っている。彼は「世界」のリアリティというものが、人々がおたあいに会話を交換しあう間-主観的な過程をつうじて構成されると考える現象学者と、とても似た考え方をもっていた。つまりドン・ファンによれば、わたしたちは子供の頃から「他人が世界とはこうこうこういうものだ」と話すのを聞いて育ったおかげで、一定の形式をそなえた世界についての考え方とか感覚を獲得してきたのである。言いかえれば、他者のディスクールを中継点にしながら、世界のとらえ方をかたちづくってきたわけである。しかもわたしたちはこうして意識の内にとりこまれた他者のディスクールとのたえまのない「内部の対話」をくりかえし、そのディスクールの秩序にしたがって「現実」なるものを不断に構成しつづけている。だから「世界がかくかくでありしかじかであるというのは、ひとえにわしらが自分にせかいはかくかくでありしかじかであると言いきかせているから」なのであって、多様なレヴェルでたえまなく流れつづけている「内部の対話こそがわしらを縛りつけているもの」にほかならない、とドン・ファンは言いきるのである。

 だがその言いきりに関して、このインディアンの呪術師のほうが、同じことを主張するヨーロッパの現象学者よりもずっと自信にみち、さらにその先にある地点にまで踏みこんでいこうとする確かな手ごたえさえ感じられるのは、呪術師には現象学的認識を越えでていくのを可能にする確実な身体技法の伝統があるからだ。(中略)

 じつを言えば、チベット仏教の「風の行者」たちの場合も、それと同じなのだ。彼らもただたんに超能力なんてものを身につけるために、こんな訓練をしているのじゃない。そこからよけいな仏教的外皮をさっぱりぬぐい去ってみれば、早い話が「風の行者」のめざしていることも「世界についての考えを変える」ことにほかならないからである。チベットの密教行者たちも、「現実」が多層的な構成をもち、またその「現実」の表層部分の構成にたいしてディスクールの秩序が決定的な重要性をもっているという現象学的思考を前提にしている。しかも彼らはさらに、幻覚性植物ならぬ精巧をきわめた瞑想の身体技法を駆使して「内部の対話」を止め、たえまなく流れつづけている「世界」の構成作用を停止して、ダイナミックな流動性・運動性にみちた別種の「現実」のなかに踏みこんでいこうとしている。
(『チベットのモーツァルト』 中沢新一 講談社 2003 p153-154から抜粋)

そんな大それたことばを使って考えたことはなかったけれど、自分が写真表現に携わるうえでやりたいと思っていることは「世界に対する認識をかえる」ことだと思っている。ガラッとではなくても、認識を少しズラすくらいのことでもできれば、現在あたりまえとされているものの見方(世界に対する考え方)を、多少は対象化できるのではないか、と思っていた。そして、日常の生活世界のかすかな破綻、亀裂のようなものを探すような方法を探ってきたと思う。

わたしは神秘主義者ではないし、西洋式のものの考え方にどっぷり身を浸しているほうだとは思うけれど、身体技法の獲得という方向からアプローチする、という方法は一考の価値ありだと思う。
というのも、ヨガの実践を通じて、ほんの少しの予備動作や運動イメージの持ち方によって、身体の可動範囲が広がったり、難しいバランスがとれたり、まさか自分がこんなことができるとは思わなかったことが、わりとあっさりできてしまうという体験をして、実はわたしたちは身体のごく限られた能力しか使っていないのではないか。逆に言えば、正しく修練すれば、違った身体のありかた、精神のありかた、ものの感じ方、にたどりつけるのではないか、と思うようになっていたからだ。

実際、いまのやりかたに行き詰まりを感じているし、方法を変えてみるというのは、安直な気がしないでもないけれど、もし修練のすえに違った世界認識や、世界の見えが得られるのであれば見てみたいと思うのは、視覚表現に携わる者として、まっとうな願いなのではないかとも思う。

近い—遠い

リハビリの夜 (シリーズケアをひらく)』(熊谷晋一郎 医学書院 2009)を読む。

少し気になる文章があったので抜き出しておこう。

 車いすに乗ったときに見える三次元の世界は、床に寝そべっていたころに見た二次元の世界とは異なる。それはただ単に、視点の位置が高くなったということだけではなくて、時間の流れの感じ方や、空間の広がりの感じ方にも変容をきたすものだ。

 まず空間の〈近いー遠い〉という感覚について考えよう。

 現在の私には車いすから降りたとたんに、それまで近くにあったモノが、急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。おそらく世界にある対象物への〈近いー遠い〉という距離感覚は、「対象との協応構造にあいた隙間」によって大きく影響を受けているように思う。

 たとえば、協応構造の隙間が小さくてすぐにつながることのできる範囲、すなわち手を伸ばせば届く範囲が「近くの場所」で、息切れしない程度の移動でつながれるところは「少し離れた場所」、やっとの努力でつながれる場所は「遠くの場所」、努力してもつながれない場所は「向こう側」というふうに。

だから床の上に転倒した二次元の世界では、多くの人や、モノとのあいだに大きな隙間が生じるために、それらが遠くの場所や向こう側に存在しているように感じられる。二次元の私にとってモノたちや人々は、数十センチの至近距離にこない限り、私とは関わりのない遠くの存在なわけで、それは壁や天井と違いのない風景とも言える。

 このように、協応構造にあいた隙間の大小によって空間の感じ方は変容する。その関係を整理するならば、「身体外協応構造の隙間が大きいものは遠くに、小さいものは近くに配置する」ということになるだろう。そして、空間の中で隙間が最も小さいのが「身体」である。
(前掲書 p169-p170から抜粋)

写真にたずさわるうえで、へだたり、遠近、ということについて、無関心ではいられない。ここでは、協応構造という専門的な用語が使われているが、距離あるいはへだたりの感覚が、単なる計量的なものではなく、生身の身体を介する「かかわりのもてなさ」としてマッピングされていることを、あらためて思い起こさせられた。

 電動車いすに乗っているときの世界の感じ方は、乗っていないときとはまるで違う。さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。運動の変化量、ひいては世界の見え方の変化量が大きくなることで、時間の流れ方も早くなるような気がする。行動の選択肢が格段に増えることで、自己身体のイメージもより可能性を持ったものとして感じられるようになる。

 このように電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうのである。
(前掲書 p171から抜粋)

ここでさらに変数が増える。運動の変化量、時間の感覚。

ここまではっきり認識したことはないけれど、体調の悪いとき、からだをかばいながら少し緩慢に動いて撮影しているときは、普段立ち止まらないようなものにぐっと引き寄せられることがある。いつもとは違うものに呼び止められるような感じ。それは、さっさと機敏に歩いているのでは気づかないようなこと。
あるいは、移動手段が歩くのと、自転車に乗るのとだけでも、撮影対象もそこで撮る写真もまったく違ってくる。それが車になり飛行機になると、まったく次元が違ってくる。そう。運動の変化量が上がるにつれて、遠いものを撮ることが多くなる。こういった経験から、運動の変化量と距離感覚とに関連があることは、少し想像がつく。

それに加えて時間の感覚。著者は電動車いすによる、加速する方向の変化について書いているけれど、わたしにとっては、スロウダウンのほうがよりリアルだ。これも、体調が悪く緩慢に動くときの、じっと床を這うような時間の感覚をよりどころにするしかないのだけれど。

さまざまな場所へ機敏に移動できるようになるだけで、外界との隙間が小さくなり、それまで自分には関わりのなかったモノや場所が、急に遠くから近くにやってきたような感じがして、空間の距離感覚も変わる。
このフレーズは、今の自分にとってすごく大事な気がする。

そして、電動車いすは、身体を含めた世界のイメージをすっかり変えてしまうという文章の「電動車いす」を、車や飛行機にかえてみてもいい。
飛行機と車で移動しながら撮影をする写真家の作品を思い起こす。彼の作品のバックボーンは、その運動の変化量の大きさ。動力を利用することで、ヒューマンスケール(生身の身体)のリミットをはずしてしまったところにあるのではないか、ということを考えていた。

身体を含めた世界のイメージをすっかりかえるという経験を、身体感覚を研ぎすます方向で見いだそうとしていたけれど、運動の変化量をかえる、ということで得られるのであれば、これを試さない手はないだろう。

これはまだまだ、もっともっと時間をかけて考えていきたい。

またりんごだ…

先日読んだホックニーの本でセザンヌのりんごが出てきたけれど(「りんご」)、また全然違う文脈でセザンヌのりんごが登場していたので、メモしておこう。前者においては、単眼で見た世界と双眼で見た世界の違いの例としてとりあげられていたが、ここでは、見る行為に含まれる原初的な経験(なぞる-なめる)との関わりで紹介されている。両者で共通しているのは、視点は一点に固定されていない、ということ。

(前略)なぞるためには、まずはそれに触れなければならない。舌を押しつけるのであれ、歯茎で齧るのであれ、唇で挟むのであれ、はたまた舌先や唇、さらには指先で間を測りながら、そっとつついたり、さすっとり、撫でたりするのであれ。なぞるのは、まず輪郭である。物の外皮、物の表面をなぞりながら、ひとはその形状を、つまりはそのカーヴを、テクスチュア(肌理)を、そしてその硬軟を知る。カーヴやテクスチュアや硬軟は、口や手といった触れる器官で知る。けれども、物のそのカーヴは、物の全体的な輪郭の一部であるからには、視覚的にこそより完全にとらえられるもののようにおもわれる。メルロ=ポンティはその点について、描画といういとなみにふれてこう言う。

 林檎の輪郭を、続けて一気に描けば、この輪郭がひとつの物になるが、この場合、輪郭とは、観念上の限界であって、林檎の各面は、この限界を目指して、画面の奥の方へ遠ざかるのである。いかなる輪郭も示さなければ、対象から、その自同性を奪い去ることになるだろう。ただひとつの輪郭だけを示せば、奥行きを、つまり、われわれに、物を、われわれの前にひろげられたものとしてではなく、貯蔵物にあふれたものとして、汲み尽くしえぬ実在として示してくれるような次元を、犠牲にすることになるだろう。それゆえに、セザンヌは、色で抑揚をつけるに際して、対象のふくらみにしたがい、青い線で、いくつかの輪郭線を引くということになるわけだ。(M・メルロ=ポンティ「セザンヌの懐疑」粟津則雄訳)

 対象をあやすように、愛おしむようにしてその表面をなぞる手の運動、まるでその奇跡を視覚的にたどり、再現しているかのような、ひょろひょろとしたセザンヌの描画の線。セザンヌの描く林檎のひゅっひゅっと走るあの無数のかすり傷のような輪郭は、舌で舐め廻し、指でなぞる、そういうわたしたちの原初的な知覚の轍のようにみえないこともない。三木の表現をあらためて引けば、そうした「目玉による舐め回し」には、口による、そして手による対象の舐め廻しの記憶が蓄えられている。そうしたことがあるから、メルロ=ポンティは、「われわれは、対象の奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、固さなどを、見るのであり—それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見る」とまで言い切ったのである。これは、視覚から触覚、嗅覚まで、異なる感覚とされるものがその実、単独の感覚である以前にまずはたがいに交叉しあい、また深く侵蝕しあう、シネステジー(共感覚)の現象を言いかえたものであり、さらにそのことを敷衍して、別の著書では次のように書いている。「質・光・色彩・奥行といったものは、われわれの前に、そこにあるものではあるが、しかしわれわれの身体のうちに反響を喚び起こし、われわれの身体がそれを迎え入れるからこそ、そこにあるのだ。この内的等価物、つまり物が私のうちに引き起こすその現前の身体的方式、今度はそれが、これもまた目に見える見取り図を生ぜしめないわけがあろうか」(M・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳)、と。

(『「ぐずぐず」の理由
』 鷲田清一著 角川選書 2011 p132-134より抜粋)

セザンヌに関する記述だけ抜き出したけれど、その前段には、以下のような文章がある。

 乳を吸う、味わうといういとなみに飽いてくると、つぎに赤子は口で外界の探索をはじめる。いやというほど物を舐め、しゃぶり、くわえ、齧る。人間のばあい、外界の物は、まずはしゃぶること、舌と唇と歯茎でなぞることで知られるのだ。

幼児たちは、やがてこの口の過程を卒業し、もはや内臓とは関係のない「手と目」の両者だけで満足するようになってくる。そこでは、この二種の触角による“撫で回し・舐め回し”の感覚・運動の共同作業が営まれるのであるが、そのうち、ここから“手を退き”、ついに目玉という、たった一つの触角でもってこと足りる世界が開かれて来ることになる。

 しかし、重要なことはその次にある。たしかにひとは、まずは口で、次に手で、そして眼で「舐め回す」ようになるのだが、「この最後に残った目玉による舐め回しの奥底には、かつてえんえんと続けられてきた本物の“舐め回し”の記憶が、そこではかけがえのない礎石となって、そうした視感覚をしっかり支え続けている」。

(同書 p131-132より抜粋)

これに関して、少し思いつくこと。

  • ある表面に対して垂直方向の運動、例えばぐっと対象に寄ってじっと(解像度を上げて詳しく)見るというような視覚の運動は、舐める、撫でる、との連携では説明しにくい。そういうのは、どうとらえるのだろうか。
  • 触覚の連携を示唆する視覚表現、あるいは触覚との連携で解釈される視覚表現を、最近目にする機会が多くなったように思う。これは制作者の関心が「絵画とはなにか?」や「写真とはなにか?」という問いから「見るとはなにか?」という、より根源的な問いに移行してきたからだろうか?

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている

最近また‘身体’に関心が戻ってきて、パラパラと読んでいた本のなかに、少し苦いフレーズを見つけた。

(前略)詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。
 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的に言うと「うるさい」ということですね。そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「わたしが語る」ということそのものの不快さなんです。
(『身体の言い分』内田樹 池上六朗著 毎日新聞社 2005 p24・25より抜粋)

後半の若いひとたちが…のくだりでイメージされているのは、キムタクが扮する若者役に代表されるような若者像だと、ほかの著書で読んだ記憶がある。たしかに、彼の役柄はいつもいつも鼻についた。だから話はよくわかる。それでも、不思議なことに、自分のことばかり話していても、それが鼻につくひとと、つかないひとがある。その違いはどういうことなんだろう。

 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているのかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。
(同書 p83より抜粋)

メッセージのコンテンツではなく送り方を聴いている、というのは面白い。
なぜかこのひとの話は聞いてしまう、ということもあるし、
逆に、このひとの話すことばはまったく響いてこない、ということもある。

「わたし、わたし」というコンテンツでも、余裕なく切羽詰まった様子で話されるのと、本人自身が客観視できる程度に余裕を持って話されるのでは、受け手には違って聞こえてくるのかもしれない。大事なのはむしろメッセージの「送り方」のほうなのか。

きっと(芸術)作品においても、コンテンツだけでなく、作品の差し出し方まで、
観賞者にまるごと観られているのだろう。実際、視覚表現領域でもコンセプトを押しつけてくる作品は「うるさい」。

だから、ここらへんの話は、うかうか人ごととして読んでいられないのだ。

抜かなかった。

9月下旬、歯痛が激しくなって歯医者に行った。

まえに一度、歯医者ではいやな思いをしていたので、
少し慎重に選んだ町の歯医者さん。

同い年くらいの若い歯科医は、
状況を丁寧に聞き取りレントゲンをとる。

目立った原因が見当たらない。

初診で彼はそう言った。
そうして、とんぷくを処方され、しばらく様子を見ることに。

激しい歯痛のせいで肩や首のあたりがずっと力んでいて、
ついには頭痛まで併発していたので、
早く、早く、痛みをとりのぞいてもらいたかった。

でも、その歯科医は、慎重に時間をかけて様子を見る。
とんぷくで、多少、痛みは軽減されているものの、
集中力を欠いて仕事に身が入らない状態だった。

10日ほどかけて様子を見ているうちに、少しずつ原因が明らかになっていった。
すでに神経をとって銀をかぶせてある歯の根っこのほうにヒビが入っていて、
そこが化膿しているとのこと。

状況によっては、抜かないといけないけれど、
その前後の歯も綺麗だし、できるだけ残す方向で処置していきましょう。と。

2年前、同じように激痛に襲われて駆け込んだ歯科医院では、
原因も特定できないまま、あてもののように、つぎつぎと3本、神経を抜かれた。
「これだけ抜いてまだ痛いようなら、あなたは化け物ですよ」
そう言われて帰ったあと、まだ痛みが続いていたから、慌てて歯医者をかえた。

そのときの処置のことを、いまお世話になっている歯医者さんに話したら、
「神経をつぎつぎと抜くなんて、そんな処置は絶対にしたらいけない」と、
苦々しい顔でつぶやかれた。

2年前は、
次々と神経を抜いた歯に保険適用外のかぶせものを勧めてきた時点で、
その歯医者がヤバいことが決定的になったのだけれど、
同業者の意見を聞いて、やっぱりダメだったんだと納得する。

でも…と思う。

わたし自身、医者に行けばいとも簡単に、痛みをとってもらえる、
と思っていなかっただろうか?

正直なところ、今回の通院では、原因がはっきりわかるまでのあいだ、
なんで痛がってるのに、積極的に痛みをとる処置をしてくれないんだ?と
相当恨めしく思っていた。

自分の身体の不都合を、簡便に解消してもらえる。
そう期待したのは、ほかならぬわたし自身ではなかったろうか?

2年前に不適切な処置をした歯医者をずっと非難がましく思ってきたけれど、
慎重な処置よりも「いますぐ痛みをとってほしい」と、
まるでファストフード店やコンビニに期待するのと同種の期待をしたのは、
ほかならぬわたし自身ではなかったろうか?

今回、抜かない歯医者さんにめぐりあって、そう気づいた。

「一週間で3kgダウン」というような謳い文句のダイエットも然り。

コンビニエントに、自分の身体をどうにかできる、どうにかなる、
なんて、考えてはいけなかったんだ。

ことばはいつも後から

なんだかいやな感じ、だとか、なじめない感じ、だとか、
そういう齟齬としてとらえられた感覚が、
ずいぶんあとになって、他人や自分のことばに輪郭づけられることが多い。

ことばはいつも後から追いついてくる。

最近やっとそういうことがわかりかけてきた。

ことばで輪郭づけられるまでの、居心地の悪さのようなものは、
勘違い、くらいのことばで簡単に片付けられるものかもしれない。

でも、ことばにならなくても、そういうもやっとした感覚は、
もやっとしたまま大事にとっておいたほうがいいのだ。

0.01とか0.00023くらいの、
ともすれば、端数や誤差として削られて0にされちゃうくらいの微細なズレの感覚は、
ことばに出会って増幅され、確たる差異として認識されうるものかもしれないし、
簡単に切り捨ててしまってはならない。そういうことを考えた。

なんとなく気持ちがわるい、とか、
なんとなく居心地がわるい、とか、
なんとなくなじめない、とか、
そういう気分にはならないにこしたことはないけれど、
そういのをなかったことにし続けると、
知らないあいだに大きくなにかを損ねてしまう、気がする。

感じていることに気づかないふりをする、なんてことは、
絶対にしないほうがいい。

身体で感じることをあなどってはならないし、
ほかでもない自分が感じるところを、もっと信用してやろうよ、と、
なぜかそう、強く思った。

調子が悪いくらいがちょうどいい、

今年の春先からか。腸の調子がすこぶる悪い。
いまはやりの過敏性腸症候群だ。

週末はついに、胃までしんどくなって、早朝5時に胃痛で目覚める。
だめな一日…と思いながら、からだを引きずるようにして撮影に出かける。

本調子でない分、動きも緩慢になっていたのだけれど、かえって、世界の肌理を近くに感じた。

最近、忙しくしていたせいで、しっかりものを見るペースで生きてなかったのかもしれない。

ものをつくるのには、調子が悪いくらいがちょうどいい、というのは、たしか仲條正義さんの言。

絶好調で全速力、では見えないものもあるんだな。

マウスピース

なんてこった。

一日一本ずつ神経を抜いていたのですが、
今日ほぼ原因の歯を特定できました。

食いしばりの加圧によって、歯に縦にヒビが入り、
そこから水やお湯が入り込んで、神経を直に刺激していたようで。
歯の中で神経が炎症を起こしてはった。

原因は、かなりきつい食いしばりなので、
これ以上歯を痛めないように、マウスピースをつくることになりました。

正直、マウスピースなんて色気ないなぁ…とげんなりしているんだけど、
まるでアスリート!と、テンション上げて、渋々、型どり。

しかし、長年の生活態度や習慣が、
モロに身体に出てくる年になったということに、率直に驚いています。

なんせ今年は本厄やしね。

なんだかんだ、この数年、ずっと気を張ってたんかも。
うまく脱力する方法を身につけないと、ね。

ストレス耐性

が低いということは、重々承知していたが…。

先日から、歯の激痛に見舞われています。
歯みがきで激痛、熱かったり冷たかったりする食べ物でも激痛。

日に日にひどくなるので、歯科に行くと、
「あなたは食いしばりがひどいけれど、ストレスためてる?」
と訊かれた。

おおいに。

食いしばり(噛みしめ)がひどくて、歯が硬いひとは、
食いしばり(噛みしめ)の圧力で歯がしならずに、割れるんだと。
もしかしたら、犬歯に断裂が入っているかもしれない…と。

そして、いまはまだ初期段階だけれど、これが本格的に割れると、
いまの痛みどころじゃない、とのこと。

とりあえず経過観察で、麻酔と痛み止め。

昨日は頓服飲んで痛み抑えて、嵯峨芸の学生さんとご飯を食べたけれど、
もう今日は麻酔で口半開き。

ストレスが、こんなところに発現するなんて、きっついわ。
そこで登場したのが、歯医者さんにもらった食いしばり(歯ぎしり・噛みしめ)を改善するプリント。

たとえば、前準備。
「布団に入ったら何も考えないようにしてください。もし、どうしても考えることがあれば、もう一度、布団から出て考えてください。布団の中は眠るだけの所と決めて下さい。あるいは、朝目覚めてから布団の中で考える習慣をつけると良い考えがでてきます。」

と、この調子で延々、A4 2枚両面。

この季節、一旦入った布団から出るのは寒いし、
布団を「眠るだけの所」と決意するくらい几帳面なひとは、きっと食いしばっちゃうよ。
「あるいは、朝目覚めてから布団の中で考える習慣をつけると良い考えがでてきます。」
と言いきっているのも不自然だし…。

痛いのは深刻なんだけど、親切すぎるA4プリントはつっこみどころ満載。

歯医者さんの言う
「南の島に行くとか、温泉でゆっくりするとか」というのが、
いちばん良いんだろうけどね。

でも、いまこの苦境をどう打破するかだよ。
あ、また食いしばってる。

手のひら

きっと人酔いしただけだと思うのだけれど、とてもとても疲れて。
なぜか自分の手をあわせて「ああ、手のひらってやっぱりすごい…。」となかば夢うつつの状態で考えていたら、知らないあいだに眠っていた。

先日、NHKのプロフェッショナルという番組で専門看護士の北野愛子さんが、患者さんの手を握ることに対して、「手と手を触れ合わせることで、言葉でも表情でもないものが通じると思っている」というようなことを言っていた。

真偽のほどはわからないが、手をつないだほうが夫婦仲も良い、という話も聞く。

思い出したのは、いちばん不安だったとき、わたしはボーイフレンドの背中にやたら手のひらをくっつけていたこと。手のひらを相手のからだにくっつけるとびっくりするほど安心できること、そのころのわたしのちょっとした発見だった。

新年会の帰りみち、ひとりひとりの手を両手で握って別れの挨拶をする作家さんがいた。そのひとの両の手で自分の手が包まれたとき、じかに感情をさわられるような感覚にうろたえた。

根拠はないけれど、手のひらってやっぱりすごいんだと思う。
今度祖母に会うときは、そっとやさしく手を握ろう。