Monochrome photos are luminance patterns and color photos are converted patterns from countless to a few colors. Both are just approximations.
2023-06-16
2023-06-16
Monochrome photos are luminance patterns and color photos are converted patterns from countless to a few colors. Both are just approximations.
2023-06-05
とある本を読んでいたところ、無時間性ということばに出会う。
そういえば、RIVERSIDEの編集をしているときに、ハッと手を止める瞬間があって、それは信号機の赤、少年が跳び上がる瞬間、時計の針…そういった時間を意識させるものに強く反応したんだということに気がついた。
逆に言うと、編集中、わたしは自分の撮った写真に無時間性を感じていて、だからこそ時間を意識させるものが登場するとハッとしたのだ。
2022-08-13
Wondering why it can be seen only one of the basement textures of the reflection or the reflection image itself at once, I often photograph such scenes as a mixture of the basement texture and the reflection image.
I found that such a case is called “Inattentional blindness” in The Mind is Flat: The Illusion of Mental Depth and The Improvised Mind written by Nick Chapter in 2019. I read it in Japanese, and there are more topics about vision than I expected. The description about inattentional blindness is in Chapter 8.
Though I will touch on the topic only about “Inattentional blindness” here, in this book the story is developed from the characteristics of the brain as it can treat only one thing at once to the flatness of the mind through many experimental results.
To return to “Inattentional blindness”, when I was a beginning student of photography, I was often disappointed to find something that I hadn’t intended to photograph in developed films. Because I had seen only what I wanted to see.
Nowadays, such cases are less, but sometimes I can’t be aware that my mobile phone or camera is reflected on the window for some time, when I take photographs of the city below from the airplane. At all such times, I remember that “I see only what I want to see.” and laugh bitterly.
Since my postgraduate student, the theme in my creation is that I think about how we see, focusing on the difference between vision of man and vision of camera.
Now I see that cameras have taught me about “Inattentional blindness” from just the beginning, but I couldn’t be aware of it.
2021-04-08
By the influence of COVID-19, vacant rooms are increased in central area in Kyoto, and it becomes often to be seen glass windows of vacant rooms covered with sheets or wood plates.
On the other hand, the rush of construction apartment buildings occurs in residence zone.
It becomes often to be seen the just new glass windows covered with sheets also there.
When I try to stare at the reflection on the glass, grains of wood or pleats of sheet interrupt me.
Then, when I try to stare at grains of wood or pleats of sheet themselves, the reflection on the glass interrupt me.
I remember the word “trade-off” with this experience, I think that it symbolizes social situation right now the most.
2020-01-12
When we see the bottom of the below image, we can see the sheet with protrusions. Then, seeing upper gradually, our awareness are to the reflection on the glass away from the sheet itself.
I wonder if it is difficult to aware the texture or existence of the object itself when it becomes the basement of the reflection.
I remember such a frustration I felt in childhood as when I would see the outside of the window in the train at night, the light reflected by the window kept me from seeing outside.
It’s difficult for me to see what I want to see.
2009-09-12
先週末、メゾンドエルメスで開催されている名和晃平さんの「L_B_S」展を観に行った。
入り口のところで、監視員の方に、「作品にはお手を触れないでください」と注意される。わざわざ、こんなところまで足を運ぶような客に、わざわざ、そんな注意をせんといかんもんなのかなぁ…と思っていたら、その理由がすぐにわかった。
表面の質感に対する関心を強くひき起こす作品。注意されなかったら、つい触って確かめたくなってしまっていただろうな、と思う。
展覧会タイトルのL_B_Sの、LはLiquid、BはBeads、SはScumで、展覧会はその3群の作品から構成されている。
Beadsは、鹿の表面を覆うビーズによって中に入っている鹿の像は歪められている。ビーズで覆われた透明のボリューム。
Liquidは、グリッド状に発生しては消えてゆく泡。うまれては消えてゆくその白い泡の表面に、しばらく見とれていた。
わたしにはどちらも、とても映像的に見えた。
これらは、塊、ボリュームとして受けとめることもできるし、その表面に生起する映像として受けとめることもできる。Scumに関しては、触覚に訴えかける表面の質感が特徴的であり、ものの存在の多層性、ということを考えさせられた。
ドアマンと、店内の雰囲気にビビりながらも、勇気を出して観に行って良かったと思う。
2008-12-08
1ヶ月弱くらいのあいだ、集中的に内田樹の文章(著書とBlog)を読んでいた。彼の明快な文章によって、いままで自分が感じていた齟齬や違和感に、くっきりとした輪郭が与えられるような感じだった。しばらくはその快楽に浸っていたというのもあるけれど、そういう時期は、彼のことばに自分のことばを絡めようとしても、どうしても自分の文章にならなかった。
どうも、咀嚼には時間がかかるようだ。身体論から社会分析まで、あまりに広範にわたる内容の、それも濃い内容の文章を大量にinputしたのだから、無理もない。
いまから少しずつ咀嚼して、自分の経験にからめて書けたらいいなと思う。
武道論から派生する人間の身体運用についての記述がとりわけおもしろくて、着物では、背面の見えない位置に一家のアイデンティティたる家紋を背負っていることになり、その身体運用においては、「見る」意識が、自分の後方にも回り込んでいる、という。
ひとの「見る」が、そのような複雑な経験として成立しているのだとすれば、写真で表現、あるいは再現できる視覚経験というのは、とても限定的なものかもしれない。どうしても、写真の「可能性」より「不可能性」に魅かれるな、と思いながら、冬空の下、撮影を続ける。
2008-09-03
ロン・ミュエック展のことをしばらく引きずっている。
あれらの作品で、わたしにとっていちばん辛辣に感じられたのは、
いままでの彫刻作品がいかに抽象化され理想化されたものであったか、
ということを暴いたこと。
同じことを写真にあてはめて、
世に流通する写真群がいかに抽象化され、理想化されているか、
ということを考えさせられている。
2008-08-04
最近のキーワード。
2008-05-09
撮影するこのわたしが光のただなかにあるということ。
透明な存在としてではなく、光のただなかにこの身を持って存在することは、単に視神経が刺激されるのとはまったく違う経験なのだと思う。
光にくるまれるような経験を、四角く区切った平面にどれだけ写しとることができるのだろう。
執拗に光と影を追ったスナップを見ながら、つくづく。
2008-03-14
春霞、あるいは、黄砂の舞うなかの撮影。
遠景があまりにぼやけて、つまらない、と思ったときに気がついた。
その写真が、具体的であるかどうかということが、自分にとっては、すごく重要だということ。
霧の街の写真を見たpが、「ものは抽象的になると、美しく見えるからね」と言っていたのを思い出し、そうか、その写真が具体的かどうか、ということが、わたしにとっての、ひとつの判断の軸なんだ、と思った。
なんでも言語化すればいいものではないけれど、言語化することによって、いくぶん視界がクリアになった。
2007-06-19
なにか特別な場所から、完璧に全体を把握できる目になりきるのは、好きではない。その現場に身を置いていることとか、完結させずにおくこととか、すべてを見渡せないままにしておくこととか。画面の外につながっていく意識だとか。
そういうこと。大事なのは。きっと。
わざわざ、閉じない。
2007-02-27
新しいカメラのフォーカシングスクリーンが肌にあわない。マイクロプリズムがうるさい。
マイクロプリズムの像を見ながらピントをあわせる操作をしているうちに、撮りたかったものの何がたいせつだったのかわからなくなる。
強制的にピントに意識を集中させられることで、撮る動機になったもの、場の持つニュアンスとかそういうものに対する意識がこぼれ落ちる。
思い返せば、写真を撮りはじめた最初の頃から、作品としての写真に対しては、画面の一部の「見せたいもの」にピントをあわせることに違和感があって、画面全体がくまなく大事だったりするものだとか、周縁にこそ意味があるものだとか、像そのものよりも画面から匂い立つ空気感とか距離感とか、に気持ちが向かっていた。わかりやすい視線の中心をつくることにも、全体で見ておさまり良い構図の一枚の絵をつくってしまうことにも「NO」という気持ちを抱き続けてきた。
しばらくこの拒絶反応と向き合ってみて、だめだったら、スクリーンをかえてみる。これだけ自分が拒絶していることがわかっただけでも良い経験だったと思おう。
2006-09-07
初日ははずしてしまったけれど、清水穣氏の講義「森山大道研究」を3日間ぶっとおしで受ける。今年いちばん贅沢だった10時間と40分。
あらかじめ境界線を画定してそれを突き抜けるという、写真をとりまくモダニズムの二元論への批判を受けて、昨日の自分のコメントが、そのまんまモダニズムの言うところを引きずっているということに気づきドキっとする。「いま自分が撮っているものの限界をみきわめて、そこからそれを超える方向に向かっていきたいなと」…なんて。知らず知らずのうちに、ある思考体系を前提としているのは恐ろしいと思う。
展開が早かったからまだ未消化の部分も多いけれど、たくさんいいことがあった。森山大道の近作の読み方がやっとわかったこと。いつも煙にまかれるようであった写真論や写真批評について少しクリアになったこと。自分が抱える問題意識を整理できたこと。なによりも、スナップの可能性を信じる気持ちになれたこと。
感謝。
※最新号のInter Communication「コミュニケーションの現在・2006」に「荒れ・ブレ・暈け」再考 というタイトルで清水穣氏が寄稿されています。関心のある方はどうぞ。