LISA SOMEDA

family (20)

どうもありがとう。

 

シルバーウィークの帰省にあわせ、実家にて前倒しでお誕生日会。
その数日後、両親が京都に来た折りに、あらためてランチでお祝い。
その翌日、エッちゃんとオヨシから少し気の早いハガキが届く。

深夜、妹にはじまり、朝にはエッちゃんとクニちゃん、そして母からお祝いのメールが。
午後はイマムラさんに映画に連れ出してもらい、楽しい時間と素敵なプレゼントをいただく。
帰ったら、ポストにはサワイちゃん一家からの家族総出の寄せ書きハガキが。
そして、東京のケイコさんから届いたお菓子とカードは母屋の奥さんが預かってくれていた。

34度目の誕生日をこんなにもたくさん祝ってもらって、
これ以上いったい何を望もう。

居場所のない思いをすること、
ふと、いなくなってしまいたくなることが、決して少なくはなかったけれど、
たくさんのあたたかい想いが、この世界にしっかりわたしをゆわえつけてくれている。

どうも、どうもありがとう。

じいちゃん、おかえりなさい。

 

今朝起きると、朝顔の花が開いていた。

15年前に亡くなった祖父がおとりおきしていた朝顔の種を、
咲くかどうかもわからず蒔いたもの。

芽が出たあとも、
陽当たりの悪いこのベランダではまさか咲くまいと思いながら育てていたから、
感慨もひとしお。

淡い藤色の花は、祖父らしい上品な色あい。
お盆だし、じいちゃん、帰ってきたんだね。

開くところを見たいから、明日はもう少しはやく起きよう。

朝顔を愛でる姫

 

年をおうごとに、毒づく母。

しばらく母からのメールには、面倒がって文字なし絵文字(表情)のみのメールしか返さなかったのだけれど、昨日ちゃんとした文章を送ったところ、母から返ってきたメールは、

おお、朝顔を愛でる姫より文あり、恙無きや。

「文あり」というおおげさな表現に、最近のつれない絵文字のみのメールに対する非難が。

「朝顔を愛でる」のくだりは、ここのところ「帰って朝顔に水をやらなきゃ」と言っては早々に実家をあとにするわたくしに対する揶揄が。

三十すぎの娘をわざわざ「姫」と呼ぶところには、ほとんど悪意が。

ひしひしと感じられる。

母よ、腕を上げたな。

いのちがくるくるめぐる。

 

おじいちゃんのおとりおきしていたアサガオの種を植えてみた。

陽当たりの悪いベランダだし、期待はしていなかったけれど、
今朝見ると、心配になるくらい色白の芽が出ていた。

半年ほどのあいだ、こぶりなクローバーが一輪、葉を広げていた。
ふゆの寒さも陽当たりの悪さも乗りこえて、たった一輪、生き続けるその頑な姿に、
ほんとうは、毎朝、励まされていた。

さすがに、葉に穴があいてきて、もうそろそろ引退かな、と思った矢先、
バトンタッチ、新しいクローバーが芽を出した。

小さい鉢のなか、いのちがくるくるめぐる。

びは乱調にあり

 

「びは乱調にありは瀬戸内寂聴。貴女にとってびとは?」

唐突なメールをよこしてきたのは、おかん。
び→美くらい、ちゃんと変換せえよ…。

「ゆらぎ そして、きわ」
と返す。

その返答には納得した様子だけれど、
たまに、こういう問いを携帯メールで送ってくるから、油断ならない。

幾千のディテイルの積みかさね

 

母は映画が好き。
BSで放映されている辺境の地の映画をもっぱら好んで観ている。
居間で一緒にゴロゴロしながら映画を観ていると、彼女が言う。

「(映画って)すごいわよね。それこそ幾千のディテイルの積みかさねじゃない。」

おっと、おかん。ええこと言うやん。
「幾千のディテイルの積みかさね」
素敵なフレーズや。どこからパクってきたんやろ…。

そんな母に、
「深夜、寝しなにテレビつけたら、ニューシネマパラダイスやっとってん。」
と言うと、「あら、そんなん寝られないじゃない。」と。

まったくその通りだったのが可笑しかった。
翌朝早くに用事があるのがわかっていながら、
〜早朝4時の放映を最後まで観てしまった。

4度目なのに、泣きながら。

時間を分断しない

 

京大周辺の古本屋をつたっているうちに、
思い立って、久しぶりにガケ書房に立ち寄る。

当初の目的は九鬼周造の著書を探すことだったのに。

ひきこもれ

いささか乱暴なタイトルだな、と思いながら手に取ったのは、吉本隆明の著書。
このひとの本、何度も読もうとして、挫折してる…と、少し躊躇もあったのだけれど。

いざ開いてみると、ずいぶんやさしい文章で綴られている。
たぶん、不登校やひきこもりまっただなかの若者に向けて書かれたものなのだろう。

ほとんど家にこもり机に向かって仕事をする父親を見て育ったから、
下に抜粋するひきこもりについての記述は、わたしにとっては自明のことなんだけど。

「世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。」(『ひきこもれ』吉本隆明 だいわ文庫 2002から抜粋)

そこから、話は「子どもの時間を分断しないようにする」と展開する。

「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。

という視点から、親の立場として書かれている文章を抜き出してみると…

(中略)くだらない用事や何かを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。
 勉強している間は邪魔してはいけない、というのではない。遊んでいても、ただボーッとしているのであっても、まとまった時間を子どもにもたせることは大事なのです。一人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです。
 ぼくは子どもの頃、親に用事を言いつけられると、たいてい「おれ、知らないよ」と言って逃げていました。そうして表に遊びに行って、夕方まで帰らない。悪ガキでしたから、その手に限ると思っていました。
 そうするとどうなるかというと、親はぼくの姉にその用事を言いつける。姉はいつも文句も言わずに従っていました。
 いま思っても、あれはよくなかったなあと反省します。つもり、女の子のほうが親は用事を言いつけやすい。姉本人もそういうものだと思って、あまり疑問をもたずに用足しに行ったりするわけです。
 そういったことを当時のぼくはよくわかっていた。そして、うまく逃げながらも「自分が親になったら、これはちょっとやりたくないな」と思っていたのです。
 ぼくの子どもは二人とも女の子です。女の子が育っていく時に一番大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということなのではないかと思うのです。それ以外のことは、女の子でもやれば何とかなる気がするのですが、これだけは絶対に不利です。

この文章を読んでやっと、幼いころ抱えていた怒りの正体がわかった気がした。わたしは用事を言いつけられると、「いや」と言ってまっこうから母親と喧嘩して育ったほう。ずっと手伝いが嫌いなのかと思っていたけれど、いま思えば、それは手伝いがしたくないのではなくて、集中して何かをやっている最中に腰を折られることに腹を立てていたのだと思う。そういう意味では、母はとてもどんくさく、わざといやがらせをしているのか、相当無神経なのか、ことごとく言いつけるタイミングをはずし、なんでいまやっていることが終るまで待ってから声をかけてくれないのだろう?と、毎日怒っていた。

そのせいで、わたしは自分が家事が好きであるということに、ながいあいだ気づかずにいた。

いまさら、親のことをとやかく言うつもりはないけれど、自分がされていやだったことは、自分の子どもには絶対にしないでおこう、と思う。もし子どもを持つことがあれば。

そして、いま自分のこととしては、制作のための時間をまとめて持てるように、もう少し工夫しよう。ここのところ、人から頼まれた用事にふりまわされすぎている。

てるてるぼうず

 

昨日は、今回の仕事のラスト、姫路城でのロケだった。
撮影地に近い実家で、早朝から支度をはじめていた。

出かける間際、台所の戸棚に、てるてるぼうずがくくりつけられているのに気づく。

16日の撮影が雨で延期になって、この29日、30日が最後のチャンス。
30日の雨は確実で、29日も天候が不安定なことが予想されていた。
多額の費用のかかるロケ、かなり切迫した状況で、決行の判断をくだしたことを、
きっと家族はわかっていたんだと思う。

すこし、じーんときて、
このかわいいてるてるぼうずを、そのまま車にのっけて姫路に向かう。
そして、途中パラっと小雨が降ったのものの、撮影は無事終了。

この無事は、運が良かったという種類のものでは決してない、とわたしは思う。
まわりのひとの「うまくいくといいね」という気持ち。
そういう気持ちがたくさんたくさんかさなってこその、無事、なんだ。

今回の仕事では、
見えるかたちでも、見えないかたちでも、多くのひとに支えられました。
深く感謝しています。

どうもありがとう。

しっかりしなさい。

 

「しっかりしなさい。」

部屋のなかには、母とわたししかいない。
え?…と思ってふり向くと、
母は扇風機に向かって話しかけてる。

しっかりしなさい。

聞けば、扇風機の首がぐにゃぐにゃして、落ち着きが悪い、とのこと。
自分のことかと思ってドキドキしたわ。

つかまなあかん。

 

「オポチュニティーの神様のひげをつかまなあかん。」

電話口で母がそう言う。
「オポチュニティーの神様にはひげがあって、そのひげを正面からぐっとつかまなあかん。」のだと。

「正面からじゃないとあかんの?」と聞き返すと、「うん」と母。
オポチュニティーの神様のひげ…。おかん、突然かわいらしく攻めてきたな…。
「誰が言ってたん?」と尋ねると、「昔、英語の先生が。」と。

おそるおそる尋ねてみる。
「(仕事先の)社長さんにもひげがあるけど…。」

「つかまなあかん。」

二度目の立往生

 

哲学の道に寄った帰り、自宅の斜向いの大家さん夫婦が、
娘さんらしき女性を送りだしているところに出くわす。

家族のたいせつな時間。なんとなく、邪魔したくなくて、
知らない人間のように声もかけずにそっと通り過ぎる。

角を曲がったところでしばらく待って、ころあいはかって引き返すと、
まだ奥さんが、遠ざかる娘さんの背中を心配そうに見守っていた。

歩きながらイヤホンを耳にさそうとしている娘さんとはうらはらに、
身を乗り出してじっと見守る奥さんのその姿があまりに切なくて、
挨拶もできずに家の前を通り過ぎる。これじゃまるで不審者だ。

二度目の立往生は、揺さぶられてしまったこころの後始末。

おかんのワンポイント英単語 ”It’s a long shot.”

 

おかん:面接何時から?

私:15時からだよ。

おかん:You will have a job interview at 3 o’clock. Do you think you will get a job?

私:Yes, of course.

おかん:あら。「あまり期待できないわ」っていうのは、It’s a long shot.って言うのよ。

玄関にあるべきアレが

 

わがやは単身の引越しは家族総出でやっつけるのが通例だけれど、
今回は弟のガールフレンドや妹のボーイフレンドまで巻き込んで、
友人もふくめ総勢8名にお手伝いいただきました。

あまり人手が多いと収集がつかなくなりそうで、
お手伝いの申し出をおことわりした方も4名ほど。

お手伝いくださった方も、申し出ていただいた方も、
ほんまにありがとうございました!

件の冷蔵庫も奇跡的に町家の2階に鎮座しています。

築年数不詳の「新」居は、町家のはなれなので通りからは見えません。
携帯は圏外になります。
歩くと壁に寄っていくなと思っていたら、
明らかに家屋が南東に傾いています。
ふすまも引き戸も、一筋縄では開きません。

前の住まいは、玄関にインタホンがなかったけれど、
今度の住まいは、玄関にあるべきアレがありません。

隠れ家、と言えば聞こえは良いけれど、
エエ感じに浮世離れしてて、家から一歩も外に出ずに日々を過ごせます。
そう、魅惑のひきこもり物件!

手のひら

 

きっと人酔いしただけだと思うのだけれど、とてもとても疲れて。
なぜか自分の手をあわせて「ああ、手のひらってやっぱりすごい…。」となかば夢うつつの状態で考えていたら、知らないあいだに眠っていた。

先日、NHKのプロフェッショナルという番組で専門看護士の北野愛子さんが、患者さんの手を握ることに対して、「手と手を触れ合わせることで、言葉でも表情でもないものが通じると思っている」というようなことを言っていた。

真偽のほどはわからないが、手をつないだほうが夫婦仲も良い、という話も聞く。

思い出したのは、いちばん不安だったとき、わたしはボーイフレンドの背中にやたら手のひらをくっつけていたこと。手のひらを相手のからだにくっつけるとびっくりするほど安心できること、そのころのわたしのちょっとした発見だった。

新年会の帰りみち、ひとりひとりの手を両手で握って別れの挨拶をする作家さんがいた。そのひとの両の手で自分の手が包まれたとき、じかに感情をさわられるような感覚にうろたえた。

根拠はないけれど、手のひらってやっぱりすごいんだと思う。
今度祖母に会うときは、そっとやさしく手を握ろう。

おかんのワンポイント英単語 ”bottomless”

 

展覧会のあいまにお昼ご飯を…と、母と友人と一緒にJICAの食堂探検をする。
JICAだけあって、メニューの表示に英語も書いてある。

お食事を頼めば食後のコーヒーがついてくるとのことで、
セルフサービスのサーバでコーヒーを入れてほっと一息。

母はセルフサービスなのを良いことにおかわりに臨む。
「おかわり自由はbottomlessって言うのよ。」と得意気。

ニコニコしながら二杯目のコーヒーを飲んでいるけど、
bottomlessって、そんなんどこにも書いてへんよ。

残された時間

 

ひこうき雲が徐々にただれ、流されながらとけていく。

そういうゆったりとした時間は、もう明日には失われるんじゃないかという不安に突然襲われることがある。時間とのかかわり方の最終的な決定権は自分の手中にあるはずなのに。

しかし母は言う。
「わたしたち、年寄りが急くのはね、死ぬまでの残された時間を意識するからなのよ。あなたたち若い人は、まだいくらでも時間があると思ってる。」

親の世代がせわしないのは、ひとえに高度成長期を生き抜いてきた人々に特有の「ハヤさ」なんだと思っていたし、だからこそ、他人ごとで済ませていた。何かにつけ、両親からせかされ、うんざりしてきたというのもあると思う。

そう言われるまで、「残された時間」なんてことに思い及びもしなかった。
自分とは違う人生の季節を生きる親の目にうつるのは、自分とは違う景色なんだと思い知る。

もう少し寄り添って耳を傾けてみようかな。

そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。

 

高校生の頃、わたしは不登校寸前だった。

毎朝、ふとんの中で葛藤しながら、
気配で、母が弁当をつくってくれていることを察知していた。

母が弁当をつくってくれている。
だから行かなくっちゃ。
しんどくても、つらくても、理不尽なことだらけでも。
最後の最後で背中を押してくれたのは、母のつくる弁当だった。

お弁当をつくってもらっているという毎朝の事実が、
かろうじてわたしを高校生活につなぎとめていた。
それがなかったら、わたしは高校を辞めていた。と、いまでも思う。
ずいぶん甘ったれた話やけれど。

だから、ひとの料理をいただくこと。ひとに料理を食べてもらうこと。
軽く考えたらいけないと思っている。

「食」を単なる栄養や効能に、手間や金銭、の話だけに還元したらいけない。
その営みがどれだけひとの「生きる」を支えているか。

打ち切りになった番組への批判が横行しているけれど、
栄養や効能でしか食をとらえられない「食」に対する自分たちの態度の貧しさに、そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。

おかんのワンポイント英単語 悪意のある例文つき

 

実家で夕食を食べていると、母がex(エクス)ということばを教えてくれた。
元カレや元カノ、前妻や前夫を指すことばだそうな。

“She bumpt into her ex at Hakata station.”
(彼女は博多駅でばったり元カレに出会った。)

ご丁寧に例文までつくってくれて。。。

ふとちゃん、ちびちゃん

 

妹はわたしのことを「ふとちゃん」と呼ぶ。
わたしは妹のことを「ちびちゃん」と呼ぶ。

先週は、粉モン天国ツカモトの数あるタコ焼き屋から、ちびちゃんイチオシのたこ焼きを買い集め「間宮兄弟」を借りて帰る。そう、その日は妹宅でのお泊まり会。母からの差し入れとたこ焼きをつまんで「やっぱロッキーのタコ焼きが一番だよ。」とタコ焼きの品評をしたあとで間宮兄弟の鑑賞。

でも間宮兄弟の
「だって間宮兄弟を見てごらんよ。いまだに一緒に遊んでるじゃん。」
ってコピーはそのまんま、自分たちにあてはまりそうで、ドキ。

ぐずぐず、ぐずぐず。

 

妹が、誕生日祝いにあたたかみのある素敵なポーチをくれた。

「化粧ポーチだけど、化粧道具入れないなら、フィルム入れにしてもいいかなぁって思って。」

ときに妹はかわいらしいことを言う。姉のことをよう見てるというか…。

ささやかな選択だけれど、ここで化粧道具を入れるか、フィルムを入れるか、というのはきっと、人生の大きな選択に通じている。このポーチに化粧道具を入れる人が歩む人生と、フィルムを入れちゃう人が歩む人生はきっと全然違ったものになる。

そう思ったら、ものおじ、どちらも選べなくて。
ぐずぐず、ぐずぐず。