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家事をしたい

忙しいと、家が荒れる。
どうもわたしはそれが苦手。

どっと忙しいさなかには、
この忙しさがおさまれば、まず「家事をしたい」と思っている。

家事だけの毎日、というのはとても耐えられそうにもないけれど、自分の身のまわりのことや家事に丁寧に手間をかける、というのは、とても贅沢なことだし、なにより気分がいい。

目のはしで、階段のほこりや、取り入れっぱなしの洗濯物が目についていながら、「いまは仕事に専念、制作に専念」と、対応を先送りすると、「家事をする時間がほしい」という気持ちは、ほとんど熱望に近くなる。

冬用のラグを片付けて、散乱していた本をまとめて書架に戻し、洋服箪笥の中を整理して、探していたパジャマとスラックスを鞄の下から発見。古い謡本を片付け、段ボールの空き箱を解体して、しばってまとめる。トイレを掃除して、床に掃除機をかけて、洗濯物にアイロンをかけてしまう。
2時間ほど掃除をしていたら、汗びっしょりになる。
やれやれ、だいぶ片付いた。
2時間で済むような掃除なら、いつでもできるじゃないかと言う人がいるかも知れない。
毎日3時間も4時間も酒飲んで、バカ映画みてごろごろしているんだから、その時間にやればいいじゃないか、と。
そういうものではないのだよ。
それは家事というものを本気でしたことのない人の言葉である。
家事というのは、明窓浄机に端座し、懸腕直筆、穂先を純白の紙に落とすときのような「明鏡止水」「安定打座」の心持ちにないとなかなかできないものなのである。
お昼から出かける用事がある、というような「ケツカッチン」状態では、仮に時間的余裕がそれまでに2、3時間あっても、「家事の心」に入り込むことができないのである。
というのは家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。
(内田樹のブログより抜粋)

内田樹さんの書いた、

お昼から出かける用事がある、というような「ケツカッチン」状態では、仮に時間的余裕がそれまでに2、3時間あっても、「家事の心」に入り込むことができないのである。

というのは、家事に対してというよりむしろ、制作に対して感じている。

単純に作業時間と成果が連動する世界ではないから、2時間を実りあるものにするためには、実際はその倍以上の時間的余裕と、心理的余裕が必要だと思う。

いかがでしょう。