ドローン

ドローンでの撮影が広く普及したら、わたしたちの視覚は、重力からも身体からも開放され、今までとは比べものにならないくらい可能性が広がるだろうな、と思う。

撮影者は、そのときその場所に居合わせる必要もなくなる。法が許せば、遠隔で映像を見ながらシャッターチャンスを狙うという方法が主流となるかもしれない。ドローンを用いたスナップというジャンルが登場するかもしれない。

新しい視覚は目新しさだけでは淘汰されるにせよ、撮影者の身体が介在しない写真が広く普及したときに、それでもなお身体を拠りどころとするだろうか。実際にその場に立つことでしか撮れないものがあると、言いきれるだろうか。

その場にいて実際に見ることによって喚起される「撮りたい」という欲望と、映像を見て喚起される欲望は同じだろうか。それとも異なるだろうか。

近づく、遠のく

昨日、何組かの展示を眺めながら、近くで見るよりも、遠のいて見たほうが映えるものがあるなぁ…と思ったのがきっかけになったか。

近づいたほうが、対象をよりよく把握できる場合と、遠のいたほうが、よりよく把握できる場合がある。特にノイズが入る場合は、遠のくほうが把握しやすくなるのかもしれない。今日は、そういうことを考えてながら歩いていた。

そして、ふと友人の作品を思い出す。遠のいて見たらすごい作品やった。

時間にかたどりを与える

先日訪れたみんぱくの「イメージの力」展。
パネルの文章がすごく良くて、その中でも印象的だったのが「物語を視覚化する試みは、いわば、時間にかたどりを与えるもの」というの。

時間性の問題が、このところずっと、ひっかかっていたからかもしれない。
時間にかたどりを与える、ということばが耳に残った。

展示ももちろん、とてもとても楽しめます。

入ってすぐのところにある作品。造形としてのインパクトもすごいけれど、驚いたのはこれが「椅子」やということ。実用品やったんや…

main

既知のもの

既知のものが、既知のものに見えなくなるときが、いちばんおもしろい

このフレーズはずっとたいせつに抱えてきた宝物。

フレーミング

フレーミングについて前から考えていたこと。

画面の中の何らかを際立たせるために、撮影者は画面からさまざまなものを排除する。
物理的なフレーミングと抽象的なフレーミングで。

なるべくフレームを意識させないような体裁を採用し、
できるだけ排除しない、という見せかけをしているにもかかわらず、
そこにフレーミングは存在している。

自分は何を排除しているのか。

物理的な矩形によるフレーミング
徹底的に排除するのは、此岸の情報。
対岸にフォーカスするためには、撮影者の置かれている状況を示すものは排除
撮影者と被写体との関係性を見えなくすることで、撮影者の存在をできるかぎり見えなくする。

ピント位置による奥行きの中でのフレーミング
ある奥行きにピントをあわせ、その奥行きにあるもの以外をぼかすことで、
ある奥行きにピークをつくる。わたしはこの方法はとってはいない。

撮影条件の選択による抽象的なフレーミング
くっきりとした画を得るために、悪天候は忌避。
逆光や、順光でも影が濃すぎる状況は忌避。
長時間露光による被写体のブレも極力避けている。

何が周到に排除されているのか、完成物を見せられた者が想像するのはほんとうに難しい。
おそろしいほど無防備に、画面の中の世界をありのままに信じてしまうきわどさ。
この夏、経験したばかりではないか。

写真のドキュメント性を手放さないのであれば、
自分が何をフレームアウトしているかを自覚しなければ。

今まであたりまえに選択してきたフレームをゆさぶることはできないだろうか。
それが今、興味を持っていること。

実は、かなり戸惑っている。

たとえば、部屋に差し込む光がいいなぁと思って、カメラを構える。

ピントをあわせようとすると、カメラが自動的に拡大して見せてくれるから、数メートル先のカーテンの織のパターンまでしっかり把握できる。

確かにピントはものすごくシビアにあわせられるんやけど、最初に撮ろうとカメラを構えた欲望が何だったのかを忘れてしまうくらい、突如違う視覚にすり替えられる。

カメラを構えたつもりが、顕微鏡やったんか!と思うくらいの、不思議な経験。

ひとは慣れた道具を使うとき、自分の身体感覚を道具と一体化させたり拡張させたりする(※)、というけれど、わたしはこの機械と、どこまで身体感覚を一体化させられるのだろうか。

実は、かなり戸惑っている。

※『〈身〉の構造―身体論を超えて』

「みる」と「きく」

安田登さんの『あわいの力』に興味深い文章をみつけた。

「閉じることができる」という、行為に対する負の方向の可能性こそが、その器官の主体性を担保している、というところが、すごくおもしろい。

 顔には、目と口と鼻と耳の四種類の穴があります。このうち目と口には「みる」という動詞が使われます。味を「みる」といいますよね。そして、耳と鼻は「きく」。香りは、中国(漢文)でも、かなり古い文献から「聞く」という動詞を使っています。

 「みる」と「きく」の違いは何かというと、「みる」器官(目と口)は自分の意思で閉じることができるのに対し、「きく」器官(耳と鼻)は自分の意思では閉じられないというところにあります。「みる」器官には閉じたり開いたりする筋肉があるけれども、「きく」器官の筋肉は退化しているか、かなり弱くなってしまっています。耳と鼻も手や道具の助けを借りれば閉じることはできますが、しかし完全に外とのつながりを断つことはできません。耳栓をしても外の音は聞こえてきますし、強烈な匂いがするところでは、鼻を塞いでも匂いを遮断することはできません。

 ところが、「みる」器官である目や口は、自分の意思でいつでも、しかも完全に外とのつながりを断つことができます。見たくないものは目を閉じれば絶対に見えないし、食べたくないものは口を閉じれば食べなくて済みます。

 ロロ・メイは、五感を「主体的(subjective)」と「客体的(objective)」の二つに分けます。そのうち「みる」器官は「主体的(subjective)」であり、「きく」器官は「客体的(objective)」であるというのです。

(『あわいの力』安田登著 ミシマ社 2014 p47より抜粋)

あかるい黒

ブーツを試着しているときに、店員さんが言った。
「黒は黒でも、あかるい黒ですから」

そのとき、わたしは、
あかるい黒という表現にはっとした。

webの世界で、黒は#000000。それ以外は、グレーに分類される。
デジタルで編集されるデータで黒はR0 G0 B0。
あかるい黒、くらい黒、というものは、ない。

もしかしたら、アパレル独特の表現なのかもしれないけれど、
自分が、黒を数値でしか定義していないことに、
そのことに、何の疑いももたなかったことに、
つまり、感覚を動員することを怠っていたことに、
あやうさを感じている。

久しぶりにドキドキした。

写真を見るしかた、というのはいろいろあると思うのだけれど、
抽象的な意味だとか、画面からたちのぼるニュアンスの伝達、というのではなく、
ただただ映っている像を具体的に見る、ということ自体のおもしろさ。
というのがある、と私は信じていて、それを探りたいというのが、
川のシリーズをしつこくしつこく続けている理由だと思う。

そういう像をただただ具体的に詳細を見ることのおもしろさ。

その意味で、昨日見た定点観測の写真集はのっけから面白かった。
画面のあちこちで建物が壊されては建つという変化が起こっているから、細部から目が離せない。まったく油断ができない。

「定点観測というのは、なにかひとつの建物がつくりはじめてからできあがるまで、だけれど、自分の写真はそうではない。万物の流転。」
と作家が明確に意図を語っているように、ひとつの大きなストーリーに回収されてしまわない定点観測。

同じものを、異なる時間に何度も撮影する以上、そこには何らかのストーリーが生まれるが、画面中にそのストーリーが無数に畳み込まれている。

言いかえれば、画面内の無数のストーリーを等価にとらえる定点観測。

前後の写真の差異(時間変化)をトリガーとして、地と図の転倒が起こること。
それが、画面のそこここで起こっているから、
いったん写真集として完結しているものの、ここにさらに新しい写真が加わることで、今ある写真の読み方がかわる可能性にひらかれていること。

久しぶりにドキドキした。

観想

先日読んだ『チベットのモーツァルト』の中の身体技法に関する部分から、視覚と世界認識に関わるところを抜き出しておこう。

 観想は映像的な想像力の訓練にかかわっており、視覚がたえまなく外の世界を構成しつづける対象化の意識作用に変容をもたらそうとしている。観想の訓練をおこなおうとするには、生き生きとした視覚的なヴィジョンにみちた像を、自分の前方ないし頭上の空間にありありと想起させ、また自分の身体そのものまで神々の純粋なイメージに変容させていかなければならないタントラ仏教は訓練のあらゆる場面で、この技法をフルに活用しているのである。
 太陽や月や星あるいはロウソクの炎などを凝視する訓練も、それにおとらず重要な技法だ。それは意識を一定の対象に集中することによって、意識の内部でたえまなく立ち騒ぐ認識作用を静止にむかわせる。それはまた、外界の対象世界を静止像として固定するためにめまぐるしく動き回っている眼球の運動まで停止させていこうとするから、視覚による世界の構成作用にいちじるしい変化がもたらされるのだ。
(『チベットのモーツァルト』中沢新一著 講談社 2003 p148-149より抜粋)

もういっちょ。

 「風の瞑想歩行」の訓練は、わたしたちをただちにタントラ仏教の身体論や意識論の心臓部にいざなっていく。それは、この歩行訓練が、「風の究竟次第」とか「管と風」などと呼ばれる密教身体論(それは同時に意識の本性をめぐる教えなのである)の核心にふれる重要なテーマを学んでいくのに必要な準備段階をなしているからである。
 この瞑想歩行は、身体をめぐる意識に確実な変容をもたらす。この訓練は「内部の対話」を止めていく。間-主観的なディスクールが構成するリアリティの喚起力を静止に向かわせようとするのである。そのために「からだの重さをまったく感じなくなった」歩行訓練中の行者には、自分の身体とそれをとりまく世界とがまったく異なるように体験されるようになる。眼球が外にとらえている世界には、対象志向性をもった意識が構成する現実につきものの「人間味」のようなものが消えている。周囲の光景は「まるで夢の中に出てくるように」どこか超然としているし、それを見ている意識主体も奇妙な宙吊りの状態にある。しかも夢のなかとちがって、日常の客観的現実につつまれた身体感覚を失いながらも、身体はそれとは別種の直感的な意識の流れにしたがって、正確な実際行動をおこしているのである。
 この歩行訓練は、身体が対象化のできるたんなる客観的リアリティではなく、そこを貫いていくいくつもの層に折りたたまれた意識の流れが構成する、これまた多層的なリアリティにほかならないことを体得させるために、絶妙の効果を発揮する。ことによると、身体が稠密な物質でできているという考えはまちがっているのかもしれない。それはこちたき幻影の皮膜として身体の本性をおおいかくし、もともとそこにあってそこを貫いている「風」のように軽やかな運動体を見えなくさせているだけなのかも知れない。(中略)
 「風の究竟次第」の身体技法は、日常的意識がたえまなく「内部の対話」をつづけながらかたちづくっている稠密な表層的身体(表層的と言っているのは、それがのちに言語シンタックスに展開していくような二元論化する構造潜勢力のつくりあげる現象学的身体であるからだ)の脱ー客体化ということを、おしすすめる。そして同じ場所に、微細な差異の感覚をともないつつ運動し、流動していく無数の力線を見出し、そのダイナミックな現実領域に手違いなく踏み込んでいくためのテクノロジーをあたえていこうとしているのである。
(同書 p155-157より抜粋)

密教修行の記述が続くので、これだけ読んだ方は、「そめちゃんは一体どこに向かっとるんやー」と、少し戸惑うかもしれない。けれど、世界のとらえかたを変えるための方法のひとつのバリエーション、あるいは、現状の世界認識のありかたを対象化するために、まったく違うフィールドの知の体系に対して自分をひらくておくというのは必要なことだと思う。

話を写真に戻すと、先日、写真家とのやりとりの中で、「なんで自分がそれを撮ったのか自分でもわからない写真があって、それがおもしろい」という話がでていたことを思い出した。
撮った自分ですらわからないものに、そのときの自分が反応していた、という事実はとても興味深い。なにかを感じシャッターを押すにいたった経緯を言葉として整理できないまま、それでもなお、なにがしか「気にかかる」感触だけを残している。このことは、もしかしたら、ここで抜粋した「対象志向性をもった意識」からするっと抜け落ちたなにかを身体がひろった…とは考えられないだろうか。

身体技法というアプローチ

『チベットのモーツァルト』読了。
最近、かなり読書のペースが落ちているにもかかわらず、自分にとって必要な本にはうまく出会うものだなあと思う。

いきなり呪術とか聞きなれないことばが出てくるので面食らうかもしれないけれど、大事なことが書かれているので抜き出してみよう。

 カスタネダによればこの老呪術師は人類学者にむかってつねづね、呪術というもののもっとも大きな課題は「世界についての考えを変える」ことにつきるとまで語っている。彼は「世界」のリアリティというものが、人々がおたあいに会話を交換しあう間-主観的な過程をつうじて構成されると考える現象学者と、とても似た考え方をもっていた。つまりドン・ファンによれば、わたしたちは子供の頃から「他人が世界とはこうこうこういうものだ」と話すのを聞いて育ったおかげで、一定の形式をそなえた世界についての考え方とか感覚を獲得してきたのである。言いかえれば、他者のディスクールを中継点にしながら、世界のとらえ方をかたちづくってきたわけである。しかもわたしたちはこうして意識の内にとりこまれた他者のディスクールとのたえまのない「内部の対話」をくりかえし、そのディスクールの秩序にしたがって「現実」なるものを不断に構成しつづけている。だから「世界がかくかくでありしかじかであるというのは、ひとえにわしらが自分にせかいはかくかくでありしかじかであると言いきかせているから」なのであって、多様なレヴェルでたえまなく流れつづけている「内部の対話こそがわしらを縛りつけているもの」にほかならない、とドン・ファンは言いきるのである。

 だがその言いきりに関して、このインディアンの呪術師のほうが、同じことを主張するヨーロッパの現象学者よりもずっと自信にみち、さらにその先にある地点にまで踏みこんでいこうとする確かな手ごたえさえ感じられるのは、呪術師には現象学的認識を越えでていくのを可能にする確実な身体技法の伝統があるからだ。(中略)

 じつを言えば、チベット仏教の「風の行者」たちの場合も、それと同じなのだ。彼らもただたんに超能力なんてものを身につけるために、こんな訓練をしているのじゃない。そこからよけいな仏教的外皮をさっぱりぬぐい去ってみれば、早い話が「風の行者」のめざしていることも「世界についての考えを変える」ことにほかならないからである。チベットの密教行者たちも、「現実」が多層的な構成をもち、またその「現実」の表層部分の構成にたいしてディスクールの秩序が決定的な重要性をもっているという現象学的思考を前提にしている。しかも彼らはさらに、幻覚性植物ならぬ精巧をきわめた瞑想の身体技法を駆使して「内部の対話」を止め、たえまなく流れつづけている「世界」の構成作用を停止して、ダイナミックな流動性・運動性にみちた別種の「現実」のなかに踏みこんでいこうとしている。
(『チベットのモーツァルト』 中沢新一 講談社 2003 p153-154から抜粋)

そんな大それたことばを使って考えたことはなかったけれど、自分が写真表現に携わるうえでやりたいと思っていることは「世界に対する認識をかえる」ことだと思っている。ガラッとではなくても、認識を少しズラすくらいのことでもできれば、現在あたりまえとされているものの見方(世界に対する考え方)を、多少は対象化できるのではないか、と思っていた。そして、日常の生活世界のかすかな破綻、亀裂のようなものを探すような方法を探ってきたと思う。

わたしは神秘主義者ではないし、西洋式のものの考え方にどっぷり身を浸しているほうだとは思うけれど、身体技法の獲得という方向からアプローチする、という方法は一考の価値ありだと思う。
というのも、ヨガの実践を通じて、ほんの少しの予備動作や運動イメージの持ち方によって、身体の可動範囲が広がったり、難しいバランスがとれたり、まさか自分がこんなことができるとは思わなかったことが、わりとあっさりできてしまうという体験をして、実はわたしたちは身体のごく限られた能力しか使っていないのではないか。逆に言えば、正しく修練すれば、違った身体のありかた、精神のありかた、ものの感じ方、にたどりつけるのではないか、と思うようになっていたからだ。

実際、いまのやりかたに行き詰まりを感じているし、方法を変えてみるというのは、安直な気がしないでもないけれど、もし修練のすえに違った世界認識や、世界の見えが得られるのであれば見てみたいと思うのは、視覚表現に携わる者として、まっとうな願いなのではないかとも思う。

ザラっとした感覚

前に、友人とミラーレス一眼の話をしていたとき、
否定的な意見の中で、友人のひとりは、映像の微妙な遅れを問題にし、
わたしが液晶の像でピントをあわすことの難しさを問題にしていた。

今日、ふとその話を思い出したのは、ピントをあわせる最後の段階になると、
「見る」のモードが、ものの肌理や質感を確かめるモードになっていることに気づいたから。

ピントがあっているかどうかの判断は、視覚というより、
輪郭がキリっと際立つときに感じるザラっとした感覚、
むしろ触覚に近い感覚をあてにしているといったほうが、正確かもしれない。

普通にものを見るときのモードではない気がする。
だから液晶画面を介しても正確にその感覚が作動するか、を、すごく不安に感じている。

秘スレバ花ナリ。

写真の画面の中ばかりに意識が向いているなぁ。内に閉じていく方向に向かっているなぁと思ったときに、ふと、以前見た重森三玲の庭の、庭が庭だけで閉じずにもっと大きな世界につながっている感じを思い出した。

そして、それら庭園がどういう意図や美意識のもとに組み立てられているのかということを知りたくなって『枯山水』を繙いた。(重森三玲著 中央公論新社 2008)

読んでみて気になったのは、幽玄、見立てる、空白の3つ。

幽玄

幽玄というのは、その表現の形式なり内容が、なんらかの形で、又は意味で隠されているものを指しているのであって、いわば本体の姿のままの形式や内容の、そのままの表現ではなく、全く異なった形や、内容として、別天地を創造した美の領域を指していることがことがわかるから(後略)(p70より抜粋)

この部分だけを抜き出してもわかりにくいと思う。ここで言っていることの具体例を枯山水に求めると、水に代わるものとしての表現材料として白砂を用い、また見る側も、砂を通して水を見いだそうとしていることが挙げられる。数個の石を立てて滝の表現とするのも然り。

砂を砂の美としてのみ創造もし、鑑賞もすることは、隠され、秘められている美がない訳であるから、これは幽玄ということはできないのである。

砂が水の表現材料として使われているからこそ幽玄であり、砂が砂としてのみ表現され、鑑賞されるのは、それは幽玄ではないのだそう。

このあたり、ものづくりをする際の素材と表現内容の関係を考えるヒントになりそう。

見立てる

庭園においては、園池の池水は池水と見つつ、同時に海景に見立てているのであり、枯山水における白砂は白砂と見つつしかも水と見立てるのである。

象徴というと、西洋絵画のヴァニタスのような、死の象徴としての頭蓋骨や、加齢や衰退などを意味する熟れた果物を思い浮かべるけれど、ここで言われている「見立て」とはまた全然意味が違う。

何が違うのだろうか?

死や、加齢などは、抽象性が高いのに対して、海景や滝、水は具体的である。庭園においては、象徴とする対象もまた具体的なものであるというのが大きな違いではないか。

ここでもうひとつ面白い記述を見つけた。池庭は、基本的には海景を表現しているのであり、そこに置かれる石は島の表現であるが、

池庭の中島などに要求されるものの中に、雲形とか、霞形とか、松皮様などのものがある。池中の中島は大体において、大海の島嶼を表現することが意図されているにもかかわらず、この中島に、雲の形とか、霞の形などといったものを形式上に意図すること、(後略)(p78より抜粋)

とある。で、雲の形や、霞の形のものをどうするかというと、

雲形の中島の場合では、雲が風に吹き流されているような形として表現し、霞形の中島の場合では、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿に作ることが主張されているのであって、(後略)

単純に池水を海と見立て、石を島と見立てるのにあるあきたらず、さらに島と見立てた上に、雲や霞の表現を求めるというのだ。中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見る。すごい。

ここで、わざわざ雲が風に吹き流されているような形、霞が二重にも、三重にも棚引いているがごとき姿と書かれていることに気がつく。単に雲のかたち、あるいは霞のかたち、ではなく、雲(あるいは風)の動きや霞の動きを忠実に表現することに重点が置かれている。そう考えると、白砂が表現する波や水紋も、石を複数組み合わせて表現する滝も、水の動きを表現している。

石や砂といった基本的には動かないモノを材料とし、その形状によって、水や雲や霞といったまったく別のものを、その動きまでを含めて表現する。

ものすごく射程の広い話ではないか。

中島を、石と見て、島と見て、雲(あるいは霞)と見るように、同時にAと見て、Bと見て、Cと見るような構造を写真に持たせることは可能なのだろうか。

またりんごだ…

先日読んだホックニーの本でセザンヌのりんごが出てきたけれど(「りんご」)、また全然違う文脈でセザンヌのりんごが登場していたので、メモしておこう。前者においては、単眼で見た世界と双眼で見た世界の違いの例としてとりあげられていたが、ここでは、見る行為に含まれる原初的な経験(なぞる-なめる)との関わりで紹介されている。両者で共通しているのは、視点は一点に固定されていない、ということ。

(前略)なぞるためには、まずはそれに触れなければならない。舌を押しつけるのであれ、歯茎で齧るのであれ、唇で挟むのであれ、はたまた舌先や唇、さらには指先で間を測りながら、そっとつついたり、さすっとり、撫でたりするのであれ。なぞるのは、まず輪郭である。物の外皮、物の表面をなぞりながら、ひとはその形状を、つまりはそのカーヴを、テクスチュア(肌理)を、そしてその硬軟を知る。カーヴやテクスチュアや硬軟は、口や手といった触れる器官で知る。けれども、物のそのカーヴは、物の全体的な輪郭の一部であるからには、視覚的にこそより完全にとらえられるもののようにおもわれる。メルロ=ポンティはその点について、描画といういとなみにふれてこう言う。

 林檎の輪郭を、続けて一気に描けば、この輪郭がひとつの物になるが、この場合、輪郭とは、観念上の限界であって、林檎の各面は、この限界を目指して、画面の奥の方へ遠ざかるのである。いかなる輪郭も示さなければ、対象から、その自同性を奪い去ることになるだろう。ただひとつの輪郭だけを示せば、奥行きを、つまり、われわれに、物を、われわれの前にひろげられたものとしてではなく、貯蔵物にあふれたものとして、汲み尽くしえぬ実在として示してくれるような次元を、犠牲にすることになるだろう。それゆえに、セザンヌは、色で抑揚をつけるに際して、対象のふくらみにしたがい、青い線で、いくつかの輪郭線を引くということになるわけだ。(M・メルロ=ポンティ「セザンヌの懐疑」粟津則雄訳)

 対象をあやすように、愛おしむようにしてその表面をなぞる手の運動、まるでその奇跡を視覚的にたどり、再現しているかのような、ひょろひょろとしたセザンヌの描画の線。セザンヌの描く林檎のひゅっひゅっと走るあの無数のかすり傷のような輪郭は、舌で舐め廻し、指でなぞる、そういうわたしたちの原初的な知覚の轍のようにみえないこともない。三木の表現をあらためて引けば、そうした「目玉による舐め回し」には、口による、そして手による対象の舐め廻しの記憶が蓄えられている。そうしたことがあるから、メルロ=ポンティは、「われわれは、対象の奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、固さなどを、見るのであり—それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見る」とまで言い切ったのである。これは、視覚から触覚、嗅覚まで、異なる感覚とされるものがその実、単独の感覚である以前にまずはたがいに交叉しあい、また深く侵蝕しあう、シネステジー(共感覚)の現象を言いかえたものであり、さらにそのことを敷衍して、別の著書では次のように書いている。「質・光・色彩・奥行といったものは、われわれの前に、そこにあるものではあるが、しかしわれわれの身体のうちに反響を喚び起こし、われわれの身体がそれを迎え入れるからこそ、そこにあるのだ。この内的等価物、つまり物が私のうちに引き起こすその現前の身体的方式、今度はそれが、これもまた目に見える見取り図を生ぜしめないわけがあろうか」(M・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳)、と。

(『「ぐずぐず」の理由
』 鷲田清一著 角川選書 2011 p132-134より抜粋)

セザンヌに関する記述だけ抜き出したけれど、その前段には、以下のような文章がある。

 乳を吸う、味わうといういとなみに飽いてくると、つぎに赤子は口で外界の探索をはじめる。いやというほど物を舐め、しゃぶり、くわえ、齧る。人間のばあい、外界の物は、まずはしゃぶること、舌と唇と歯茎でなぞることで知られるのだ。

幼児たちは、やがてこの口の過程を卒業し、もはや内臓とは関係のない「手と目」の両者だけで満足するようになってくる。そこでは、この二種の触角による“撫で回し・舐め回し”の感覚・運動の共同作業が営まれるのであるが、そのうち、ここから“手を退き”、ついに目玉という、たった一つの触角でもってこと足りる世界が開かれて来ることになる。

 しかし、重要なことはその次にある。たしかにひとは、まずは口で、次に手で、そして眼で「舐め回す」ようになるのだが、「この最後に残った目玉による舐め回しの奥底には、かつてえんえんと続けられてきた本物の“舐め回し”の記憶が、そこではかけがえのない礎石となって、そうした視感覚をしっかり支え続けている」。

(同書 p131-132より抜粋)

これに関して、少し思いつくこと。

  • ある表面に対して垂直方向の運動、例えばぐっと対象に寄ってじっと(解像度を上げて詳しく)見るというような視覚の運動は、舐める、撫でる、との連携では説明しにくい。そういうのは、どうとらえるのだろうか。
  • 触覚の連携を示唆する視覚表現、あるいは触覚との連携で解釈される視覚表現を、最近目にする機会が多くなったように思う。これは制作者の関心が「絵画とはなにか?」や「写真とはなにか?」という問いから「見るとはなにか?」という、より根源的な問いに移行してきたからだろうか?

映画的なるもの

ホックニーの本を読んでから、また少し絵巻のことが気になって、高畑勲さんの『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』を取り寄せた。合点がいくところと、絵巻の技術の妙にうならせられるところがたくさん。

まずは、『信貴山縁起絵巻』で絵画としては奇妙な構図がなぜ採用されているのか?という箇所。

『信貴山縁起』の、鉢の外に導かれた倉は画面上端を大きくはみだして飛び、米俵の列は上端ぎりぎりに沿って遠ざかる(飛倉の巻)。また尼公は、空白に等しい霧の画面の下端を、見逃しそうな大きさで歩む(尼公の巻)。とくに尼公と米俵の列は、その場の主人公であるにもかかわらず、画面の隅に小さく押しやられているだけでなく、まるで紙の端でその一部が切断されたかのようだ。
これらの大胆な表現は、その箇所を抜き出してただの静止した「絵画」として鑑賞すれば、いかにも奇妙で不安定な構図に見えかねない。
しかし、絵巻を実際に繰り展げながら見進んでこれらの箇所に出会えば、なんの不自然さも感じないばかりか、この不安定な構図表現こそが、物語をありありと推進していく原動力となっていることに気づく。
なぜこのようなことが起こるのだろうか。
それは、ひとことで言えば、連続式絵巻が、アニメーション映画同様、絵画でありながら「絵画」ではなく、「映画」を先取りした「時間的視覚芸術」だからである。
映画では、人物が画面を出たり入ったりする(フレームアウト・フレームイン)。しばしば人や物を画面枠からはみださせ、背中から撮り、部分的に断ち切る。ときには空虚な空間を写しだす。映画では、たとえ画面の構図を安定させても、そのなかを出入りし動くモノ次第で、たちまちその安定は失われてしまう。
右に挙げた二例も、絵巻を「映画的なるもの」と考えれば、まず、モノ(尼公と米俵の列)抜きの構図があって、そこをモノが自由に行き来して構図の安定を破るのは当然なのである。
『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』高畑勲 徳間書店 1999 p51より抜粋)

ここで2点。

以前、展覧会を見られた方から、「一本のシネフィルムを見るようでした」という感想をいただいていたことを思い出した。
観者の意識を細部に誘うために「全体を一望できないかたちで展示して、見ているのが部分でしかないという認識を観者に持たせる」という目論みだったのが、制作者の意図を越えて、観者に「時間性」を感じさせた。展示をしてみてはじめて、時間性というキーワードがわたしの認識にのぼった。が、そもそも絵巻という形式それ自体が、時間性を持っているということを確認したのが一つ。

もうひとつは、絵巻から離れるけれど、ずっと以前に、動画を撮って再生と静止を繰り返して、被写体が見切れる構図は、写真の世界ではあまり見かけない構図やなぁと新鮮に感じ、実験を繰りかえしていたことを思い出した。(「見切れるフレーミング」)動画のコマを前後の脈絡から切り離して、一コマだけ抜き出して写真として見ようとすると、とても奇妙に見えるのだ。動画が要請する構図と、静止画が要請する構図は、まったく異なるものだということをここで再確認。この件は、もっと掘り下げる余地がある。
絵巻は、動画が要請する構図を採用しながらも静止している、というマージナルな存在であり、だからこそ絵巻の特徴をつぶさに観察することで、静止画(あるいは動画)の形式が暗黙のうちに要請し、わたしたちが盲目的に従っている文法のようなものを明らかにできるかもしれない、と思う。