LISA SOMEDA

friends (15)

どうもありがとう。

 

シルバーウィークの帰省にあわせ、実家にて前倒しでお誕生日会。
その数日後、両親が京都に来た折りに、あらためてランチでお祝い。
その翌日、エッちゃんとオヨシから少し気の早いハガキが届く。

深夜、妹にはじまり、朝にはエッちゃんとクニちゃん、そして母からお祝いのメールが。
午後はイマムラさんに映画に連れ出してもらい、楽しい時間と素敵なプレゼントをいただく。
帰ったら、ポストにはサワイちゃん一家からの家族総出の寄せ書きハガキが。
そして、東京のケイコさんから届いたお菓子とカードは母屋の奥さんが預かってくれていた。

34度目の誕生日をこんなにもたくさん祝ってもらって、
これ以上いったい何を望もう。

居場所のない思いをすること、
ふと、いなくなってしまいたくなることが、決して少なくはなかったけれど、
たくさんのあたたかい想いが、この世界にしっかりわたしをゆわえつけてくれている。

どうも、どうもありがとう。

輪郭を確かめない

 

あなたの抱える痛みを厳密に特定するために、
たくさんの言葉を重ねるよりも、
いま自分の感じているところを信じて、
ただ受けとめようと思いました。

悲しみの輪郭を確かめるための所作がかえって、
当事者であるあなたと、わたしとの距離を際立たせる、
そのことがとても暴力的に思えたのです。

グリーンアイス

 

この数日で、グリーンアイスのつぼみがつぎつぎとひらく。

今日はともだちの命日。

前に、お線香をあげにいったときに、
その家のベランダにも可憐なグリーンアイスが咲いていて、
彼のお母さんと話がもりあがった。

だから、
今朝はなんだか戻って来ているような気がしたのよ。
お盆でもないんだけど。

記憶のなかの彼を思い起こすとき、
かわらぬ笑顔の彼は、なぜか自分と同じように年をとっていて、
人間の想像力は、なんて身勝手なんだろう、と苦笑する。

年を重ね、自分が18歳から遠ざかれば遠ざかるほど、
たった18でその生命を絶たれるということが、
どれほど残酷であるか、ということを思い知らされる。

電気系ターム

 

あろうことか、このわたしにレンアイの相談をしたいとのこと。
久しぶりに、大阪で大学時代のともだちと飲んでいた。

コイバナなのに…。

たしかに、理系やったけど、
なんで、恋愛の緊張関係をエネルギーバンドで例えるのか…。
なんで、「量子化」とか「励起」とかいうことばが飛び交うのか。

話しているふたりとも、大学での成績は最悪だったから、
ことばの意味をわかったうえで使っているんじゃなくて、
子どもが覚えたてのことばを使いたがるようなもの。

電気系180名のうちたった6名しかいない女子。
6名がすべて仲が良いというわけでもなかったから、恋愛相談と、
マニアックな電気系タームの両方でつながる相手なんて、そうはいない。
単純に、その二極にあることばを共有できる連帯感がここちよかった。

落ち込んでいた彼女も、だんだんお酒がまわってきて、途中から悪ノリ。
「どっちも含み込むような、でっかいバンドをつくれっちゅうねん。」
「二次元や三次元で考えんと、八次元くらいで考えてくれっちゅうねん。」
くだの巻きかたがマニアックで、おもろすぎ…。

だから、言わんこっちゃない。
わたしに恋愛の相談役はムリやっちゅうねん。

ヘラクレス座の

 

なりゆきで深夜のドライブデート。

今出川より北、
お互いの思い出をなぞるように、
なつかしすぎて甘ずっぱい場所をうろうろ、と。

どんどん空が広くなって、漆黒の空にとびきりの星。

運転席のそのひとが「ヘラクレス座の…」と、それらしく言うから、
真剣に見上げると、「うそ言うた。テキトー。」とかわされて。

目的のないドライブだったし、
共通の友人のたちあげたNPOの建物をのぞきに行ったり、
クルマに乗らなきゃできないこと、
たとえば、スタバのドライブスルーでラテを頼む、
なんてことを、ひとつずつ、叶えていった。

新年早々、の、うれしい夜。

すこしいびつな月の高らかに輝くさま

 

仲秋の名月。

雨上がりの空は、しんと澄んでいて、
ひらけたところで月を見上げてから帰ろうと思っていたら、
ともだちが、おだんごを持って作業場に顔を出してくれた。

扉をあけたら、ちょうど良い位置に月がお目見え。
ベランダわきに腰をかけ、
すこしいびつな月の高らかに輝くさまを見上げて、お月見。

遠くの星のかすかなきらめきまで届いていたから、
これから転がり落ちるように、気温が下がる。

気がついたら、過ぎた季節をふりかえるところまで来ているんだ。

選ぶ

 

「昔から好き嫌いがはっきりしていたからね。」

この夏久しぶりに会った幼なじみから言われて、しばらく考えていた。

自分のことを優柔不断で、何かを前向きに「選ぶ」ことがあまりない…と思っていたから、そう言われたのが意外だった。でもよく考えてみたら、なにかあるものを「選ばない」という方法で、別のものを選択しているのかもしれないということに思い当たる。

Aを積極的に選ぶ、のではなくて、
BとCとDとEとFを選ばない、ということによって、
Aを選んでる。

Aを選んだつもりはなくても、
最後にAが手もとに残る。

こうやって自分は、自覚もないまま「選ぶ」を繰り返してきた。
ちょっと恐いな、と思う。

自分はこんな人生を選んだつもりはないと思っていても、
それは別の人生を「選ばなかった」だけのことだ。
きっとそういうひと、多いんだと思う。

特別なひと。

 

特別なひと。

いちばん危うくそしてキラキラした時間を共有したひとというのは、
すごく特別で、何年経とうと、その手触りはふとした瞬間に戻ってくる。

ファインダー越し、追いかけて、
楽しげに演奏するその表情があまりに綺麗で、かっこよくて、
無防備にドキドキしている。同性なのに。

14年前からかわらず、ばかみたいにまっすぐで繊細なひと。

玄関にあるべきアレが

 

わがやは単身の引越しは家族総出でやっつけるのが通例だけれど、
今回は弟のガールフレンドや妹のボーイフレンドまで巻き込んで、
友人もふくめ総勢8名にお手伝いいただきました。

あまり人手が多いと収集がつかなくなりそうで、
お手伝いの申し出をおことわりした方も4名ほど。

お手伝いくださった方も、申し出ていただいた方も、
ほんまにありがとうございました!

件の冷蔵庫も奇跡的に町家の2階に鎮座しています。

築年数不詳の「新」居は、町家のはなれなので通りからは見えません。
携帯は圏外になります。
歩くと壁に寄っていくなと思っていたら、
明らかに家屋が南東に傾いています。
ふすまも引き戸も、一筋縄では開きません。

前の住まいは、玄関にインタホンがなかったけれど、
今度の住まいは、玄関にあるべきアレがありません。

隠れ家、と言えば聞こえは良いけれど、
エエ感じに浮世離れしてて、家から一歩も外に出ずに日々を過ごせます。
そう、魅惑のひきこもり物件!

遺影

 

あるひとから、モノクロで写真を撮って欲しいという依頼があった。

「遺影」という言葉がチラリとよぎる。

話を聞いてみると、やはり遺影を撮ってほしいとのこと。
朝日新聞に遺影のシリーズがあって、そのプロジェクトに応募したが、応募が殺到して、無理だったと。それでもきちんと遺影を残しておきたいという気持ちはかわらないのでぜひ撮ってほしい、という。

かっこつけたりきばったりしない、ごく普通の表情が写っていればいいな…と思って、36枚ラフに撮りきる。きっと数枚は顔をくしゃくしゃにした笑顔で、ほとんどはカメラを向けられることに慣れていないひと特有のこわばった表情。でも、それが彼女のリアルだ。

遺影で思い出す。

18歳で亡くなった友人の実家。居間にある写真立てに、その友人が仲間と一緒に写っている写真が入れられていた。ある年、線香を上げにうかがうと、その写真の、仲間が写っている部分だけが、亡くなった友人の幼い頃の写真に差しかえられていた。

その不自然なコラージュを不思議そうに見ているわたしに、亡くなった友人の母が言う。
「ほかのみんなは生きているのに、失礼やと思って。」
しばらく言葉を失った。

こんなにせつない遺影を、わたしはほかに知らない。

おかんのワンポイント英単語 ”bottomless”

 

展覧会のあいまにお昼ご飯を…と、母と友人と一緒にJICAの食堂探検をする。
JICAだけあって、メニューの表示に英語も書いてある。

お食事を頼めば食後のコーヒーがついてくるとのことで、
セルフサービスのサーバでコーヒーを入れてほっと一息。

母はセルフサービスなのを良いことにおかわりに臨む。
「おかわり自由はbottomlessって言うのよ。」と得意気。

ニコニコしながら二杯目のコーヒーを飲んでいるけど、
bottomlessって、そんなんどこにも書いてへんよ。

ファインダー越し、恋をした。

 

ファインダー越し、恋をした。

40分のライブ。

たいせつなともだちと、
ともだちのたいせつなひととひと、に、わたしは束の間の恋をした。

祝福、ということ。

 

年末から年始にかけて立て続けに3人、ともだちが子供を産んだ。

ささやかだけれど、お祝いにと少し前からスタイをつくりはじめている。
いちばん最初に生まれた彩雪という名前の赤ちゃんに、雪の刺繍をしようと思って、刺繍糸を買いにでかける。

祝福、ということ。

わたしが生まれたときもきっと同じように祝福されたんだと思う。最近、実家で見つかったクレヨンは、美術家の親戚がわたしの幼い頃にくれたもの。当時、日本の子供向けのクレヨンは色数がすごく少なかった。でも、親戚にもらったそのクレヨンはびっくりするくらいたくさんの色が入った外国製のものだった。ほかにも、良質の絵本やらぬいぐるみやら、わたしは多くのひとから、祝福されて生まれ育った。

彩雪ちゃんの誕生がうれしいのは、たいせつなともだちの娘だから。
同じように、わたしが祝福されたのは、わたしの両親が周囲のひとからたいせつに思われていたからだ。たいせつに思われるためには、まずひとをたいせつにしないといけない。

わたしが祝福を多くうけて生まれ育ってこれたのは、わたしのひととなりうんぬんではなく、ひとえに、わたしの両親が周囲のひとをたいせつにしてきたからだ。それは、本当にありがたいこと。そんなシンプルなことにすら、三十余年気づかなかった。

祝福の連鎖を次の世代につなごうと思う。
おめでとう。

ゆずれないこと全部やでー。

 

最後の最後で負うた瑕。抱えたまままたいだ、年の瀬。
年明けのあたたかな陽射しで少し気持ちが上向いてきたのかな。

あけまして、おめでとう。

「そめちゃんには運がめっちゃあります。あるのです。全部望んでね!ゆずれないこと全部やでー。」
ともだちからの年賀状の唐突なエールに涙が出てしまった。
性懲りもなく、また張りつめたんかなぁ。

今年は逃げんとこうと思う。
目先のことからも、先のことからも。
「ゆずれない」自分の気持ちからも、かな。

同心円上をぐるぐるまわっている。

 

先日のミソヒトモジたちとの会話の中で「写真の本質って何?」と訊かれ、まったくコメントできずにいた。そのことでひどく、ひどく悶々としている。

そういうことは、案外近すぎて見えていない。いちばんシンプルな回答は、「光の記録媒体」なんだと思う。レコードが音の記録媒体であるように。

それにしても写真にはいろいろとロマンティックな言説がつきまとう。
過去性や記憶というキーワードはよく耳にするけれど、はたしてそれが「写真」の本質なのか。写真にしか言えないことなのか。それとも記録媒体全般にあてはまるものなのか。そういうことを、寝しなにつらつら考えながら、そういえば、王家衛の『ブエノスアイレス』で、南米最南端の岬をめざすチャンが、ファイにさし向けたのはカメラではなくてテープレコーダーだったな、とか。映画のラストで、ファイが台北にあるチャンの実家でくすねたのはチャンの写真だったな、とか。

核心にはたどりつけずに、同心円上をぐるぐるまわっている。まだしばらく悶々としそうだ。