LISA SOMEDA

cinema (6)

無時間性

 

とある本を読んでいたところ、無時間性ということばに出会う。

そういえば、RIVERSIDEの編集をしているときに、ハッと手を止める瞬間があって、それは信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間、時計の針…そういった時間を意識させるものに強く反応したんだということに気がついた。

逆に言うと、編集中、わたしは自分の撮った写真に無時間性を感じていて、だからこそ時間を意識させるものが登場するとハッとしたのだ。

Touching the world gently

 

Setting up the tripod, adjusting the camera horizontally and vertically, just when I turn the focus ring delicately at last, I feel as if I touch the world gently.
I wonder if I may be healed not so little by the gentle motion of my own hand. I wonder if I may be healed not so little by the gentle motion of my own hand. When I touch something gently, the gentleness is not only for the object but also for myself.

Here I would like to write about the first part.
For if the focus ring is turned a little too much, the screen image becomes a bit out of focus, it must be turned delicately.
I suppose that the delicate gentle motion of my hand causes gentleness in my mind.

There, I found an interesting story in an interview by Shigesato ITOI and Prof. Yuji IKEGAYA. (https://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-06.html
It’s about the experimental report that test subjects felt more funny when they read comics keeping their mouth pronouncing ‘ee’ than ‘woo’.
“The brain is isolated from the outside and it cannot recognize the outside by itself. The brain can recognize the outside only through the body. So, the brain makes a reasonable answer that the comic is funny based on two pieces of information, one is smiling (mouth pronouncing ‘ee’ ) and the other is reading a comic. The status of the body precedes the interpretation of the brain.” Prof. IKEGAYA said.

If so, I think that it’s not impossible that the gentle motion of one’s hand causes gentleness in one’s mind.

One more.

In the movie Nichinichi kore kôjitsu (2018 Japan), a teacher of traditional Japanese tea ceremony tells her student “You must start to learn “form” in Japanese way of tea. The first you learn “form”, the next “mind” accompanies it.”

Our predecessors may have known that the behavior comes first and the mind comes last.

幾千のディテイルの積みかさね

 

母は映画が好き。
BSで放映されている辺境の地の映画をもっぱら好んで観ている。
居間で一緒にゴロゴロしながら映画を観ていると、彼女が言う。

「(映画って)すごいわよね。それこそ幾千のディテイルの積みかさねじゃない。」

おっと、おかん。ええこと言うやん。
「幾千のディテイルの積みかさね」
素敵なフレーズや。どこからパクってきたんやろ…。

そんな母に、
「深夜、寝しなにテレビつけたら、ニューシネマパラダイスやっとってん。」
と言うと、「あら、そんなん寝られないじゃない。」と。

まったくその通りだったのが可笑しかった。
翌朝早くに用事があるのがわかっていながら、
〜早朝4時の放映を最後まで観てしまった。

4度目なのに、泣きながら。

カメラになった男

 

先週末、神戸の映画資料館で上映していたので、観に行った。

映画館のせいなのか、編集が原因なのか、音がとても酷かったのが残念だったし、技術的に拙い感じは否めないけれど、数年前に見た「きわめてよいふうけい」よりも、見るべきところは多かったように思う。

特に沖縄の講演会のシーン。
講演会のタイトルのなかで使われている「創造」ということばに対して、「写真はクリエイションじゃない、ドキュメントだ」と言っているところとか。

中平さんの写真には、まなざしに余計なものが混じってなくて、ものがただそこにあることだけが定着されて、成立している。やっぱりすごいなぁ、と思う。

撮影しているとき、楽しそうなのが印象的やった。

いのちの食べかた

 

数時間じっとしているのが苦手で、
ほとんど劇場に行かないし、あまり映画は観ないほうですが。

何年かにひとつくらい、これは観とかないとと思う映画があって、
「いのちの食べかた」
京都みなみ会館で上映中だったので、さっそく観に行く。

ドキュメンタリーになるのかな。
音楽もナレーションもなく、淡々と、動物が、植物が、食料化されていく工程と、
職員がご飯を食べる姿が交互に続くだけ。

牛や豚、鳥や魚が生きものから「肉」になるということがどういうことなのか。
人工交配がどういうことなのか。
知らなかったわけじゃないけれど、知識として知っているだけで、
実体験としてはなにも知らない。
そういうことを、目の当たりにさせられます。

ふつうにグロテスク。
しばらく緊張でからだが萎縮するほどに。

でも、食品加工におけるグロテスク、を隠蔽したり、
あるいは、誰かにそのグロテスクな作業を負わせているのに、
涼しい顔で知らないでいることは、もっとグロテスク。

まるで工業製品を扱うかのような無情さで、淡々と加工される動物・植物。

知らなかったわけじゃないけれど、でもどこかで、
せめて食品くらいは、人の手を介したあたたかいものだと思いたがっていたんやろな。
冷や水をあびせられたような気持ちになりました。

飲食業を営むUさんご一行と出くわして並んで一緒に観ましたが、
途中から、みなおかしを食べる手がとまってしまっていたのが印象的でした。

わたしは、帰り道も想像力のスイッチが入りっぱなし。
「海鮮かきあげ丼」の看板を見ては、生きたまま魚が腹を切り裂かれるシーン、
「焼き鳥」を見ては、鶏が首なしでコンベアで運ばれるシーン、
「牛丼」では、おびえる牛に高圧電流を流すシーン、
が頭をよぎって、なかなか、食欲が戻りません。

いのちの食べかた 公式サイト

キューバに行きたくなった。

 

R座、二度目の訪問。

一度訪れると、ハードルは低くなるもので、
日曜日の夜、みず知らずのひとと並んで映画を見るのが、楽しみになってきた。

サルサ!という映画、
タイトルのとおりのダンスムービーやけど、ダンスムービー特有のストーリーの安っぽさもなくて、気持ちよく見られた。フランス映画だし、少し、アフロアメリカンの描きかたに偏りを感じたけれど、青春恋愛映画としては、充分。ほんで、こんな機会がなければ、青春恋愛映画なんて、自分では絶対に見ないから、新鮮やった。オトも良い。

ところどころ、ききとれるスペイン語の響き。
キューバに行きたくなった。

日本はチマチマしてていややな、と、
ペルーから帰国したころから20年間ずっと思っていたから、
中南米、行ってしまったら、帰りたくなくなるだろうね。

35歳までに、メキシコとキューバと。

サルサ!