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労働

大学院を卒業したての頃、「仕事」に対するスタンスを決めかねている時期があって、今村仁さんの著書を読み漁っていたと思う。

そして、そろそろ、会社でのポジションが上がってくる同年代のともだちから、部下や被雇用者のモチベーションが低いという事態にどう対処したら良いのか、という相談を(なぜかわたしが)受けることが多くなった。そういう事情もあって「労働」に対する関心がずっと横たわっていたのだけれど、先般、内田樹さんのblogにおもしろい文章を見つけた。

仕事の苦楽は仕事そのものによって決められるのではない。
その仕事を「やらされている」のか、「やらせていただいている」のマインドの違いによって決される。
私はいつも仕事は「やらせていただいている」というふうに考えている。
そういうふうに考えるのは当世風ではない。
当今の方々は「労働」と「報酬」が等価交換されるという図式で労働を捉えている。
ならば、雇用する側は「どうやって報酬を引き下げるか」を考えるし、雇用される側は「どうやって苦役を軽減するか」を考える。
そうなるほかない。
そういうつもりの人間たちが集まって仕事をしても、ぜんぜん楽しくない。
「働くモチベーションが下がる」のは当たり前である。

労働と報酬は「相関すべきである」というのは表面的にはきわめて整合的な主張のように見えるが、実際には前件の立て方が間違っている。
等価交換論の前件は「労働者はできるだけ少ない労働で多くの報酬を得ようとし、雇用者はできるだけ少ない報酬で多くの労働力を買おうとする」というものである。
そんなの常識ではないかと言う方がおられるかもしれない。
あのね、そんなの少しも常識ではないのだよ。
もしそうなら、人類の生産力と生産関係は新石器時代で停止しているはずだからである。
とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。
労働は「オーバーアチーブ」を志向する。
飢えが満たされても満たされないのである。
もっと働きたいのである。
そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。
どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。
とにかく、そういうことになった。
だから、労働と報酬の等価交換が成り立つべきだという「整合的な」理説で労働を説明することはできない。
( 以上、内田樹氏のblog http://blog.tatsuru.com/から抜粋 )

デザインや、写真、さらに作品となると、価値づけが非常に難しく、「等価交換」なんて厳密には不可能なので、「労働と報酬の等価交換が成り立つべき」などという前提は、一旦脇に置いているつもりだったけれど、というより、その前提を脇に置かないことには、(コストパフォーマンスに拘泥していると)自分自身の進歩が望めないということに、徐々に気づきはじめていたのだけれど、完全に無視はできなかったし、無意識のうちに寄りかかっていっていたのかもしれない。

こう潔く否定されると、すっきりするな。その前提を完全に取り除いたら、あたらしく視界がひらけるかもしれない。