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眼鏡をはめたまま

 わたしたちは裸眼で世界を見ているつもりになっているが、じつはいつもあるフレームワークのなかで見ている。言葉で世界を分節し、一定の概念の枠に沿って分節されたものを関係づけつつ、ものごとを経験し、思考している。この眼鏡はたえず調整され、ときに別の眼鏡に取り換えられることはあっても、眼鏡というものを外すことはできない。眼鏡を外しては見られないのであるから、その眼鏡の精度を、それを通して見られるもの(世界)を基準にして測ることはできない。眼鏡をはめたままその精度を、それを通して見られるもの(世界)を基準にして測ることはできない。眼鏡をはめたままその精度を測るほかないのである。

 精度を高めるためには、それを通して見える世界にたえず問いかけてゆかねばならない。そしてそれが正しく見えているのか、問いたださなければならない。どのような問いを世界に向けるか、どのような問いをおのれに対して立てるかということが、世界の探求とおのれの視線の検証とには死活的に重要である。

 では、どこに目をつけたらよいのか。世界のその見えが歪んでいるところ、ぶれているところ、他の見えと整合しないところ、人によって異なって見えるところ、均衡を失って崩れかけているところ。あるいは矛盾が露呈するところ、論理が破綻するところ、どうにも説明がつかないところ。事象と理解のフレームワークとが軋みだしているところ。さらには事象の構造が想像もつかないところにずれだしている気配、思考の気流の変化……。(後略)

(『哲学の使い方』鷲田清一 岩波新書 2014)

「哲学のセンス」と題された章の抜粋だけれど、ふと、知り合いの美術家を思い出す。

それまで、わたしはアーティストとは天性のセンスでもって(霊が降りて来るかのごとく)作品をつくるものだと思っていた。二十歳を過ぎたころ、はじめて生身の美術家と知り合い、その作家が日常の中の違和感、感覚のほつれを繊細にひろい上げ、そこから思考を重ね作品へと昇華させることに、衝撃を受けた。

抱いていたアーティスト像が崩されたのが重要なのではなく、日常の中の違和感や感覚のほつれを繊細にひろい上げるような世界への接し方が、わたしにとってとても新鮮で、きわめて興味深かった。

なので、順序が逆だ。この本のこの記述にひっかかりを覚えるのは、20年前の出会いがあったからだ。