LISA SOMEDA

eating (5)

食べものの神様に今日も、感謝。

 

ひどかった鼻風邪がおさまってきたので、パンクの修理に自転車やさんに行く。

もうタイヤ自体がバーストしとるし、タイヤ交換の時期がきている。後輪のタイヤ交換は自信がないので、一度やり方を見せてもらおう、と。(ちなみに、前輪は自分で修理した)

「すいません、修理しているところ、見せてもらえませんか?今度自分で修理したいので。」とお願いしたら、「じゃぁ、教えますから、自分でタイヤ交換されますか?」と店員さん。

願ってもない。

そして、店員さんの指導のもと、およそ1時間ほどで、後輪のタイヤ交換をひととおり終える。細かいノウハウがあるのと、どこがどうなってどう動作するかというしくみを教えてもらえたので、やっぱり自分ひとりでやらんでよかったな、と思う。そもそも、工具が足らんかった。

作業を終えた後、「奥で手を洗ってもらってかまいません。」と言ってもらったので、店内奥まで進むと、店員さんがみなさん揃ってお昼休み。

真っ黒になった手を謎の洗剤でごしごし洗っていると、店長さんに「これ、飲みな。暖まるよ。」と、スープをすすめられる。

おぉ…コンソメスープ。
この荒々しさ、まさしく男の手料理☆

そして、すっかり《自転車屋の店長さんのまかない》をごちそうになって、店員4人と一緒に、世間話なんかしながら、まったり。

おっと。あやうく、立場を忘れるところやった。

修理代をまけてもらった上に、まかないまでごちそうになってしまったので、さすがに恐縮で、簡単に洗いものだけして、店を後にする。その足で、護王神社に寄って撮影現場の下見をしたあと、やっとこさ家に帰りつく頃には、1時間かけて覚えたはずの修理方法は、すっかり食べものの記憶にすりかわっていた。流行りの脳科学がどういうかは知らんけど、記憶なんて所詮そんなもんね。

とにもかくにも、自転車やさん、ありがとう。
そして、食べものの神様に今日も、感謝。

パネトン

 

ちょっと、神戸のパンを食べたいきもちになったので、
大丸のDONQに寄ってみたら「パネトーネ」が並んでいた。

このお菓子、もともとはイタリアのものらしいけれど、
ペルーでは「パネトン」と少し歯切れの良い音で呼ばれ、
クリスマスのころに食べていた。

懐かしくて、試しに買って帰ったら、見事にハマる。
オレンジのほのかな香りが食欲をそそり、
ほんのり甘いくらいの優しい味なので、朝食にも◎
少しトーストしてバターを添えて食べています。

それほど特別なものではないのだけれど、
クリスマスの記憶とゆわえられてるから、そのぶん余計に美味しい。

リーガのパネトーネも買ってみたけれど、DONQのほうがふんわりしている。
けっこう手間がかかるようだけど、自分でつくれるようになりたいな。

いのちの食べかた

 

数時間じっとしているのが苦手で、
ほとんど劇場に行かないし、あまり映画は観ないほうですが。

何年かにひとつくらい、これは観とかないとと思う映画があって、
「いのちの食べかた」
京都みなみ会館で上映中だったので、さっそく観に行く。

ドキュメンタリーになるのかな。
音楽もナレーションもなく、淡々と、動物が、植物が、食料化されていく工程と、
職員がご飯を食べる姿が交互に続くだけ。

牛や豚、鳥や魚が生きものから「肉」になるということがどういうことなのか。
人工交配がどういうことなのか。
知らなかったわけじゃないけれど、知識として知っているだけで、
実体験としてはなにも知らない。
そういうことを、目の当たりにさせられます。

ふつうにグロテスク。
しばらく緊張でからだが萎縮するほどに。

でも、食品加工におけるグロテスク、を隠蔽したり、
あるいは、誰かにそのグロテスクな作業を負わせているのに、
涼しい顔で知らないでいることは、もっとグロテスク。

まるで工業製品を扱うかのような無情さで、淡々と加工される動物・植物。

知らなかったわけじゃないけれど、でもどこかで、
せめて食品くらいは、人の手を介したあたたかいものだと思いたがっていたんやろな。
冷や水をあびせられたような気持ちになりました。

飲食業を営むUさんご一行と出くわして並んで一緒に観ましたが、
途中から、みなおかしを食べる手がとまってしまっていたのが印象的でした。

わたしは、帰り道も想像力のスイッチが入りっぱなし。
「海鮮かきあげ丼」の看板を見ては、生きたまま魚が腹を切り裂かれるシーン、
「焼き鳥」を見ては、鶏が首なしでコンベアで運ばれるシーン、
「牛丼」では、おびえる牛に高圧電流を流すシーン、
が頭をよぎって、なかなか、食欲が戻りません。

いのちの食べかた 公式サイト

ごちそうさま。

 

制作展の搬入で忙しいことは予想できていた。
節分なのにバタバタ過ごすことになるんだろうなぁ…なんて思っていたら、
学生が「お昼ごはんにどうぞ」と。

差しだされたのは重箱。中には手作りの太巻とお稲荷さん。

感謝をとびこえて感激。

心底すごいなぁと思う。
展示の搬入日。ふつうは自分の作品のことで頭がいっぱいのはず。
他人さんに手作りのもん持参するなんて考えの及ばぬところ。
そして、きっとこれからも、わたしには絶対できないことだ。

節分にいただいたのは、美味しさと感激。尊敬と感謝。清々しさ。
ごちそうさま。

そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。

 

高校生の頃、わたしは不登校寸前だった。

毎朝、ふとんの中で葛藤しながら、
気配で、母が弁当をつくってくれていることを察知していた。

母が弁当をつくってくれている。
だから行かなくっちゃ。
しんどくても、つらくても、理不尽なことだらけでも。
最後の最後で背中を押してくれたのは、母のつくる弁当だった。

お弁当をつくってもらっているという毎朝の事実が、
かろうじてわたしを高校生活につなぎとめていた。
それがなかったら、わたしは高校を辞めていた。と、いまでも思う。
ずいぶん甘ったれた話やけれど。

だから、ひとの料理をいただくこと。ひとに料理を食べてもらうこと。
軽く考えたらいけないと思っている。

「食」を単なる栄養や効能に、手間や金銭、の話だけに還元したらいけない。
その営みがどれだけひとの「生きる」を支えているか。

打ち切りになった番組への批判が横行しているけれど、
栄養や効能でしか食をとらえられない「食」に対する自分たちの態度の貧しさに、そろそろ気づいたほうがいいんじゃないの。