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先月末、

大切なひとを亡くし、しばらくぼんやりしとったん。

熱いものを触ってギャーっと叫ぶような、そういう生理的な反応が続いていたんだと思う。

そういうこころのありようで過ごしていたから、ましてや、ことばを綴るような状態、ではなく。

ただ、わたしがのんきに彼岸なんてタイトルで文章を書いているときに、そのひとは病と闘い、そして、まさしく彼岸に行ってしまった。

葬儀に向かう夜行バスで、不意に目が覚めたのが朝の5時。
オレンジがかった朝の光で満たされた世界。
空に向かってぬくっと存在を示しているのは、富士やったんやろうか。
見たことのない美しい時間やった。

狂おしいほど、の光に、

静かな、それでいて、ある強度をたずさえた光。

狂おしいほど、の光に、
ひきずられるようにして、家を出る。

極上のやさしさ

夕刻の空のいろは、極上のやさしさ。

一日の終わり、
とにかく感謝をしたい気持ちになったのは、
ずいぶん久しぶりかもしれない。

最近夜空を見上げていない。

朝のおくゆかしい光のなか

ゆっくりと漕ぎ出すように、
朝のおくゆかしい光のなか、撮影に出かける。

ある頃から、錆びたトタンに無数の色を見るようになった。

それからは、
世界のいろいろなものがすべて、いちいち、具体的。
軽い目眩に陥っているような状態が続く。

スナップをあまり長時間続けられなくなっているのは、
集中力や体力が落ちているのではなくて、
あまりに、それぞれが具体的になりすぎて、
その重みを受け止めきれなくなっているのかもしれない。

時間が足りない

バランスの良い光やったんやと思う。
うす曇りのわりに、青に寄ってもいなかった。

光と影のコントラスト邪魔されずに、色がきちんと目に入ってきたから、いつもと違ったチャンネルで反応していた。その前の日と、まったく違うフレーミングでまったく違うものを撮ってる。

フレーミングすること、選択することによって、写真はいとも簡単にものを、被写体をトクベツなものしてしまう。その威力には十分慎重にならんといかん。意図があるならともかく、不用意に被写体に偏りがあるのはよくない、と思っている。

いつも、好んで細い路地に入りこむから、至近距離のスナップばかり撮ってしまうこと。見知らぬひとを撮るのが心理的に負担なこと。撮りたくなるもの、の、パターンが固定化してきていること。これらが、最近スナップのとき気にしていること。

中庸(?)な光のおかげで感じ方の軸がゆさぶられて、良かった。

あと50年生きれたとしても、あと何回、ゆさぶられるような光と出会うかわからない。
ほんとうに、ほんとうに、時間が足りない。

横殴りの光

最近、スナップを撮っていて、縦に構えることが多くなった。
縦にものを見ているというよりも、被写体によっては、35mmのフォーマット、横の長さを冗長に感じてしまう。

だからと言って、正方形は特殊すぎる。

縦位置/横位置、順光/逆光、比較のために撮ってみる。
順光と逆光の印象の違い、とか。
縦で撮る理由、横で撮る理由。
感覚だけではなくて、比較するなかで見えてくるものがあるのではないか。

そうはいっても、横殴りの光。軽い目眩の連続。
理性を手放さぬようぎゅっと。

秋の日は釣瓶落とし

夜景の撮影は、まず先に露出を決めておき、明るい時刻から待機して、その露出にあった暗さを待って撮るのが良いと聞き、早めの時間からポートアイランドで待機していた。

17時前後から暗くなりはじめ、18時半にはほぼ真っ暗。露光しているあいだにも、露出計の値は変化する。

あまりに日暮れのペースが速いので驚いたと母に言うと、「秋の日は釣瓶落とし、と言うのよ。」と、ごく当然のことのように返された。

秋に近づくと、日暮れの時刻が早くなっても、日暮れのペースがそこまで速くなるとは予想していなかった。あまりのショックに言葉を失う。

最初データをとった初夏の頃は、17時すぎから、暗くなりはじめて、完全に暗くなるのは20時を越えてからだった。

3時間強あれば、光の変化を細かく追えると思っていたのに、それが半分に短縮されてしまったら、さすがに厳しい。

ベストシーズンはやっぱり夏至のころか。

今週末に予定していた撮影は、来年に持ち越し決定やね。
仕事の忙しさでのばしのばしにしていたことが、
心底悔やまれる。

今年、とれるだけのデータをとっておこう。

改善点ふたつ。

雨があがって、バタバタと動き回っていたけれど、朝のスナップ再開。

直接、作品につながらなかったとしても、わたしの軸はそこにある。
ただ、撮り終えたものをきちんと見る時間を持てていないところが最近の大きな問題。

スナップは、やっぱりネガからポジに戻そう。

夏の光は、コントラストがきつくて、どうも苦手。
外を出歩いて、ふだんより長時間粘っても、
ほとんどシャッターきらずに帰ってくる。
だからといって出歩くのをあきらめるのは、もうよそうと思う。

改善点ふたつ。

取り戻すこと。

今週から、早朝の撮影を再開する。
ほんの30分でまったく光の調子がかわることに、あいも変わらず面食らう。

集中力が足らないのが自覚できるからもどかしい。
明日はうんと早くに起きようと思ったら降水確率60%。

連休に8時間ほど歩いただけで、ひどく消耗した。
体力も相当落ちているから、当面の目標は、まともに撮影できるだけの体力と集中力を取り戻すこと。

頂上だけの虹

窓の隙間、電線のすずめと目があう。
出がけの空はひっかききずだらけ。

光の質量。
頂上だけの虹。
ミドリの色が前と違う、とか。

午前7時の東京に、はつゆき。

よりによって光が良かった。

昇天。

父から譲り受けたのが二十歳すぎのことだから、10年来わたしのそばにあって、いちばん近しい存在だった愛用のカメラ。少しずつ老い衰えていくように、最初に液晶が、そして巻き上げ部分が、最後にミラーまわりが動かなくなっていった。

予感はあったのかもしれない。
でも、決定的な最期を迎えたその朝は、よりによって光が良かった。
このカメラで撮ることができないんだと思うと、
哀しいということばにたどり着く前に、もう涙があふれていて。

ことばをつぎたせばたすほど、気持ちが昂るから、何も考えないように、
努めて光を見ないよう、感じないようにして、そうっとそうっと家に向かう。

それはずっとこころに突き刺さったまま。いまもまだ胸が痛い。

不安定な混交

雨があがり、カメラと一緒に外に出た。
強烈な黄色の光、夕暮れとともに押し寄せる青と不安定な混交。
あまりの振れ幅に、おどおどする。いつも通る道なのに。

試されている。

うすもやのdefuse、印象そのものだった世界ははるか。

冬が来る。

くっきりとした空、なんと影の濃い。

暴力的なそのコントラストに、
不必要なほどはっきりした輪郭たちに、
目をそむけたくなるのをこらえて。

色も光もすべてが主張、主張、主張。雰囲気写真に逃げられない。
ハイコントラスト、目が痛くなるほどの乱暴なフィルムがあがるのは重々承知で、
わたしは外に出た。

どう撮ればいいのか。
どう受けとめればいいのか。
どう接すればいいのか。

光に試されている。日々、試されている。

手放す勇気。

空をつなげる

resetすると決めてからほぼ毎日、朝か晩は撮影に出かけている。

カメラを持った当初、なんやようわからんけど、妙にひっかかるという感覚だけをたよりに撮影をしていた。何を撮っているのかようわからへん写真ばっかりやった。数年撮っているうちに、フォトジェニックなものばかりを追うようになっていった。そして光や影に対するフェティッシュなまなざしも内面化してしまっている。

そういったものをすべてresetしたい。光や影も含め「もの」に対する関心を捨てて、その場から立ち上ぼるニュアンス(空気感という言葉は安直すぎて嫌いだけれど)に感覚を研ぎすませよう。たぶん、撮りはじめた頃の状態まで、いったん戻らないといけないと思う。それでもいい。

とある写真展で、技術に走ったおもしろくない写真と、つたなくても空気感をうまくとらえている写真とを同時に見たときに思った。写真に長く携わる人が陥る落とし穴にはまってはいけない、と。

手放す勇気。

まだ少しはやい。

少し光が秋めいて、喜びいさんだ午前7時。

世界はあまりに黄色く、想像以上に光はきつく。
まだ少しはやいのかもしれない。

影も長すぎる。
朝の光は思っていたほど素敵じゃない。叙情的すぎる。

焦って撮った数枚のせいで、自己嫌悪。
仕上がったフィルムを見て、また自己嫌悪に陥ることも想像に難くない。

撮るべきもののないときは絶対に撮らないこと。

実験開始

実験開始

先週から実験を開始。影のニュアンス、どのくらい制御可能か。ベランダの植木鉢を持ち込んでクリップライトでこじんまりと実験。

なぜ影なのか。ということ。
どこで、どういうかたちで見せるか。ということ。

動きのある影はおもしろい。

投影なのになぜ映像を使わないのかということ。
実体との関係性。

高松次郎の作品があたまをよぎったから(あれは絵画作品だけど)、図録を調べてみた。彼自身のコメントを読んだところ、一連の影の作品の制作意図はカンバスという媒体そのものの美しさを見せるところにあるらしい。

写真を使わない

コンペ用に過去の作品をまとめると同時に、あたらしい展示プランを考える。

いろいろ作業をするなかで見えてきたこと。

現時点でわたしは、
写真そのものよりも空間展示に関心の重心がある。

ホワイトキューブの展示を前提とするプランの公募で
わたしがしあげたプランは、写真を使わないインスタレーション。

写真を撮っているうちに鋭利になったのは、光と影に対する感覚。
特に、影に対してはフェティッシュなほどにひきよせられる。
言葉で説明はできないけれど、そこにわたしにとっての「必然」がある。

影をテーマに作品をつくりたいと思っていたことにいまさら気づき、
大きなホワイトキューブに写真を展示するより、
影で空間を構成することを考えたいと思った。

すこし実験をはじめたから、このまま続けてみようと思う。

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